第参部 東征 九 巣伏の戦
延暦八年(789年)
三月の終わりに陸奥国では、征夷大将軍、紀古佐美の指示で、先鋒として六千の討伐軍が多賀城を発して北進し始めた。
紀古佐美は、嘗て紀広純が北上川の畔に築こうとしていた覚鱉城と川湊を完成させ、拠点にするつもりだった。
だが多賀城へ赴任してみると、その地の確保が困難であることが判明した。
川湊が置かれる筈だった北上川の畔を、俘囚達は巣伏と呼んでいたが、斥候によれば、この数年で川の流れが変化して、大型の軍船を遡らせる事は出来ないだろうという報告だった。
陸路では、嘗ての伊治城を砦としている蝦夷と、川の東に住む蝦夷とが両岸から牽制してくる事は火を見るよりも明らかだ。
一気に兵を進めることが難しいのなら、中間に野営地を作らせて北上するしかあるまい。
衣川が流れ込む開けた地、胆沢までなら大型の軍船で、兵と物資を運ぶ事ができると見込まれた。
多勢に任せて先鋒の兵を三分し、互いに支援させながら、北上川の西岸を北上し、先ずは胆沢を目指す事になった。
陸路で近在の集落を襲撃し、追撃や待ち伏せの懸念を潰しながら、船で資材や食料を運ばせて野営地を造り、進軍させたが、前線は遅々として進まなかった。
北上川を渡る事にも難渋した。
この大河に橋を架けるのは不可能だった。
ようやく一隊が渡河を果たしたとの報告を聞いて、紀古佐美は思わしくない進渉には触れず、現状だけを報告した。
深刻な事態に陥っているとは考えていなかった。
巣伏に至るまでの地、胆沢には多くの蝦夷の集落があると判明している。
雑兵の多くは、そうした集落を襲撃することで得られるものを目当てとして従軍している。
つまりは男や年老いた者達の首級、奴となる女と童子、そして倉に蓄えられている物だ。
砂金や砂鉄、武器、馬は将兵から将軍へと献上されるが、布や雑穀の多くはその場で分けられる。
調の免除や、日々の糧食を得られるだけでも幸いとする者もいるが、度々徴兵されたり進士となった兵達は、集落の倉の物目当てに従軍するようになる。
功を揚げたい者には首級の数も欠かせない。
雑兵達には目先の利が必要なのだ。
野営地さえ出来上がれば、暫くは連中のよいようにさせておくつもりであった。
将兵の中には道嶋嶋足の子、御盾の姿もあった。
この頃の志波の長は宇漢迷公宇屈波宇の子、阿奴志己だったが、父譲りの穏健で開明な統率者だった。
一昨年の暮れ、御盾は密かに阿奴志己に会い、年が明ければ征夷と称して討伐軍が出ることを報せていた。
阿奴志己は百済王俊哲が多賀城を去った時、やがて来るであろうと予測していた日が来た事を知った。
呰麻呂亡き後、伊治、雄勝、胆沢の地を護ってきたのは阿弖流為と母禮だった。
阿奴志己は幾度か、阿弖流為に百済王俊哲に会ってみてはどうかと持ちかけていたが、阿弖流為は聞き入れようとはしなかった。
朝廷が伊治を奪おうと、再び北進して来る事は承知の上だと阿弖流為は答えた。
もう伊治を北限とする誓言を知る者も、証を立てられる者も、既に誰も居ない。
達谷窟と白銀城を護る為には、和議は有り得ない。
例えどれ程の大軍であろうとも迎え撃つしか道は無いのだ。
阿奴志己には阿弖流為の心情は察して余りあった。
阿弖流為は己が生まれ育ち、受け継ぐ筈だった大墓の長の座を放棄して弟に譲り、妻には俺は死んだと思えと言い残して、伊治での呰麻呂の戦(宝亀の乱)に荷担したのだ。
総ては悪路王と南の聖地を護る為だと長達は承知していた。
同じく伊治の戦で阿弖流為と共に戦った母禮は、伊治に隣接する盤具の里を治める長であり、里の民の為にも戦う理由があったが、阿弖流為は毛野の為に共に戦をしてくれと母禮に頭を下げた。
阿弖流為が、殊更倭人を憎む故に戦を辞さない訳では無いと知る阿奴志己はそれ以上和議を薦める事はしなかった。
やがて、百済王俊哲は陸奥国から遠ざけられてしまった。
奪還した伊治城は良き砦だった。
昨年の大晦の評定で、朝廷軍に対しては阿弖流為と母禮が総力を挙げて交戦し、戦況によっては悪路王にも力を奮ってもらうと定められていた。
阿弖流為は、朝廷がこの城柵を奪い返しに来るだろうと身構えていたのだが、多賀城の俘囚から得た報せは、将は宝亀の乱で放置された船の場所に、再び川湊と城柵を造るつもりらしいというものだった。
あの場所は盤具の里に程近い。
呰麻呂が没した後、呰麻呂と共に朝廷に反旗を翻した伊佐西古、諸絞、八十島、乙代は伊治城で阿弖流為を長と仰いでいた。
戦は避けられないのだ。
ならば出来うる限り、犠牲を減らす術を編み出さねばなるまい。
阿弖流為は母禮と共に策を講じる必要があると考えた。
五月に入り、長岡宮では山部が、四月六日付けの報告以降、将軍からの言上が無い事を、怠慢で先を慮らぬ事だと指摘した。
時宜を逃せば軍の進退は窮し、駐留が長引けば兵糧が不足する事態を招く。
軍を進められないなら、その理由と現状を駅史を使ってでも報告すべしとの詔が長岡宮から多賀城に届いた。
山部の宣明を読んだ紀古佐美は舌打ちしたい思いだった。
実際、傍らに物部入間広成と安倍墨縄が居なければ舌打ちした事だろう。
この二人は長く陸奥国で外官を勤め、現地の情勢に詳しい為、紀古佐美は多くの事をこの二人と図っていた。
この度の討伐軍の総てを任せると言ったのは大君に他ならない。
どうせまた、かの、臆病なくせに追従だけは巧みな大納言が、要らぬ事を耳に入れたに違いあるまい。
己が妻を奉ってまで、あの賤しい生まれの大君に媚びて位階を上げるなど、藤家はどうかしている。
全体、戦の指揮など執ったことも無いあの君に、何が解ると言うのか。
だが大君の宣明は正論でもあり、異を唱えることもできず、紀古佐美はやむをえず衣川の野営地の軍に行動を起こさせた。
先の宝亀の乱で起こった事を考えあわせ、紀古佐美は多賀城を出なかった。
物部入間広成と安倍墨縄は、玉造柵と色麻柵で水陸の運搬の指揮を執り、伊治城の蝦夷を牽制するため、衣川の野営地には出向かなかった。
陸路北上川を遡る六千の先鋒は衣川の野営地を完成させ、船での輸送の安全を確保した。
五月の終わり、北上川の西に残る二隊の内、丈部善理の率いる一隊を渡河させよと将軍から下命があり、四千名が東岸を遡る事となった。
川の東岸からやや東、森を抜けた辺りに、広く開けた丘陵があり、幾つか大きな集落があることを斥候は報告してきた。
丈部善理は、その集落を落として戦果として報告しようと提案した。
森の切れる手前で待ち受ける蝦夷の兵は三百余りと斥候の報告に、将兵の丈部善理と道嶋御盾は戦火を切った。
御盾はこの先の集落が盤具の里である事を知っていた。
阿弖流為も母禮も当然策を講じている筈だ。
朝廷軍の四千の兵に、蝦夷の兵は蹴散らされたかのように見られた。
御盾は深追いせぬよう兵を留めて、再び斥候を出すことを提案したが、丈部善理は功を急いだ。
結局、御盾の隊はそのまま川の東岸を遡り、丈部善理は率いる隊を分け、集落へと向かわせた。
川の西岸を遡る隊を率いていたのは出雲諸上だったが、やはり蝦夷の兵と、実りの少ない小競り合いを繰り返しながらの遡上を続けていた。
川沿いの森の中に騎兵の人影を見たと思うと矢が飛んでくる。
陣を組ませて迎え撃とうとすると騎兵の姿は消え失せ、後を追って森に入った兵は帰ってこない。
蝦夷の兵は朝廷軍がこの遡上を初めてからこの戦法でじわじわと朝廷軍の兵力を削いでいた。
兵は心労で疲弊しはじめていた。
ただでさえ、湿地の多いこの辺りは多数の兵を迅速に動かすことは困難な地形だ。
最も手近な集落へ向かった丈部善理率いる小隊は、集落がもぬけの殻であることを知り、謀られたと気づいた。
それでも倉を改めようとした兵達が、集落の中央あたりにある倉の前の、開けた場所に三々五々集まった時、山鳥が一際高く鳴く声がした。
その途端、周囲の木立から矢が雨のごとく降り注いだ。
姿の見えない敵に向けて、目眩滅法に矢を射返しながら兵は撤退しようとしたが、樹上高くから射掛けられる弩の矢の威力に兵は次々と倒れた。
次の矢をつがえる迄に手間取る弩の攻撃の間断を縫って、撤退する兵の誰かが、集落の家屋に火をかけた。
茅と木の家屋に、次々と火は燃え移った。
集落から逃げ出した兵は、他の集落へ向かった隊が、やはり逃げてくる姿を認めた。
川へと戻りながら隊列を建て直しかけた兵の前に、姿を現したのは手に抜き身の蕨手刀を提げた数百の蝦夷の騎兵だった。
北上川を挟んで後先に遡上していた二隊は、漸く川が大きく東へと湾曲し、支流が注ぐ入り江となった目的地にたどり着こうとしていた。
前方には木立の間に切り立った崖が見え隠れしはじめた。
そこでは係留されたまま、朽ちかけた船が波に洗われているはずだった。
後方の兵のざわめきに気づいた御盾は振り返り、丈部善理の隊を残してきた辺りの木立から立ち上る煙を見た。
御盾は軍の歩みを止めさせた。
引き返して救援に行くか、このまま先を急ぐか、逡巡した御盾の眼の端に光るものが写った。
訝しんで前方を見上げた御盾は、光が崖の上の何かに反射した日の光だと気づいた。
崖の上で光るものに思い当たった御盾は兵を分けて、後方の部隊を共に馬を進めてきた牡鹿柵の俘囚長に任せ、丈部善理の救援に向かわせた。
生きては帰れないかも知れないと、改めて覚悟を決めた。
亡き父は己が記してきた陸奥国の記録を、いつか信頼できる将に託せと言い残したが、我が手でそれを成すことは叶わないかも知れない。
御盾はこの度の出兵にあたって、百済王俊哲殿が再び陸奥に脚を向ける日が来たら渡すようにと、牡鹿柵に残してきた妻にその記録を託していた。
いつか田辺史難波の様に、毛野の民と朝廷の仲立ちとなる人物が現れることを信じようと父は言った。
吾もまた同じように、そのいつかに賭けるしか無いのだ。
道嶋御盾は残る兵に武装を固めるよう号令して、再び北上川の東岸を遡らせた。
河の西岸を進む出雲諸上は、目指す入り江の対岸に到着し、辺りを警戒させながら渡河を始めていた。
兵の半数程が河を渡り終えた時、蝦夷の騎兵が川の東岸に姿を現した。
その騎兵が片手を上げると前方の崖上に、弩を構えた兵が隙間無く居並んだ。
将である出雲諸上が河を渡り始めた兵を止めようと怒声を挙げたが、兵を建て直す間は無かった。
渡河の為に武装を解いていた兵達は防ぐ手だても無く、次々と矢に射抜かれた。
水音と叫喚が辺りに満ちた。
崖上の弩兵は矢を放つと次の者に場所を替わるらしく、間断無く矢が降り注いだ。
どれ程の兵が控えているのか想像も着かなかった。
汀の騎兵には、先に渡河して警護に回っていた兵が応戦していたが、長くは持ちこたえられまいと見えた。
道嶋御盾の隊が駆けつけた時には、既に多くの兵の屍が川面に浮いていた。
河の東岸から姿を現した蝦夷の騎兵の数は四百余騎と見えた。
御盾は諸上の隊を援護させ、自らも蕨手刀を抜き放ち交戦した。
汀に立つ騎兵の将は紛れもなく阿弖流為だった。
御盾は名乗りを上げ、阿弖流為に向かって馬を駆けさせた。
御盾の姿を認めた阿弖流為は、近くの騎兵を下がらせ自らも蕨手刀を抜いた。
馬上で肉厚な鋼の太刀が火花を散らした。
その一瞬に、御盾の耳には阿弖流為の声が「嶋足の子よ、早く離脱しろ」と聞こえた。
撃ち合った後、水しぶきを上げながら川の浅瀬まで駆け抜けた御盾が馬首を廻らすと、阿弖流為が森へと駆け込みながら大音声で叫んだ。
「倭の兵よよく聞くがいい。この地には悪路王の呪いがかけられる。二度と脚を踏み入れるな」
阿弖流為の声と同時に、地鳴りの様な震えが大地を伝わり、上流から激しい水音が近付いてきた。
蝦夷の兵の姿は森へと消え失せ、河の中で辛うじて矢を逃れた兵と、両岸に残された兵が驚愕の眼を見張る頭上に、川上から、人の背を遥かに凌駕する高波が襲い掛かった。
その波頭が、御盾の目には前肢を高く掲げた白い馬が並んでいるかの様に見えた。
そしてそれがこの日、御盾が見た最後の光景となった。
御盾から丈部善理の救援の命を受けた牡鹿柵の俘囚長は、森の奥から敗走して来た兵に事の次第を聞いて、逃げ延びた者の庇護と丈部善理の捜索をさせた。
やがて丈部善理の遺骸を背負った兵が森から脱出したことを確かめて、再び主の後を追う為に兵を整えた矢先に、北上川を激流が下ってきた。
多くの兵が流されているのを見てとった俘囚長は、主の命を待たずその救援に当たる事を決断した。
そして、その判断が結果的には主の御盾を救う事になった。
多くの兵が土砂と共に下流へと流され、溺れた中、御盾が無傷で生き延びた事は暁幸と言えた。
御盾の乗る馬は主を背に乗せたまま、襲い来る高波と濁流から逃れようと必死で泳いだ。
最初の一波を受け、意識を失った御盾は、手綱を握りしめて居り、水を呑むことも無く、愛馬の背で濁流から逃れた。
蝦夷の騎兵は高波の後、下流には姿を現さず、御盾を背に乗せた馬は無事川を泳ぎきって、牡鹿柵の俘囚長に見いだされた。
河の西岸に残っていた出雲諸上は高波に襲われた時、咄嗟に木立へと駆け込み、命を永らえた。
襲撃を警戒しながら、衣川の夜営地へと戻った兵は、緊張の中、夜を明かした。
翌朝、御盾は意識を取り戻し、生き延びた二人の将兵は敗残の兵を取りまとめて玉造柵へと帰還した。
濁流に呑まれた兵は遥か下流の日上の川湊まで押し流され、そこで助けられた者もあった。
この戦で、戦って死んだ者は副将の丈部善理を含めて二十五人、矢に射られた者は二百四十五人、そして川で溺れ死んだ者は千三十六人に及んだ。
命あってこそと武具を捨て、裸身で川を泳ぎ、逃げのびた者は千人余り居た。
この大敗の顛末が長岡宮に届いたのは六月三日だった。
山部は戦略の拙さを指摘し、戦死者への遺哀の意を表明して使者を送り返した。
追って六日の後に、駅馬で紀古佐美から、軍の維持困難による征夷軍の解散を軍儀で決定して、撤退を始めているという奏上を読んだ山部の憤りはひとかた無らぬものだった。
これでは宝亀の乱の鎮圧軍と何一つ変わらないではないか。
戦況を虚飾し、それらしい手柄だけを報告し、己達は安全な場所で指揮を執り、大敗すると撤退を初めてから帰還すると報告してくる。
肝心の国境線は少しも変わらず、多くの兵を死なせ、公民の納めた国家の財を浪費すること甚だしい。
将軍に任じられた者達は、幾度同じ過ちを繰り返すのだ。
この有り様では、朝廷の威信をかけて再び奥州へ兵を出すべしと言い出す者が現れよう。
なんと忌々しい事よ。
多賀城で紀古佐美は山部の返事を読み、宝亀の乱で藤原小黒麻呂が過ちを咎められた事を今さらのように思い出した。
結局、大君の許可無く軍を解く訳にはいかないのだ。
紀古佐美は不愉快極まりない敗戦の処理を行いながら、帰還の許可が降りたら降りたで、宮でなんと言い繕うものかと気が重くなった。
衣川の野営地だけでも何とか維持しなくては言い逃れのしようがない。
七月十四日、山部は三関を廃止すると詔を出した。
先の田村麻呂からの報告にもあったが、今や関はその目的を果たしているとは言いがたい。
次の征夷軍派遣を視野に入れれば、関に備えられた兵器は国府へ移し、便に応じて供出させるがよかろうと思われた。
紀古佐美が山部の許しを得て、陸奥国から帰還し、節刀を返上したのは秋も深まった九月八日だった。
帰還するやいなや、藤原継縄と小黒麻呂を聴取官の筆頭に、戦の経緯について状況や戦略を吟味された揚げ句、朝堂で散々に糾弾された。
挙げた戦果も、被った被害も、数を比せば明らかに敗戦であった。
十四の村、八百の家を焼いたと言うが、蝦夷の首級が八十九で征東軍の兵の死者は千人を超え、負傷者は二千人近いのだ。
この敗戦は山部に、折を見て早々に百済王俊哲を呼び戻す決意を固めさせた。
再び兵を出すには今暫く時が必要だ。
それまでには俊哲の地位を復権させねばなるまい。
秋が深まる頃、宮では、大君の生母である中宮、高野新笠の健康が優れない事が懸念されていた。
年齢から言っても健康を取り戻す事は難しいと思われた。
山部は早良の死から、自身では母と会おうとしなかったが、何かにつけて安殿皇太子を中宮の許へ遣わした。
酒人は山部が母の病を気に掛けていることをよく知っており、こまごまと中宮を気遣って見舞った。
如何に病が重くとも、朕の顔はご覧になりたくなかろうとお義兄様は仰るけれど、そんな筈は無いのだ。
内道場でも畿内の大寺でも、病平癒の御修法などを行わせたが、効験は顕れなかった。
中宮の危篤状態は長く続いた。
酒人は何とかして山部に中宮を見舞わせようと試みたが、山部は承知しなかった。
酒人は昼御座所の扉の前で、涙ながらに中宮に会ってくれと乞うたが、山部は執務室を出なかった。
朕はどうあっても母に会う事など許されない。
これが早良を死なせた己への罰だ。
あと数日で大晦となる頃、中宮、高野新笠は薨じた。
山部は母が生きている間は、その血筋を憚ってついに帯びることの無かった皇太后の位を追贈した。
父の許に井上内親王が嫁してからというもの、母は肩身を狭くしていた。
井上は穏やかな人柄ではあったが、その身分の重さは母とは比較にならないものだった。
井上が宮を逐われたら逐われたで、母と百川が皇后を陥れたなどと言うものも現れた。
この贈位についても、人は様々に言繁る事だろう。
言いたい者は言うが良い。
例え生母の氏族がどうであれ、朕こそが大君なのだ。