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六月  作者: 賀茂史女
30/53

第四部 陸奥国 参 踏歌

延暦十年(791年)初春

その日、全く手を付けることができないまま夕餉の膳が下げられた後、小角は人麻呂から、坂上の君が訪れたと告げられた。

廻廊へ出ると、田村麻呂が固い面持ちで立っていた。

「今から共にお越しいただけようか。もう起き上がる力が無いようだと河鹿が報せてきた。斎宮頭には断りを入れた。朱雀門で河鹿が(からたち)を連れて待っている」

青ざめた顔の小角を鞍の前に乗せ、田村麻呂は造営中の北苑から都を出て、粟田まで鳥が翔ぶように一直線に(からたち)を駆けさせた。

粟田の屋敷では、蛍は他の馬達とは別の厩で、筵の上にその躯を横たえ、浅く短い息に腹部を僅かに上下させていた。

手燭の灯りと共に厩に入ってきた人影を見ようと、蛍は目だけで追ってきた。

人影が小角である事に気付いたらしく、頚を持ち上げようとしたが僅かに頭を起こせたのみだった。

小角は駆け寄って膝を付き、踞って蛍の頚を抱き取った。

病で無いことは小角にも知れた。

小角が蛍と共に陸奥国を出て、既に十八年が過ぎていた。

天寿なのだ。

無事に仔が産めたのは暁幸だった、いや、田村麻呂と河鹿がこまやかに気遣ってくれたからこそなのだろう。

産屋に用意されたとおぼしき広い厩には綺麗な藁が積まれ、蛍の立てない躯を労うて幾枚もの筵が敷かれ、水を吸わせる為の布を入れた水桶が置かれていた。

少しでも食べさせようと用意されたものか、浅い盥には煮た(ふすま)が入れられていた。

綺麗に整えられた蹄が、どれだけ蛍が大切にされていたかを物語っていた。

己ではこんなにしてやれなかったろう。

小角は蛍の頚を擦り、頬擦りをした。

暖かだった大きな躯の体温が、今は感じられなかった。

不意に蛍の頚の重みが増した。

もう自身では頭を支える事もできないのだ。

息が不規則になり、濡れた目は動きを失った。

一息吸った呼吸を最期に、蛍の全身から力が抜け、緩んだ。

玻璃が己の思いとして、形にして残してくれたのは蛍だけだった。

蛍が居ることだけが玻璃との日々が現実(うつつ)に有った事の証だった。

それらを越えて、陸奥国から帰って以来の年月を共に暮らした蛍は、小角にとってかけがえのない家族だった。

哀しい時も嬉しい時も傍に居て、目を見交わせばそれだけで心が温もった。

胸が抉られるようだ。

立ち上がる事すら叶いそうにない。

それなのに、涙は出てこない。

小角は息を引き取った蛍の頚を抱いたまま、振り向かないで言った。

「少将殿、これまで世話をかけた。蛍に良くしてもらって、感謝しても仕切れない。蛍は幸いだったろう」

その肩は微かに震えていたが、田村麻呂には小角が泣けないのだと知れた。

飯高の大刀自は、この方は独りで哀しみを呑み込んでしまうと仰せだった。

独りで生きるために、何事も無いかのような(おもて)を装い、哀しみを押し込めてきたものだろう。

(おもて)など外してしまわれればよい」

田村麻呂は小角の傍らに膝を付いた。

「心まで隠されることはない」

小角は何を言われているのか理解できないまま、田村麻呂を降り仰いだ。

「貴方の背負うものが如何に重くとも、嘆きは尊いものだ。押し隠さずに、心の動くままに嘆かれれば良い」

小角の眼が見開かれた。

「嘆く事が苦しくても、嘆いた後には心は軽くなる筈だ。涙に癒される事で貴方を咎めるものなど誰も居ない」

田村麻呂の大きな掌が延びてきて小角の(つむり)を包んだ。

見上げた小角の顔が歪み、その眼に涙が浮かんだ。

「泣きたいだけ泣かれれば良い」

小角の頭を引き寄せ、懐にその小さな躰を収めたとき、田村麻呂は漸く、この小柄な斎媛と会う度にいつも自分が感じていたもどかしさに気づいた。

こうしたかったのだ。

小角は口を開こうとしたが、発した声が言葉になることはなかった。

喉の奥から熱く焼ける様な痛みが拡がるのが解ったが、その熱に逆らう事は出来なかった。

止めるにも止められず、吐き出そうにも思うようには出てこない涙と嗚咽が、痛みと共に悲鳴のように喉を焼きながら漏れてきた。

田村麻呂の大きな掌が小角の(つむり)を撫でる度に、後から後から嗚咽は沸いてきた。

「もう誰も居ない。天狼も、玄昉も、葛城も、狼児も、真備も、諸高も、蛍まで逝ってしまった。私だけが置いていかれる。私は見送ることしかできない。また独りだ」

田村麻呂は頑是無い童子を宥めるように、泣いている小角の小さな頭を顎の下に抱え込んで、しゃくりあげる背中をゆっくり、小さく、同じ間隔で撫でた。

「蛍の代わりは勤まるまいが、私が貴方の傍に居よう」

俊哲殿に揶揄された通りだと田村麻呂は思った。

どう言い繕った所で、私はこの方を手離したくないのだ。

「蛍はここで葬らせて頂きたい。(からたち)も仔も居ることだ。踏歌が終わったら貴方もこの邸に留まられまいか。過ぎた望みかも知れないが、私は貴方に身近に居て欲しい」

小角は誰が自分を慰めてくれているのかさえ理解できないまま、その暖かく確かな力強さに満ちた腕に縋って泣き続けた。


辺りが白む頃、小角は目覚める前の微睡みの中で、己はどこにいるのだろうと思った。

筒袖の上衣を透して肌を刺す、尖った藁の感触がして、藁と馬の匂いに、厩に居るのだと思ったが、頬の辺りの滑らかな絹の感触と、抱え込まれている大きな人の躯の温もりが異質だった。

父の傍らで寝た事はなかった。

狼児を抱いて寝ていたのは、狼児がまだほんの童子の頃だった。

玻璃はいつも夜が明ける前に去って、共に朝を迎えた事は無かった。

不意に覚えのある麝香草の香りに思い当たって、小角は突然眼を開いて身を起こした。

深紅の位襖の袖が持ち上げられ、覆われていた藁が零れおちた。

藍色の眼が、やや眠たげに、案ずる様にこちらを見ていた。

いつも詠うような声が、掠れて「お目覚めか」と問うてきた。

小角は言葉を失って座り込んでしまった。

昨夜の事が一時に思い出された。

まるで童子の様に身も世も無く泣いたのだ。

泣き腫らした目もさることながら、きっとのぼせたような顔になっているだろう。

田村麻呂は立ち上がって頭巾(ときん)の下の黄褐色の髪や位襖に着いた藁屑を払っていた。

省みれば己の衣も藁屑だらけだった。

積まれた藁山に埋もれていた暖かさは、忽ち消え失せ、初春の早朝の身を切るような空気に改めて気づいた。

大きな手に促されて立ち上がった。

振り返ると蛍の躯には筵が掛けられていた。

促されるままに隣の厩に入ると(からたち)の隣の升には栗毛の若駒が入れられていた。

若駒は田村麻呂の姿を認めて嬉しそうに脚を踏み鳴らし、見知らぬ小角の姿を見て、好奇心に生き生きと眼を輝かせた。

「先から貴方にお目にかけたいと思っていたが、漸く叶った。蛍が産んでくれた仔だ」

小角が躊躇いながら手を伸ばすと、若駒は嬉しそうに頚を伸ばして鼻面を寄せてきた。

いつも蛍にそうしてきたように、鼻面を撫で、頚を擦り、耳の後ろを掻くと若駒は嬉しそうに鼻を鳴らして、一人前ぶって躯を揺すり嘶いた。

「名はなんとされた」

小角が振り向いて訊ねると田村麻呂は「迷って、決めかねて、未だ名が無い。貴方に名付けて戴ければ幸いなのだが」と笑った。

意表を衝かれて答えられない小角の顔を見て、田村麻呂は一つ咳払いをした。

「昨夜私が申し出た事を覚えておいでだろうか?。この邸に、いや、私の許に留まって戴けまいか?」

まだ哀しみも癒えぬ内にこんなに性急に、しかも何と身も蓋も無いあからさまな言い方かと己でも思いながら、田村麻呂は鳩尾の辺りが縮み、掌に汗が滲んできて、まるで世慣れぬ若者に戻ってしまったかの様な心地がした。

小角は再び逆上せた様な顔になり、何か言おうと唇を開き、言い澱んではつぐんだ。

さぞかし間が抜けて滑稽に見えることだろうと思いながら、辿々しく言葉を探した。

「私は朝廷からすれば姓どころか戸籍すら無い。流民ですら無い、存在しない者だ。私が身近に在る事で少将殿に(まがこと)が及ぶかも知れない。長く生きても姿も変わらず、子も為せない。常の人から訝しがられるばかりで、つまり、その」

言葉を探す内に、己でも何を口走っているのかわからなくなり、口ごもりながら「私には少将殿が私を望まれる理由が解らない」

と困り果てた顔で田村麻呂を見上げた。

田村麻呂は、如何にもこの方らしい答えだと思った。

きっとこの方はこれまでも己の振る舞いを秤にかけ、理に合うのか合わないのかを考えては、孤独に生きてきたのだろう。

「理由は挙げれば多くあろうけれども、敢えて言うなら、それが私の心に叶うと感じられるからだ。私の理由よりも、貴方のお気持ちはどうなのだろう?。私の腕でお寝み下さったのだから、強ち私をお嫌いでは在るまいとは思うのだが?」

小角は更に耳まで赤くなった。

どうしてこの男君は至極真面目な面持ちで人を赤面させる様な事を言うのだろう。

それとも私が疎いだけなのか?。

相変わらずこの男君の前にいると、まるで己が何も知らない世慣れぬ小娘になってしまったような気分になる。

「私の気持ち?」

そんな風には考えてみたこともなかった。

田村麻呂は小角の眼を覗き込んだ。

「もし私に負担を負わすまいとお考えなら先に申し上げておくが、貴方が私に持たらしてくれた物が禍であったことなど一度もない」

穏やかな声音で田村麻呂は言葉を続けた。

「貴方と私は何処か似ていないだろうか。ゆかしいと思うこと、哀しいと感じることが似ていないだろうか。貴方となら、涙も、痛みも、分かち合えるのではあるまいか?。日々の小さな喜びは二人なら大きな物になるのではあるまいか?。貴方の様に長く生き、多くを見てきた方からすれば不遜に聴こえるかもしれないが」

田村麻呂は言葉を切った。

大きな掌が伸ばされて、小角の手を取った。

「私は貴方が慕わしい。私に叶うことなら貴方に身近に居て欲しい」

藍色の眼差しを正視できず、小角は慌てて俯いた。

「その様なことを言われたのは初めてで。少し刻を呉れないか」

私はこの男君をどう思っているのだろう。

暖かい腕だった。

あれほど身近に居ると落ち着かなかった事が嘘のように、もっとそうしていたいと思う程安らげた。

私がこの男君の許で、普通の娘の様に暮らすなど叶うものだろうか。


その夕べ、長岡宮に戻ってからも放心したような小角を案じた人麻呂は、早々に床へ入るように奨め、言われるままに床に着いた小角を見て益々心配になった。

床に着いたものの、小角はいつまでも寝付けなかった。

粟田の邸の北の丘陵地に蛍を葬った後、田村麻呂は都まで連れ帰ってくれた。

いつ答えるとも告げられずにいた小角に、今は踏歌が大事だろうから、貴方の心が定まるまで待とうと田村麻呂は言ってくれた。

踏歌が終わったら、その時には己の心の裡が覗けるだろうかと小角は考えた。

あと数日だ。


踏歌の日までに、幾度か通して試舞をしてみたものの、四神の舞手達の緊張は拭えなかった。

踏歌の当日、内教坊の演目が進み、舞殿へと呼ばれてなお、四神の舞手達は固くなっていた。

小角は無理もないと思ったが、皆の青い顔を見かねて、舞殿へ上がる前に言った。

「大君と大宮人の前だからといって怯む事も無い。私たちは舞殿にいる間は神獣だ。心の赴くままに振る舞って、誰に咎められようか。堂々としていれば良かろう」

皆は一時、意表を衝かれた顔になった。

「そのぐらいの意気で丁度良いのでは無かろうか」

小角が穏やかに言葉を結ぶと、四神の舞手達は多少気が楽になったようだった。

人麻呂は盛んに気を揉んでいたが、楽士の音合わせが始まり、小角に小声で「決して雲を呼ばれませんよう」と言い残して、口上を述べに慌ただしく去った。


大極殿に設えられた酒人内親王の帷の中では、最澄と共に年老いた行表が招かれており、久方ぶりに顔を合わせた師弟は演目の合間に懐かしげにこの頃の事など語り合っていた。

「以前行表師から伺った昔語りを、内親王様にゆかしく聞いて戴いております。比叡の山々の霊気の由について、内親王様が是非師のお話をお伺いしたいと仰せでございます」

最澄の言に、行表は檜前の昔語りに伝わる、嘗て大津に宮が置かれた頃の事などを懐かしく話した。

真火様は今ごろどうしておいでだろう。

飯高の大刀自が亡くなられたと聞いて久しいが、健やかにお過ごしだろうか。

斎宮頭が、斎宮から龍神の舞を奉ると口上を述べる姿に、行表は微笑んで「斎王君が奉納されるというのはこの舞で御座いましょう。楽しみなことで御座います」と酒人に語りかけた。

行表は遠目に人麻呂の姿を見ながら、立派になったものだと考えていた。

序の楽が奏でられ始めた。

「五人で舞われるのですね。納曽利としては珍しゅうございますが、華やかですこと」と酒人が呟き、行表は「四方の舞手は四神で御座いましょう」と答えた。

中央の舞手の顔を覆っていた白銀の光沢の衣の大袖が拓かれ、ゆるゆると金色の龍の面が挙げられた。

舞手はさながら宙に浮かぶように立ち上がり、四海を睥睨するように頚を廻らした。

白銀の撥を手に両の腕が拡げられた。

白の大袖衣に重ねられた金と翠の裲襠(りょうとう)が一際映えていた。

行表は突然目眩のような既視感を覚えた。

装束も楽曲も指物も違えども、これは葛城の守り手女の刀神楽ではないか。

高宮で、まだ百戸(ももへ)と呼ばれていた若き頃、守り手女の血筋の娘達が舞う刀神楽を見た日の事がありありと思い出された。

いまだこの舞を伝える者がいるとすれば、真火様以外に有り得まい。

「最澄や、よく見ておきなさい。この舞は周代にまで遡る、古き謂れのある神楽を今に伝えるものと見受けます。四神と龍神による場の(はふり)が顕されているのでしょう。この舞が顕すものは比叡の山々の霊気に繋がるものであり、海龍王経の示唆するものでもあるのです」

行表は愛弟子に言いながら、賀茂人麻呂が真火様の身近に在るならば、案ずることも無さそうだと思った。

最澄は遠い昔、近江国分寺に師を訪れた、神気高い男童子の様な姿の娘を思い出した。

最澄の眼には、あの舞手が同じ神気を纏って見えた。

師は懐かしげなお顔をしておいでだ。

今は、師の物思いを妨げる事は憚られよう。

最澄は海龍王経に思いを馳せた。

この頃内道場では、大学寮の明経科に入った若い学生の噂で持ちきりだった。

伊予親王からの推挙で大学寮に入ったというその若い学生は、明経博士岡田臣牛養がその達筆を愛でて、大層期待をかけているらしい。

最澄もその学生の手になる海龍王経の写経を見たが、実に闊達な手跡で、成る程これはと思われた。

岡田臣牛養は行表と最澄の成した大蔵経の写経に感化され、大学寮でも盛んに写経を行わせているらしかった。


小角は舞殿の上で最後の所作を終え、楽の音が消える瞬間を待っていた。

萬歳(よろずとせ)、在られませ」

人麻呂が舞の終わりを告げ、これで斎宮からの舞の奉納という大役が終わると感じた時、閉じた瞼の裏に浮かんだのは、主の帰りを待つ葛城の高宮でも、まだ見ぬ吉野の金峯山でも無く、あの羽林の君の面影だった。

あの君は今日のこの舞を見て、何と言うだろう。

そして私は何と答えるのだろう。

あの君が言ったのはつまり、そういう日々を共に送りたいと言うことなのだろう。

私もそういう日々を送りたい。

あの君と共に。


踏歌の後、大極殿から小安殿へと移った山部は、舞手の後見が田村麻呂だと聞いて、斎宮頭と共に呼び寄せた。

山部は上機嫌で斎宮頭の功を愛で、今後伊勢守を兼ねるようにとの詔と共に(あしぎぬ)を賜った。

「それにしても佳き舞であった。舞手に内教坊に出仕してもらってはどうだろう」と山部が言い出し、人麻呂も田村麻呂も伏せた顔から血の気が引いた。

傍らに控えていた尚侍が取り澄ました顔で「大君、ただいま内教坊に欠員は御座いません」と注意を促し、山部は「それは残念だ。ではせめて斎宮の舞手への下賜は丁重に計らってくれ」と告げた。

退出する時、田村麻呂が明信に目を向けると、明信は団扇を持つ袖の影で微笑んで意味ありげに目配せを送ってきた。


「私はもう何処かに縁有るものが居るわけでもない。少将殿が望んでくれるなら、共に在りたいと思う。私でも、日々の暮らしの中に喜びを見つけられるだろうか?」

その夜、宿坊を訪った田村麻呂と人麻呂とひとしきり歓談した後、立ち去る田村麻呂の見送りに回廊に出て、小角はそう告げた。

何のてらいも無く、直向きな小角の言葉に、田村麻呂は意表を衝かれた様だったが、「私にはその様に思われる」と答えたその面持ちが大きく安堵したのを見て、小角は思いがけない物を見た気がした。

「私はまだ数日都から離れられない。河鹿を寄越そう。粟田の邸でお待ち戴けようか」


成り行きを聞いた人麻呂は、真火様が斎宮へ戻る必要の無いよう取り計らいましょうと言った。

別れを惜しみ、さぞかし斎王君に恨まれましょうなと笑ったが、真火様が幸いにあれるよう伊勢から願っておりますよと言い残して斎宮へと去った。

小角の許には河鹿が訪れ、目立たぬように粟田の邸に迎えられた。

御身の回りのお世話を言い付かりましたと出迎えてくれた端女は、齢を重ねていたが、以前言葉を交わした者だった。

花鶏(アトリ)という名のその端女は小角の事をよく覚えていたが、格段不思議とも思わぬ様子だった。

「仙女のような不可思議な方だとは思っておりました。今は何とぞ、主の為にも天へお帰りいただかぬよう、懸命に仕えさせて戴きます」と笑った。

親しんでみれば花鶏は朗らかで気さくな気性で、粟田の方が亡くなった後、(おうと)を持ち、子が生まれ、夫と共にこの邸に仕えるようになったと小角に話した。

小角は三日程を河鹿に馬で荘園を案内して貰ったり、仔馬の世話をして過ごし、「馬好きな主をして馬がお好きな方だと申された理由がよくわかりました」と花鶏に笑われた。

春の兆しに包まれ始めた荘園は美しく、野良で働く作戸達も穏やかに暮らしていると見受けられた。

河鹿から、主は明日夕、此方へに参られるそうですと知らされた翌日、花鶏は朝から装束を揃え、打乱筥(うちみだれのはこ)に手鏡やら櫛やら毛抜きやら取り揃えて、身形をお造りしましょうと言い、小角を震え上がらせた。

命婦として宮に居た頃は、髷も化粧もやむを得ず最低限装っていたが、今では煩わしいばかりだった。

百歩譲って、大袖衣に裳と領布に花鈿を描くのまでは堪えたが、眉を造る段になって小角は「花鶏、もう勘弁してくれ」と訴え、引き留める花鶏を振りきって円座(わろうざ)から立ち上がり、曹司を出た。

「私に描き眉は似合わない、さぞ滑稽(みぐるし)かろう」

後ろを振り向いたまま簀に出た小角は、いつ来たものか、田村麻呂と鉢合わせした。

驚いた顔で「どうされた?」と訊ねられ、小角は言葉に詰まったが、花鶏から経緯を聞いた田村麻呂は笑いを堪えながら「鈴鹿殿の良いように。月眉もまた佳いものだ」と言った。

都での用が終われば、共に任国へ赴くのだとばかり思っていた小角は「すぐに越後へ発つのか?」と訊ねた。

田村麻呂は小角を見つめ、言葉を探して言い澱んだ。

なんと答えたものだろう。

だがやはり有り体に伝えるしかあるまい。

「昨日、朝堂院で私は大君から東海道の監察を申し付かった。下野守百済王俊哲殿と共に東海道(うみつみち)諸国へ赴き、兵士の選抜と武具の検閲を報告するようにとの事だった。国司は遥任となる」

見開かれた小角の眼に、迫り来る戦の足音への不安が過ったのが見て取れた。

「また陸奥へ兵が出るのだな」

「まだ先の事だろうが、そうなろう」と頷いて田村麻呂は言いにくそうに言葉を継げた。

「貴方には済まない事だが、私は三月ほど都へは帰れないだろう。この邸でお待ち戴けるだろうか」

詠う様な声が哀願の響きを帯び、藍色の眼が縋る様に小角の顔を覗き込んだ。

小角は不安と落胆を抑えられなかった。

何か答えなくてはと思い、開いた口許が微かに震えたが、直ぐには言葉は見つからなかった。

私は忘れていた。

この君は大宮人なのだ。

大君の命一つで、身の振り方が決まり、その命には従わざるを得ないのだ。

田村麻呂は落胆している想い人を宥める方法など一つしか知らなかった。

己の心に照らせば今すぐにでもそうしてしまいたかったが、あまりに不躾だとも思われた。

この方を軽んじるつもりは無い故に、尚更性急に思いを遂げる事は憚られた。

小角は田村麻呂の心配そうな顔を見て取り、慌てて「そうか、大役だな」と答えた。

「では少将殿の留守の間、私は葛城と吉野を訪れて来たいのだが構わないだろうか」

思い付いて口に登らせて、小角は笑顔を取り戻した。

田村麻呂は「では河鹿を伴に行かせよう」と言ったが、小角は高宮は結界の内なので私一人の方が良いと答えた。

「少将殿が帰られる前に戻って来よう。この邸で待っている」

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