第五部 栗原 壱 山城国
延暦十一年(792年) 冬
山背国を襲った二度目の嵐の後、田村麻呂は都へ戻って早々に、居合わせた民部卿和気清麻呂が貴方の姿をそれと認めたかもしれないと小角に便りをもたらした。
小角は便りに記された名に呼び起こされた不快な記憶に、僅かに眉を潜めたが、やがて思い直した。
あの男君もまた、宇佐八幡神を崇める者達と狼児を排斥したい者達に利用されただけなのだ。
清麻呂にとっても、神託の事は思い出したくも無い出来事だろう。
姉の広虫と共に、愚直と言いたいほど融通の効かぬ男君ではあったが、民部卿まで昇ったとは。
小角は苦笑を漏らした。
彼の時、真備はあの男君の頑なさを評して、実務に長ける証しでもあろうと言ったものだった。
その時には捨て置けば良いと思った小角だったが、田村麻呂から追って、山部と主だった太政官が葛野を視察すると聞かされて、何ともしれぬ不穏な思いが胸の裡に巣喰い始めた。
邸の外で嵐の兆す気配が感じられるのに、目には何も映らず、耳にも聞こえて来ず、ただ己一人が取り残されているような心持ちだった。
田村麻呂は水害のもたらした混乱の収集に忙殺され、粟田へ訪れても慌ただしく去り、小角と過ごす機会を得られぬまま山部の観相に供奉し、長岡の都へと去ってしまった。
観相が終わり、冬が訪れると、田村麻呂は突然、頻繁に粟田を訪れるようになった。
想う君とゆるゆると過ごせるのは喜ぶべき事だが、あれだけの災厄の後だのにと、小角は今一つ釈然としなかった。
田村麻呂はどこか上の空な様子で、時おり一人、物思いに耽っていることもあった。
水を向けてみると困惑顔で「貴方に隠し事は出来ようもないな」と漏らし、固い面持ちで「年明け早々に葛野への遷都が建議されるだろう。長岡の都は遺棄される」と告げた。
小角は眼を見張り「山部は永き都を欲していたのでは無かったのか?」と問い返した。
田村麻呂は頷いて小角の手を取り、引き寄せた。
「最も苦しんでおいでなのは我君だろう。再びの遷都となれば民に背負わせる労役の負担は計り知れない。その怨嗟は朝堂と大君の負う物となるのだから。だが民部卿の見立てによれば今の長岡の都は水の災厄から逃れ得ないのだそうだ」
小角のやや抗う素振りに、田村麻呂は、この小さな斎媛は、その温もりがどれほど己の憂さを晴らしてくれているか、ご存じないのだろうと思いながら小角の小柄な躰を懐に納めた。
「では陸奥への派兵は沙汰止みか?」
腕の中から尋ねる潜った声に「いや、討征の予定は滞りなく進んでいる。新たな都はこの日の本の国の統一の象徴ともなるのだそうだ」と答えて眼を落とすと、小角の不安げな眼差しが見上げていた。
「そんな貌をしてくださるな」
田村麻呂は宥める言葉を見つけられず、小角の背を引き寄せた。
どれほど言葉を尽くした処で、避けられない戦への憂いは拭えはしまい。
少なくともこうして触れられる今は、触れる事が慰めとなるだろう。
小角は抗おうとしたが、麝香草の香りの大きな躯に他愛もなく組敷かれてしまった。
この君は朝臣だ。
例え妻にでも、朝堂の内密な動向を容易く口に昇らせられない事は、宮に居た小角も承知している。
それでも、この君が語る言葉には、志は顕かでも心情が見えてこない。
この君自身の言葉が聞きたいのに、核心に触れる前にまるで誤魔化されるようにこうして組敷かれてしまう。
肌を合わせても、得られるのはその時限りのおざなりな安らぎだ。
小角は心の中に、行き場の無い思いが澱んでいく事をどうにも出来なかった。
長岡の宮は政務を行えるまでに機能を回復したが、都は災厄の傷痕を残したまま、復興は遅々として進まなかった。
亡き式家式部卿(百川)の姫、帯子の東宮入内を以て東宮坊は南院へと遷された。
替わって北院に置かれていた大君の夜御座所が、北院の解体が定められた為、東院へと遷される事となった。
非参議の官人は無論、太政官も、朝堂から復興の奨励が無いことを訝しんではいたが、その理由には思い至らなかった。
二度の災厄を経て、これまで都の造営に駆り出されてきた民と、長岡遷都で利を得る事少なかった朝臣が抱える不満は膨れ上がっていた。
災厄については無論、それ以前の干魃や流行り病を思えば、
都を長岡に遷した事がそもそも天命に背いていたか、或いは大君の徳が薄いからではないのか。
誰が言い出したかなど知れる筈もないが、二度の水害の後、都の何処かでそんな言葉が漏らされ始めると、それに呼応するかのように、早良廃太子がご存命であればみ仏も政に慈悲を垂れ給うたであろうに、いや、この災厄は早良親王を廃太子とした事へ天が下した罰では無いのか、果てはこの都そのものが早良廃太子の恨みを買っているのではないかと囁く者が現れた。
この都は呪われているのだ。
造営長官の死に様や、罪を問われて刑死した朝臣、その後の早良親王への処遇を思えば、その恨みの念はこの長岡の都に結ぼれているのではあるまいか。
年が暮れる頃には、宮の裡でさえそんな囁きが聞こえるようになり、逆に長岡遷都で功を挙げた者や乙訓の地に根差す氏族の者達は苦々しくこの噂を聞いた。
大中臣子老が没して神祓伯となったその弟、諸魚は新年の鳴弦の儀と競射について、都への悪しき噂を払拭するに相応しく、常よりも格式高く行う事を朝堂で進言し、採可を得ていた。
弓場に祭壇が飾られ、東大寺の蔵から代々皇家に伝わる弓と鏑矢を借り受け、内舎人と東宮舎人の中から殊に弓に秀でた者が選ばれて儀式に臨んで潔斎に入り、派手やかに準備が進んでいた。
延暦十二年(793年) 初春
朝賀の儀から数日の後、朝堂では山背国の名を山城国へと改める事と、その山城国葛野の地への遷都が建議された。
長岡への遷都と異なり、極秘の内に進められたこの遷都の案は、朝堂に集う百官を仰天させた。
どよめく百官を前に、民部卿和気清麻呂から長岡棄都が差し迫った問題であることが説かれ、中務卿藤原小黒麻呂から遷都の候補地として葛野郡視察の報告が述べられた。
「葛野では水の利は葛野川と賀茂川に御座います。この二つの川の間に都を置き、北辺に堀を掘削することで、水の害少なく利を大きく得る事が出来ましょう。葛野川の川湊はこれまで同様に利用出来ます。葛野川の東岸は罧原堤に護られておりますれば、前の災厄の様な事は起こりますまい。」
先帝の御代に征東大使として早良皇弟帝と共に陸奥へ兵を率いたこの朝臣も、齢を重ね老獪な参議となっていた。
一渡り朝堂を見回して、小黒麻呂は言葉を続けた。
「秦氏の土木技術の優秀さは殊更言うまでも御座いますまい。嶋麻呂の子、宅守は長岡宮の造営に携わっておりましたが、その造らせた大内裏の垣は先の二度の洪水にも、揺るぎもしませんでした。嶋麻呂は大君のお召しであれば、秦氏の総力を挙げて、長岡同様、新都造営に尽力を惜しまないと申しております」
続いて右大臣藤原継縄が落ち着いた声で上奏した。
「葛野はこの長岡の都と同じく四神相応のめでたき地形を持ちます。大陸に於いても古くから夷狄(国家の敵)は北から攻め寄せるものときいております。我が国に措きましても差し迫った蝦夷征伐を鑑みれば北の護りに優れた地への遷都は望ましいと考えます。この地は北を愛宕の山並みに護られ、南へと開けております。北狄の侵入を防ぎ、南面して政に向かうに相応しい地と申せましょう」
百官は皆眉を潜めた。
これは建議等ではなく宣言だ。
有無を言わせず遷都を行う腹積もりなのだ。
ざわめく大宮人の末席で、亡き造営長官藤原種継の子、仲成は歯噛みしたい思いで小黒麻呂と継縄が大君の採可を得た旨を述べる言葉を聞いていた。
そもそも造営への協力を秦氏に取り付けたのは我が父種継だ。
父の業績の尻馬に乗って北家に我が物顔をされるとは。
小黒麻呂の姫上子が大君に入内してからその兄弟、葛野麻呂も位階を上げている。
それに引き換え、己の位階は遅々として進まず、頼みの綱である妹の薬子とその娘は、亡き式家式部卿(百川)の姫、帯子の東宮入内から、南院の外れへと御座所を移されていた。
このままでは亡き式家式部卿の姫に気圧されてしまうのは目に見えている。
その日の夜半、藤原緒継は南院の東宮坊から退出しようとして、微かに聞こえる潜めた声に気づいた。
百川の遺児、緒継は山部の手で加冠した後、目覚ましく位階を進めていた。
一昨年には十八歳で従五位下、侍従として山部の身近に仕え、中衛府の少将を兼ねていたが、帯子の東宮入内からは、継縄の薦めで東宮侍従として安殿の身近に侍っていた。
南院の外れの坊の暗がりを透かしてみると、庇に座した女君とその傍らに立つ位襖姿と思われる男君の朧な影が見えた。
おそらくは女官であろう女君は髪を洗ったところなのか、その輪郭に髷の形は無かった。
しどけない姿でまみえる程、打ち解けた間柄の男君であるものか。
東宮坊の女官ともあろうものが不謹慎なことだ。
或いは不埒な侵入者かもしれぬと、緒継は足音を忍ばせて、声が聞き取れるほどまで近寄った。
男君が「神祓伯が鳴弦の儀を派手やかに行うそうだな」と言い、微かに頷く気配の後「こちらからも帯刀舎人が幾人か潔斎に臨んでいるそうで御座います」と女君が潜めた声で答えた。
女君の傍らに腰を下ろした男君が舌打ちをした。
「あの男君はおもねる事巧みで、この長岡への都遷りの時にも、抜け目なく上官に誼を通じて利を得たそうだ。父者が射殺された折には兵部大輔としてその警護に当たっていながら、己一人巧く立ち回って父者の死の責を問われなんだが、この度もまた大君の機嫌取りだ」
男君は憤りに声を潜める事が疎かになったらしく、緒継の耳には細部まではっきりと聞き取れた。
「忌々しき事よ。皆、新たな遷都を控えて、今さら造営長官の死や早良廃太子の事を蒸し返されたく無いのだろうなぞと知った風な事を言うが、この都の造営に当たった父者の尽力の事はまるで忘れられているかのようだ。中務卿なぞ、まるで秦氏は己が下部であるかの口ぶりだったぞ」
女君が手を伸ばし、低く宥めるように「兄様、お声が」と促すと、男君は苛立たしげにその手を捉えた。
中天に浮かぶ満ちきらない月が、南院の廻廊の屋根の向こうに一際高い朝堂院南門の楼閣の影を浮かび上がらせていた。
「あの高楼も父者が大唐の都に負けぬ物をと懸案して造らせたのだ。葛野麻呂なぞに偉そうにされてなるものか。それとも何か、汝、まだあの北家の若造に心残りでもあるのか?」
男君が薄く笑った気配がし、女君が思わせ振りなため息をついた。
「そのような事。ですが、この坊に移るにあたって、我が夫は分を越えぬよう振る舞ってくれと申しておりましたから。どうぞ兄様もお心をお鎮め下さい」
男君は唐突に女君に顔を寄せた。
「汝、背と兄と何れぞ欲しき」
答えの代わりに女君は含み笑いを漏らし、そのまま膝行して退がろうとしたが、男君は庇に流れる解かれた長い髪を掌で押さえた。
女君は仰け反るように足を止められ、小さく悲鳴を上げ、争うように衣擦れの音が続いた。
「汝はこうして手荒に扱われるのが好みであろう」
男君のやや息を弾ませた声に、女君の潜めた声が上擦りながら「兄様がそうなすったのでございましょう」と答えた。
男君は下卑た含み笑いと共に「東宮もその手管で籠絡したのか。」と言った後、潜った声で「汝の娘がお子を挙げられぬなら汝が挙げるのだな。あの執心ぶりであれば誰の種かなど気にする事も在るまい」と続け、女君がようよう「畏れ多い事を」とだけ答えた。
もう聞くべき事も無さそうだと緒継はその場を立ち去ったが、どうしたものかは判じかねていた。
宮の裡では口さが無い者達は安殿皇太子を侮り、様々に言繁ていたが、東宮侍従となってみれば、皇太子は思いやり深く、穏やかで慕わしい人柄だった。
今上のごとき果断さには欠けるものの、英明さも博識ぶりも、左衛士督(津連真道、この頃には姓は菅野)が東宮学士を勤めただけの事はある。
才をひけらかさぬ故に人の口の端に昇るのは思わしくない噂ばかりとなるものか。
だが仕える者への優しさが、甘さと取られて周囲の増長を招き、災いの種となるのはよくある事だ。
何事か起こってからでは遅かろうが、何事も起こらぬ内では、誰に告げたところで単なる誹謗中傷とされてしまうだろう。
緒継は父百川の顔も定かには憶えていなかったが、人は父の事を様々に言繁た。
曰く、聡明であったの、機を見るに敏かったの、智謀の人であったのと、誉めそやすかのような言葉の裏に込められた悪意を幼い緒継は敏感に察知した。
その父の子であるが故に身を慎んできた緒継にとって謀略は忌むべきものだった。
緒継にとってあの二人が縁戚で在ることなぞ、微塵も酌量するところでは無かったが、疑いだけで人を糾弾するのは矜持が赦さなかった。
このまま留意して見守る他あるまい。
妬みを買っているであろう妹(帯子)の身も危ぶまれる。
東宮大夫ではあまりに心もとない。
右大臣の耳にでも入れておくべきだろうかと思いを巡らせながら、緒継は朝堂院の高楼を見上げた。
大唐に負けぬ都か。
都の壮麗さで皇家の権威を飾り立てる等、不毛な事だ。
国力とはそんなものではあるまいに。
唐の都は長き時を経て尚、永らえたからこそ威風が備わったのだろう。
今上の求める都もそういうものであろうに。
真に、民可使由之、不可使知之とは良く言ったものだ。
一月十七日、鳴弦の儀を翌日に控え、試射が行われていた弓場で、大君に仕える中務省の内舎人と東宮坊の帯刀舎人が争いを起こした。
事の起こりは東大寺の蔵から貸借した一張の大弓に弓弦が掛からないと帯刀舎人の一人が言い出した事だった。
「皇家の珍宝ともなれば、弓弦を張る手を選ぶのであろうよ」
内舎人の一人が侮蔑を込めて呟いた言葉を帯刀舎人が聞き咎め、激しい言い争いとなり、双方の同輩が太刀を抜いた。
居合わせる者は神祓官の使部ばかりで、抜かれた太刀に怯え、蜘蛛の子を散らすように衛士を求めて弓場を逃げ出した。
緒継が弓場に駆け付けた時には、帯刀舎人の一人が腕を押さえて踞り、征東副使坂上少将が内舎人一人の利き腕を捉え、睨みをきかせて双方を抑えていた。
「双方太刀を引け。神祓の場で私闘とは短慮も甚だしかろう。何の為の潔斎だ。宮の裡で兵杖を持つ者の心得を忘れたか」
坂上少将の一喝に、緒継は漸く踞る帯刀舎人の袖が血に染まっている事に気づいた。
いつ来たものか、神祓伯が蒼白な顔で「血が」と呟いた。
緒継に気づいた帯刀舎人が駆け寄って経緯を耳打ちしてきた。
祭祀の場を血で穢すなど、なんと不味い事か。
しかも潔斎に臨んだ者自らが軽率な振る舞いで血を流すとは。
この顛末が広く知られれば都の悪しき風評に拍車が掛かる事だろう。
緒継は大中臣諸魚に向かって一歩踏み出した。
「神祓伯に申し上げます」
前触れもなく粟田を訪れ、「共に都まで来て戴けようか?」と乞うた田村麻呂の固い表情に、何が起こったのかと小角は鳩尾の辺りが苦しくなった。
「宮の事に貴方を巻き込むのは不本意だが、貴方であれば事の真偽が判じられるのでは無いかと思うのだ」
男童子姿の小角を鞍の前に乗せて馬を駆けさせながら、田村麻呂は手短に弓場で起こった争いの経緯を話した。
「年の始めに競射と鳴弦が行われる事は貴方もよくご存知の事と思う。今日、私は偶々、大極殿の修繕の観察に出向いていたのだが、其処へ使部達がやって来て弓場で私闘が行われていると訴えてきた。私は弓場に向かい、乱闘は鎮まったが、生憎、既に血が流された後だった。駆け付けてくれた東宮侍従(緒継)の機転で、私闘の事は表沙汰にせず、弓の怪異によって鳴弦の儀は取り止めるとする事で表向きは修まったのだが、舎人達は内々に処断されてしまうだろう」
田村麻呂が向けてきた視線を捉え、小角は先を促すように頷いた。
「いさかいの基は東大寺に納められていた大弓に弦が張れない事だったそうだ」
小角の眉が上がったのを見て、田村麻呂は再び馬の駆け行く先へ目を転じた。
「軽率な振る舞いだった事は違い無いが、私にはあの舎人達の申し開きが出任せとは思えない。私も弦を張ろうと試みたがやはり満足に張るに至らず弓弦は切れてしまった」
「弓に何か呪いが掛けられているのではないかと考えるのか」
小角の問いに田村麻呂は視線を動かさず頷いた。
「舎人は激務で報われること少ない職だ。血の気が多いのは誉められぬが将来の有る若い者達も多くいる。何とか処断に口添えしてやりたい」
小角は簡潔に「試みてみよう」とだけ答えた。
帯刀舎人
東宮舎人、東宮坊で皇太子の護衛に当たる舎人
内舎人
内裏で大君の護衛、宿直に当たる舎人
衛士と舎人は共に宮中でも武装が許されている。
衛士は地方から徴発され、専ら門や篝火の警備に当たるが舎人は官人の家柄から選抜される。
神祓官
宮中で神祓を司る所轄名。
この官の職員の総称も「神祓官」であり、紛らわしいので、便宜上所轄名は神祓官、所属する職員を神祓官とさせていただきます。