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六月  作者: 賀茂史女
33/53

第四部 陸奥国 六 粟田

延暦十年(791年)初夏

四月の終わり、百済王俊哲と田村麻呂は東海道(うみつみち)諸国の監察を終えて、長岡の都へと帰還した。

出立の日、都を出るや否や、「危うく内教坊に召し上げられる処だったそうだな。だから言わぬ事ではない。耳聡い我が姉に感謝しろよ」と大笑いされたのを皮切りに、田村麻呂は俊哲から幾度も斎宮の舞手の事を揶揄された。

やがて田村麻呂は、俊哲がその話を持ち出すのが、国ごとの検閲の終わった後、諸国の困窮ぶりを思い知らされたり、民の兵役への怖れを感じて重い気持ちになっている時だと気づいた。

俊哲自身はそれについて何も語らなかったが、口分田を割り当てられ、租税の義務を負っている働き手を兵に採られれば、徴兵者の租だけが免じられても、民の負担となるのは自明の理だ。

働き手を失った口分田は荒れ果てるか、或いは水の理の良い田であったりすれば、寺社や貴族の荘園を営む家司が買い上げたり、許しも得ず、収量の少ない痩せた田と替えさせたりという有り様だった。

この二、三年の旱魃や流行り病と、前回の征夷軍の徴発が民の暮らしに残した爪痕は到底癒えていない。

遠江から東は、富士の山が時おり降らす灰の為か、草木が満足に育たぬ所もあった。

来年は班田の行われる年だ。

長岡の都への帰途、何か方策を講じるならば、この機を逃さず言上せねばと田村麻呂は考えていた。

不意に俊哲に肩を叩かれ「漸く帰ってきたというのに、なんと小難しい顔であることよ。もう少し喜んだらどうだ」と笑われた。

「これで俊哲殿に、日々私の不調法について責められずに済むと思うと寿命が延びる心地ですね」と田村麻呂も笑いながら答え、粟田に思いを馳せた。

かの斎媛は、果たして大人しくしてくれているものだろうか。


小角は葛城から、平城の都へと向かい、都の外れの真備の塚に立ち寄り、三月の終わりには葛城から粟田へと立ち戻った。

戻った日の河鹿の安堵の表情を見て、小角は心配させたのだと思った。

花鶏(アトリ)は素直に小角の帰りを喜んだ。

女君として少々型破りであっても、二人は小角を大切な主の夫人と捉えてくれていた。

農繁期に入った荘園は忙しなく運営されており、小角は花鶏と共に、田畑で働く小作達の子の面倒をみたり、河鹿の厩仕事を手伝って過ごした。

山科の山々がもたらす豊かな水に恵まれて、粟田で旧くから田畑を営む公民(おおみたから)と、田村麻呂の私領の小作達が野良仕事を互いに助け合い、粟田の地はここ数年の干魃も飢饉も知らぬようだった。

荘園では陸奥駒は(からたち)とその仔の二頭だけだったが、他にも農耕馬として数頭の馬と、この辺りでは珍しく牛が養われていた。

厩仕事の合間に、河鹿が檜前の大壁館(おおかべのむろたち)に仕えてきた血筋の生まれだと知った。

河鹿は、田村麻呂から小角が葛城の民だと知らされているようで、「此処は葛城に似ておりましょう。檜前の生まれの者が多く移り住んだのです。檜前では葛城の里の慣わしが今も残っておりますから、自然と似るのでしょう。花鶏は曾布の生まれですが、曾布よりもこの粟田の方が豊かで穏やかだと申しております」と誇らしげに言った。

嘗てこの辺りの土地は山科を本貫地としていた粟田氏の朝臣のものだったが、その朝臣が没官となり、大殿(苅田麻呂)に下賜され、主(田村麻呂)が受け継いだのだと河鹿は語った。

檜前に帰りたくはならないかと小角が問うと、河鹿は「今の檜前には吾の縁者はもう居りません。懐かしくはありますが、吾の在る場所は主の許と考えて居ります」とだけ答えた。

粟田の邸に田村麻呂の帰京の報せが届いたのは五月に入って直ぐだった。

(からたち)を連れて都の邸へ向かった河鹿は数日の後、「主は明日夕、こちらへ訪れるとの事でした」と、田村麻呂よりも一足先に粟田へ帰ってきた。

河鹿に言付けて田村麻呂は美麗な装束を贈ってくれていた。

命婦の装束に準じて取り揃えてある様だったが、錦織りの背子や華美な飾紐など、小角が宮に居た頃よりも一段と華やかで豪奢な物だった。

広げてみて、花鶏は感嘆しきりだったが、小角はこの頃の宮では女君は皆こういう出で立ちなのだろうかと思った。

大層美しいが以前より重く、相変わらず動きにくそうだ。

便りが添えられてある事に気づいた小角は、紙の私信が物珍しく、手にとって繁々と眺めた。

そこには堅苦しい手跡で「お気に召すと良いのだが」とあり、その横に「下にを着ませ(ただ)に逢ふまでに」と添え書かれてあり、小角は顔に血を昇らせた。

よく知られた古い相問歌の下の句だが、これは後々(きぬぎぬ)を惜しみ、操の誓いを求める歌だ。

邸に迎えられたのが客人としてではなく、(おみなめ)としてであることは理窟では分かっていたが、いざこうして歌など送られてみると、いったいどんな顔をして迎えればよいものか。

多くの女君が在るであろうあの君からすれば、こんなことは日常なのかも知れないがと、歌垣にすら出入りした事の無い小角は途方に暮れた。


翌日、従者を連れず、一人(からたち)に乗った田村麻呂が粟田の邸に帰った時、出迎えたのは河鹿と花鶏の二人だけで、早速田村麻呂の表情は曇った。

花鶏が「鈴鹿様は、お声をお掛けした時には童子(わらわ)達に手習いなどさせておいででしたが、どちらに行かれたものか」と途方に暮れているのを見て、田村麻呂は「良い、私がお探ししよう」と声をかけた。

位襖を着替えもせずに、日頃家人の童子達が居る下家に行くと、中は綺麗に片付けられ、裳抜けの空となっていた。

さて、どこに行かれたものかと案じる田村麻呂は、母屋に戻り掛けて花鶏と河鹿に行き会った。


小角は童子達を見送りに潜り戸を出て、表門の気配に田村麻呂の帰りを感じ取ったが、どうにも面と向かえず、築地塀の外で二の足を踏んでいた。

脚の向くまま厩へ行くと、(からたち)と仔馬が嬉しそうに出迎えてくれた。

こんな風に率直に帰りを喜べれば良いのだがと、己を面映ゆく思いながら小角は(からたち)の頚に手を延ばし「ご苦労だったな。よくこそ帰った。お前の主は恙無かったか?」と話しかけた。

突然背後から「直に訊ねて頂けると嬉しいのだが」と佳く響く声が掛けられ、小角は跳び上がりそうに驚いた。

振り向くと田村麻呂の藍色の瞳が笑っていた。

小角が口ごもりながら無事な帰りを祝う言葉を嬉しそうに聞き、田村麻呂は穏やかに言葉を続けた。

「僅かな間にこの地に馴染んで下さった様で何よりだ。河鹿も花鶏も、もう先から貴方が主であるかのような気がするらしい。二人とも、貴方は厩においでだろうと言い当てた」

田村麻呂の愉快そうな眼差しに、釣り込まれて小角の口許にも笑みが浮かんだ。

頚を延ばしてきた仔馬の鼻面を撫でてやりながら、田村麻呂が「暫く見ぬ間に、この仔も(なり)が大きくなった様だ。この仔は外見は(からたち)に似ているが、性が穏やかなのは蛍に似たのだと思われまいか?」と言い、小角は「私もそう思う」と答えた。

不意に小角は田村麻呂を見上げた。

「この仔馬の名だが、(かささぎ)という名はどうだろう」

田村麻呂は、栗毛の仔馬に鵲とはと訝しんだが、小角が続けて「以前、蛍の背で星合の話をしただろう?」と懐かしげに言うのを聞いて、飯高の大刀自の亡くなった夜の事をまざまざと思い出した。

あの夜の己には、この斎媛の哀しみを癒す術が見出だせなかったものだった。

「では蛍に仔の名を伝えてやるとしよう」

田村麻呂に促されて、二人は厩から出て、蛍を葬った塚へと向かった。

蛍の塚の傍らには、かの夫人(おおとじ)の塚もあり、丘は一面、生い茂る萱草の翠に覆われ、伸びてきた花穂に交じって点々と気の早い百合が咲き始めていた。

二つの塚に花を手向けて、小角は田村麻呂を振り返った。

「此処に居ると、気持ちが自然と穏やかになるようだ。少将殿に迎えられて、この地を知ることができて、私はとても喜ばしい」

筒袖に裾長の裳を身に付け、髪を緩く結わえた小角の姿は、田村麻呂に坂下での日々を思い出させた。

「高宮でな、銀杏の若木が育っていた。乳銀杏は枯れてしまったが、その若木が育って、いつかまた乳銀杏と呼ばれるようになるかも知れない。大銀杏が枯れても、葛城の民が滅んでも、この地の様に、暮らし振りの中にその習わしが残る地もあるのだな」

懐かしげに語る小角の表情に田村麻呂は目元を和ませた。

思えばあの二度目の出会いから、己はこの方に魅かれていたのだろう。

冷ややかな程賢いかと思えば、影で人を思いやる敏さが在り、そのくせ時おり童子の様に笑ったり戸惑ったり膨れたりする、この情の(こわ)い孤独な斎媛が、謎めいて目が離せなかったものだ。

連れ立って邸に戻った二人は、河鹿と花鶏に微笑まし気に迎えられた。


陽が落ちて、御燈台に火が灯される頃、小角は贈られた装束を着て、ともすれば逃げ出したくなる気持ちを抑えて一人、曹司に座していた。

これから起こることを思うと、どうして良いのか怖じ気付いて、胸が逸るばかりだった。

未通女(おとめ)でこそ無いものの、小角の知る男君は、同じ常人ならぬ神守りの玻璃ただひとりだ。

傍らに在るだけで心地好かった玻璃と違い、これまであの君に近寄られる度に、感じてきた違和感が憂わしかった。

蛍が死んだあの夜、田村麻呂の腕の中で夜を明かしたのは確かだが、取り乱していた事でもあり、たいして覚えもない。

口づけはおろか、これまで抱擁らしい抱擁も交わしたことが無いのだ。

こんな時、常の(おみな)であればどう振る舞うのかなどと思い巡らしてみたが、己に女君らしい振る舞いが出来るとも思えず、どうすればあの君に己の想いが伝わるものか考えあぐねた。

簀に微かな足音を感じ取って、小角はいたたまれずに固く目を閉じた。

曹司の外から、控えめな声で先触れに名を呼ばれ、声が震えそうになるのを精一杯堪えて「此処に。」と答えた。

曹司に脚を踏み入れた田村麻呂は、御燈台の灯りの中、宝髷を結い、紅の大袖の衣に華やかな錦織りの背子を纏って、居住まい佳く座した小角の姿に思わず見とれた。

歩み寄るとこの眺めが見られなくなる事が惜しい様にも思われたが、小角のいつに無く困惑した表情に気付いて、傍らに片膝を着いた。

「よくお似合いだ」

近寄った圧倒的な存在感に身を固くしていた小角は、柔らかな声音におずおずと視線を上げた。

田村麻呂は「これをお返ししておこう」と、父苅田麻呂が前の法皇(道鏡)から預かった木簡の入った包みを小角の前に置いた。

小角は手にとって暫く考え込んだ。

私は此を、永く不要の物だと考えて来た。

所在が知れぬまま、誰かの手で遺棄されたところで、それも運命だろうと考えていた。

だが結局こうして、誰の眼にも触れる事無く私の許へと戻って来た。

「私にはこれの処遇は決めかねる。少将殿に見てもらっても良いだろうか?」

小角の思い詰めた表情を見て、田村麻呂は面を改めた。

「道鏡が少将殿の父君に読まぬようにと言い残したのは、父御がこれを預かる事で阿倍の後継争いに巻き込まれぬよう慮っての事だったろう。今とは事情こそ違うが、大宮人である少将殿には、これを見る事で重い荷を背負わせる事になるかも知れない。それでも共に見て貰いたいと私は思う」

田村麻呂は小角の言葉に動ずるでも無く、「では拝見しよう」とだけ言い、包みを受け取った。

やや大きく、墨跡も濃く記されたものには『上宮太子(厩戸皇子)曰、古きを訪ぬれば倭に於いては、三国の和の証に、葛城より后を迎え、高志の日嗣を立てるが改め不る常の慣わしなりき。朕此に能わぬ故に大兄の位、相応しからず。』とあり、何時の御代のものか璽とおぼしき朱の色が微かに残っていた。

もう一つ、焼け焦げて損傷の激しい小さな木簡には『皇子、世上の安らかなる事を望みて葛城の役公に願い出で、二上山の龍穴を封じ奉る。小墾田大王、此を祝い奉りて、後々迄、葛城の国をぞ約す。』とだけが読み取れ、こちらには小墾田大王(推古帝)の璽がくっきりと残っていた。

二つの木簡を読んでみて、田村麻呂は小角の強張った表情に成る程と合点が入った。

高志や葛城が、嘗ては令国ではなかった事すら今や忘れられつつあるが、この木簡には、三国が対等の友好国であった事も、改め不る常の典についても明記され、更には朝廷が葛城の役公の持つ異能の力を借りてきた事についても記されている。

この木簡が存在する事で、勅撰国史である古事記と日本紀に記された内容が覆されかねない。

則ち淡海公が半生をかけて築いた、皇統の正統性が失墜してしまうのだ。

これは国家の礎である律令の尊厳を脅かすものとなるかも知れない。

「特にこちらの上宮太子曰くの物は、此れを持つ者によっては、山部の為にもならないと私には思われる」

小角は田村麻呂の考えを測りかねて覚束ない声で呟いた。

黙したまま暫く考えていた田村麻呂は、小角の視線を正面から捉えて「二つ共に私がお預かりして良いだろうか?」と訊ねた。

小角は小さく頷き「保管するも焼き捨てるも、少将殿の良いようにしてくれ」と答えた。

「では貴方はもうこの木簡の事は忘れて戴けようか。吉備の命婦は遠い昔に亡くなられた。廃后と廃太子の死を知る蚩尤(しゆう)なる者は人ならぬ者だった。貴方とは何の所縁も無い」

思いも寄らなかった田村麻呂の言葉に小角は驚いて眼を見開いた。

田村麻呂はその表情を見て笑みを浮かべながら、「貴方はこの粟田に暮らす私の()だ。それが貴方だ」と言った。

出会った藍色の視線を正視できずに小角が再び俯くと「これから貴方を何と呼べば良かろうか?」と問われた。

私には幾つも名があった、と小角は考えた。だがもうそれらの名を名乗ることは有るまい。

己の声が掠れているのを自覚しながら「少将殿の好いように呼んでくれ」

と漸く答えた。

「ではこれ迄通りに鈴鹿と呼ばせて頂こう」

差し伸べられた田村麻呂の大きな手に、小角は手を預け掛けて、今更に躊躇った。

「失望されるかもしれないぞ」

田村麻呂は小角の言葉が呑み込めず面食らった。

「何を申される?」

「私はこういうことに未熟で、不馴れで、(おみな)らしくもない。少将殿には物足りなく思われるのではないかと」

この期に及んでこんな事を述べる等、私はどうかしていると思いながら、小角が俯いて口ごもり勝ちに釈明している間、田村麻呂は広い肩を揺すって笑いを堪えていたが、「貴方は思いの外愛らしい方だ」と言った後、躊躇っていた小角の指先を捉えて大きな両掌で包み込んだ。

「いや、そういう貴方であるからこそ、私は貴方に魅かれるのだろう」

向かい合った田村麻呂の藍色の眼に顔を覗き込まれて、小角は身動きも呼吸も忘れかけた。

「私より長く生き、多くの事柄を見てきたその目に、私が留まったのだという証が欲しい」

大きな両掌が小角の頬に添えられると、麝香草の香りに包まれた。

「我が斎媛よ」

小角が呼び返そうと口を開きかけたとき、田村麻呂が笑みを浮かべて訊ねた。

「それで、何時まで私を少将殿とお呼びになるおつもりか?」

僅かに開いたまま言葉を失った小角の口許に柔らかく触れながら「名は呼んで頂けないものだろうか?」と乞う声が互いの唇に溶けた。

田村麻呂には腕の中の斎媛が、未通女(おとめ)でこそなくても、床慣れないのだとは直ぐに知れたが、寧ろそのぎごちなさが糸惜しく思われた。

小角は、日頃の生真面目な振る舞いしか知らなかった田村麻呂の心様の深さを、今更に知った気がした。

玻璃との閨とは違って神気の交感が無い分、躰の感覚の鋭敏さは確かに増した。

衣越しでなく直に触れる、馴染みの無い骨張った大きな体躯や、金色の産毛の濃い逞しい腕の生々しい熱さに、小角は度々怯み、身を固くした。

その度名を呼ばれ、案じる様に眼を覗き込まれた。

痛みも羞恥も小角の知る交構(まぐあい)の比ではなかったが、あの表情で、あの声で、熱っぽく「この日が待ち遠しかった」等と告げられて、逆らう術など持ち合わせなかった。

田村麻呂の広い胸の裡で眠りに着く頃には、小角が怖れていた違和感は何処かへ消し飛び、神気の交感が無くとも、痛みが刻んだ絆に、ただ安らかな心地がした。


翌一日を二人は荘園を散策して睦まじく過ごし、夕べには田村麻呂は再び長岡の都へと戻って行った。

立ち去り際、田村麻呂は「近衛府の勤務は五日に一度、休日となる。その前日の夕刻には此処へ帰ってこよう。」と告げ、心許なげな小角の顔を覗き込んで「さてその案じ顔は間遠いと恨んでおいでなのか、煩がられておいでなのか、どちらだろう」と笑った。

小角は忽ち唇を尖らせ「煩い筈がなかろう。私は」と言いかけて俯き、懐に抱き取られた。

「名残惜しいのが私だけでないと知って安堵した」と田村麻呂は言い、小角は無言のまま、腕の廻りきらない広い背を抱いた。


田村麻呂は言葉通り、近衛府の休日の前の夕暮れには粟田へ訪れ、小角と二人、忙しない荘園の雑事をこなして休日を過ごし、長岡の都に帰る前の一時を二人で散策するのが習慣となった。

山科では穏やかな天候に恵まれ、夏へと向かう荘園は緑に包まれて尚美しかった。

粟田の夫人と蛍の塚は一面に咲き乱れる黄丹色の萱草の花に覆われ、所々に白百合が重たげに立って花を咲かせ、夏の風が草いきれと共に甘い香りを運んでいた。

花を摘みながら歩いていた小角は脚を止め、暫しその光景に見とれた。

田村麻呂が小角に眼を向けて「高子の望みだったのだ。自分の塚には萱草を植えてくれと」と言った。

萱草は想いを絶ち、憂いを忘れる(まじま)いの花だ。

己の塚になぜそれを?。

小角は田村麻呂を見上げた。

「あの夫人の事を訊いても良いだろうか?。」

田村麻呂はやや面食らった。

「訊いてどうされる。いや、だが、貴方が知りたいのであれば、勿論」

田村麻呂は訥々と語った。

初めて会ったのは平城(なら)の宮の裡だった。

高子は美濃国の采女として宮に献上され、内教坊の教生となったばかりで、私は大舎人として出仕しはじめた頃だった。

出会った時には高子は既に胸を患っていた。

折に触れて言葉を交わすようになったが、公に采女と親しむなどあるまじき事でもあり、如何とも出来ず、ある日、突然宮を辞したと聞いた。

私は諦めきれず美濃まで人を遣って探させたが、杳として行方は知れなかった。

その後、縁合って幾人か妻を得たが、私は高子を忘れることができなかった。

やがて難波の鴻臚館でよく似た伎女を見たと聞き、訪れてみると確かに高子で、鴻臚館に滞在する高麗人の側妾とされていた。

高麗人に渡りをつけ、父に頼み込んで金子を用立ててもらい、私は高子の身を買い受けた。

私はどうしても高子を妻として迎えたかった。

俊哲殿の計らいで、錦織氏の外記の養女として漸くこの粟田に迎えることができた。

だが高子の病は次第に重くなっていった。

田村麻呂は言葉を切って小角に笑顔を向けた。

「東山で貴方に逢ったのはその頃だ。貴方のお陰で、あの後、高子は苦しまずに残る日を過ごせた。言葉に尽くせないほど感謝している」

風が起こる度に、一面の萱草の花が波の様に揺れる風景に眼を向けて、田村麻呂は言葉を継げた。

「高子は忌の際に今が最も幸いであるから、自分の死を悼まないでくれと願った。自分が死んだ後にも、私が悲しまず幸いに生きることが望みだ、だから塚には萱草を植えてくれと。他に望むことはないと言った」

田村麻呂の声音が一時苦しげなものとなり、小角は己の胸までも痛む様に感じた。

「短い日々ではあったが、高子と共に在れて心から幸いだったと私も想う。だからこそ、これからは、私は貴方が共に居てくれる幸いを、日々感じて生きて行きたいと思っている」

田村麻呂は穏やかな笑みを浮かべていた。

小角は心の裡だけで思っていた。

己を忘れてくれと?。

人が死に向かう時に、それが本心の筈は無いだろう。

死に逝く時、心残りこそ在っても、遺していく身近な者に、己を忘れてくれなど思えるものだろうか?。

遺される者の記憶は、亡くなる者が共に暮らし、生きてきた証しであるだろうに。

忘れないで欲しいと願えこそ、忘れて欲しいなどと考えまい。

それは人であれば極当たり前のことで、欲望などとは呼べない純粋な願いだろう。

それでも、かのたおやかな佳人はそう告げたのだ。

死の直前、己の全てを投げ出して己が思う者の為だけを考える、その思いをこそ仏と言うのかも知れないと小角は思った。

玄昉に最後に(まみ)えた時、玄昉は「吾は(なれ)と違って背負う(ほだし)を持たぬ」と突き放す様に、冷ややかに笑ったものだった。

今思えば、私に己の死の予兆を気取られまいとしてだったのだ。

葛城と狼児は望みが尽きて、従容として死に向かった。

真備は最期まで私を案じてくれた。

朝廷に仇成す咎人とされ、非業に死んだ父は、宮子の為に己が命を捨てた母は、死の時、何を思ったのだろう。

栄華の絶頂で病に倒れた不比等は、権力の頂点から凋落し、一族を戦に率いて破れた仲麻呂は、何を、誰を思ったのだろう。

田村麻呂はいつか命尽きるとき誰を思うのだろう。

そして、私は誰を思うのだろう。

小角はかの佳人の蒼ざめた憂い顔を思い出した。

あの女君は、己の死の病を哀しんでいたのではなく、遺される(おうと)の哀しみを憂いていたのだ。

小角は塚の前で瞑目した。

私は常人ならぬ命を生きるが、田村麻呂はいずれ土に還る身だ。

田村麻呂の生ある間だけ、共に居させてくれ。

田村麻呂が浄土に向かう時には、きっと貴方にお返ししよう。

だから田村麻呂が天寿を全うするまでは共に居させてくれ。

「鈴鹿?」

振り向かない小角の背に、田村麻呂が怪訝そうに声をかけた。

胸の痛みを気取られまいと小角は急いで立ち上がり、抱えていた萱草の花から一本を抜き取って手渡した。

「あの方は幸いに逝かれたのだな。この花はあの方を忘れるためでは無く、あの方を喪った痛みを忘れる為に、咲いているのだろう」

二人は眼を見交わし、一度塚を振り返ってから、茜から紅、紫へと深みを増した夕焼けの中を邸へと向かって歩き始めた。

曾布

大和国添上郡の坂上氏の本貫地


別れなばうら悲しけむ ()が衣 下にを着ませ (ただ)に逢ふまでに

夜が明けたなら立ち去らなくてはならないとは、なんと哀しいことでしょう。

せめて私の衣を素肌に纏って、直ぐにまた逢うことを約束してください。


返歌

我妹子(わぎもこ)が 下にも着よと贈りたる 衣の(ひも)を (あれ)()かめやも

愛しいひとが贈ってくれた衣を素肌に纏うのですもの、私の手で結い紐が解かれることは無いでしょう。あなたが解いてくれるまで。


難波の鴻臚館

難波宮にあった客館(外交施設)

平城の都の頃、唐からの使節や商人は、太宰府から海路、難波津へ入り、難波宮を経て平城の都へと至った。

渤海国の使者は日本海を渡って来朝するため、越、近江の客館を経て都へ迎えられていた。

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