第参部 東征 八 応龍
延暦七年(788年) 夏
斎宮に戻った小角は、近親者の死の穢れに触れた事で数日、外院に留まって穢れを払い、潔斎が明けてから内院の外れの坊で浄めの神事をする事になった。
人麻呂は忌みの間、諸高様の事をゆっくり偲ばれるが良いでしょうと言い、田村麻呂は復の訪れを約して去っていった。
潔斎が明けた夜、小角は内院に入り、明朝早くからの神事の支度を整えて、眠りに着こうとしていた。
暑い季節の事とて、御簾を半ば上げた渡殿に人の気配があった。
軽い足音と衣擦れが立ち止まり、踞り、やがて幼い童子がくすんと洟を啜る声が聞こえた。
広い内院で女孺が迷子にでもなったかと、小角は几帳の影からそっと外を窺ってみた。
満ちかけの明るい月に照らされた姿は、年の頃からも着ている衣からも、紛れもなく斎王であると見えた。
先触れに小さく咳払いをすると、幼い斎王は驚いて涙に濡れた顔を上げた。
小角が渡殿へ姿を現して「このような時分に院の外れにおいでとは、どうされた?。迷い込まれたのか?」と問うと、急いで小さな両の手の甲で赤くなった頬を擦った。
身を起こすと、漸く腰に届くほどの長さの髪が揺れた。
酒人の愛らしい幼な顔を小角は良く覚えていた。
この皇女は母の酒人によく似ている。
「誰ぞ?。朕は汝を見たことが無い。内院の者ではあるまい」
いとけない声が不思議そうに訊ねた。
「私は中院に仕える者だ。縁在る者の弔いに立ち会って潔斎が終わったので浄めをさせてもらう事になった」
小角の言葉を聞いて、幼い斎王は近寄って案じるように繁々と小角の顔を覗き込んだ。
「誰が隠れられた?。病でか?。哀しかったか?」
愛らしい仕草に小角は目元を和ませた。
「祖を同じくする家柄の大刀自だ。お年を召されていたからな。天寿であろう。それでも、とても哀しかった」
「汝の婆様か?」
幼い斎王はまるで己が胸が傷むように眉を寄せ、重ねて問う声も哀し気だった。
小角は考え考え答えた。
「実の家族では無いが、長く共に過ごして、家族の様に親しんできた。実の婆様と同じくらい私を案じてくれたな」
幼い斎王は円らな瞳で小角の表情を見守り、不意にその小さな手を延べて小角の頬を撫でた。
小角はその小さな掌の温もりに胸を衝かれた。
「朕の婆様はもう先に御隠れになったが、婆様をゆかしく哀しく思う。弔うのは尚哀しかろうな」
小角の頬の丸みに手を沿わせて、幼い斎王は花が開くように微笑んだ。
「明日夜、朕はまた此処に忍んで来よう。話し相手をしてやろうぞ」
翌日、人麻呂は小角を案じて様子を見に訪れ、思ったより気を持ち直している風な姿を見て安堵した。
小角は声を潜めて「昨夜な、斎王君に会ったぞ」と人麻呂に耳打ちした。
例え内院の裡と言っても、深更に斎王が供を連れず一人で歩き回るなど有ってはならない事だ。
人麻呂は仰天したが、幼い方の事でもあり、命婦や乳母達を咎めるよりも、暫く様子を見ましょうと言った。
「ところで、次の大祭は長月の神嘗祭となりますが、斎宮でもこの祭りに神楽を舞わせて奉納しております。つきましては鈴鹿殿にお力添え戴けますまいか」
私に何をしろと言うのだと小角が問うと、人麻呂は「刀神楽を舞ってみませんか」と言った。
「葛城と賀茂の習慣が跡形もなく廃れる事が惜しまれるのです。確かに役公と葛城の民の存在は、やがて人々の記憶から消えて行くのが相応しいのでしょう。ですが国つ神の祭祀に関わる習わしの片鱗ならこの伊勢社に留めおけるかも知れません」
人麻呂は珍しく真顔だった。
小角には人麻呂の気持ちがよく解ったが、暫く考えさせてくれと答えた。
刀神楽は羅の薄絹を纏う五人の舞い手で舞われる荒々しく煽情的な神楽だ。
装束もさることながら、軽業のような守り手女の舞そのままでは普通の娘達には舞えない上、楽曲も奏でられる者はすでにいない。
小角はよもや真にその夜も斎王が訪れるとは思っていなかったが、深更に、再び渡殿をひたひたと軽い密やかな足音が近づいてきた。
小角は人麻呂の言葉を思い出し、斎王君の気が済むまで相手をしようと考えた。
幼い心に屈託を抱えて、それでも人を労ろうという気持ちを無下にしたくはなかった。
短い時間ではあるが、朝原は小角とよしなしごとを語らい、愛らしい欠伸を一つして満足そうに去った。
翌晩にも斎王は小角を訪れた。
初めて見かけた晩に、泣いていたのだから、何事か思い悩む事があるのだろうが、それを口に登らせることは無く、小角の話を聞きたがり、自ら話すことはほんの僅かに母や父の思い出や、命婦や乳母達の事だった。
月が満ちるまでの数日、斎王は毎夜ひっそりと小角の許を訪れた。
明日には神事を終えて内院を去るという夜、小角は斎王に訊ねてみた。
「私はお陰で心が晴れやかになったが、斎王君は何か心に懸かる事はお有りではないのか?」
幼い斎王は一時、大きな眼を見張り、次いで紅くなった頬を丸く膨らませて横を向いた。
「朕は大事無い」
小角は殊更残念そうに言った。
「私は明日には中院へ戻る。もう斎王君と言葉を交わす事もあるまい。私の話を聞いてくれた様に、私も斎王君の話を聞いてさしあげたかったのだが」
小角の穏やかな声音を聴き、ややあって朝原は「朕は」と言いかけて俯いた。
消え入りそうな声で「先の月次祭の終わった日に、初めて婆様の事を知った」と口にした。
井上の事かと小角は面を改めた。
「何を聞かれた?」
声音が変わらぬよう気を付けて聞いてみると、肩を落とした朝原は哀しげに言った。
「乳母達が話していた。婆様は邪な祈祷をされて平城の都を逐われ、お子と共に自ら命を絶たれたと」
どうやらそれ以上の事はまだ耳に入っていない様だと、小角は内心安堵した。
「斎王君はそれを信じられるのか?」
小角の問いに朝原は眉尻を下げて今にも泣き出しそうになった。
「信じたくはない。だが乳母達は戯言を言っている様子でもなかった。婆様を言繁られると口惜しいが、朕は婆様の顔も知らぬ。母君も婆様の事は何も教えては下さらなかった。侘しい心地だ」
言い終わると愛らしい口元が歪んだ。
小角は朝原の小さな頭を撫でた。
丸い頬を零れてくる涙を拭ってやりながら「母君も父帝も斎王君を苦しめまいと何も伝えて来られなかったのだろう。だが斎王君はもう道理のお分かりになるお歳だな」
と言うと、朝原は小さく頷いた。
「斎王君の婆様は邪な呪いなどされていない。宮中の争いに捲き込まれたのだ」
小角は懐から井上の象牙の釵子を出して、朝原の小さな手に渡した。
涙で濡れた眼を大きく見張った朝原に、小角は微笑んで見せた。
「これはな、斎王君の婆様の物だ。なぜ私が持っているのか不思議に思われような。奇しき経緯があるが今は語るまい。命婦にも乳母にも見せてはいけない。大切にお持ちになるが良い。いつかこの社を退がられる日が来たら、母君にも見せて差し上げてくれ」
語りながら小角は、以前田村麻呂が木簡について言った言葉を思い出した。
物が受け継がれていく事には、やはり理が在るのだろう。
きっとこの釵子は今日、此処で朝原の手に渡るために、私の手元にやって来たのだ。
朝原はこくりと頷いて、袖で涙を拭った。
小さな手で、象牙の釵子を糸惜しそうに撫でた。
「鈴鹿が中院へ戻ったらもう会えぬのか?」
「ああ、そうだな。だが、斎宮頭が私に長月の神嘗祭に新しい神楽を奉納せぬかと言ってきた。もし叶えば、その時には拝謁できるやもしれぬな」
「新しい神楽?。どの様な舞いなのだ?」
「古い国つ神を祀る舞いで、今は廃れてしまったものだ。龍神の舞いだ」
小角の言葉に朝原は顔を輝かせた。
「龍神か。龍神は雨を降らせてくれるのであろう?。その神楽を朕も見てみたい。父帝は雨を祈願してくれと仰せられていた」
嬉しそうに顔を綻ばせた朝原に、小角は斎王君がそう望まれるのならば、神楽を奉納出来るよう励んでみようと約束した。
翌朝、中院へ戻った小角は、人麻呂の顔を見るなり「神楽の事だが、果たして形になるものかどうかも定かではないが、とにかくやってみよう」と言った。
人麻呂が大喜びで申し出たのは、納曽利で舞ってみてはどうだろうと言う案だった。
納曽利は双龍舞とも呼ばれる雌雄の青龍の舞だ。
一人で舞われる事もあれば、二人で舞われる事もある。
楽曲は、龍笛、篳篥、高麗笛、鼓で奏でられ、典雅で格調高い調べと独特の調子を持つ。
それでも刀神楽に比べたら遥かにゆるゆるとした調子なので、刀神楽の最後の応龍と四神の祝舞の部分を取り入れるのが自然だろう。
人麻呂と話している内に、小角にも舞の構成が思い浮かんできた。
刀神楽では中央が応龍で脇の四人が四神を表す。
納曽利の序で応龍の眠り、破で目覚めと進み、急に入る所で、応龍と四神が降りた地を愛でて去る所作を舞うなら、演目として見映えがしそうだ。
四神は所作を改めなくてはなるまいから、まずは己一人が応龍を舞ってみようと、小角は夜更けに人気の無い舞殿で、修練を始めた。
嘗て小角は標女に教えられて年毎に四神を勤め、父の死んだ年には応龍を勤める筈だった。
誰も居ない舞殿で、暗闇の中、小角は応龍の所作を思い出しながら、足を運び、袖を翻した。
応龍だけなら所作を変える事なく納曽利で舞えるだろう。
得手だった朱雀や青龍と違い、動きの少ない応龍は四神の二拍を一拍としても楽に乗りにくい。
あの頃、己は楽の音を聞き取り、所作をこなす事に精一杯だった。
田村麻呂に教わった太刀の舞は、太平楽の緩やかな調子に合うよう、所作の前に呼吸と力を内に矯め、それでいて次の所作を気取らせないものだった。
その緩やかな力強さが、標女が舞って見せてくれた応龍に似ていた。
あの男君は太刀の舞を教えてくれた時、所作を急がず、緩やかで正確な動きと呼吸を心がけられよと言った。
ゆるゆると面を挙げ、立ち上がってみた。
標女は応龍は八大竜王の一柱、和修吉だから重々しくなくてはいけないと言った。
玄昉は、後に仏典に取り込まれた古き天竺の神々が、不老不死の霊薬を得るために、乳海に浮かぶ曼陀羅山を和修吉の胴を持って撹拌した伝説を教えてくれた。
安閉(元明帝)に献じられた古事記と、氷高(元正帝)に献じられた日本紀に記された上古の記述に小角が不満を漏らした時、玄昉はいつもの皮肉な笑みを浮かべて言ったものだ。
「古き天竺の神々は、釈尊の経典ではみ仏の祖の敵であったりするが、それらの多くは最後には釈尊に帰依して経典に取り込まれている。国つ神から天つ神への国譲りも然りであろうな。なんと言っても、飛鳥浄御原帝(天武帝)は己を神であると宣り給うたのだからな」
真備から聞いた応龍の伝説は、黄帝と蚩尤の戦で、黄帝の為に翼を持つ応龍が嵐を起こしたというものだった。
脳裏に真備の声が甦ってきた。
「だがその戦で殺生を行った応龍は神性を失い、神獣から幻獣へと貶められ、大陸の南方の地に棲んだとされている。儂が思うに、蚩尤も応龍も共に、大陸の北方から南方へと追いやられた民が信仰していた国つ神で有ったのだろう。なぜ葛城では和修吉と同じ神とされたものか不思議だが、古く力有る龍として同一視されたものかも知れぬな」
その長い胴を思い、ゆったりと足を運んでみた。
嘗ては調子から外れまいと焦ってばかりいた。
楽に置いていかれる事を恐れて所作を急いでいたのだろう。
玄昉が子蛇だと言ったのはこの事だったのだ。
楽の音を思い描かず、ゆっくりと足運びと所作だけを繰り返している内に、小角はその足運びが禹歩であることに気づいた。
舞殿の中央、序が始まる前に、応龍の舞い手が踞る場所を中心に、まるで結界を張る様に、禹歩を踏む事になる。
やがて呼び掛けてくる四神に手を差し伸べ、袖を振る所作に移る。
この時、四神は既に各々の所作を一通り終えて、舞殿の四方で応龍と呼び交わす所作へと移っている。
あの頃はまるで気付けなかったが、所作の一つ一つに一定の間を持たせ、力を矯める事でまるで力が漲って来るようだ。
この舞そのものが術を著しているのか。
己の記憶に有る限り、この舞はあくまでも守り手女の舞であって、役公が舞った事は無い筈なのだが。
だが小角にとって、その疑問は既に些細な物になっていた。
今はこの舞を完成させてみたいという思いの方が遥かに強く、小角は僅かな時を惜しんで修練に励んだ。
長月の神嘗祭にはどうやら神楽らしく仕上がり、小角は朝原との約束を果たして舞殿に立った。
納曽利の童子舞として面は纏わず、一人で応龍を舞った。
朝原は大層喜び、是非いつか四神を交えた舞を見せてくれと宜下があった。
延暦八年(789年)
新年の一日、日蝕が起こり、朝堂では禍事の前兆では無いかと怖じ気付く者も出た。
昨年の七月、征夷大将軍に任じられた紀古佐美は、年の暮れに大君から節刀を賜り、陸奥へ兵が出る事は公にしろしめされていた。
人麻呂はやがて伊勢社にも戦勝祈願の為の幣帛使が訪れるだろうと言い、その為に臨時の祭祀が予定されていた。
小角には何故、今また陸奥へと兵が出るのか理解できなかった。
年が明け、春まだ浅い頃、新年の賀に都へ上がった帰路、蛍に乗った田村麻呂は舎人の河鹿と共に斎宮へ立ち寄った。
なぜ奥州へ兵が出るのかと、小角の問いに田村麻呂の表情は暗くなった。
「また神火でも起きたのか?。城柵が襲われたのか?」
田村麻呂は静かに頚を左右に振った。
「神火が蝦夷によるものでは無いことは大君もご承知だ。百済王俊哲殿がこれだけは明らかにしておくと奏上されたのだ。城柵が襲われたわけでもない」
「では何故また毛野国を攻めるのだ」
詰問するような小角の声音に、田村麻呂は声を潜めるよう手振りで促した。
「先帝の御代に、宝亀の乱で出羽と陸奥の令国の一部が蝦夷に奪われている。それをそのまま捨て置くわけにはいかないのだ」
憤って何事か言い返そうとした小角の口許を、田村麻呂は指の先で制した。
「宝亀五年の朝賀の儀から、蝦夷は友好国の民では無くなったのだ。それが朝堂の見解なのだ」
田村麻呂の諭すような静かな声音に、小角は返す言葉に詰まり、俯いた。
「少なくとも今後は、毛野の民が謂れの無い火付けの罪を担わされる事は無い。二年前、正倉の調が台帳と見合わない場合は理由の如何に関わらずその国の国司の責任において補填せよと大君は詔されている。顔色を失った朝臣も多く居たようだったが、私も一外官として、そうならぬよう心しよう」
田村麻呂はそう言い残して任地へと去った。
三月九日、徴発をかけられていた諸国の兵は多賀城へと集められたと報せが入り、翌日には伊勢社へ向けて、長岡宮から征討の報告の幣帛使が発せられた。
三月十六日、吉備泉が斥けられて後、大納言中務卿東宮傅、南家藤原継縄が長官を勤めていた造東大寺司はこの日、ついに廃止とされた。
人麻呂からその事を知らされた小角は、再び大きな転換期が訪れているのだと強く感じた。
斎宮での穏やかな暮らしは、小角に、これまで置き去りにしてきた様々な思索を思い返す時を与えてくれていた。
手が空くと裲襠の繍を続けながら小角は来し方を思った。
飛鳥浄御原帝(天武帝)が築いた神性有る皇の統べる国としての倭人の国を、鸕野讚良(持統帝)、安閉(元明帝)、氷高(元正帝)は、三代に渡って守り続けようとした。
皇統による親政を切り崩したのは、天つ神の神祇を司る中臣氏に生まれた不比等であった。
だが皮肉な事に、その不比等の血を引く首(聖武帝)と安宿(光明子)が共に目指したのは、皇統の礎として祀ってきた天つ神ではなく、仏教による国家の安泰だった。
首は在家のまま行基に受戒させ、陸奥国から百済王敬福によって金が献上された時には、大仏の渡金が叶う事に慶びの剰り、百官の前で、帝位に在る己を三宝の奴とまで述べたのだ。
父帝への敬愛から、仏教を篤く庇護した阿倍は、治世の間、伊勢社を省みなかった。
己の後の日嗣を廻って絶え間なく起こる争いから、み仏の教えに反してその手で多くの皇統を断罪しなくてはならなかった阿倍は、その罪の重さに堪えかねた。
そんな阿倍に、狼児は中庸を説き、信仰の融合と寛容性を持って阿倍の心と治世の混乱を鎮めようとした。
そこへ宇佐八幡神を祀る者達と、狼児を排斥したい者達は、結託してつけ込んだのだが。
何れにせよ、営々と続けられて来た国家による仏教への庇護は、ここに終焉を迎えたのだ。
だからと言って、み仏への信仰の集中が希薄になるとも思えない。
既にみ仏への信仰は、一部の大氏族や官人のものではなく、今や庶人の暮らしにまでも、広く行き渡っている。
国つ神の力は廃れていくのだ。
現に小角は、もう随分以前から、水鏡を覗いても、何も見いだせなくなっていた。
先を視る力は失われたのだ。
玻璃はどうなのだろう。
毛野の国でも、優婆塞や身を持ち崩して放逐された僧侶が居ないわけではあるまいが、み仏の教えはまだ根付いていない。
毛野の民の信仰は、その国つ神の許に集約され、それを支えるのは玻璃一人なのだ。
その力が易々と衰えるとも思えないが、阿弖流為は、白銀城を築くにあたって知恵を貸したのは倭人の僧侶だったと言ったものだ。
確かめる術はもう無いが、それは玄昉と行基の師で、我が父の師でもあった道昭ではないのだろうか。