表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六月  作者: 賀茂史女
31/53

第四部 陸奥国 四 吉野

延暦十年(791年)春 二月

小角は髪を結って袴に筒袖の上衣を着込め、足結(あゆ)いを高く取って麻鞋(しかい)を履き、笈に荷を背負い、錫杖を持ち、渡りの丹生部の様な出で立ちで、粟田を出た。

この姿でなら、(おみな)と気づかれずに済む上、大和国では珍しいものでもなく、宿を借りるにしろ、何か訊ねるにしろ、様々に都合が良い。

小角は粟田から山づたいに南へ向かい、いつかのように井手で夜を過ごした。

翌日は東大寺の屋根の鴟尾(しび)の金色の煌めきが垣間見える山中で眠った。

三日目の夕べを石上社で過ごすと、翌日には三輪山が臨まれた。

その日は女と気づかれぬ事を幸いに、龍蓋寺の僧坊を借り、ひっそりと義淵の廟に詣でた。

ここから山田道を辿れば、その日の内には葛城山に着くが、南に向かえば直ぐに金峯山だ。

小角は翌朝、吉野の峯へと脚を踏み入れた。

木々は芽吹き、春の花が次々とほころび初め、虫も鳥も、忙しなく飛び交っていた。

下草に埋もれかけている杣道には横切る獣の足跡が多く見られ、藪の中でも樹の梢でも、獣の気配がした。

金峯山と一口に言っても目当ての場所が在るでもない。

田村麻呂は、木簡に読み取れた文字はただ「金峯山在土蜘蛛」だけだったと言った。

以前、葛城から近い奥吉野辺りを探した時もそうしたように、小角は山の気の結ぼれている場所を探し、片端から土地の記憶を聞いた。

土地の旧い記憶の中に、確かに土蜘蛛の姿はあったが、部の民とおぼしき人の姿は無く、集落の痕跡も見付けられなかった。

前鬼と後鬼に「今夜寝む場所を探すとしよう」と声をかけ、目についた酸葉や野菊、芹などの葉を摘みながら沢を辿った。

小角は、何か見当違いをしているのではないかという疑いを抱き始めていた。

もう一度高丸が言った事をよく考えてみるとしよう。

陽が傾きかけた頃、突然沢沿いの雑木林が開けて、滝が姿を現した。

山の南斜面の沢の畔に、日当たりの良さからか、早くも花を着け初めた山桜の大樹があり、その傍らに焚き火の跡があった。

滝壺に人影が垣間見え、小角は脚を止め、前鬼と後鬼を懐に喚び戻した。

こんな山中で滝に打たれるなら修験僧だろう。

行の間にどこかで集落の跡でも見ているかもしれない。

山桜の根元には山梔子色の僧衣が畳まれてあった。

小角は枯れ枝を集め、火を起こして滝壺の人影が行を終えるのを待つことにした。

水を汲んだ土師器に摘んだ菜を入れ、焼いた石を入れて、煮えた所へ(ほしいい)を振り入れ、固めた醤を削り入れると空腹に胃の腑が鳴りそうだった。

やがて滝壺から上がった修験僧は、水の滴る浄衣を脱いで絞り、再び着込んだ。

焚き火の傍らの小角に向けられた挑む様な眼差しと濃い眉、引き結んだ厚い唇が意思の(こわ)さを物語っていた。

その身に纏う神気の高さがそう思わせたものか、若い修験僧と眼が合った時、小角は再び若き日の狼児と相対して居るような錯覚を覚えた。

歩み寄ってきた若い修験僧は小角の手元の土師器の椀を覗き込み、出し抜けに「渡りの丹生部かと思ったが、(ほしいい)なんぞ持っている所を見ると、どこぞの子弟か?。何を好き好んでこんな山中に来た?」と言った。

小角は「探し物だ」と答え、続いて「椀はあるか?」と訊ねた。


若い修験僧は一椀の粥をあっというまに平らげ、「とうに午の刻は過ぎているが、戒律に障るのではないか?」と言いながら小角が差し出した干し肉を「吾は受戒前だ。それどころか頭を丸めたのはつい先日だ」と平然と受け取り、むしっては頬張った。

(なれ)は贅沢な糧食を持っているな。鹿肉なんぞ、宮に居ても滅多に口に入らん」

宮という言葉に小角は意外なものを見る眼になった。

「御坊は宮に居たのか?」

小角の問いに若い修験僧は事も無げに「ああ、親王の許に二年居て、今年大学寮に入った」と答えた。

「大学寮?」

年若で不躾なこの修験僧が学僧とは到底思えず、小角は頓狂な声で問い返した。

「飛び出してきたのよ」

若い修験僧はふんと鼻を鳴らしてせせら笑った。

「写経ばかりさせられて、座り詰めで尻から根が生えるかと思った。性に合わん。母方の叔父御が親王の侍講でな。その薦めで明経科の学生(がくしょう)になったがまったく月日の無駄だった」

納める税が減るからと子を僧侶にしたい親は多く在るが、大方は得度する当てなど無く、乞食(こつじき)に明け暮れる私度僧となり、巷に溢れているというのに、恵まれた学生の座を捨てるとは、また欲の無い事だ。

そう言えば狼児が幼い沙弥の頃、同輩から虐められて龍蓋寺から逃げてきた事があったと小角は懐かしく思い出した。

思わず口の端を歪めて笑いを堪えながら

「厚かましくして明経博士(みょうきょうのはかせ)に疎まれたのだろう」と悪戯(わるさ)する童子のように言った。

若い修験僧は小角の言い様が気に触ったらしく、憮然として「(なれ)の方が厚かましかろう。童子(わっぱ)の癖に偉そうに。吾はもう十八ぞ。年長者を敬えと教えられて来なかったのか。吾は博士からは気に入られておったわ。同輩の連中に我慢ならなかったのよ」と捲し立てた。

もう少し歳が行っているのかと見えたが、まだ十八かと小角は感心した。

歳より長けて見えるのは、この修験僧がそれだけ学を積んだ証だろう。

だがこうして語ってみれば成る程まだ稚いところもありそうだ。

「あそこの連中は学びたくて学生になったのでは無い。考える事といえば人を蹴落として、あわよくば得業生にならんだの、明経試を経ずに官位を得ようだの、出家して内道場(うちのどうじょう)にでも入らんと、そんなことばかりよ。大唐に赴くなど真っ平だなぞと平然と口にする。呆れたものだ。そのくせ人の無知無明を嘲笑する。人は無知無明で在るからこそ途を探し求めるというのにだ。だから連中に、まず己の欲を見よと言って宮を出て来たのだ」

若い修験僧の剣幕に小角は更に笑いを堪えた。

まるで若き日の狼児と共に居るようだ。

「御坊にも欲はあろうに」

笑いながらもう一枚干し肉を差し出した小角の手から、引ったくるように干し肉を奪い取って、若い修験僧は無頓着に言い放った。

「欲など人なら有って当たり前だ。腹が満たされても干し肉を見れば喰いたくなる。清らげな女を見れば伴寝したくなる。(なれ)も、もうその歳なら解ろう。生きている証しのようなものだ。だが人は己の欲には気づかぬものよ」

小角に向けられた眼が、生き生きと輝いた。

「吾にとっては、見い出したいという欲が生きている証しだな」

その顔に屈託の無い、おおらかな笑みが浮かんだ。

(なれ)は探し物に来たと言ったな。吾も探しているのよ。だが吾の探しているものは大学寮では見付かるまい」

若者は愉快そうに言葉を継げた。

「吾の叔父御は阿刀氏の出でな。事有る事に玄昉僧正を引き合いに出すのだ。吾を大唐に渡らせようと大学寮に薦めてくれたが、あんなところに居ても得るものなど有りはしない。山野に在った方が余程為になりそうだ」

在りし日の行基と玄昉の口争いを小角は思い出した。

玄昉は唯識を極める事で阿頼耶識(あらやしき)へと辿り着こうとしていた。

行基は、教義は実践する智識(信者)を得て、その暮らしに根付いて初めて意味を成すと信じて疑わなかった。

道昭の許でも義淵の許でも、二人は顔を合わせれば口争いをしていたものだ。

「学ぶより体現か。行基の様になりたいのか?」

若い修験僧は焚き火に目を落とし、落ち着いた声で言った。

「行基菩薩か。確かに大したお方であったろうが、吾は誰かを救いたい訳でも何かを作りたい訳でも無い」

焚き火越しに、若者の挑む様な眼差しが向けられた。

陽は吉野の峰に沈みかかり、辺りは暗くなりはじめていた。

「只彼岸を知りたい。其だけよ。吾の目指す処が其処であるのか、確かめたい。吾が得たいのは識(知識)ではない」

その声音の真摯な響きに小角は胸を衝かれた。

「御坊は何を探しているのだ」

若い修験僧は干し肉を平らげて、大きく伸びをし、僧衣を着込んだ。

(なれ)に言って解るものかな。般若(知恵)というものだ。もう陽が沈む。薪が尽きると夜は寒くて叶わぬ。(なれ)も此処で夜を過ごすなら薪を拾うのを手伝ってくれ」

促されて立ち上がりながら、この若者は面白い、般若とはまた大きく出たものだと小角は思った。

二人は薄暗がりの中、薪にする枝を拾い集め、再び焚き火を挟んで座した。

若い修験僧は踊る火を見ながらぽつりと呟いた。

「蒙昧も愚も、疎んずるのは容易いが受け入れるのは難き事よな。そもそも何をもって誰が他者を蒙昧であるとか愚であるとか決めるのだ。己の事なら良く解るがな。吾は己は正に蒙昧と愚を体現していると思う。学ぶ事に恵まれた大学寮に在っても、途が見出だせぬと焦りばかりを感じていた」

「それで般若を得たいのか?」と小角が問うと、若い修験僧は頷いた。

「真に悟りが開けて彼岸へと向かえるなら、途を進むに当たって迷う者など居る筈もない。誰もが途の途中で、この途が真に悟りへの途であるのかとの不安を抱えるのよ。無論吾も然りだ」

夜空を見上げた若者の面差しが柔らかくなり、彼岸を思ってか、声音に憧憬の響きが乗った。

「言ってみれば吾らは己の一生という巻物を見ているようなものだ。過ぎ去った事柄と未だ来たらぬ事柄は巻かれてあり、見えるのは(いま)在る事柄だけというわけだ。巻かれてしまえば過ぎし日を忘れ、これから起こる事柄は開いてみねば見えない」

この若者は己の身の内に秘められた力を知らないのだ。

私の眼には覆い隠しようもなく見える神気だが、当の本人が気付いていないので顕現していないものか。

いつぞや見かけた行表の弟子と同じく、覚醒(めざめ)れば、或いは狼児を超えるかも知れないが。

小角も夜空を見上げてみた。

中天に青く輝く風星を認め、小角は若い修験僧に眼を戻した。

「般若か。心経にはその真言が明記されているではないか」

小角の言葉に、若い修験僧は、やくたいもないと毒づいた。

「何が真言だ。あんなもの。いくら唱えた所で何も起こらん」

小角は思わず破顔した。

「御坊はあれを唱えさえすれば悟りの境地が開けると思っていたのか」

図星を突かれて言葉に詰まった若い修験僧の顔が歳相応になったのを見て、小角は堪えきれず笑いだした。

「何が可笑しい。心経にはそう書かれているのだぞ」

腹を抱えて笑う小角に、若い修験僧はむきになって言い返してきた。

小角は笑いすぎて出た涙を拭いながら漸く言った。

「いや、まあ、そう考えても強ち間違いでもない。あれは、悟りへの賛美の真言だ。唱える事で意が集中すれば般若をも得られるかも知れぬな」

突然若い修験僧は立ち上がり、眼を見開いた。

「今なんと言った?」

小角の顔に穏やかな笑みが浮かんだ。

「心経に書かれているのは悟りの境地へ至った者を褒め称える賛美の言葉だ。だから、その賛美の言葉を音に出して繰り返し、強く思い描く事で意が高まれば、般若を垣間見る事が出来るかも知れない」

「それはつまり、どういう事だ」

「心経は、仏陀と弟子達が瞑想を共有している時に、舎利佛子(シャーリプトラ)(知恵の卓越する仏陀の弟子)の問いに、観自在菩薩がこの世の在り様と人の意の関わりを説いてくれたという、謂わば説話だ。説話の形で般若を定義する経典と言っても良かろう。玄奘三蔵からこの経典を受け継いだ道昭は、そこに唯識の原点を見いだし、この経典を広めたいと願った。なぜならそこには救道者への道標が記されているからだ。唯識を体得できずとも、意を共にする喜びは万人に理解できるからな」

「意を共にする?。つまり(くう)ということか?」

「空の入り口のようなものだな。山を目にした時、歳を経た大樹を前にした時、大仏の前に額付く時、誰もが敬虔な気持ちに打たれるだろう。人の意が大きく動く時、その場に居る人々は「我」を忘れ、意を共有する。そして意を共有している事そのものが大きな喜びとなる。あの真言の意味する所は、彼岸へ渡った者の喜びを共有する事で、後に続く者達への道標とする為のものだ。私は梵語を僅かしか知らないが、

羯諦(ガテー)(往ける者よ) 

羯諦(ガテー)(往き着きし者よ) 

波羅羯諦(パーラガテー)(迷妄を超え 悟りの彼岸に往きたる者よ) 

波羅僧羯諦(パーラサンガテー)(彼岸に全けく往き (さら)されし者よ) 

菩提(ボーディ)(覚醒(めざめ)し者を)薩婆訶(スヴァーハー)(褒め称え奉らん)

だろう」

若者は暫く繰り返し口の中で何事か呟いた。

「そうか、そうだったのか。つまり真言を強く思い描く事で、意を拡大させ、他者と共有できるということか」

「唯識で謂う倶有の種子(くゆうのしゅうじ)を通じて、な。謂わば空の入り口を垣間見るようなものだろう」

若い修験僧の真摯な眼差しがひたと小角に向けられた。

(なれ)は何者だ?。只の丹生部ではあるまい」

小角は微かに笑った。

「私は特に何者でも無い。だが私の父は初め慧灌に師事し、道昭に学び、義淵からも教えを受けた。道昭と義淵は私の師でもあった」

若い修験僧にはその言葉の意味する所が理解できたらしく、更に驚愕の表情になった。

「童子の姿は仮のものなのか?。なぜ此処へ来た?。吾と出会ったのは偶然なのか?」

若者の率直さに小角は笑みを浮かべた。

「私には偶然だが御坊には必然だったかも知れぬな。ただ永く生きているというだけだが私の口説が何かの役に立ったならば幸いだ。私は国つ神の民の足跡を求めて此処へ来たのだ。御坊はこの辺りで村落の跡を見ていないだろうか?」

若い修験僧は暫く考え込んで「村落の跡は見ていないが、滝の上に(いわや)は見たな。陽が昇ったら案内しよう。」と言った。


眠りに落ちる前、小角は高丸の言葉を思い出していた。

「吉野の山には古き力在る国つ神がおわしまして、その国つ神を守る土蜘蛛の一族が住んでいると聞いている。」

吉野の山の力ある国つ神とは何だろう。

大地や山を象徴すると言えば、国常立神か大山咋神か。

高丸は部の民が居るとは言わなかった。

私は部の民が居たのだと思い込んでいたが、それがそもそも思い違いだったのだ。

此処では土蜘蛛達自身が国つ神を守っていたのだ。

「その地は土蜘蛛の(みおや)の地だそうだ」

土蜘蛛の(みおや)の地とは、あるいは土蜘蛛が生まれ出る地と言うことか。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ