第五部 栗原 六 誓約
栗原 六 誓約
延暦十二年(793年) 初春
「御阿礼として宇気比を執り行うことになった。宇気比は船岡で行うが、賀茂社で潔斎のため行に入らねばならない。」
賀茂人麻呂と共に内匠寮へと訪れた小角が唐突に発した言葉を聞き、田村麻呂は藍色の眼を見開いた。
「日も無いことだ。私はこのまま高宮に向かって、その脚で賀茂社へ赴こうと思う。人麻呂は賀茂社で支度をしてくれ。」と続いた小角の言葉に人麻呂は仰天し「真火様、それは」と言いかけて田村麻呂を見やった。
「それは急な事だが、貴方の支度は。一度粟田へ寄られては?。私も伴に参ろう。」
戸惑いながら答えた田村麻呂に、小角は首を振った。
「私は鈍っている。潔斎の前に少しでも行を行って神気を上げねば大役は果たせまい。」
先だって長岡から檜前まで駆けた時に体力の衰えは痛感している。
神気を上げるための行に己の躰が着いてこれるかどうかも危ぶまれる。
一日も早く行に入りたい。
「高宮に置いてある錫杖さえあれば良い。糧食や着替えは人麻呂に頼む。介添えは要らない。」
小角の意思が揺るがないのを見てとった田村麻呂は、やむを得ないと言った表情で「ではせめて三条の邸で馬を支度させよう。」と言った。
三条の邸宅の厩で馬を選んだ後、家人に馬具を誂えるよう言いおいて、田村麻呂は対の屋へと姿を消した。
馬の支度が整うまでと、小角は斎宮頭と共に表門に近い曹司へ案内されたが、立ち去りかけた背に雑色達のひそめた声が聞こえてきた。
「なんだって小舎人童子なんぞに馬を用立ててやるのだ。」
「さあてな、何しろ毛色の変わった主様だからな。この邸に来てから吾は驚くことばかりよ。」
くつくつと潜めた笑いと肩をどやしつける気配に小角の足が止まった。
老いて嗄れた声が「止めぬか。吾等仕えるものが詮索することでは無いわえ。」と低く嗜めたが、一度口に出した雑言は止まらぬとみえ、ふんと鼻を鳴らす音がした。
「同じ仕えるなら真っ当な宗家の殿に仕えたいものよな。吾の生まれた曾布(大和国添上郡の坂上氏の本貫地)では、あの君を大殿(苅田麻呂)のお子とは思っておらぬぞ。」
「あの姿ではな。」
「躯つきなぞ人とも思えぬ。まるで獣よ。」
侮蔑を込めて囁かれた獣という言葉が小角の胸に刺さった。
西域人を知らぬ庶人の目には、薄色の肌や髪、膂力に満ち体毛の濃い体躯は奇異に写ろうが、侮蔑として獣と称するものだろうか。
髪や肌の色こそ倭人と変わらねど、やはり体毛濃く、髭を当たらず、髪も結わない毛野の民も同じ様に捉えられているものか。
数人が口々に何事か言い募り、嗄れ声が「身の程知らずの新参者がいらぬ事を言うでない。」と再び制した。
「乙訓で育たれても大殿が継嗣とされたのだ。お心も広く、大君の覚えも目出度い君ぞ。この上何が不服だ。」
下卑た含み笑いと共に「不服なら仕える者に限らず、此処の方も他所の方も夫人には不服の多かろうことよな。」と一人が言うと、すぐに別の一人が「なんでもまた別業に賤の妾を置いたそうだな。脚が向くのは賤しい女の元ばかりなのは己が生まれの引け目であろうて。」と答えた。
足を止めたことを後悔しながら立ち去りかけた小角の脳裏に、寡黙で忠実な河鹿と朗らかな花鶏の顔が浮かんだ。
在り難きものは主謗らぬ従者とは言うが、少なくとも粟田には心底忠実な家人がいる。
やや前を歩いていた賀茂人麻呂にも聞こえていたとみえ、小角に低く「真に受けられてはなりませんぞ。仕える者が多ければ、中にはああいった思慮浅き者もいるというだけのことです。」と言った。
「ああ、そうだな。」と頷いた小角に、人麻呂は「真火様には言うまでもありませんでしたかな。」と笑って見せた。
小角はこれまで田村麻呂の生い立ちなど訊ねてもみなかったが、以前の田村麻呂の言葉から、漠然と一族の宗家の子として重んじられてきたものと考えていた。
だが先の雑色達の言葉を思えば、決して恵まれて育った訳では無いのかもしれない。
「祭祀で奉納される神楽は如何されます。」と人麻呂に訊ねられて小角は我に帰った。
「あの神楽を舞おう。一人舞で良い。破からだな。」と小角が答えると人麻呂は正直に嬉しそうな顔になり、「では楽人も県主の者から選んでおきましょう。」と言った。
祭祀の段取りについて語る内に、田村麻呂は対の屋から戻り、小角に小さくまとめた包みを手渡した。
「粟田には私から伝えておこう。しばらく共に在れないと思うと名残惜しい事だが」と言いかけて言葉を切り、僅かに言いよどんだ後「恙なく大役を果たされよ。」と言い添えた。
包みを受け取るときに指先が僅かに触れ合った。
田村麻呂の声音と触れた指先から伝わる温もりに、一時、小角は立ち去りがたい思いを胸の奥に畳み込むのに苦労した。
夜通し馬を駆けさせて、暁に着いた葛城の高宮では、人気のない静けさの中、公孫樹の若木が見違えるほど成長していた。
僅か二年の間に、その丈は小角の背をゆうに越え、辺りの木々に立ち混ざって、真っ直ぐに空に向かって立っている。
誰かの手で、標は真新しい物に替えられ、土師器に水が汲まれて供えられていた。
結界の裡の高宮の庵を掃き清めて、小角は錫杖を手に取った。
この錫杖を置いていったのはほんのふた春前の事だ。
あの時にはもう役公として己に出来うることは無いのだと考えていたが。
山部が大君として真に願うのが、広く開かれた永き都であるというのであれば、父者の志にも適うのだろう。
確かに山部は不比等とも恵美押勝とも違う所を見据えていると思われる。
宇気比に迷いは禁物だ。
意が揺るげば御阿礼自身の命取りは無論、隠世と現世の間に裂け目が生じかねない。
小角は一時瞑目した。
父者、母者、役公としての能が乏しい私でも御阿礼が務まるよう、見守ってくれ。
庵の明かり取りの窓から、明け方の弱い光が細く長く差し込み、急速な冷え込みで辺りには靄が立ち始めた。
田村麻呂が渡してくれた包みには水の入った瓢と糒の袋と、別に籾殻と刻んだ藁を混ぜた袋が入っていた。
こんな時でも、あの君は馬にくれる餌の事を考えていたと見える。
小角の口元に自然と笑みが浮かんだ。
やれるだけの事はやってみよう。
後は天運に任せるのだ。
答えはいつか時が出してくれよう。
小角は賀茂の社について真っ先に、神山の頂上の磐船へと詣で、行成ることを願い、錫杖を手に山々へと分け入った。
既に治部郷から、船岡での祭祀は二月の二日に執り行うと使いが来ており、人麻呂は社に仕える賀茂の県主の者達に、「御阿礼様の為されること一切を妨げぬよう」と固く言いおいて、伊勢へと戻った。
小角は道無き山中を駆け巡ってさらに山奥へと向かい、滝が有れば打たれた。
誓約を承る神の器となるためには、余計な思考を削ぎ落とさねばならない。
口にするのは湧き水と漸く芽吹いてきた木の芽か草の芽程で、小角は陽のある間は体力の続く限りただただ谷を下り、峰を越え、陽が沈めば草むらに臥して、暗闇で星を眺めた。
行の合間も瞑想に入るときにも、最澄が止観について述べた言葉がしきりに脳裏に浮かんだ。
最澄は我を棄て、己を外に向けて拓くことで般若へと近付けるのではないかと言っていた。
それは則ち、そうすることで初めて万象を受け入れる事叶うようになるということではあるまいか。
それこそが倶有の種子であり、役公の持つ意の流れを導く力なのではないのか?。
だがいくら思考を重ねても確かめる術など無い。
それらは体得するものであり、知るためにはただ行ってみる他に道はない。
この宇気比が無事に成されれば、その時また新たに何かが見えてくるのかも知れない。
一月の大晦に山から降りた小角は、数日の間に痩せて引き締まった躰に神気を漲らせて、迎えにきた壱志濃王の前に立った。
「賀茂の御阿礼様をお迎えにあがった。既に船岡にて舞殿と祭壇が設えてある。今宵は身を浄め、祭祀にお備えあれ。明朝船岡へと発ちましょうぞ。」
壱志濃王の鷹揚な笑顔に、或いは首が皇太子という重き身でなければ、この様な笑顔も見られたのかと思いながら、小角は「承知した。」とだけ答えた。
「我が大君は、嘗て高天原廣野天皇(持統帝)が約し、首皇太子が受け継がれたと同様に貴方の身を保証されると言っている。どうかお信じ戴きたい。」
壱志濃王の言葉に小角は思わず顔を挙げた。
この君がその故事を知るとすれば海上女王からでも聞いたものだろうか。
或いはこの君は己の父が誰であるか知っているのだろうか。
当人も知らぬ故に、あの皇位継承に纏わる政争を生き延びたものかと考えていたが。
小角の視線に気付いて、壱志濃王は屈託なく「どうされた?。」と訊ねてきた。
小角は我に返り「いや、何も。明日は早いのだろう。王も休まれよ。」と答えた。
沐浴した小角はその夜早々と床についた。
人麻呂は明日の神事の為に、先の踏歌で身に着けた装束と面を調えてくれており、小角は密かに感謝した。
馴れぬ舞殿で神楽を奉納するのだ、着慣れた装束はありがたい。
翌早朝、小角は良く練られた白絹の浄衣を身に着けて、御手洗川の水の初めの一掬いを汲み、社の祭壇から火種を頂いた。
壱志濃王が手筈をつけてあった輿に乗り、賀茂の県主の者から選ばれた数名の楽人を伴い、船岡の祭祀の場に向かった。
海の物、山の物、大甕の神酒と多くの御食が供えられた祭壇の前には、石を組んだ大竈に薪が設えられて火がつけられるのを待っており、今朝汲みあげた御手洗川の水を満々と湛えた大釜が据えられていた。
賀茂の社の祭壇から運ばれた火種から炬が灯された。
舎人を従えて、重たげに炬を掲げる男童子が、先日長岡宮の裡であった神野親王であると気づいて、小角は壱志濃王を振り返った。
「親王が若宮様のお役に立ちたいと言われるのでお連れ申し上げた。大君も酒人様も諒承されたので奉献させて戴きたい。」
壱志濃王の言葉に小角は肯いて神野に目を向けた。
神野親王は口元を引き締めて、小さな身体で注意深く炬を捧げ持っていたが、小角と目が合うと嬉しげに目許を綻ばせた。
小角が榊の幣を手にすると大竈に火が入れられた。
小角は祭壇の前に歩み寄り、一息大きく息を吸った。
「賀茂の神山に居坐します、大御祖迦毛大御神高鴨阿治須岐託彦根命聞こし食せ」
高くもなく低くもないがよく通る小角の声音が薪のはぜる音を凌いで、辺りに満ちた。
「葛城の加茂の役公小角が宜り奉る。」
今日己の身に降ろすのは葛城の一言主ではなく、迦毛大御神のもう一つの分神、託宣を司る言知る神、事代主だ。
宮子の母賀茂媛も、己が母も、そして宮子自身も、月の障りが訪れるまでは春秋の大祭の御阿礼を務めてきた。
そして宮子の代で賀茂県主が祝を失ってからは、時の小角であった父が御阿礼を務めたのだ。
「事代主命の理をこの身に降ろし奉り、その顕かなる理の由を持ちて、迷いたる者に道を指し示し給えと、恐み恐みも白す。」
火の勢いが申し分なく燃え上がったことを確かめて、小角はゆるゆると誓約を唇に載せ始めた。
高天原に神留坐す
神漏義神漏美の命持て
豊葦原の水穂の国を安国と平けく所知食せと
天下所寄奉りし時に
事寄奉りし天都祝詞の太詞事を以て申さく
倭の国の皇御孫の朝廷
都遷りを望みて兄訓の地を見所行す時に
皇御孫命申さくは
この地の山河襟帯形勝宜しく
目出度き国として山脊国を山城国と言祝奉りて
この地に永く安らかなる都を築かんと欲するものなり
而賀茂の御手洗川の水を水分神に得給わじと願い奉る
如是時に此の神籬に神留坐す
地神大山咋神、
水神二柱闇御津羽神、闇淤加美神
心荒びせば
鎮め奉れと事教へ悟し給ひき
依之て称辞竟へ奉らば
倭の国の皇御孫の朝廷に御心一速び給はじと為て進る物は
明妙照妙和妙荒妙五色の物を備へ奉りて
青海原に住む物は
鰭の広物鰭の狭物 奥津海菜 辺津海菜に至るまでに
御酒は甕の辺高知り 甕の腹満て双べ
和稲荒稲に至るまでに 横山の如く置き高成して
天津祝詞の太祝詞事以て 称辞竟へ奉らくと申す
誓約詞が終わる頃には、大釜の底からは小さな泡が湧き上がり消え始めた。
小角は舞殿へと向かった。
白銀の光沢の大袖衣の上に金と翠の裲襠を纏い、金色の龍の面を着ける前に、今一度心を澄ませてみた。
葛城の小角が、倭の大君の為に宇気比を行うのはこれが初めてではない。
だがこの度の宇気比では、私が葛城の生まれであることも、山部が倭人の大君で在ることも忘れよう。
嘗て真備が東宮学士だった頃、礼楽について語ったが、楽と舞は本来、人の意の根本から沸き上がるものだ。
迦毛大御神が山部の願う都を良しとすれば、その験は己の身を通じて顕かとされよう。
総ては迦毛大御神の意に委ねるのだ。
面紐を結わえ、白銀の撥を手にとる頃には、小角の思考は舞の事だけとなった。
舞殿の中央に踞り、納曽利の破の初音を待った。
応龍は今、眠りについているのだ。
呼び覚ましてくれ。
やがて高麗笛の高く澄んだ音が響き渡った。
三の鼓が小さく打たれ、篳篥が調べを奏で始めた。
鉦鼓が鳴り、太鼓が一拍、強く鳴り渡った。
小角はゆるゆると併せた袖を開き、頭をもたげた。
首を巡らせて辺りを見回し、立ち上がると、軽くなった己の躰が頼り無い物のように感じられた。
円を描いて禹歩を踏む足運びが進むにつれ、運ぶ足許から床が消えてゆくかのようで、床がまだ在ることを確かめるように、小角の踏み降ろす足取りは一歩一歩強く重くなっていった。
やがて四神と呼び交わす所作に入るが、この度は四神の舞手はいない。
先ずは白虎からだと西の方に眼を向けてみて小角は驚いて息を呑んだ。
いつの間にか己が身は空高く昇っていた。
西方に向けて真っ直ぐに伸びる二つの駅路がはっきりと見て取れた。
嘗ては近江大津宮から伸びていた背面道、飛鳥古京から発する影面道だ。
この二道が白虎と成るのか。
朱雀はと南へ目を転じると茫々と広がる葦原の中の巨椋江が目に入った。
東へ面を向けると見慣れた穏やかな山容の山科の山々があり、青龍と成るのだと知れた。
では玄武となるのはと北へ向き直った途端、小角は強大な力の奔流に圧倒されてよろめいた。
どこか遠くで幼い声が「若宮様」と呼ばわった。
以前斎宮での神嘗祭の時と同じく小角の意は、突然襲われた激しい衝撃に呑まれた。
この力の奔流が父が白山から賀茂の神山へと導いた龍脈だとは直ぐに知れた。
己の意が消し飛び、微塵に砕け散るかと思われる程の力の奔流の只中にあっても、あのときの様に呑みこまれる恐怖は微塵も感じなかった。
むしろ呵責無い力の奔流が心地よい。
苛烈で容赦ないのはこれが人智を越えた力だからなのだ。
このままこの力の奔流に身を任せたら己もその一部となれるのだ。
いや、一部でありながらその全てになれる。
深い森の木立に射し、小さな陽だまりを成す一条の陽光が、その実、地上を遍く照らす光明と同じであるように。
小角は父を失った日に、こんな暴虐がまかり通るのになぜ変わらず時が刻まれ、陽が昇り沈むのかと憤った。
母が還らぬ人となった日には、なぜそれでも己は生きてこうして存在しているのかと嘆いたものだった。
例え誰かが身の内が弾ぜるような絶望の最中にあっても、この世の営みは微塵も顧みてはくれず、素知らぬ顔で陽は昇り、生きとし生けるものは日々の生活に精を出す。
だがそうでなくてはならないのだ。
そうして絶え間なく意が生まれ、無情のものでも意が宿り有情となれば識が生まれ、存在が滅すれば識は龍脈へと還元される。
陽光が偏りなく遍く照らす様に、識もまたその根源では遍く存在し、留まることなく流れている。
そうして因と果は巡るのだ。
小角は大声で叫びだしたくなった。
父者、玄昉、狼児、今ようやく私にもわかった。
まだほんの入り口に立ったに過ぎないが。
真備、よく死ぬこともよく生きることも、つまりは同じことなのだ。
ああ、だがそんなことはもう既にお前は知っているのだろう。
お前自身がそこに居るのだから。
途端に、小角の周囲はしんと静まった。
先程まで頭のどこかに聞こえてきていた楽の音すら消え失せ、辺りは白い光に満ちた。
私は今、龍脈と同化しているのか。
栗原寺での出来事を思い出して足許に眼を落とすと、果たして傍らには白く輝く大柄な狼が座り、薄蒼い瞳で小角を見ていた。
小角もその眼を見つめ返した。
不意に袖が引かれ、案じるように「若宮様。」と呼び掛けられた。
驚いて眼を向けると神野親王が寄り添うように立ち、心配そうに見上げていた。
「若宮様、泣いておいでなのですか?。」
頬に指を当ててみると確かに涙が流れていた。
小角は面を被ったまま首を振り、神野親王の角髪に結われた頭を一撫でし、肩を抱き寄せた。
これから何が起こるか判らないが、この親王の身は護らねば。
「母刀自、倭の大君は永き都の為に賀茂川の水を望むそうだ。賀茂川の分流が成れば賀茂社を伊勢社と等しく祀らせると誓った。私は役公に能わぬ小角だが、事代主に宇気比を奉ることにした。迦毛大御神は何と仰せられるだろう。」
小角が語り終えると母刀自は北の方へと頚を巡らした。
それとともに、地鳴りがして大地が大きく揺れ動いたのが感じ取れた。
神野親王は青い顔で小角に取り縋ってきたが、悲鳴を挙げたり軽率に逃げ出そうとはしなかった。
小角は親王の肩を強く抱いて母刀自の視線の先を眼で追った。
神山の磐船から溢れる龍脈が緩やかに此方へと向かってくる。
その北に、貴船、鞍馬の山々が集めた水が地中深くを通る闇淤加美神の通い路を流れているのが見て取れた。
あれを導けと言うことか。
撥を持っていた筈の右手にはいつか使い慣れた錫杖が握られていた。
小角は意を凝らして闇淤加美神への祝詞を述べ、「拓かせ給え。」と叫んで足許の見えぬ大地に錫杖を突き立てた。
再び大地が唸りを挙げて揺れ、水脈が地表へと向かってくるに連れて龍脈も此方に向かって来た。
神野親王が感嘆の溜息を洩らし、少年らしい声で「若宮様、白く輝く龍が。」と言った。
「親王にはあれは龍の姿で見えているのか。」と問うと、親王は不思議そうに「若宮様にはどの様に見えるのですか?。」と見上げてきた。
今、小角には龍脈は力の奔流とは感じられなかった。
ただ河が流れるごとく、風が通るごとく、留まることなく、我を持たない透明で涼やかな、しかし圧倒的な大きな力が、穏やかに緩やかに流れていた。
その力が、足元を、己が躯を吹き抜けて行くと心が、視界が大きく拡がる様だった。
「私には姿を持たない意の流れと感じられる。だが親王の目に龍と写るのは間違いではあるまい。あれは龍脈だ。」
目を見張って聞き入る親王の面差しが愛らしく、小角は笑みを浮かべた。
「よくご覧になっておかれると良い。あの龍脈こそが生在るもの、無いもの、森羅万象の因と果を運ぶ動力だ。あの流れによって私たちは万物と繋がっている。事象を停滞させず、次々と流転させる力の源だ。あの流れは畿内を廻り、淡路、阿波へと抜けて行く。果ては大海を越え安南国へと向かうのだそうだ。」
空を見上げた小角は、夜でもない空に星々が輝いていることを見て取った。
西天に横たわる白虎の足許近く、南の空低く一際強く蒼く輝く風星が認められた。
お前は誰だ?。
そして何処にいるのだ。
私もこうして山部を知る者となった事だ、その姿を顕してみろ。
小角は強く蒼く輝く星に意を凝らしてみた。
つぎつぎと山部を取り巻く人々の顔が思い浮かんだ。
その中には酒人も無論、壱志濃王も和気清麻呂も田村麻呂も、今は亡き百川の姿もあった。
山部の風星は一人では無いのか。
父の風星は母だった。
淡海の帝の風星は父だった。
氷高皇女には葛城王が、阿倍には狼児が風星だった。
けれど、もう抜きんでた者が風星として指導者を補佐する世ではなくなるのだ。
山部を支える多くの風星の一人には田村麻呂も数えられる。
だが、私はもう選んだのだ。
あの男君が山部と伴に生きるというなら私もそうしよう。
死に別たれるその時まで。
小角は不意に激しい疲労感に見舞われた。
異変に気付いた神野親王が「若宮様。」と一声叫び、小角は抱いているその肩を離してはいけないと必死に意をつなぎ止めようとした。
だがその努力も虚しく、母刀自が歩み寄ってきてその鼻面を小角の手に触れた途端、辺りは暗くなり躰から急速に力が抜けていった。
再び眼を開けたときには、小角は舞殿の上で、壱志濃王に抱き起こされていた。
神野親王は泣き出しそうな顔で小角をのぞき込んでいた。
壱志濃王が誇らしげに「宇気比を果たされたな。御阿礼殿よ。永き安らかな都は必ず成ろうぞ。」と言った。
祭壇に眼を向けると、竈は割れ、倒れた大釜からは水が流れ出て空になっていたが、その地面からは水が尽きることなく湧き出て既に流れを造り始めていた。
「新たな都は賀茂の神籬を損ねることなく営まれる。倭人だけでなく、寄り来る者を受け入れ、禍々しき物を斥け、未来へと進む、澱まぬ都となるに相応しい新都造営の門出となろう。」