第壱部 悪路王 四 蛍
小角は大墓の里で機を踏む合間に、蜂を導くための樹の虚を童子達と共に探した。
間もなく巣分かれの季節だ。
初めは怖がっていた童子達も馴れるにつれて蜂の事を知りたがるようになってきていた。
童子達は丁度良い虚のある樹を見付けてくれた。
巣分かれを見届け、巣の側で火を起こし、残った群れを煙で燻し出し、新しい虚へと導いた。
阿弖流為に盥を持って来て貰い、蜂蜜と蜜蝋を取り分けると童子達は蜂蜜にはしゃぎながら里へ帰っていった。
巣は大きく、蜜も蝋も沢山に採れ、
阿弖流為に頼んで盤具の里にも届けてもらった。
翌日、早朝から母禮が城を訪れ、蜂蜜も蜜蝋も珍重されているので皆喜んだと伝えてくれた。
「ところでな、お前の戦技は一族の慣わしなのか?」
不意に発せられた母禮の問いに小角は頷いた。
「ああ、首長の直系の女達は武器を扱う術を身に付ける。役公は大抵年老いた者がなるのでな。身の回りの世話と護衛を兼ねて親近者の娘が傍近く侍ったのだ。守り手女と呼ばれていた」
大抵は孫や曾孫に当たる娘が選ばれるのが慣習だった。
父は若くして役公となり、武芸にも秀でていたので、神力を補える様にと長老達が選んだのが、既に朝廷に降っていた傍流氏族の加茂氏の母だったのだが。
「守り手女は伝統的に、弓と短刀を使うが、私は小角の後継者だったから弓は習わなかった。代わりに父の師から槍の扱いを学んだ」
小角は今でも弓は苦手だった。
だが長の一族だったので短刀術は徹底的に仕込まれた。
「ほう、どれ程のものか見せてくれ」
葛城の守り手女の短刀術は女である故の身の軽さ、速い体捌きを利とする物で、戦場で使う技では無い。
手妻や軽業や舞にも似て、実際に春と秋の大祭には守り手女が刀神楽を奉納してきた。
「短刀術は見ても母禮が得るものはあるまい。槍か杖か?」
「俺は長物は扱わないが、杖なら高丸が得意だな。呼んでこよう」
此のところ荒行も行っていないし、身体が鈍るのを防ぐには丁度良い。
高丸が自分の杖と槍を持ってやって来た。
高丸は前鬼と後鬼よりも大柄だ。
膂力も有るだろう。
初めの内、高丸は小角を傷つけないようにと思ったのだろう、足元ばかりを狙って来た。
小角はできるだけ動き回って狙いを定めさせない戦法を採った。
体格も力も劣る小角は父の様に相手の武器を力で受けて防いではいけないと師の義淵から叩き込まれていた。
相手の武器を受ける時は相手から武器を奪う時だ。
先ずは相手の体勢を崩さねばならない。
小角は高丸が踏み込んで来た瞬間、槍の柄尻を地面に突き立て、槍を軸に高丸の身体を飛び越えて背後に降り立った。
前のめりになりながら振り向いた高丸が咄嗟に繰り出した一手は狙いが浮いていた。
円を描いて繰り出された小角の槍が高丸の杖を絡めとって宙に飛ばし、次の瞬間には高丸の胸ぐらに狙いを定めていた。
高丸が空手を挙げた。
「見事な物だな」
母禮の眼に感嘆が浮かんでいた。
「日課のように修練してきたからな。それに高丸は私に怪我をさせないように気を使ってくれていたろう」
杖を拾い上げた高丸が軽く片手を挙げて去る後ろ姿を見ながら、母禮は考え考え言った。
「なぜ下野では武器を使わなかった?、お前の庵には杖一本すら無かったではないか」
「ああ、そのことか」
小角は小さく息をついた。
「下野国に来る時、私は争い事が嫌になっていたのだ」
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱から此方、武器は疎ましい物と感じられた。
己が身の一部である父の錫杖さえ葛城山に置いて来たのは、あの乱から己の生まれや役目に疑問を感じ始めた為だった。
結局、父を蚩尤と呼んだ不比等は正しかったのではないのか?。
国つ神の存在その物が争いの火種となるのでは無いのか?。
長屋の死で芽生えたその疑問は、淡海湖の畔、三尾一族の嘗ての宮で、更に強くなった。
兵達に辱しめられ、殺され、身に付けていた衣も装身具も剥ぎ取られた仲麻呂の妾や娘、仕えてきた女達の数えきれない程のむごたらしい遺骸が折り重なった光景は、あれ以来小角を苛んでいた。
「お前を襲って拐った俺が言うのも大概妙だが、独りで在れば尚更の事、身を衛る拠り所を蔑ろにしてはいけないだろう」
思いがけない言葉に小角は眼を丸くした。
母禮は真剣な顔で小角を叱っていた。
「俺は永くも生きては居ないがな、これで中々孤独ぞ」
母禮は「己の事だが」と前置きして語り始めた。
俺は両親も兄弟も戦で亡くした。
今は父の弟が仮長だ。
俺が皆に認められなければ叔父が長になる。
俺の行いは常に評定されているのだ。
悪路王も同じだろうから少しはお前の気持ちが理解できる気がするが。
「神守りであることは重責で苦しかろう。だが尊い役目であり大切な身だ。お前が自身を粗末にしてどうする。部の民が居ないなら尚更だ。せめて自分で自分を大切にしろ」
むきになった己に気づいて母禮は頭を掻きながら「俺が言うことでは無いがな」と付け加えた。
不意に小角の胸の中に暖かいものが込み上げてきた。
「いや、案じてくれて嬉しく思う」
誰かに思い遣ってもらう事はこんなに心を暖める物だったのだ。
思えば私は何時も誰かに思い遣ってもらって来たのだろう。
そして今もこうして案じてくれる者が居る。
「母禮は長として認められるのに何か課された事があるのか?」
小角の問いに母禮は面映ゆそうな表情になった。
「まあな、まず俺は妻を迎えねばならんのだがな。これが中々難儀な事だ」
「何が難儀なのだ?。母禮なら嫌と言う者も有るまい。幾人でも妻を持てよう」
小角の言葉は母禮を狼狽させたらしく、声に焦りが交じった。
「そんな倭人のような事ができるか。毛野の民は妻は一人だ」
「そうなのか?」
思わず聞き返した小角を見やって母禮はしまったという顔になった。
「ああ、悪路王は特別だ。事が事だからな。俺は亡くなった兄の妻を迎えねばならんが、これが中々な」
今一つ呑み込めない小角が訊ねた。
「毛野の民は男が女を選ぶのだろう?。葛城では女が男を選んだが」
「亡くなった兄弟に妻があれば遺る者の妻となる。選ぶ選ばないの問題では無いのだ。問題は気持ちが沿うかどうかだ」
漸く小角にも合点が入った。
「それは確かに難題そうだな。子は在るのか?」
「ああ。何時もお前にまとわりついているぞ。子は俺にもなついてくれているが、何しろ当人に嫌われているらしくてな。兄が亡くなってから口もきいてもらえないのだ」
会ってみたいと小角は思い、その足で盤具の里に行った。
田鶴という名の母禮の義姉は母禮よりいくらか年上に見えた。
母禮は嫌われていると思っているようだが、小角の眼には田鶴の心に有る様々な屈託がそうさせているだけと見えた。
里の作業場で何時も小角を案内してくれる年長の童子の一人が小さな筵を編んでいた。
何に使うのか訊ねると、手を休めないまま「根子田だ。明日は魚を採りに行くからな」と、要領を得ない答えが反って来た。
長い荒縄が巧く捌けず上の空なのだと見て取れた。
小角は荒縄を繰り出してやりながら再び聞いてみた。
「魚採りに使う道具なのか?。」
小角の不思議そうな顔を見上げて童子が言った。
「根子田を知らないのか。なら小角も明日共に行こう。滝まで行くぞ」
翌日、童子達と共に北上川の滝に出掛けた。
年少な童子達は着くとすぐ水際へ向かい釣りの準備を始めた。
年長の童子達は昨日編んでいた筵を持って滝壺の外れの岩場へ行った。
岩場に滝壺から水を引いて浅い木の箱へ落ちる様に仕掛けが出来ていた。
浅い木箱の底には泥だらけの小さな筵が敷かれていた。
「これが根子田だ。」
四人懸かりで筵の端を掴んで箱から取り出し、新しく編んだ筵を箱の底に敷くと、年少の童子達が銘々泥を運んで来て筵の上に載せていった。
童子達は、この川の泥は砂金を多く含んでいるので、こうして根子田の中で泥に水を流してやると砂金が洗い出されてくるのだと説明した。
小角は煙に巻かれた様な気になった。
「信じていないな」
童子の一人が取り換えた筵の方を指差して言った。
「もう一度洗えばよく判るさ」
二人が滝壺に足を踏み入れて岩場の二人とそれぞれ筵の端を掴んで流れに浸けた。
泥水を含んだ筵が重た気に流れに大きく揺られた。
滝壺に居る童子が後ろに下がろうとして足を滑らせた。
一瞬の事だった。
他の童子達があっと声を挙げて筵から手を離したが、体勢を崩したその童子一人は握りしめた筵の端を離そうとしなかった。
「危ない、石盾、手を離せ」
年長の童子が叫んだ時には石盾と呼ばれた童子は沈む筵に引きずられるように水中へと姿を消した。
「何をしている、早く母禮を呼んでこい」
小角の声に、凍り付いた様に立ち尽くしていた岩場の童子達が身を翻して里へと駆け出した。
小角は大きく一息吸い込むと滝壺に飛び込んだ。
石盾は水中で筵を握りしめたままもがいていた。
滝壺の底に何か光るものが見えた様に思ったが今はそれどころでは無い。
石盾の手を捉えて引きながら浮上しようとしてその重さに驚いた。
引き上げられない。
あの筵はそんなに重いのか?。
もうとうに息が切れているはずの石盾は強情にも筵を離そうとしなかった。
小角の息も大して持ちそうに無い。
すぐそこに浅瀬が見えているというのに。
小角は一度石盾の手を離して浮上するか逡巡した。
大きな水音と同時に人影が近寄ってきた。
横を通りすぎた時、母禮だと解った。
母禮は水底深く潜り、石盾の身体を下から押し上げるように支えて浅瀬に向かって泳ぎ始めた。
小角は邪魔にならないよう廻り込んで筵の端を掴んだ。
たゆとう筵は恐ろしく重かった。
川岸に辿り着くと童子達が駆け寄ってきた。
息を切らしながら母禮を見やると手際良く石盾に水を吐かせていた。
むせ込みながら石盾は途切れ途切れに謝った。
「お叔父、小角、済まない。俺、何でもこの夏中の砂金を無くしたくなくて」
年長の童子の一人と共に木立の中を田鶴が駆けてきた。
その顔色と表情を見て、小角は石盾が母禮の兄の遺児だと理解した。
田鶴は石盾の傍らに膝をついて、母禮と小角に何と言ったら良いのか困惑している様子だった。
「叱らないでやってくれ。私に砂金を見せようとして足を滑らせたのだ」
田鶴と母禮の顔を代る代る見ながら小角は急いで言った。
三人の様子を見て、小角は自分は居ない方が良さそうだと考えた。
水の滴る重い筵を皆で里まで持ち帰ると、童子達が思い思いに着替えを持ってきてくれた。
いつも着ている大帷子も手無しも脱いで、毛野の童子達が着る袖の無い短衣を着て、普段身に着けている短い裳に似た褶の様な短い腰巻きを身に付けた。
結っていた麻紐が切れて解けた髪を毛野の娘達の額巻きで纏た。
作業場では持ち帰った筵が大盥の中で解かれていた。
解かれるに連れて泥に混ざって煌めく粒が盥の底に沈んでいくのが判った。
漸く小角にもあの筵の重量に納得が入った。
あの仕掛けは藁で編まれた筵の目が、比重が高い砂金を絡め取る事を利用した選別方なのか。
砂金を含んだ泥を、筵を敷いた箱の中入れ、流水に当てることで泥は洗い流され、泥よりも重い砂金の粒は筵の目の中に沈み蓄積されていく。
陸奥や下野で行われている銅皿による選別方に比べたら格段の効率だ。
小角が感心して盥を覗き込んでいると母禮が石盾と田鶴と連れ立って戻ってきた。
まだ少しぎこちなさが残っていたが、田鶴の表情にも母禮の表情にもこれまでとは違う親しみがあった。
「石盾は大事無いか?」
小角の問いに母禮が笑顔で答えた。
「ああ、大して水も飲んでいなかったからな。それにしても強情な奴よ。岸に上がっても筵を離さなかったな」
母禮が石盾の頭に大きな掌を載せると石盾は頚をすくめた。
「私独りではどうにも出来なかった。母禮が来てくれて良かったな」
小角の言葉に石盾はややはにかんだ顔になり、隣に立っていた田鶴が母禮を見上げた目には感謝の色が浮かんでいた。
城へ帰った小角は、母禮の事を話そうと夕刻を待たずに玻璃の許へ駆けて行った。
「玻璃、近々盤具の里で婚礼があるかもしれないぞ?」
部屋に入ってきた小角の見慣れぬ出で立ちに玻璃は驚いた。
日頃の姿より一段と腕や脚が剥き出しではないか。
「誰の婚礼だ?」
反射的に聞き返したものの、眼のやり場に困った玻璃は自分の夏の長衣を脱いだ。
「母禮だ」
小角は胸元も脚も露にしている事に抵抗が無いらしいが、これでは余りに。
玻璃は脱いだ薄物の長衣を小角に着せ掛けた。
不思議そうな顔をした小角に、玻璃は憮然とした表情で「幾ら何でも肌を晒しすぎだ」
と言った。
小角の顔に血が登ったが玻璃は気づかぬ風に続けて「母禮が婚礼とは、何があった?」と訊ねた。
小角はその日の出来事を話しながらも、頭の何処かで、玻璃に慎みが無いと思われたのだろうかと気になり、早々に立ち去った。
余りに上の空だったので、長衣を返すことを忘れた。
部屋へ戻るまでに何人かの娘とすれ違ったがその表情の険しさにさえ気付かなかった。
小角が去った後、玻璃は独り、部屋で小角の無防備さをもどかしがっていた。
あんな姿で盤具の里から帰ってきたのか。
誰かが見て良からぬ気を起こしたらどうするのだ。
大体、僧侶と意の追い鬼など、論外だ。
御室には曾て徳高き僧侶が毛野の民の地で仏法を説き、病人を助け、堅固な橋を懸ける工法や治水の術を遺した事跡が伝わっていた。
この白銀城もその僧侶が基壇の置き方、屋根を支える頑丈な柱の組み物の仕組み、厨の大竈の熱を床下に通して舘を暖める方法など、事細かに指導してくれ、毛野の民と共に尽力したと言われているが、遠い昔の伝説のようなものだった。
玻璃のこれまで知る倭人の僧侶は皆、知識も能力も貧弱で、行いは話しにならないほど不遜な者達ばかりだった。
そのくせおよそ玻璃の姿を眼にしただけで、皆怖じけづいて逃げ出すのだ。
小角の身近に居たと言うその僧侶が何を考えてその様な遊びを小角としていたのかと考えると訳もなく腹立たしい気持ちになった。
否、訳は在るのだ。
吾は妬ましいのだ。
小角の身近に居て、小角から深く信頼されていたらしいその男の事が。
水無月の大晦のその日、夕餉の後、長衣を返しに来た小角は何時もの大帷子に手無し姿だった。
玻璃は「今夜、出かけないか」と言った。
他にすることがあるでもない小角は「ああ、良いとも。何処に行くのだ?」と訊ねた。
「阿弖流為が良いことを教えてくれた。陽が沈んだら迎えに行くから、部屋で待っていろ」
玻璃は美しい微笑みを浮かべていた。
三十日月の闇の中、二人は白銀城を出た。
玻璃は城の近くの雑木林に向かって歩いていった。
林の入り口で玻璃が「眼を瞑れ」と言った。
小角が面喰らっていると、「吾が手を引いてやるから大丈夫だ。眼を瞑れ」と再び言った。
小角は言われたとおり眼を瞑った。
玻璃が小角の手を取った。
柔らかな手だった。
「こちらだ」
歩みがゆっくりと慎重になった。
時折「枝が出ている、こっちに来い」とか「足元に石があるぞ」などと声をかけてくれる。
つまづいて「大丈夫か」と抱き止められた。
小角の手無し一枚の素肌が、薄物の長衣を纏った玻璃の腕の中に収まった。
「大丈夫だ」
答えた小角を支えて玻璃はひと時、そのままで居た。
眼を瞑ったまま小角はじっとしていた。
どうしたのだろう、と思った。
玻璃に近寄ると何時も感じる、神気が渦巻く心地好さを感じながら互いの鼓動に聞き入った。
月のない夜で良かったと小角は思った。
夜眼が効いても顔が赤くなるのまではわかるまい。
「玻璃?」
小角が促すように問い掛けると玻璃は何事も無かったように答えた。
「ああ、行こう」
再び手を引かれて歩き出した。
次第に緩やかなせせらぎの音が近づいてきた。
玻璃が一瞬息を飲んだ。
「もう良いぞ。眼を開けてみろ」
玻璃の声が昂ぶっているのが伝わってきた。
小角はゆっくりと眼を開けた。
玻璃が息を飲んだ理由が分かった。
三十日月の闇の中、一面に蛍が舞っている。
川縁の葦の茂みにも、川面の上にも、無数の光が明滅していた。
緩やかな水の流れる音だけが聞こえる中、飛ぶ光と揺れる川面に映る光との明滅が共鳴している。
静かで幽玄な美しい光景だった。
二人は眼を見合わせ、お互いの眼に写る光を見て、同じ感動を共有していることを確認した。
つながれたままの玻璃の手に力が籠もった。
玻璃の透けるような肌が淡い光で内から光っているようだった。
小角の結った髪に玻璃の指が伸びた。
止まっていた蛍を注意深く指先に掬い取ると、玻璃の繊細な手から緩やかに軌跡を残して淡い光が飛び立っていった。
指先から舞い上がった蛍を見上げる玻璃の横顔から小角は眼が離せなかった。
魂が抜かれる様な美しさというのはこういう事だろうか。
二人は何も語らずただ黙って手を繋いで、眼の前の夢幻の光景を見続けた。
黙したまま、手を繋いで城へ帰った。
小角を部屋まで送り届けて、玻璃は名残惜しそうに手を離した。
「ゆっくり休め」とだけ言った。
小角は頷いて嬉しそうに笑った。
「お前と見れて良かった」
玻璃は微かに微笑んだ。
「ああ、吾もだ」
立ち去る玻璃の背中を小角は見えなくなるまで見送った。
此処には政争も謀略も無い。
美しい大地と、その日その時を唯懸命に生きる生命が在るだけだ。
嘗ての葛城の里のように。
小角はもう再び見ることは無いと思っていた美しく心地よい夢をもう一度見ているような気がした。
朔の夜に玻璃は長老達から近在の報せを受けた。
伊治の里が朝廷に下って暫く経つが、逃げ延びた伊治の民が雄勝との国境に集結しているらしい。
戦となっても、伊治の民はもう毛野の民では無いから請われても荷担せぬと定められた。
嘗て伊治の長であった呰麻呂は俘囚から倭の朝臣となり、伊治城の大領に取り立てられていた。
呰麻呂を知る者は、人望篤く度量の広いこの男が、浅い考えから朝廷に降った訳ではあるまいと考えていたが、長達の決定は覆す術もない。
玻璃は氷のような無表情を崩さなかった。
母禮の掌は固く握りしめられていた。
阿弖流為は黙していたが、その眼には激しい感情が渦巻いていた。
帰り際、玻璃は独りの長老から早く子を挙げろと急かされた。
「悪路王はこの頃誰も寝屋へ呼ばないそうだな。あの稀人の神守の娘は子を成せぬのだろう。負い目を感じているやもしれぬが、それと此れとは別だろう」
最近城に揚がったばかりの娘がこの長の血筋であることを玻璃は思い出した。
「自らが悪路王である事を忘れる事無い様心掛けられよ」
長の言葉に玻璃は優雅な眉を微かに潜めた。
「一時たりとも忘れたことは無い。我が身は同胞の七つの霊の上に成り立っているのだからな」
蚩尤
古代中国の神話に語られる黄帝の敵、妖力を持ち、争いを好む魔物