第四部 陸奥国 五 真魚
陸奥国 五 真魚
延暦十年(791年)春 二月
翌朝、二人は日の出前に起き出し、身仕度を整えて上流を目指した。
窟までの道程は若い修験僧がつけた行道で、急な斜面を登り、倒木を越え、岩肌の僅かな凹凸を頼りに崖を伝うものだった。
始め、若い修験僧は小角を案じて度々振り返ったが、やがて小角の足取りの確かさを見て、速度を増した。
手先やつま先が漸く懸けられる程の場所も多くあったが、二人は黙々と足を運んだ。
窟は、昔は奥深い洞窟であったものが、落盤で塞がれたものと見受けられた。
入り口からやや入った場所で、不自然に積み上がり、洞窟を塞いでいる岩に手を触れた小角は確信した。
此処だ。
小角は窟の入り口の四方に榊の枝を挿した。
その様子を見て若い修験僧は満足そうに「探しものは見つかったようだな。吾はこのまま滝まで下って行に入る」と言った。
立ち去る背に小角は感謝の言葉を述べた。
念のため前鬼と後鬼を喚び、樹上で周囲を見張らせた。
禹歩を踏んで結界を張り、ひざまずいて錫杖を持つ手を大地に触れ、土地の記憶を聞くために意を凝らした。
「葛城の高宮に居坐します、大御祖迦毛大御神高鴨阿治須岐託彦根命聞こし食せ」
土の感触はそのままに、辺りの風景が焦点が合わない朧なものへと一変したのを見て取り、小角は目を閉じた。
「葛城の加茂の役公小角が宜り奉る。悪事雖而一言、善事雖而一言、言離之神」
幾つもの光景が、同時に小角の閉じた瞼の裏に次々に浮かんでは消えた。
「一言主の理をこの身に降ろし奉り、その顕かなる理の由を持ちて、この大地に記された諸々の事柄をば、今再び標召し給えと、恐み恐みも白す」
顕れては消えていく土地の記憶の中に土蜘蛛の姿を探す内、小さな泉の傍らに立つ、一際大きな体躯を持つ土蜘蛛の姿が眼を引いた。
高丸よりも大柄なその土蜘蛛が洞窟の中で何者かと言い争っている。
不意に焦点が結ばれ、その光景ははっきりと見て取れ、周囲の音と共に言い争う声が聞きとれた。
「何故近江の大君を殺めた」
激しい口調が洞窟の岩壁に反響し、谺が返ってきた。
父の声だ。
年の頃は小角の記憶の中の姿とそう変わらぬ様に見受けられたが、役公の証しである錫杖はその手に無く、替わりに矛を手にしていた。
前鬼と後鬼の姿も無い。
そしてその面は怒りのあまりか、相貌までも変わっていた。
これほど感情に流されている父を見たことは無かった。
湧き水に依るものか、小さな透き通った泉を背に、大柄な土蜘蛛も激していることが見て取れた。
互いへの怒りと憎悪に、洞窟内の空気が歪み、大地の軋む音が聞こえるかの様だった。
「海の向こうの戦に破れたと、都を近江に移し、吉野を盾としようと謀ったのは近江の大君だ」
土蜘蛛の答えに、父は吐き出すように言った。
「讒言だ。誰がその様な事を。大織冠か?。大海人か?。上古に吉野は倭人と関わらぬと定めたと聞いたぞ。それを忘れたか」
大柄な土蜘蛛の、一見盲いているような眼が父を睨めつけた。
「上古に倭人が攻めてきて吉野は部の民を失い、否応なしにこの祖の地に追いやられたのだ。この上吉野の山々を戦で踏みにじられる事を井氷鹿は捨て置けぬ」
父は井氷鹿と名乗った土蜘蛛の背後の泉を指差した。
「では近江の大君を殺めて吉野の滅びが留められたのか。吉野でも新たな土蜘蛛はもう生まれていまい」
井氷鹿は渇と眼を見開き、激しい憎悪に貌を歪めた。
「大地の子等の滅びの源はお前達よ、葛城の。この国に咒術を持ち込み、龍脈を操り、国つ神を虐げ、仏を広めたのは誰であったか、三輪山を葬ったのは誰であったか、高志の滅びの元となったは誰の子であったか、井氷鹿が知らぬと思ったか」
井氷鹿の足元から父に向けて、僅かに生えた苔や草がみるみる枯れ、朽ちて、大地に皹が入り、岩が崩れていった。
さながら、百年、千年の時をかけて行われる大地の営みが、時を凝縮されて繰り広げられているかの様な光景だった。
小角の足元から大地が失せ、小角は現実では無いとわかっていながら、激しい目眩に見舞われ、よろめいた。
不意にがっしりとした手が小角の肩を支えてくれた。
驚いて傍らを見ると、あの若い修験僧が立っていた。
潜めた声が「これは何だ?。汝は幻術でも使うのか」と問うた。
「これは大地の記憶だ。遠い昔にこの地で起こった事柄を見ているのだ」
小角が答えた時、怒りに形相を変えた父の躯は、その足元から噴き出した白い炎に包まれた。
洞窟内が大きく揺らぎ、父の背後から小柄な娘が「八咫様」と叫んだ。
母だ。
若い修験僧は、娘の姿と傍らの小角の顔を交互に見た。
いつの間にか父と母の周囲を土蜘蛛が取り巻いていた。
「倭も葛城も、世継ぎを失い滅びるが良い」
呪詛の言葉を吐いた井氷鹿の姿はみるみる土蜘蛛の姿を捨てた。
そこにはただ、闇の様に黒い障気が渦巻いて在った。
荒御霊だ。
井氷鹿自身が吉野の国つ神だったのか。
吉野は土蜘蛛の住まう国だったのだ。
そして井氷鹿の言葉から察するに、上古には葛城もそうだったのだ。
白い炎は父の背後で孔雀の尾羽を形作って伸び、広がり、明王の光背の形を成した。
「御 摩訶 摩瑜利 来覧禰 訴我乎」
父が梵語の真言を唱えると同時に、辺りは白い光に包まれ、障気は一度、井氷鹿の姿に結ぼれかけ、断末魔の声と共に霧散した。
湧き水の泉は干上がっていた。
周囲の土蜘蛛が一斉に呻き声を上げ、おらび哭く声が辺りに満ちた。
大地は大きく揺れ動き、洞窟の天井の岩が崩れ始め、その途端、土蜘蛛達は父と母に襲い掛かった。
母の手を引いて洞窟から脱する父が水気を喚んだのが小角にはわかった。
洞窟の入り口に群がる土蜘蛛達めがけて、天を裂いて幾条も雷が落ち、父は襲い来る土蜘蛛に対峙して矛を奮っていた。
母が「八咫様」と呼ぶ声に振り向くことすら無かった。
その形相を見て小角は戦慄した。
これは到底己の知る父では無い。
井氷鹿は姿こそ失っても、その地霊としての影響力は依然として周囲に満ちている事が感じ取れた。
今一度、激しい地鳴りと共に大地が揺れたと見るや、父と母の足元の大地が割れた。
洞窟のあった岩壁の上部に亀裂が走り、激しい勢いで水が吹き出した。
水の勢いは内側から殻を砕く様に岩壁を割り、激流となって二人の頭上に襲いかかった。
母が何か叫んでその小柄な躰ごと、父にぶつかっていき、谷へと身を踊らせた。
小角の眼が見開かれ、衝動的に何か叫んで、父母を追うために駆け出そうとして、力強い手に引き留められた。
「落ち着け、汝は先程、此は過ぎ去った事だと言わなんだか」
若い修験僧の言葉に、見張られたまま、見るべきものを失っていた小角の眼の焦点が合い、焦燥に駆られて逸っていた胸の鼓動は急速に鎮まっていった。
呼吸が整うまでの暫しの間、混乱した頭の隅で、小角はこの若者が傍らに居たことに感謝した。
「御坊が居てくれて良かった。どうやって此処へ来た?」
小角が訊ねると、若い修験僧は頭を掻きながら「それが解らん。吾は昨日の汝の教示について、樹下で考えていた筈なのだが、気づいたら此処に居た」と言った。
小角は微かに笑った。
「そうだったか。では私の術が御坊の意を捲き込んでしまったのかも知れない。済まないことをした」
その笑みが苦しげなのを見て、若い修験僧は小角の肩に手を置いて「汝に瓜二つであったな。縁者か?」と訊ねてきた。
小角は小さく頷いて「母者だ」と答えた。
若い修験僧は突然思い当たったらしく、「よもやと思うが、汝、娘か?」と訊ねた。
小角が事も無く「そうだ」と答えると、熱いものに触れたように肩から手を外した。
「そういうことは早く言え」と苛立たし気に言った後、「いや、まあ、そんなことはどうでも良いか」と付け加えた。
濃い眉をしかめて言葉を探しながら「汝は生まれながらに人ならぬ力を持つ者なのか。あの異形の者達は何だ?」と訊ねられて、小角は暗い面持ちになった。
「私は滅び逝く国つ神の民の生き残りだ。先程の異形の者達は、私の一族では土蜘蛛と呼ばれていた」
これまで己は高志や葛城の国の滅びた理由を、倭の朝廷が版図を拡げようと隣国への侵攻を目論んだ事によると捉えてきた。
だが見方を変えれば、葛城の民も同じように、先住の民であった土蜘蛛を蹂躙して繁栄を築いたようなものなのだ。
しかも土蜘蛛の祖の地を滅したのが己の父だったとは思ってもみなかった。
葛城の民の行いと倭朝廷の行いに、どれ程の違いがあるというのか。
若い修験僧は小角のうちひしがれた表情を見遣って黙していたが、突然思い出した様に大声をあげた。
「おい、汝はいま、『吾の意を捲き込んだ』と言ったな?」
小角は何事かと若い修験僧の顔に眼を向けた。
「ああ、言った。御坊の意が迷い込んだものかも知れぬが。いや、それはあるまいな。私は結界を張っていたし」
若い修験僧は眼を剥いて、小角が皆まで言い終わらぬうちに、言葉を被せてきた。
「吾は今、汝と意を共にしているのか」
その事かと小角は笑みを浮かべた。
「そういうことだ」
「解脱したという事か?」
小角は少し考えてから「そう言っても差し支えなかろうな。み仏の解く解脱とは違うものだが」と答えた。
「御坊は、私が結界の中で大地に刻まれた記しを読んでいたところに顕れたのだから」と言葉を続けかけて、はたと気づいた。
私は倶有の種子を体得するに到っていない。
とすれば、この若い修験僧自身が結界に踏み込んで来たものか。
導く者も持たず、持って生まれた才のみの為すところとすれば大したものだ。
若い修験僧は、何か違いがあるものかと言わんばかりに、己の手などためつすがめつしていた。
小角は「結界を解くぞ」と注意を促した。
若い修験僧はあれこれ問い返さず、小角の言葉に眼を上げて、ただ「そうか、吾はどうすればよい?」と問うた。
こういう聡さも才の顕れだろうが、その分、人からは誤解を招きやすいのだろう。
「眼を閉じて、緩やかに呼吸してくれ。先程まで居た場所を出来うる限り鮮明に思い描け。辺りの光景は?、周囲の音は?、そこは暖かだったか?。躯に何が触れていた?」
小角の言葉が進むにつれ若い修験僧の姿は朧に霞み始めた。
何と呑み込みの早いことよと小角は感心した。
狼児はむろん、神守りである玻璃でさえ、己の意思で意を操る事は難しかったものだが。
元より並外れた才があり、一度受け入れた事には素直であるからなのだろう。
若い修験僧の姿が失せた後、小角は結界を解き、前鬼と後鬼を呼び戻して辺りを見回してみた。
大地の記憶で見た光景は、まさにこの場所で起こった事なのだと思うと不思議な気がした。
大地が割れ、父と母が谷へ落ちた場所は、今も切り立った崖ではあるが、緑に覆われ、捩れた姿ながら木々も生えている。
父の言葉や母の年頃から察するに、あれは壬申年の戦の直前の出来事だったのだろう。
あの後、何がどうなったものか、小角には推し測る気力も無かった。
少なくともあの後、父も母も無事難を逃れ得たのだろうが、荒御霊と化した井氷鹿と土蜘蛛の気配は今の吉野には残されていない。
滅してしまったのか、完けく滅ぼされてしまったものか。
だが井氷鹿の言葉を鑑みるに、己の一族が葛城に国を築き、一族から出た蘇我氏がみ仏の教えを広め、父が国つ神の力を孔雀明王呪で括る術を編み出した事が、大地の力の、引いては土蜘蛛の衰退を招いたということなのだろう。
そして他ならぬ父が、吉野の土蜘蛛の生まれ出る地を滅したのだ。
おそらくあの湧き水の泉がそうだったのだ。
小角が崖を伝う様に下り、滝まで戻ると、若い修験僧は山桜の根元で座して物思いに耽っていた。
若い修験僧は歩み寄る小角に気づいて眼を開け、真摯な声で「ああいった力は仏道修験でこそ得られるものだと思っていた」と言った。
小角はその眼差しを受け止めて、考え考え答えた。
「意の集中を図るのに仏道修験が効率が良い事は無論だが、意の流れを読み、動かすすべを知れば、後は集中力を上げる事で誰でも在る程度は意を操れよう。性別も生まれも関わりない。尤も一人一人の持つ才というものもあるので、力の強弱に差は出るだろうな」
腕組みをして考え込んだ若い修験僧の姿を眺めながら「唱える詞も、別に真言で無くとも良いが、何と言っても真言は意を集中しやすいからな」
と言葉を結んで滝を振り仰いだ。
この地形はあの出来事で山肌が滑落して出来たと思われた。
父と母はあの後、この場所辺りへ落ちたか流されたかしただろうか。
小角の複雑そうな面持ちに眼を向けて、若い修験僧は「見つけたものは汝の望んだものではなかったのか?」と訊ねてきた。
小角は苦く笑って「探していた答えは見いだせたが、おかげで打ちのめされた気分だ」と答えた。
小角が土蜘蛛と葛城の関わりと衰退について語る間、若い修験僧は眉根を寄せ、腕組みをして黙したまま聞いてくれた。
「国つ神の守り手の血筋である父が、あんな事を成したなど」言い澱んで言葉を見つけられず、小角は項垂れた。
若い修験僧は腕組みをして唸りながら、「吾には想像もつかぬが、汝が知らぬところで、それなりの経緯があったのではないか?」と言った。
確かに、己が葛城王と宮子、阿倍内親王に親しんだ様に、父は近江の帝と親しんでいたとは聞いていた。
「喩えそうであったとしても」
小角がぽつりと呟いた声は心許なかった。
「国つ神の民である葛城の民の行いが国つ神の衰退の源だった等、私は考えても見なかった。過ぎた事とは言え、父が、一族が侵した取り返しが付かない過ちをどう償えば良いのだろう」
暫くの沈黙の後、若い修験僧は口を開いた。
「それは汝が責めを負う事ではあるまい」
小角が眼を上げると若い修験僧の真摯な眼差しに出会った。
「国の衰退も、民の滅びも、永き時と共に遷り往き、繰り返される営みということだろう。人一人がそれを過ちだの償うだの、寧ろ不遜な事だろう」
その声は深く豊かに、小角の心に響いた。
「逆から考えてみろ。汝は滅び逝く同胞を見守る役目を負い、常人ならぬ力を持ち、永く生き、只一人生き残った故に、それに気付いてしまっただけであろうよ」
小角の困惑した表情を見た若い修験僧からは、穏やかな笑顔が返ってきた。
「今日此処で汝があれを見、知ったという事は、即ち事の興りを知った事で汝の役目は終わったのだろう。汝はもう心のままに生きれば良いのではないか?」
その笑顔に小角は胸を衝かれた。
「してみれば限りある命であることにも意味があるのだな。限りある命であれば人の識はその生が終わるとき散華するのだから、善き事も悪しき事も、所詮は人の命の限りしか続かぬということだ」
若い修験僧は感慨深い声で続けた。
「善き事も悪しき事も、所詮は人の命の限り、か。そうだな。そうかも知れない」
小角はその言葉に、心が穏やかに鎮まっていくのを感じた。
葛城へ帰ろう。
誰の目にも触れぬように、誰も脚を踏み入れぬように結界を強め、高宮を閉ざすのだ。
「私は明日此処を発つ。邪魔をして済まなかった。御坊のお陰で気が楽になった」
若い修験僧は小角の表情を見遣って、頭を掻きながら言った。
「吾はこの事を胸に秘めて忘れぬとしよう。吾は明経科にあっても儒教よりみ仏の教えに強く惹かれてきた。明経博士もそんな吾を見て、写経を薦めてくれたのだが、幾ら写経を重ねても心は定まらなかった。だが汝の話を聞いて確信を得た。この国でも、み仏の教えは他の信仰を凌いで人心を集めるに至ったのだ。吾の進むべき途を漸く見いだせた心地がする」
翌朝、若者は清々しい笑顔で小角に別れを告げ、官人風に袖を合わせかけ、所作を改めて掌を合わせ深々と礼をした。
「吾は大学寮に戻ろうと思う。汝に会って、真言も経典も吾の学び方が足りぬのだと良く解った。儒教を学ぶ事も、同じように己が得心するまで極めたいと思う。良き一会に感謝する。いつか時が来たら、再び山野に出るとしよう。まだ名乗ってすらいなかったな。いずれ捨てる名だが、吾は佐伯直の者で名を真魚という」
「真魚か、佳い名だ。私は」
言いかけた小角を真魚は手振りで押し留めた。
「名乗るな。力在る者に出会った。其だけで良い。名を知られぬ方が汝の為になるのだろう?。もうあれこれ考えるな。汝は汝の生きる途を探せば良かろう。平穏な暮らしを願っているぞ」
山桜の傍らに立つ真魚に片手を高く挙げ、小角は振り向かず山道を下り、金峯山から山づたいに西へ向かった。
小角は九年ぶりに大和国葛城の高宮に立ち戻った。
下草に覆われそうな杣道を辿って葛城山を登り、社の前で立ち枯れ、傾いている大銀杏を見上げた。
大きな野分が来れば、倒れて社を壊してしまうかも知れないと案じ、枝を落として、辺りの樹に縄を渡しておいたのだが、やはり大風で傾いたのだろう。
梢の高さは半分程になり、今は幹に注連縄が張られていた。
修験に入った近在の寺の僧達や、高宮辺りの山樵達が炭焼きの合間に手を入れてくれたのだろう。
社の奥、結界の裡の庵は静まり返り、降り積もった埃が不在の長さを物語っていた。
父の錫杖は、もうここに置いていこう。
こんなに長く葛城を出ていた事は無かった。
そしておそらくこの先も長く戻らないだろう。
葛城の山々にいまだ神気が残るのは、役公の言い伝えが語り継がれ、それを崇める人々がまだ居るからなのだろう。
これまでも、時おり葛城山での修験を望む私度僧などもいた。
だがそれも時の流れと共にやがては失せる。
小角は社と庵を掃き浄め、己も水ごりをして明日に備えた。
明日、大銀杏を斬り倒そう。
翌日、小角は前鬼と後鬼を喚び、辺りの下生えを払い、手斧で傾いた大銀杏を倒した。
残った根株に注連縄を巻き直すと、雑木林の境界が切り取られたように、そこだけ陽の光が満ちた。
鳥達が春の歌をかしましいばかりに囀ずっていた。
頚を廻らして辺りを見回すと、前鬼と後鬼が一本の若木の前に立っていた。
銀杏の若木だ。
何処から生えたものだろうか。
「母刀自が居た」
表情の無い前鬼の貌を見上げ、小角が「何時だ。どれ程前に?」と訊ねると、前鬼は「月が四度廻った」と答えた。
四月前と言えば神嘗祭の頃か。
「また去ってしまったのか。」と呟くと、前鬼は「お山に母刀自は居ない」と答えた。
いつか葛城の国つ神が滅する時には母刀自も失せるのだろうか。
小角は性の無い前鬼と後鬼の貌を代わる代わる眺め、高丸を思った。
前鬼と後鬼はその性を取り戻したら、どうなるのだろう。
上古に葛城の山々への信仰を約して、役公がこの地の国つ神を取り込んだ故に、従者となり生き永ら得た二人だ。
国つ神が衰退したら、今在る土蜘蛛も滅するのか、或いは属する国つ神の括りを失って荒御霊となるものか。
いずれにせよ高丸の様には生きられないのだ。
玻璃から譲り受けた真鉄の呪具は三宝に奉したままにされていた。
小角は手にとって埃を払い、暫く躊躇い、再び三宝に奉した。
若し国つ神が滅びるのであれば、それは時代の衰盛によるもので避けられない事なのだ。
百歳の後か、二百歳の後か、いつになるかわからないが、その日を、前鬼と後鬼と共に待ち、性を取り戻した時、人に仇なすならば共に滅びよう。
国つ神の消滅の予感は正しかった。
国つ神への信仰はみ仏への信仰へと移り変わるのだ。
土着の神は土蜘蛛と共に、滅びの道を辿るのだ。
父が己に役公の力の総てを伝えなかった理由が、今は解る気がした。
異能の力は、強ければ強いほど、司る者が感情に負けた時、厄をなすと身を持って知ったのではあるまいか。
玄昉が私に海龍王経で得た力について語らなかったのも同じ理由かもしれない。
葛城の民も賀茂の民も今や朝廷に馴染み、倭人として穏やかに暮らしている。
今生きる者で私を覚えている者は、片手で数えるほどしか居ない。
嘗て行表が言ったように、私の役公としての役目が終わる時が来たのだ。
真魚の様に物事を自由闊達に捉えながらも、人智を超えるものへの敬意を忘れない男君も居ることだ。
この大八洲国が倭人の国となるのを見守るのも悪くないかもしれない。
小角は庵の結界を強め、銀杏の若木の四方に弊を立て、杣道をたどり、振り返る事無く葛城山を降りた。
大和国は花の盛りとなっていた。