第四部 陸奥国 八 阿奴志己
延暦十一年(792年) 初春
この年、新年の宴は長岡の都の北宛に新築なった北院で行われた。
営々と行われてきた長岡の都の造営も、残すところ北宛の造営のみとなっていた。
絢爛な調度に遮られ、北院の裡で南面して集う大宮人や朝貢使の目には触れなかったが、都の北、松尾の山々から続く乙訓丘陵の山襞は大きく削られ、谷が埋められ、冬枯れの中、剥き出しの山肌がまるで疵の様に寒々しく目立っていた。
北宛の造営が遅れた理由の一つは、山裾にあった上古の墳墓の移転の為だったが、これには藤原小黒麻呂の秦氏への働きかけあって、昨夏、漸く改葬が終了した。
長岡の都の造営に当たっては幾つもの墳墓が移転、或いは遺棄された。
その多くは、大陸から鯨海を渡り、壱岐、出雲、吉備、丹波と東進し畿内へ勢力を広げた秦氏の祖や、古くから生駒山一帯を本貫地としていた登美氏や物部氏の宗家の物だった。
山を削り、谷を埋め、幾多の墳墓が暴かれ、墳丘が均されて、長岡の都は漸く完成を迎えようとしていた。
北院の宴の席で、秀でた背丈と特異な骨格に、武官の盛装として金と紅の繍の裲襠を纏った田村麻呂の姿は一際眼を引いた。
昨年の秋に建議された、奥羽・西海道を除く諸国での健児制の復活と軍団の廃止について、宴に先だって行われた朝賀の儀で詔が出され、百済王俊哲は満足げな表情で田村麻呂と歓談していた。
「それにしても見事な繍だな。汝が身に付けると、まるで朝貢に訪れた異国の貴人の様だ」
小角から朝賀の儀に着ていけとこの裲襠を贈られた時に、田村麻呂は大層驚き、そして喜んだ。
繍の手間を思えば、随分以前からそのつもりで仕立てて繍を施したのだと容易に知れた。
そして身に纏って更に、その軽さと身のこなしやすさに驚いた。
「経糸を生糸で、緯糸を葛糸で織ってある。軽いだろう?。葛布は今では殆ど見かけなくなってしまったが、葛城では男衆の装束は大体この織り方で造っていた。つまり、その、夫の衣を妻が、ということだが」
田村麻呂の喜びように、小角は、やや頬を上気させ、含羞むような面差しで言ったものだった。
粟田で暮らすようになって以来、以前の頑なさが薄れた様に思われるのも、それだけ己に心を許してくれているのだと、田村麻呂には喜ばしい事だった。
「女童子のような稚い女君と思ったが、なかなかどうして。汝は良き織女を捕まえたと見える。だがあの稚さでは閨では物足りなかろう」
明け透けな俊哲の言葉に、田村麻呂は笑いながら「将軍の様に色事に長けた方ならさもありましょうが、不調法な私には日増しに夜離れが辛くなるばかりです」と答え、「抜け抜けと言うではないか」と俊哲から肩の辺りを叩かれた。
確かに媚態と言うにはほど遠いが、気丈な娘が床の中でだけ見せる怯む様や、拙く恥じらう姿を思えば、田村麻呂には次の逢瀬が間遠いことしきりだった。
やがては陸奥国への出兵による別離が待ち受けている。
更に、出兵はこの度だけには留まらないだろう。
昨秋、俊哲と共に田村麻呂が、内々にこの度の建議の草案を奏上した時、山部は、軍団の廃止に渋り、更に代替案が健児制と聞き、恵美押勝の落とした影が濃すぎると即座に指摘した。
俊哲は其処が昼の御座所の内で、居る者が気心の知れた者だけなのを良いことに、旧き友であった頃の様に、陸奥国の平定には巨額な軍備も膨大な兵も要らぬと山部に説いた。
必要なのは毛野の地で暮らしを建てる公民であり、その公民が俘囚と共に田畑を営める平穏な日々なのだ。
俊哲は山部に、この度の出兵は、その環境を築く為の第一歩であると考えたいと述べた。
「陸奥国府が穏健に栄えれば、蝦夷も再び隣国としての道を模索出来る様になる。蝦夷の国の律令化についてはそれから取り組んでも宜しかろう」
俊哲の言葉に山部は鋭い視線を向けた。
「この地続きの国に在って、何時までも蝦夷が律令下に無い事が朝廷の威信に係わると百官が考えて居るのにか?。朕は常々、律令在ってこその国家であると述べてきたものを、百官に相対して翻せと言うのか?」
山部は紫檀の椅子から立ち上がると、唐風の大卓を回って歩み寄って来た。
「汝は少しばかり考えが浅くは無いか。先年の敗戦は大陸にも知られて居よう。渤海国は無論、蝦夷の国が我が国の隷属国では無いと捉えているだろう。独自に交易まで行っていることは見過ごせない。外官の眼の届かぬ所で異国の船が接岸する危うさを何とする。唐や新羅に付け入る隙を与えるようなものだ。蝦夷の横行を容認する弊害は国の内のみに留まらぬ」
山部の辛辣な口調に、俊哲は微塵も動じなかった。
「新羅は今、己が国の内の争い事だけで精一杯であろう。王権を持つ誰も彼もが王位を奪い合う事に窮々として、まるで嘗ての我が国の様な有り様だそうな。それを思えば亡き式家式部卿(藤原百川)は先見の明があった訳だ。吾等は良き大君を戴けたからな」
不敵に笑った俊哲を睨めつけた山部に、田村麻呂は苦笑を堪えながら「大君」と呼び掛けた。
山部の視線を正面から受け止めた田村麻呂は、穏やかに言葉を続けた。
「蚩尤は幹となる胴や手足を失し、頭だけとなれば饕餮と化しましょう」
深い響きを持つ声が、独特の詠う様な抑揚で述べた思いがけない言葉に、山部の眉が潜められた。
「蝦夷の国を攻めるに、その律令化だけを理として推し進めれば、我国はかの地を貪りつくし、焦土となさしめ、永く財を産み出せますまい。戦は費えのみを残し、我が国の内でもかの地でも、民の困窮と、朝廷へ、牽いては大君への恨みばかりを招きましょう。今、この場で、吾等二人にだけで結構です。滅ぼす為の戦では無いと大君のお言葉を戴きたいのです」
山部は更に渋い顔になった。
今、二人が述べた事は、即ち蝦夷に対して、聖武代の政策に立ち返ることを意味する。
山部にしてみれば、早期に決着を着けたいが故の人選であったものが、揃いも揃って再度、再々度の出兵を前提として尚、蝦夷討伐の方針転換を薦めてくるとは思ってもみなかった。
だが朝堂の同意を促したいと述べるその根底に、己に対する配慮が在ることは山部にも充分汲み取れた。
「仮に大君である朕が頚を縦に振った所で、百官は納まるまいぞ。あれらをどう頷かせる」
俊哲は姿勢を正し、面差しを改めて胸の前でおもむろに袖をあわせた。
「一度の出兵では難かろうと思われます。度重なる戦が国の費えであることは承知の上で申し上げます。お望みの戦果を挙げられぬ責は吾がお受けしましょう。攻め滅ぼすので無く、和議の道を残す事をお許し頂きたい」
山部は渋々といった体で「非公式には認めよう」と答え、二人に背を向けた。
「だが朕から大使(大伴弟麻呂)へは何も告げぬぞ。汝等が自ら大使を説得するのだな」
向けられた背に俊哲と田村麻呂は深々と頭を垂れた。
俊哲は朝賀の儀に参列した後、陸奥国へと立ち返り、牡鹿柵で密かに志波の阿奴志己に会った。
昨年の暮れ、道嶋御盾から申し出を受けた俊哲が、こちらから打診するかと考えて居たところだと二つ返事に答えて叶った会見だった。
阿奴志己は俊哲に直にまみえて、かねて聞いていた通り、この倭人は信ずるに足ると強く感じた。
俊哲は、戦略を聞き出すでもなく、謀略を持ちかけるでもなく、阿奴志己の立場を損なう事であれば答えなくて良いと断りを入れた上で、若し毛野の民が和議の席に着くとすれば誰がその要となるだろうかと問うた。
阿奴志己は、悪路王の名は出さず、今の胆沢から伊治にかけての民を率いる事実上の長、阿弖流為だろうと答えた。
阿弖流為の意を翻させるのは容易ではあるまい。
阿奴志己は俊哲に、倭が和議を考えているのなら、己一人でもその道を拓く事を心がけようと述べた。
御室で行われる評定の席に連なるのは阿奴志己も同じであり、その場での他の部族の動向や長達の思惑は掴める。
可能な限り和議への道を探す事はできるだろう。
達谷窟の事は流石に口に登らせることは出来なかったが、阿奴志己は、伊治柵を築くにあたって道嶋三山と伊治公呰麻呂の間で交わされた朝廷の北限の約定について、俊哲の知るところを訊ねてみた。
俊哲は難しい顔になった。
「その事は吾も耳にしている。だがそれを証すものが残っていない以上、その約定を以て朝廷を牽制する事は難かろう」
阿奴志己の表情を注意深く見守りながら俊哲は言葉を継げた。
「北進については、今答える事はできないが、吾はこの度の戦の後も、この地に暮らす者が生活を営める事を考えたい。その事は知り置いて欲しい」
夜陰に紛れて志波へと帰る道すがら、阿奴志己は俊哲が最後に言った言葉が、戦による北進はなくとも恭順を求められる可能性を秘めている事に思い至った。
だが今その事を案じてもせんない事だ。
確実に起こりうる戦を前に、倭朝廷の将の意を確かめ得た事だけでも良しとする他ない。
これまで、御室での評定の度に阿奴志己は倭朝廷との交渉の可能性を他の長達に打診してみたが、胆沢よりも北に住む民の長達は頑として聞き入れなかった。
それらの長にとって、倭朝廷との戦は現実味の無い、異国の出来事の様に思われるのだろう。
だが、吾にとっては違う。
胆沢が攻め落とされれば次は志波だ。
先程の俊哲の様子から察するに、朝廷は何としても、毛野の地を令国化するつもりなのだ。
幾度でも兵を送って来ることは間違いない。
多くの長は悪路王と阿弖流為が朝廷の北進を食い止められると疑い無く信じているのだろうが阿奴志己は違った。
悪路王はこの数年、御室で執り行われる神事の場に、一人の盲目の巫以外に余人を立ち入らせていなかった。
永く御室の評定の場へも姿を見せず、代わって阿弖流為が名代として、評定の場に席を連ねる様になって久しい。
その理由について、阿弖流為は悪路王は白銀城一帯の結界の維持に努めているからだと述べたが、阿奴志己は阿弖流為が詳らかにしていない理由があるに違いないと考えていた。
最も有り得る事は、癒し手である悪路王が自らの健康を損なっていることだ。
悪路王が継子を得られないまま衰弱しているのだとすれば、毛野の民が生き延びる道を残す手段は多いほど良いのだ。
阿奴志己は懸念を振り払い、亡き父、宇屈波宇を思った。
朝廷から贈られた姓など、毛野の民の間では意味を為さないが、父は死ぬまで宇漢迷公を名乗り続けた。
それは己が、毛野の通告を朝廷に突きつけた事への自負であり、朝廷との対立を歴然とさせた自責でもあったのだろう。
再び毛野が朝廷と交渉を持つのならば、宇屈波宇の子である事は某か利する処有るかもしれない。
たとえ己一人が朝廷に対して、毛野の民の責めを負い、同胞からは裏切り者と呼ばれることになるとしても。
言うなれば吾は、呰麻呂と同じ道を辿るのだ。
六月に入ってまもなく、長岡の宮の裡では安殿皇太子が病がちなのは早良廃太子の恨みの念が祟っているのだと噂されるようになった。
この噂は忽ち山部の耳に入り、山部は明信を問い詰めて噂について聞き質した。
「この年の始めに、安殿皇太子の健康を害しているものを卜定せよと、東宮坊から陰陽寮への依頼があったそうで御座います。その折りの託宣が、東宮坊の誰ぞの口から漏れたのではないかと思われます」
明信は畏まって陰陽司からの奏上を告げた。
陰陽司によれば、卜定は安殿皇太子の病を憂いた東宮妃の指示で行われたとの事だった。
明信は誰がその託宣を触れ回ったのか、無論心当たりがあったが、口には登らせなかった。
それでも山部には誰が発端であるか容易に想像が着いた。
安殿の加冠の時、ちらりと見かけただけの東宮妃とその母だったが、安殿が妃よりも母の方を愛でて、宣旨として傍らに侍らせていると聞き、山部は昨冬、東宮大夫に命じて、安殿が伊勢へ赴いている間に東宮宣旨を別に任命し、遠ざけさせた筈だ。
種継の娘であるが故、宮から放逐することは差し控えたが、更にその後、縄主の妻となる前から醜聞ある女君であったと聞いて、山部は益々嫌悪を覚えたものだった。
替わって女官の一人が側近く侍るようになり、懐妊したと聞き胸を撫で下ろしたのはつい先頃の事だった。
山部は形相凄まじく、自ら東院へ向かい、東宮坊に足を踏み入れた。
突然の今上の訪れに、畏れ怖じた女官は狼狽しながら「安殿皇太子はただいま東宮妃の坊にお渡りです」と答えた。
前触れもなく局に足を踏み入れた山部の見たものは、御帳台の中で女君の懐に縋る安殿と、その安殿を幼子をあやすように宥める女君と、所在無く座した東宮妃の姿だった。
東宮妃に仕える女官という立場でありながら、背子も着けず寛いだ身形は、恰もこの坊の女主でもあるかの振る舞いと山部の眼には映った。
突然現れた山部の姿に東宮妃とその女君は、忽ち表情を強張らせ、取り繕うかのごとく安殿を促して、己は平伏した。
山部は坊の内を一渡り睥睨した後、冷ややかな声音で「和子よ、内々に言い置きたい事が有る故、後で朕の許へ参るように」と言った。
青ざめた安殿の顔色を窺った女君が、平伏したまま畏まって「大君の直々のお言葉を拝聴致しまして、皇太子よりお返事を」と述べ始め、「汝はいつから東宮宣旨となった」と山部の鋭い声音に遮られた。
「父君、朕が至らぬので薬子は替わって間を持たせてくれたのです。お気に障ったのでしたら、どうぞ朕をお責め下さい。薬子に責めは御座いますまい」
狼狽した安殿の横で、ひれ伏した女君の揃えた手の指先が、その袖から僅かに覗いていた。
一見、怖じたかの様に振る舞っていても、その指先には微塵の動揺も見られず、寧ろ値踏みするかのごとき賎しい好奇の目で、己を窺っている事が山部には感じ取れた。
己の前に在って、表立ってはへりくだって置きながら、密かに企みを育んだ二人の女君が山部の脳裏に浮かんだ。
不破は内親王という育ちの故か、感情の赴くままに振る舞い、内親王で有るがゆえに慎むべき処を知らぬ女君であった。
古美奈は後宮の一の人となり、その尊厳の陰で、皇后である己が娘と氏族の為なら謀略を辞さなかった。
この女はそのどちらとも似て異なる。
女狐奴、と山部は胸の裡で毒づいた。
腹の底では何を考えているか知れたものでは無い。
娘が安殿に気に入られぬとみれば己が籠絡し、遠ざけられれば寵を失う事を恐れて、策を講じたという処か。
安殿は山部の顔色を見て、その女君と山部の間に割って入った。
「父君の仰せの通りに致します。昼の御座所へ参りますか、何処かお望みの場所が御座いましたら、そちらで」
と呼び掛けた安殿の、青ざめ、狼狽えた縋る様な表情に山部は更に憤りを覚えた。
皇太子としての威厳を省みぬほどに、この女が愛しいのか。
山部が再び口を開きかけた時、渡殿に人の気配がして、控えめに先触れの声が掛けられた。
「大君が此方にお渡りと伺い、急ぎ参上致しました。東宮大夫と右大臣も参っております」
藤原乙叡の落ち着いた声が告げ、紀古佐美と藤原継縄と共に簀子でひれ伏した。
明信が乙叡に二人を呼びに行かせたのであろう。
山部が冷ややかに視線を向けると、二人の傍らで継縄が顔を挙げ、老いた顔に僅かに非難の色を浮かべて山部を見上げていた。
山部は辺りを見回し、怖じて震える東宮妃と、遠巻きに見守る女官達に気づいた。
「良い、朕はもう退出する。東宮への話は追って東宮大夫より伝えさせる」
言い捨てた背に安殿が「父君、お待ちください、朕は直にお話を」と訴える様に呼び掛けたが、山部は顧みなかった。
渡殿で先触れに立つ乙叡の背を見遣って、山部は後ろを歩く継縄に忌々し気に言った。
「汝、あの女の醜聞を知って尚、この東宮坊に置く事を許したそうだな。その真意を聞こう。」
継縄は眉一つ動かさぬまま「昼の御座所にて奉りましょう」と答えた。
「畏れながら申し上げます。東宮妃の母につきましては、その出来事は既に過ぎにし過ちでございます。今その事を以てかの女君を放逐するは東宮妃、並びに皇太子様にとっても不名誉な事となりましょう」
昼の御座所で、山部の叱責に対して、唐風に立ったまま袖を袷せて継縄は深々と頭を垂れた。
「更にはその悼みは皇太子様ご自身にとっても痛手となりましょう。皇太子様は、御母君亡き後、御自身の病から漸く立ち直られたところで御座います。只今の皇太子様のお心の拠り所は、一人、かの女君とお見受け致します」
山部は継縄の言い分に苦々しい顔になった。
そうなるまで気付けなかったのは東宮坊の責ではないのか。
東宮の健康管理は無論、禍の芽は早くに摘んでおくべきだったが。
「臣の至らなさを省みず、大君に申し上げます。何よりも東宮坊に於いて、皇太子の権威を損なうような事は申されませんよう。間も無くお子もお産まれになります。今しばらく、皇太子様のご様子をご覧いただきたく存じ上げます」
昼の御座所の扉の外で、明信と共に父の退出を待ちながら、乙叡が呟いた。
「父者は老いて気弱りなされているのでしょうか。あの女、兄(藤原仲成)とも右少弁(藤原小黒麻呂の子、葛野麻呂)とも通じていたそうではありませんか。傷は浅い内に手を打った方が良いでしょうに。事を表沙汰にせぬ事が仁だと思っておいでのようだが、問題は皇太子様ご自身にも在るのではないのでしょうか?。大君もお歳を召されたというのに先が思いやられる事です。お年はお若くとも我が君の方が余程英明でいらっしゃる」
明信は息子に鋭い視線を向け、低くたしなめる様な声音で一言、「乙叡」とだけ言った。
「ああ、解っておりますとも。母者の前ですから口に登らせただけです。他言はいたしませんよ」
乙叡は朗らかに笑ってみせたが、明信は固い表情のままだった。
やがて退出した継縄は明信に目を遣り、「新たに東宮妃を入れる事をお薦めした。亡き式家式部卿の姫が相応しかろうと申し上げ、大君は受託された。我は今から東宮大夫に伝えて参る」と言い、息子に向かっては「乙叡、足労であった。今日の事は口外せぬよう」とだけ告げて足早に立ち去っていった。
「成る程。帯子様ですか。式家直系の妃であれば、かの女君も我が物顔は出来ますまい。
この上はかの女君がお子を挙げぬ事を祈りますよ」
乙叡の言に明信は更に顔を強張らせた。
饕餮
「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪る、の意を持つ。
黄帝と蚩尤の後代に、儒教で聖帝とされた舜帝が中原から追放したとされる。
漢民族の神話上の悪神、四凶の一つだが、後代、貪欲で魔をも喰らうという考えから、魔除けの意味を持つようになった。
夏、殷、周代の青銅器に饕餮文と呼ばれる紋様が見られるが、それが饕餮の姿をあらわしているかは不明。
黄帝が蚩尤を倒した後、再び天下に争乱が起こるようになったため、黄帝が蚩尤を絵に描かせ、戒めとさせた逸話が饕餮と結び付いて語り継がれたか。