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六月  作者: 賀茂史女
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第四部 陸奥国 七 征東副使

延暦十年(791年) 初秋

七月十三日、朝堂では前年大敗を喫した征東軍の恥を灌ぐべく、新たな討伐軍を編成する事が言上され、大君の承認する所となった。

嘗て大伴家持が征東大使として陸奥に赴いた時に、常陸介から副使に抜擢された大伴弟麻呂を征夷大将軍として、これ迄の征東大使より多くの権限を与える事が定められ、副使(そえいくさのきみ)には百済王俊哲を筆頭に、坂上田村麻呂を含め、四名が任じられた。

山部は大伴弟麻呂と百済王俊哲には、予め、多くの兵、大規模な軍備が用意出来ないであろう事を申し渡した上で、形に残る戦果が必要だと言い含めた。


「塩漬けの首級など幾つあっても仕方が無い。先ずは城柵と国府の安泰だ。公民の田畑を守れれば、太宰府の様に多くの兵を駐屯させても賄える。次へ繋がる戦果を残さねばな」

俊哲は田村麻呂に大君からの勅について語った後、独り言のように呟いた。

「どうも大君はこの頃、頗る気が立っているように見受けられる。まるで何かに急き立てられているようだ。都の造営が未だ完了を見ぬ事もあるのだろうが、何を焦っているものか」

田村麻呂が頚を捻りながら「東宮の健康が優れないとは聞いていますが、他には特に。それとなく尚侍(ないしのかみ)にでも訊ねてご覧になっては如何です?」と答え、俊哲は「そうしてみよう」と顔を上げた。

「ところで(なれ)の徴兵と軍団についての案は大層興味深かった。あれを纏めてくれぬか。言上については吾に任せてくれ。吾は冬が来る前に鎮守府将軍として陸奥国へ赴く事になろう。それまでに言上できる体裁にしたい。頼んだぞ」


俊哲の言葉に「承知しました」と答えた田村麻呂は、休日に粟田へ帰っても、硯と筆と小刀を乗せた文台の前で腕組みをして考え込む嵌めに陥った。

初秋の雨の中、邸に帰って来てから上の空で生返事な田村麻呂を案じて、小角は簀から声を掛けてみたが一向に返事は無かった。

曹司に脚を踏み入れた小角は、辺りに散らばる木簡を踏まないように近寄って「何事だ?」と訊ねてみた。

田村麻呂は夢から醒めた様に、小角の顔を見て「健児(こんでい)制を再び試みるよう大君に申し上げようと草案を考えているのだが、どうも巧く纏まらない」と言った。

「健児?。今更か?」と問い返した小角に田村麻呂は大きく頷いた。

「先の監察で諸国の現状を見、(さき)の出兵についての俊哲殿の言を聞いて思ったのだが、今の軍団制そのものが悪循環を起こし兵の質を下げていると考えられる」

小角は己が宮に在った頃の事を思いだしながら答えた。

「そう言えば以前、恵美押勝が近隣の国に健児制を曳いたな。中々優秀な軍となった。おかげで乱の時にはてこずらされたのだが」

田村麻呂は頷いて言葉を継げた。

「軍団制では兵を公民(おおみたから)から徴発する事で、田祖が滞り、公地が乱れる。東山道(やまつみち)のみならず、私が赴いた東海道(うみつみち)でも、多くの国で田畑を営む公民は陸奥、出羽への兵士の徴発で困窮していた。上総、下総、常陸は殊に悲惨だ。公民は徴発を恨み、武器の扱いも知らず、任が解ける事ばかりを望むようになる。士気が上がる筈もない。公民ではなく、郡司の子弟を中心に、健児を募るのだ」

語っている内に田村麻呂の声は熱を帯び始めた。

「必ずしも郡司の血縁者で無くとも良い。郡司の中には非公式に流民を私兵として雇い入れている者もいる。それほど治安が悪いのだろうが、郡司に私兵を持たせる事は不穏に過ぎる。それならいっそそういう者達を健児による国家の兵として徴発し、郡司に管理させた方が余程良かろう。軍団は廃止とし、健児を選任として、国ごとに人員を定める。交代制で日常を官衙や正倉の警護に就かせ、訓練も行わせ、非常時には紛争地に赴く。武具(もののぐ)の製造についても、余力の有る農民層と五位以上の貴族が製造して納めると定められたのだから、これで公民の負担は、」

小角の笑顔に気づいて田村麻呂は言葉を切った。

「なんだ纏まっているではないか。その通りに記せば良いのではないか?」

問題は朝堂での評定だろうと小角は頚を傾げた。

「朝臣の中には恵美押勝が健児制を行った事を覚えていて、異議を唱える者も出るかも知れぬ。恵美押勝の乱の例を逆手に取って、私兵の乱用の抑制となる点を推すように評定の流れを作った方が参議には納得がいこうな」

田村麻呂は「成る程、心に留めておこう」と頷いた。

「問題は国ごとの人員だ。来年の班田に向けて田籍があらためられているが、その報告を待たねばなるまい。大陸の情勢が落ち着いていると言っても、西海道諸国は無論、健児というわけにはいかない。陸奥と出羽も無理だろう。具体的な数を算出できない」

「なに、骨子さえ纏まっていれば、後は民部省と兵部省が巧く計らうだろう。初めて健児を敷いた時にもそうだった。だが監察使から言上するには、門外漢が立ち入りすぎた意見だと言われかねないだろうか?」

小角の考え深げな面差しを見て、漸く田村麻呂は己の失策に気づいた。

「貴方にお知らせするのが遅くなってしまった」

不思議そうに見上げてきた小角の何心も無い表情に、田村麻呂は一時言い澱んだ。

「私は先日、秋の任官にて次期征東軍の副使に選抜されたのだ。征夷大将軍、大伴弟麻呂殿の下で副使として兵を率いる事となった」

小角の目が見開かれ、「陸奥国へ行くのか?。戦をしに?」と訊ねた声が掠れた。

「出兵はまだ先の事だが、其のときが来れば私は都を離れる事になる。短くとも半年、長ければ一年か。或いは更に」

田村麻呂は小角の表情を見て、その手を急いで引き寄せた。

「この度の将軍(いくさのきみ)は老練で陸奥を良く知る。副将軍(そえいくさのきみ)の筆頭はやはり蝦夷を良く知る百済王俊哲殿だ。無謀な戦にはなるまい」

田村麻呂の懐に抱き取られて、小角は「だが戦には変わりない。山部は毛野の民をどうしたいのだろう」と呟いた。

小角の呟きに田村麻呂の直線的な眉が潜められた。

「我が君はさして戦は望んではおられない。他に成すべきことが多くあるとお考えなのだろう。だが、太政官の多くはそうは考えていない。口にこそ出さないが、先帝の勅が成し遂げられていないのは今上の責だとする者は多くあろう。殊に我が君を快く思わぬ者は、理由さえ見つければ尻馬に乗り、陰で良からぬ事をも企むかも知れない。早良廃太子の一件が良い例だ。大君と言えども、その一存で政の舵を執れないのは貴方も良くご承知だろう」

「では毛野の民は、倭の朝臣の意を不満から逸らすために攻められるというのか」

一時、田村麻呂の眉根が強く寄せられた。

「太政官に言わせれば、朝廷の威信に関わると述べるのだろう。道嶋の(いくさのきみ)と我が父も、それを憂いて吉備の大臣が退官された後に助言を乞うたそうだ」

「真備に?」

確かに真備は、死の直前、道嶋嶋足を信じて待てと言ったと小角は思い出した。

「吉備の大臣は、田辺史難波に代わる者を探せと仰ったそうだ。道嶋の将も我が父も、百済王俊哲殿こそが待ち続けた君だと言った。私自身もその様に考える。私に出来うる限りの事はしたい。その為にも私は陸奥へ赴かねばならない」

田村麻呂の懐の中で小角は、山部は副使とする事を見越して、この君を監察使に任命したのだろうかと考えていた。

この君が其ほど大事と捉えていない風なのは、自身が望む処であったからなのか、その予感があったものか。

田村麻呂は抱え込んだ小さな頭に頬擦りしながら、今更の様に罪の意識を感じていた。

己はこの斎媛に約した事を再び反故にすることになるのだ。

「だが貴方を残して行くことには変わり無い。私も辛いとは思うがやむを得ない。おわかり戴けようか」

田村麻呂の乞い願うような声音を聞きながら、小角は頷いてみたが、この君が陸奥へ戦に赴き、己は邸に取り残されると思うと胸の裡に暗雲が垂れ込めてくるかの心地がした。

前の征東軍の敗戦を思えば、今の毛野の民が伊治を国境に、倭人と総力を挙げて戦を構えるつもりなのは明らかだ。

阿弖流為(アテルイ)は、母禮モレイは、そして玻璃は、達谷窟(たっこくのいわや)以北を死守しようとするだろう。

国つ神の民にとっては、御室(おむろ)無くして信仰の拠り所は無い。

そして達谷窟は毛野の民にとって、御室と等しく聖地なのだ。

田村麻呂はこうなると承知だったのだろうか?。

そうなら何故もっと前に告げてくれなかったのだろう。

尤も、予め告げられたからといってどうにかなるものでもなかったかもしれないが。

粟田に迎えられてからの穏やかな日々に、己は慣れ過ぎていたのではないか。

小角は何か言おうとしたが、項に顔を埋められ、言葉が見付からないでいると、襟元が寛げられ、裳の紐が解かれて、考え事どころではなくなった。

肌を合わせて後、お互いの衣に埋もれたまま、小角はやがて、田村麻呂が監察使の任に就いた時に、出兵について何事か申し渡されていたのではないかと思い当たった。

さりとて今さら訊ねるのも間が悪すぎる。

過ぎてしまったことを問い質すなど、嗚呼(おこ)がましいことだと想いながらも、小角は何やら巧くはぐらかされてしまった様な心地がした。


九月二十二日、百済王俊哲は陸奥鎮守府将軍に任命され、任国の下野国を経て陸奥へと向かった。

牡鹿柵で道嶋御盾は、俊哲の多賀城着任の報せを聞いて、再び活路が開けた想いがした。

巣伏での圧倒的な敗戦は倭人の柵戸のみならず、俘囚達の間にも遺恨を遺していた。

年若な俘囚達の中には二世の者も増え、毛野の暮らしを知らぬそれらの者達の間では阿弖流為と悪路王の名は怖れ、恨まれ、憎まれるものとなっていた。

このままでは戦の根は深まるばかりだ。

御盾は密かに、志波の阿奴志己(アヌシコ)と百済王俊哲を会わせる手段を考えていた。


この秋、旧都(平城京)からの門の移転が完了した長岡の宮は、漸く宮としての佇まいが整ったものの、その裡では、相変わらず不穏な空気が漂っていた。

東宮坊の不愉快な噂が最初に山部の耳に入ったのは、近頃山部の後宮に上がった、北家藤原小黒麻呂の姫、上子の口からだった。

このところ、東宮坊では、妃よりもその母がまめまめしく東宮に仕えているというその噂は山部を苛立たせていた。

「私の口から申し上げるには余りに憚りが多う御座います」

上子は勿体振った様子で多くを語らなかったが、同じく後宮の宮人である、亡き造営長官種継の娘、東子ならばよく知るやも知れませんがと付け加えた。

暗に陰猥な意味を持たせているらしいその醜聞の出所が判然としない事が、更に山部に不愉快な思いをさせた。

百済王明信は尚侍であれば当然、事の真偽を承知だろうが、宮の裡を憚ってか東宮妃とその母については何の報告もなかった。

十月十日、山部は交野に行幸し、鷹狩りを行い、継縄の別業を仮宮とした。

その夜、床に侍った明信から、山部は漸く東宮妃の母について訊ねる機会を得た。

明信が言いにくそうに告げた事は、密かな醜聞がほぼ真実であるという受け入れがたい事実だった。

安殿が、東宮妃として入内した年若な妃には見向きもせず、娘の為に女官として宮に上がったその母である種継の娘を、昼も夜も傍らから離さない事が噂の火種となったものか。

皇太子(ひつぎのみこ)様が病を得られた頃、東宮妃の叔父君(藤原仲成)様と少納言(藤原葛野麻呂)のお薦めで、かの妃の母君がお側近くで看とられたと聞いております。この新年の供御薬(みくすりをくうず)薬子(くすりこ)をかの女君にと皇太子直々のお達しがありました。唯今の東宮坊では、かの女君は東宮の薬子とよばれ、事実上の宣旨の役割を為されておいでです」

本来であれば典薬寮に仕える未通女(おとめ)が勤める仕事を、既に子も居る女君が勤める事も異例の事ではあった。

「東宮大夫(紀古佐美)は何をしている?。継縄まで黙認しているのか?」

山部の眉が険しくなったのを見て、明信は寝衣の襟を正して枕辺に額着いた。

「大君、皇太子様は皇后様の御崩御にいたく心弱りされておいででした。漸く健康を取り戻されたのは、その薬子様の看病あっての事かと」

その姿に山部の声は更に苦々しげになった。

(なれ)までがそのような事を述べるとはな」

明信は顔を挙げないまま言葉を続けた。

「何卒曲げて御取りになりませんよう。我が背は安殿様に皇太子の任が重くのし掛かっておいでではないかと案じております。更にかの妃の母君は亡き造営長官の御姫であらせられれば、皇太子様の亡き母君様から推挙が御座いましたゆえ」

亡き母という言葉が山部の憤りを一時逸らした。

「だが安殿はもう十八になる。何時までも母の面影ばかりを追う歳でもあるまい」

山部は言い捨てる様に言葉を継げ、明信を下がらせた。

朕は五十五(とせ)を越えた、と山部は苛立ちを押さえきれず心の裡で呟いた。

遷都の詔を出して七年が過ぎたというのに、未だ長岡の都は完成を見ない。

律令の改正も、国記の編纂も、息の永い都あっての物だというのに、だ。

山部はこのところ夜半に焦燥に駆られて目覚める事が多くあった。

種継が生きていれば、既に都は完成を見ていたかも知れない。

山部の耳には、種継が都の有り様を熱っぽく語る声が聞こえた様に思われた。

「この都は四神の守護として、北(玄武)に愛宕山から西山へと続く山並みがあり、南(朱雀)には巨椋江が、東(青龍)には葛野川、西(白虎)に影面道(かげともみち)背面道(そともみち)が相応しましょう。気の流れは北宛で大内裏へと集約され、朱雀大路を通って嶋院を抜け、都を巡り、葛野川の流れと共に都を浄化するのです」

早良が生きていれば、共に政を執り、そろそろ位譲りの算段を考える頃であったかも知れない。

「兄上の御心痛はこの私が良く承知致して居ります。何卒私にお任せ下さい」

和やかな笑顔で、穏やかな声音で、早良が語る声が聞こえた気がした。

早良が女君を入れず子を持たなかったのは、安殿を憚っての事もあったろう。

繰り返されてきた日嗣ぎの争いを、朕が忌み嫌っていた事をあれは良く知っていた。

日嗣ぎの争いは終わらせなければならない。

山部は重たげな衣擦れの音に気付いて振り向いた。

窶れ、萎びた白い手が、烏造りの太刀の束を握りしめている。

「皇統の生まれも、皇后(きさい)の位も、私が望んだわけでは無かった」

震える声が山部の耳を射った。

井上廃后の声だ。

暗闇の中、震える手が握りしめる太刀だけが、山部の許へと近づいてくるのが見えた。

山部は暗闇を見透かそうと眼を凝らしたが、見えるのは近づいてくる太刀のみだった。

「幼い頃(なれ)は朕の降嫁で母の涙を見ると憤ったな。長じれば(なれ)自身が酒人をその憂き目に合わせると言うわけだ」

太刀を持つ萎びた手の、対の手が、震えながら山部に向かって伸ばされてきた。

その手が蘇芳色の錦織りの裲襠(りょうとう)(貫頭衣)の縁飾りを、思いも寄らない程の力で握りしめた。

「だがそれもこれも皆、此処で終わりだ」

山部は暗闇の中、眼を醒ました。

またあの夢だ。

このところ独りで床に着くと決まってあの夢を見る。

苛立ち紛れに明信を下がらせた事を後悔しながら、山部は思った。

こんな筈では無かった。


翌日、継縄は大君の為に百済楽の宴を張った。

その席には継縄と明信の一人息子、乙叡(たかとし)の姿もあった。

乙叡は伊予親王と親しみ、山部も伊予親王の許で、度々この若者と言葉を交わすことがあった。

百川の子、緒継と共に、教養も人柄も申し分なく、意気盛んな若者の姿を見るのは、このところの山部にとって大きな慰めだった。

南家長者の継縄からすれば、式家の血の濃い安殿皇太子より、南家の姫の産んだ健やかで快活な伊予親王に肩入れしたくなるのは道理だろう。

だが東宮は安殿だ。

醜聞を退ける手段を考えねばなるまい。

先ずは安殿を宮と薬子から離す事だろう。

新な妃を迎えるのも良いかもしれぬ。


程なくして、東宮亮葛井道依の娘、藤子が東宮坊の宮人として安殿皇太子の身近に上がった。

十月二十七日、安殿皇太子は病快癒の報告と称して、伊勢社へ祈祷に向かう事となった。

斎宮では算段を整えるのに賀茂人麻呂が奔走した。

斎王は持ち前の好奇心を発揮して、安殿皇太子を垣間見たが、父に似た所を見出だせず、気落ちするとともに大層父母が恋しくなった。

安殿皇太子の祈祷は十余日に渡り、十一月十一日に漸く長岡の都へと還御した。

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