第壱部 悪路王 参 桑の実
小角は阿弖流為達と出歩く内に、自然に里人とも馴染んでいった。
里で最初に親しんで来たのは童子達だった。
童子であってもみなそれぞれに仕事を与えられているのは葛城の里と同じだった。
蚕の世話を手伝ったり、共に魚釣りや兎狩りをしたりしているうちに大人達とも打ち解けてきた。
悪路王の客人というだけで皆が大切にしてくれるのだ。
何か自分ができることがないだろうかと小角は思った。
これまで自分の能力で最も生活の役に立って来たのは地中の鉱脈を読むことだった。
実際小角はこれ迄の暮らしを主にこの能力で探し当てた辰砂で購ってきていた。
だがこの辺りには辰砂の地脈を感じない。
白銀城には機織り部屋があり、多くの機が置かれ、様々な色に染められた生糸や亜麻で複雑な紋様の錦織が行われていた。
自分の簸は失くしてしまったが葛布を織るのでなければ普通の簸で構わない。
織り手の娘に機を借りられるか訊ようと声を掛けると、冷ややかな色を面に浮かべられ、答え無くその場を去られてしまった。
それで漸く気付いたが、どうやら自分は、白銀城の女衆から好く思われていないらしい。
城の中ですれ違っても皆眼も合わせず避けるように去っていく。
初めは自分が倭人だと思われているからかと思った。
だが、年頃の娘達の不快を買っているのは、どうやら違う理由のような気がした。
夕餉が進まずぼんやりとしている小角に、何かあったのかと司馬女が心配そうに訊ねてきた。
司馬女は温厚で控えめな性格だが、小角の表情や仕草に敏く、心から小角の為を思ってくれているのが良く解る。
小角は司馬女に、自分は城の娘達に好く思われていないようだと洩らした。
「機を借りたいと思ったのだが、不快な申し出だったようだ」
司馬女はやや眉を寄せたが、「機織りをされるのですか?」と訊ねてきた。
「ああ、此処へ来た時に簸を失くしてしまったが、機織りは私の乏しい生業の一つだ。この地は錦織が盛んな様だから、綾織りは珍しがられるかと思ったのだが」
小角の言葉に司馬女は頷いた。
一頻り機織りの話などした後に小角の顔が晴れてきたのを見て司馬女はにこやかに言った。
「機の事は大墓の若長に聞いてみましょう。糸はご用意致します。城の娘達は客人に働かせては失礼に当たると思ったのでしょう。お気になさいますな」
結局城の中で自分に出来そうなことを見つけられず、小角は外を出歩いてばかりいた。
初夏へと向かう草原には多くの花が咲いていた。
里の童子達が釣りの帰りに教えてくれた花畑を見て小角は蜂蜜に思い当たった。
試しに草原で蜂を呼んでみると、思った通り、多くの蜂が集まってきた。
後を着けて巣の場所を調べた。
やがて巣分かれしそうな巣を幾つか見つけた。
数日後、小角が大墓の里で蚕の世話を手伝っているところへぶらりと現れた阿弖流為が「小角、これがお前の簸か?」と手渡してくれたのは紛れもなく母の簸だった。
「そうだ。だがどうして?」
「お前の大切な品だと司馬女に聞いたのでな。下野に用が有ったので序でにお前の庵に行ってみたのだ。機織りがしたいならいつでも大墓の里に来い。俺の妻はまだ年若で機織りが苦手でな。機は何時も空いている」
ぶっきらぼうな言葉だったが小角は顔を輝かせた。
阿弖流為自ら下野に行かねばならぬ用事などそうそうあるまい。
わざわざこの簸を探しに行ってくれたに違いないのだ。
小角が手離しに喜んで、感謝の言葉を並べ立てたので阿弖流為はすっかり照れてしまった。
童子達がそんな若長を揶揄して二人の回りを囃し立てながらぐるぐる廻り始めた。
阿弖流為が照れ隠しに一喝すると、童子達は歓声を挙げ、蜘蛛の子を散らすように薄暗い蚕屋の戸を開けて駆け出して行った。
「桑の実を採りに行こう。小角も早く来い」
蚕屋の戸口で、差し込んでくる眩い陽光を背に、年長の童子が振り返って呼ばわった。
「すぐ行く」
小角は笑みを浮かべて答えた。
辺りに誰も居ない良い機会だ。
小角は前から不思議に思っていた事を訪ねてみた。
先日会った長老達の数を思えば部族数はかなりのものになるはずだ。
嘗て葛城一族が朝廷に降った時には葛城の民の人口は余りに少なく、地理的にも到底戦を構えることは出来なかった。
だがこの地は違う。
毛野の民の数も、住む土地の広大さもあの時の葛城とは桁違いの物であるはずだ。
武器を誂える手段も豊富だ。
何故兵を集めて軍備を整えないのだ。
阿弖流為は渋い顔になった。
「お前の言いたいことは良く解る。俺も戦い方を変えていかねばならないとは思っている。だがな、」
盤具と大墓のように隣接していて尚親しい部族は稀なのだ。
それぞれの部族がそれぞれに事情や利権や思惑を抱えている。
中には部族間の交流を拒む一族もある。
「大勢の意見を纏める事を力任せに行うのは善いことではない。急激な変化は必ず歪みを産む」
倭人が来る以前でも部族間で争い、殺し合ったことも侭あったのだ。
まして倭人は俘囚と称して降った毛野の民を朝廷軍に加えている。
部族間の蟠りは計り知れない。
「もどかしくても回り道でも、流れというものに逆らっては駄目なのだ。悪路王が一つの要となるだろう。だからこそ、」
突然 阿弖流為は言葉を切った。
「いや、何でもない。忘れてくれ。要らぬことを喋りすぎた」
小角は阿弖流為から眼を逸らさず続きを引き取った。
「だからこそ早く悪路王の世継ぎが欲しいのだな」
小角は今初めて阿弖流為という男が見えたような気がした。
この男は指導者として必要な器を持ち、人の意の在り様をよくわきまえている。
「阿弖流為は聡いのだな」
そして思いやり深い。
もう一つ小角が知りたいことがあった。
城には年頃の娘ばかりが居る。
聞き慣れない言葉で話すのが御室の直系の娘の様だったが、城にいる年頃の娘は御室の娘だけでは無いと思われた。
意図的に集められたのだろう。
阿弖流為は「御室の事だから聞いた話でしかないがな」と渋々ながら話してくれた。
玻璃が生まれた時、御室には他に子を成せそうな夫婦が少なかったそうだ。
将来、玻璃の妻となる女子を生さねばならぬと先代の御白様に乞われて、直系の一族以外でも意に添う添わぬに関わらず婚姻が行われたらしい。
城に居る多くの娘が自分に冷ややかな態度を取るのはそのためかと小角は納得した。
どの娘も大層美しいが、けして近寄ってこないし、近寄らせても貰えない。
悪路王の子を産むために生まれて育てられて、白銀城に上がった娘達なのだ。
さぞ私が目障りだろう。
冬が来る前に、出来るだけ早くこの地を出ようと小角は思った。
夕暮れに小角は桑の実の入った目駕篭を抱え、頬を上気させて玻璃の居る最上階まで駆けてきた。
「里の童子達と桑の葉を取りに行った。序でに実も取ってきた。甘いぞ。玻璃も食べろ」
差し出された目駕篭には目も呉れず、玻璃は呆気にとられた様に小角の顔を見ていた。
「小角、お前、その顔」
小角も玻璃が言葉を失って自分を見ている事に気づいた。
「どうかしたのか?」
不思議そうな顔の小角は出歩いているので陽に灼けて、肌が艶やかな小麦色になっていた。
その金色の指先や唇だけでなく頬や額や鼻の頭にまで点々と赤い染みを付けていた。
玻璃が鏡の覆いを取って見せてやると小角は真っ赤になって、手の甲で染みを拭い始めた。
「一体どういう食べ方をしたらそんな顔になる?」
玻璃が訊ねると小角は僅かに言い澱んだ。
「童児達が実を投げ上げて、口で受けて食べていて、真似していたら、合わせ物(競争)になって、それで、」
玻璃は破顔した。
堪えきれずに肩を揺すって笑い出した。
赤くなって憮然としている男童子のような小角の様が愛らしかった。
笑われて更に唇を尖らせている小角を見ながら、こんなに笑ったのは久し振りだと思った。
玻璃は尚も笑いながら、無暗に額や頬を擦る小角の手を捉えた。
「やたら擦っても取れまい。待っていろ。」
掻練りの端布を濡らし、座らせた小角の前に自分も坐って顔を拭いてやった。
小角は目を閉じて、少し眉を潜めてされるままになっていた。
玻璃が近づくと互いの神気が反応するのだが、目を閉じているとそれがより強く感じられる。
玻璃の手が止まった。
小角は眉を緩めたがまだ拭かれるのだと思って目は閉じたままでいた。
突然、顔のすぐ近くで微かな息使いを感じ、指先が捉えられた。
唇を掠めたのが布では無いことに驚いて眼を開けると視線を伏せた玻璃の顔がすぐそこに有った。
「小角、もっとここに居ないか」
視線を伏せたまま、小角の指先を拭いながら何事も無かったかのように玻璃は話していた。
「毛野の地は美しいだろう。冬は長く厳しいが、たんと雪が積もるぞ。都人には物珍しかろう」
まるで心を読まれてしまったかのような玻璃の言葉に小角は動揺した。
立湧の綾織りを一反織り上げて、蜂が巣別れしたら、そう、夏の終わりにでも出発すると伝えようと思って来たのだ。
それなのに。
「では、次の春まで留まらせてくれ」
小角は俯いて言った。
対面したその夜、非礼を詫びてくれてからは、寝屋は勿論、唇も求められたりしたことは無かった。
客人として手厚く、親しみを持って、礼儀正しく接してくれていた。
あれは結局、子が欲しくてしたことであるから、私を好いてくれているのでは勿論無いのだ。
子を生せぬ女君にはもうあの様な事を求めるつもりは無いのだろう。
ならば何故、もっと留まれなどと言うのだろう。
そして自分のこのもどかしい気持ちはなんだろう。
小角は宮で、氷高皇女(元正帝)と阿倍内親王(孝謙・称徳帝)の苦しい想いを傍らでずっと見守り続けて来た。
二人とも皇太子となった故に、想う相手と公に結ばれる事は有り得なかった。
自分は人と違う永い時を生きねばならない。
得られぬ思いであるなら人を恋うるまいと思ってきた。
また恋い慕うような男君にも出会わなかった。
人を恋うるとはどんな気持ちになるものなのか、小角には想像もつかなかった。
葛城王(橘諸兄)は共に育ったから兄のような存在だった。
狼児は赤子の時から世話をしたから、長じてからも弟の様なものだった。
もしも玄昉が僧侶でなかったら、そして美童好みでなければ。
或は玄昉を慕ったかもしれない。
勿論、玄昉が僧侶でなければ道昭や義淵の許で出会うことも無かったわけだが。
共に居て安らげ、互いに学び、教え合い、論を戦わせれば面白く、想念の力比べをして愉しく、共に術を使って頼りになる。
玄昉はそんな存在だった。
そこまで考えてふと小角は気付いた。
まるで今の玻璃のことを言っているようだ。
自然に顔が赤くなってくるのが判った。
自分に女君らしい振る舞いも、心の有り様もないから玄昉も遠慮無く親しんできたのだとずっと思っていた。
氷高や阿倍のように、顔立ちの瑞々しさも、手弱女らしい優雅な躰つきや優しげな仕草も、自分には縁の無い物だ。
城の娘達も皆淑やかで女らしい振る舞いだ。
玻璃の眼には自分は娘と映っていまい。
司馬女が夕餉を持ってきてくれた。
小角が里の童子達と桑の実を採ってきたと話すと司馬女は微笑んだ。
「道理でお口が紅いと思いました。紅でもお付けかと思いましたが」
「私が紅など差したらさぞ滑稽かろう」
笑いながら司馬女の分に取り分けてあった桑の実を渡した。
司馬女は礼を言って受け取りながら「そんなことはありますまい。毛野の民の衣もよくお似合いでしたよ。小角様もたまには女君の身形をなさいませ」と言った。
裾長の装束は苦手だった。
命婦として宮に居た頃もあの装束にはほとほと嫌気がさしたものだ。
宮か。
私はあの頃、葛城山に居るか宮に居るかで、都の事を顧みたことは無かった。
葛城の民と、宮に在る係累の者達を守る事で精一杯だった。
蝦夷の地の事も、晩年の道昭が漂流った地という程度の思いしかなく、太政官符で発令されるような事位しか知らなかった。
「司馬女は都で生まれたのにどうして毛野の民と住むようになったのだ?」
小角が聞いてみると司馬女は少し寂しそうに笑った。
「お聞きになりたいですか?」
小角が頷くと司馬女はぽつりぽつりと語り始めた。
「前にも申したかもしれませんが生まれたのは平城の都です。都遷り(710年)から暫く過ぎた頃だったそうです。長屋王様が亡くなられた事(729年)を覚えております」
小角はあの時の事をまざまざと思い出した。
不比等の死を復と無い好機と見たのだろうが、長屋は焦り過ぎた。
まさか僅か八年後に藤原四兄弟が相次いで薨じるとは思わなかっただろうが。
「父母が下京に住む柏木(兵衛府の役人)の君に仕えていましたので、物心ついた頃には端女として働いておりました。年頃になり湯殿に勤めた時に主の手がつきました」
湯殿女はそもそもそういう役割を兼ねている。
つまり司馬女の親は承知の上だったのだ。
「父母は子を得て将来の安寧をと望んだようです。ですが子は出来ても皆流れてしまいました。そんなことで、召人となり、幾度かもてなしとして来客の床に侍ったこともありました。」
小角は微かに眉を寄せた。
よくあることではあったが、女として不快であることに違い無い。
自分が未通女ではなくなった今、更に厭わしく感じられた。
「主はおもねることが巧みだったものか順当以上に官位を進め、やがて陸奥碌となり、病がちだった北の方は都に残られ、私は召人として主に伴われて陸奥国に参りました」
任地に来てからは、主は新たに権の北の方として地元の実力者の娘を妾にしたが、それでも折々司馬女は閨に侍らされた。
主が任果てて京に戻る頃には司馬女は俘囚だった牛追いの毛野の若者と好き合うようになっていた。
恐る恐る主に暇を乞うて、毛野の若者と司馬女は主からひどく折檻された。
若者は司馬女を打ち懲らしていた雑徭を殺し、瀕死の司馬女を背負い、主の許を逃げ、北へ向かったのだそうだ。
追ってきた俘囚の兵達に捕らわれそうになった時に雄勝との国境で二人を助けてくれたのが大墓の長だった。
司馬女の命は悪路王に救われ、暫くは大墓の里で禍事も無く暮らした。
子が産まれ、二人は互いに喜びあったが、やがて戦が激しくなった。
夫は戦で命を落とし、得た子も長じて倭人との戦で死んだ。
「都の父母ももうとうに亡くなっておりましょう。み仏の教えも捨てました。夫と子が眠るこの地が私の郷里、そして死ぬる地です」
司馬女は静かに言葉を結んだ。
小角がぽつりと「済まない」と言うと、にこやかに笑った。
「いいえ、私こそこんな媼の昔語りを聞いて戴いて。お陰で私も気が晴々しました。どうかお気になさらず」
司馬女はそう言い残して去っていった。
玻璃は小角に教えられた、意識を具現化させて姿を変え、自分の意を宿らせて動く術を直ぐ習得した。
陽が沈んでから白銀城の門柵の横で小角は笑いながら
「追い掛けて来い。何に姿を変えても良いぞ」と野兎に姿を変えて駆け出した。
玻璃は狐になって追い掛けた。
二人とも現し身は門柵の前で座して眼を閉じていたが、心は風のように自由だった。
小角がこの術を好きなのはこの解放感故かもしれない。
捕まりそうになって小角は甲虫に姿を変えた。
玻璃は夜鷹になって追ってきた。
玻璃は飲み込みが早い。
捕食者に変ずれば自然と労さずして追える。
次に小角は雌鹿になった。
玻璃は一瞬雄鹿の姿になって小角の前に姿を現した後、本来の姿に変わり息を弾ませて手を差し伸べ微笑みながら近寄ってきた。
小角は玻璃の笑顔に見とれて一瞬逃げることを忘れた。
「小角。吾の敗けだ。集中力が続かない」
玻璃の手が雌鹿の頚を撫でた。
次の瞬間二人は現し身に戻っていた。
「どうやってこんな術を?」
玻璃は小角の頚に手を触れたまま少し不思議そうに訊いた。
「法相宗の高僧で玄昉という面白い僧侶が居てな。神力の高い男君で意を操る事が得意だった。唯識論を己の物としていて、意の力はこういう応用もできると私に教えてくれた。良く二人で今のように追い鬼や隠れ鬼をしたがどうしても勝てなかったな」
いつも余裕有り気な笑みを浮かべて見つけ出されて悔しい思いをしたものだ。
「私が育てた弟子の狼児はこれが下手だったので何時も置いてきぼりにされて怒っていた」
懐かしく話している内に玻璃の手がいつの間にか頚から離れていた。
「僧侶か」
玻璃の声に聞きなれない苛立ちが有った。
小角が眼を上げると玻璃は顔を背けて立ち上がった。
「行こう。面白かった。心が解き放たれるような感覚だった」
振り向いた玻璃は何時もと同じ様に穏やかな顔だった。