第参部 東征 七 斎宮
延暦七年(788年)
年が明けて間もなく、小角は飯高の館から斎宮へと上がった。
斎宮は大国の国府のような構えで、周囲には水路と大垣が巡らされ、平城の都の朱雀大路の様に松や柳が列を成して植されていた。
垣の内は宮の様に整然とした坊城の区画を持ち、三院に分かれ、司所や、斎宮に仕える者達が暮らす建物が建ち並んでいた。
まるで小さな宮に居るようだと小角は思った。
檜皮葺きの中院の斎宮頭の執務室では、賀茂人麻呂が待ちかねていて、懐かしそうに真火様と呼び、慌てたように袖で口を覆って見せた。
「おお、今は鈴鹿様でいらっしゃいましたな」
円い顔が笑うと尚円く、頬はつややかで老いを感じさせず、人の好い笑顔は少しも変わっていなかった。
小角には斎宮寮の中でも、斎宮頭が執務する中院で暮らし、斎宮頭を補佐する役目が用意されていた。
「それにしても驚きました。てっきり後見は諸高様だとばかり思っておりましたが、まさか交野の坂上の若君とは。あの君の父君ならばいざ知らず、若君に一体何時お会いになられたのです」
「さていつ頃だったかな?」と惚けて見せた小角に、人麻呂は相変わらずお人の悪い事でと更に嬉しそうに笑った。
「そう言えば諸高もそう呼んでいたが、何故あの君は交野の坂上の若君と呼ばれるのだ」
小角はふと思い当たって訊ねてみた。
「ああ、それをご存じ無いと知って、大方の見当が付きました。極最近知り合われたのですね」と人麻呂は語り出した。
「あの君がお産まれになったのは、真火様、いや鈴鹿様が阿倍様と仲違いをなさって宮を飛び出された頃の事と聞いております」
恵美押勝が橘奈良麻呂を陥れ、賀茂角足と共に拷問のあげく殺した時、小角はこんな宮に居られるかと阿倍に怒りをぶつけ、引き留める諸高を振り切って宮を去った。
阿倍の信頼を得た狼児が、阿倍の為に宮へ戻ってくれと請いに、葛城の高宮に脚を運んだ日まで、阿倍を案じる気持ちから目を背けて宮には脚を向けなかった。
その後も保良宮で恵美押勝に襲われかけてからは、阿倍が病の床に臥せるまで、小角はやはり宮から離れていた。
「法王様(道鏡)がお立ちになった頃には、度々父君と宮を訪れる事もおありでしたが、その頃も鈴鹿様は宮にはおいでになりませんでしたね」
辛かった角足の死も、見守る事しか出来なかった阿倍の死も、時が過ぎると在りし日の楽しい思い出ばかりが浮かんでくるものだと小角は思った。
たった今、人麻呂に言われるまで、阿倍とよく口論したことさえ記憶の彼方へ去っていた。
「あの君はお産まれになって直ぐに母君を亡くされ、坂上氏の本貫地の曾布では無く、交野の乙訓で育たれたそうでして」
交野の百済王理伯はそのみどり児を糸惜しがって、やがてはその館で俊哲や明信と兄弟の様に育てられた。
父の苅田麻呂は、檜前の東漢氏の縁者からも、曾布の坂上氏からも人を遣わして、下にも置かぬ扱いだったそうた。
特異な容貌を持ちながら、それが障りとなることも無く、健やかに伸びやかに育った男児が、やがて内舎人として出仕し、東宮だった山部の目に留まり、曾布で生まれ育った苅田麻呂の嫡子が病で亡くなり、継嗣となった。
「あの君の母君は百済王氏の縁者だったのか」
小角が何気なく言うと人麻呂は我が意を得たりと掌を打った。
「其がそうではないと宮では専らの噂でした。何しろあの君はあの容貌ですから、それはもう様々に語り草となっておりましたが。尤も幼い頃から人を逸らさぬ気性のお子でしたから、皆直ぐその様な事は忘れて、親しまれるのでしょう」
成る程と小角は思った。
私が宮に在った時期と入れ違う様に、あの君は宮に出入りするようになったのか。
道理で覚えが無いわけだ。
もし私の姿に見覚えがあるとすれば、阿倍の臨終の間際の、ほんの僅か枕辺を離れた時位だろう。
やはりあの君は不思議な男君だ。
人目を引く容貌も、生まれの複雑さも、その身に少しも影を落としていない様に感じられるのは、あの君の心が負の感情に曳かれない強靭さ故なのだろう。
身分低い者にも礼を失しないのは、真の矜持の高さというものかもしれない。
斎宮での暮らしは小角にとっては穏やかで暮らしやすいものだった。
采女とは言え、内院に仕える者でも、地方の氏族の者ともなれば斎王の傍近く侍る事もなく、雑事をこなす事が役目だ。
斎王の身近には都の貴族から選ばれ、共に群行してきた命婦や乳母達が常に控えている。
朝原はまだ幼く、何よりも今上の寵愛篤い酒人の産んだ内親王でもあり、丁重に厳重に護られていると見えた。
人麻呂は小角を己の眼の届く中院に仕える者としてくれた。
主に斎宮頭の身近で執務の補佐として雑事をこなし、十三司への下命や指示を伝える事が勤めだった。
年に三度、斎王が御禊の後、伊勢社に赴いて執り行う祭祀が滞りなく行えるよう計らうのだ。
日々の勤めの合間には斎宮に仕える者も、宮と同じ様に、様々な行事を行い、楽しみながら日々を過ごしている様に見えた。
餓えも無く、政争も無く、静かな日々だった。
思えば井上は朝原と同じ様に、物心ついてから、安積が亡くなるまでの長い年月を、この穏やかな時の流れの中で暮らしてきたのだ。
忌の際に井上は「皇統の生まれも、皇后の位も、私が望んだわけでは無かった」と言った。
不破は何事につけ、不満ばかりを口にする女君だったが、小角が嘗て知っていた井上は穏やかで物静かな女君だった。
此処での暮らしがあの穏やかさを培ったのだろう。
首(聖武帝)は井上が穏やかに暮らせる事を願って白壁王と婚姻させたのだったが。
あの頃、まさか井上は己が皇后になるとは思っていなかっただろう。
皇后になりたがったのは不破だった。
貧しい下級官吏や末孫の王族がよくその身の上を嘆いたりするが、身分や財があったとしても人は思うようには生きられないものだ。
小角は嘗て井上が隠された屋敷を探している時に商人から買い上げた、染めた象牙を細工した釵子を手放さず持っていた。
井上を思えば、いつか酒人の手に渡してやりたいと漠然と思ってはいたがこれまでは特に当てもなく機会も無かった。
人麻呂に預けて朝原が退下する時に宮へ持ち帰って貰うのが良いかも知れない。
小角は手が空くと裲襠の繍を続けながら、黙々と日々の勤めをこなした。
春も酣となり、花の季節が訪れると、水無月の月次祭に向けて、斎宮の内は大祭の支度で忙しくなっていった。
長岡の都では、翌年の東北への出兵を前提に軍備が整えられ始めていた。
兵糧とする大量の穀類や糒が多賀城へと送られ、歩兵、騎兵の徴発が令された。
今上が今最も重用する大納言継縄は、宝亀の乱の時、先帝から大使に任じられながら自らは動かず、あからさまに反対こそしなかったが、出兵もさせなかったという来歴を持っている。
多くの朝臣は、この度も東北への出兵に継縄が反対するものかと予測したが、継縄は東征軍の議題には一切口を挟まなかった。
山部は父帝同様に、征東将軍は紀氏か大伴氏の者から選ぶつもりだった。
東宮大夫の紀古佐美は、近頃、自らが宝亀の乱で陸奥国へと赴いた事を盛んに吹聴しているようだ。
推挙を望んでいるのだろう。
朝堂院では盛んに出兵について議論が交わされた。
国庫に余裕が有るでもなく、兵を出すに当たっては財政の調整が必要だ。
何事かを先送りにするか取り止めねばならない。
それでも尚、戦をするならば、確実に功を成さしめねばなるまい。
後宮では患いついていた夫人、藤原旅子が里邸へと退がった。
口さが無い者達は、百川の血筋はその生前の行いから、先の廃后と廃太子の恨みを買うのだろうと囁き交わすようになり、酒人は胸を傷めた。
先日、大安寺の行表禅師から、見事な手跡で写経された法華七喩の写本に添えて、井上、他戸、早良を偲ぶ文が届いていた。
文の最後には、比叡山から降りた愛弟子を内道場に推挙して戴けまいかとの言上があった。
酒人も亡き皇太弟から行表禅師の弟子の事は聞いていた。
玄昉僧正から伝わった経典を行表禅師が写経させており、更にその教えを受けていた弟子が携わった。
その若き僧侶は東大寺に移っても兄弟子や弟弟子の助力を得て写経をたゆみなく続けて完成させたが、ある日、その経典の解読に打ち込みたいと比叡山に隠ったのだそうだ。
その僧侶が、遂に五千巻を越える大蔵経の読破を成し遂げたのだと思うと酒人の道心は強く掻き立てられた。
己も仏の道を歩めば、迷いや愛欲の苦しみから逃れられるだろうか。
必ず私から大君に推挙致しましょうと行表には返事を遣ってあり、義兄が訪れた時に写本を見せ、行表禅師の弟子の話をした。
山部は流麗な手跡の写本を手に取ってしみじみと見た。
「早良から聞いていた者だろう。三津首の出で、確か名は最澄といったかな」
早良はいつか遣唐使を送る日が来たら、推挙したい者が居ると言っていた。
玄昉僧正や道鏡禅師の前例を思えば、内道場に求心力ある僧侶が居る事は不穏だったが、今ならば、七大寺の何処かに居られるよりは内道場に在る方が良かろうか。
何より早良の遺志でもあり、酒人がそう望むのであれば。
長岡に遷都してから、都の内での流行り病は治まったが、昨年からの日照りに続いて、この冬も雨や雪の少ない冬だった。
そのうちこの干魃も、やがては誰かの祟りだと噂する者が現れよう。
飢饉への対応は勿論だが、風評から官民の眼をそらす必要がある。
奥州への出兵にはその効果も見込まれる。
だが、雨は必要なのだ。
種蒔きの季節を控えて、昨年からの五畿の水不足は深刻となっていた。
皇族や官人の私領にも、水があるなら公民と田の水を分け合うように勅された。
四月の半ばのある日、昼の御座所の窓から、晴れ渡った空を眺めて、山部は明信に「朕自らも降雨を祈念するとしよう。前庭に祭壇を設えさせてくれ。明日から雨が降るまで、毎朝行う」と簡潔に言った。
明信は直ちに神祇伯、大中臣子老に大君の詔を伝えたが、内心は不安で胸も潰れんばかりだった。
もし大君の祈願に効無しとなれば、権威の失墜の発端にもなりかねない。
大中臣子老も同じ不安を抱えながら祭祀の支度を整えさせた。
大君が明日から降雨祈願をされるという話は瞬く間に宮中に伝わった。
翌朝、山部は早朝に沐浴して潔斎し、祭壇で降雨を祈願した。
山部自身が驚いた事に、この日、山部が祈願を終えると空は俄に暗くなり、激しい勢いで雨が降った。
山部自身は偶然の賜物と信じて疑わなかったが、この事は百官を仰天させ、感じ入った官人は口々に大君の功徳を誉め称えた。
一日ばかりの降雨があっても仕方がないと、山部は伊勢社は無論、七道の名神大社に幣帛使を出し、降雨を祈願させた。
果たして雨は降り、この年の稲の作付けは滞りなく行われた。
五月四日、患いついていた夫人、藤原旅子は後宮から里邸へと退がっていたがこの日薨じた。
長年後宮で尚縫として重きをなしてきた祖母、諸姉も既に亡く、母をも失った幼い大伴皇子を糸惜しんだ山部は、諸姉と旅子に忠実に仕えてきた女官を母代としてこの皇子を育てさせる事とした。
六月二十六日、先年の伊勢での働きを認められて、田村麻呂は越後介を兼ねることとなった。
外官を勤めた事の無い者が、守として外官の任に着く前に介となるのは恒例の事なので次の越後守が田村麻呂である事は周知の事と言えた。
外官となれば恐らく任期の間は都へは戻るまい。
年が明けてすぐ、娘の入内の支度に追われ、息つく間も無く慌ただしく都を発つ支度を整えながら、田村麻呂はあの葛城の斎媛に伝えておかねばならないのではないかと考えた。
斎宮頭からは、ご後見頂いている飯高の采女が斎宮に入り、恙無く過ごしていると報せが来ていたが、任地へ赴く前に斎宮を訪れるとしよう。
そう約したのだ。
蛍の事を案じなくて済むように、蛍と共に訪れると。
水無月の大祭を無事終えて再び穏やかな日々を取り戻した斎宮の中院で、小角は斎宮頭から「鈴鹿殿の客人が中門の外にお越しですぞ。」と意味ありげな目配せと共に伝えられた。
小角はもしや飯高の館からではないかと胸を騒がせながら寮を出た。
数日前に飯高の館から使いが来て、諸高が床に着いたきり起き上がれなくなったと報せられていた。
中門を見やると、遠目にも一際目立つ、黒鹿毛の陸奥駒に跨がった深紅の位襖の武官の姿が目に入った。
田村麻呂が蛍に逢わせに来てくれたのだ。
足早に中門へ向かうと、蛍が小角に気づいて頚を振り、控えめに嘶いた。
蛍の背から降りて、田村麻呂は目元を和ませながら小角の采女姿を眺めた。
「健やかにお過ごしのようで何よりだ。私はこの度、越後の介に任じられて都を離れる事になった。蛍も任地へ連れて行こうと思うのでお報せに上がった」
小角は笑おうと努めてみたが唇の端が微かに動いただけだった。
「態々報せに来てくれたのか。忙しかろうに足労をかけて済まない事だ。良くして貰っているのだな。蛍を見ればよくわかる」
小角が答える声も表情も、どこか沈んでいる事に田村麻呂は気づいた。
何か気にかかる事があると見える。
小角は蛍の頚を抱いて頬擦りしていた。
田村麻呂が思い出したように「そうだ、蛍の事だが、劔と番になりそうなのだが、妻合わせてもよかろうか」と言った。
小角が驚いて向けた視線を受け止めて、愉快そうに藍色の眼が瞬いた。
「尤も、この二頭が睦まじくしているのを引き離すのは私には酷いことの様に思われるので、もし貴方が反対されても、私は聞き入れる気は無いのだが?」
屈む様に顔を覗き込んで言われて、小角は噴き出した。
「では何故聞くのだ。第一私が厭がるなどと思っていまい」
田村麻呂も笑いながら答えた。
「そう言って下さると思っていた。仔ができたらお報せしよう」
藍色の眼がふと色を深くした。
「漸く笑われたな。何が貴方を憂わせていたのだ」
意表を衝かれて見開かれた小角の眼を覗き込んで、田村麻呂は問うた。
言葉に詰まった小角は視線を逸らして蛍を見遣った。
「諸高が臥せっているそうなのだ。人麻呂は行ってこいと言ってくれたが」
言い澱んだ小角は俯いた。
老いて死に向かう者を前にして、己に出来る事など挙哀(死者を悼み、哭いて弔う事)の外に有りはしない。
繰り返されてきた今生の別れの辛さと、それでも諸高に会いたい気持ちの狭間で小角は後込みしていた。
「ならば今から参られるが良かろう。私がお供しよう。蛍も貴方であれば一人乗り手が増えても文句は言うまい」
田村麻呂はいとも簡単に言い、小角を鞍の前に抱き上げて乗せた。
慌てた小角は、人麻呂に出掛けるとも告げていないと抗議したが、田村麻呂は誰かに伝えさせれば良いと、通りかかった何処かの司の者に「この方を里までお送りすると斎宮頭に伝えてくれ」とだけ言って馬首を巡らせ、鐙を軽く蹴って蛍を駆けさせた。
田村麻呂と小角が飯高の館に着いたのは陽も傾いた頃だった。
飯高の館には大刀自を慕う者が館の外まで群れていて、厩から門へ向かうのも一苦労だった。
館に脚を踏み入れると田村麻呂の姿を見て心得た者が居て、直ぐに諸高の許へ通された。
古くからの氏族なれば、臨終にあたっても僧侶による御修法では無く、挙哀の為の哭女が数人傍らに控え、縁ある者達が集って嘆いていた。
枕辺に控えていた女衆が小角の姿に気づき、涙ながらに指し招いてくれた。
既に諸高は呼んでも答えず、まだ息はあったが、時を待たずして不帰の人となることは一目で解った。
手を取ってみても、僅かな反応も無かったが、目を閉じたままの貌には苦痛は見られなかった。
白くなった九十九髪も、深く皺の刻まれた貌も、見苦しくないよう仕える者が気を付けていたのだろう。
小角は取った手から、みるみる生気が薄れていく事を感じ取った。
下顎が僅かに下がり、息がか細くなり、やがて絶えた。
逝ってしまう。
初めて宮で会った時にはまだほんの童子だった。
笠女に叱られて泣いていた。
平城宮で共に四帝の治世を見てきた友は、年頃になっても夫の君を持とうとせず、子を得る事もなく、老いて、一人、死出の旅路へと発ってしまった。
小角は傍らに座した女衆に「大刀自は今息を引き取られた」と伝えた。
女衆の、哭女達の慟哭の声の中、小角は立ち上がって曹司を出た。
田村麻呂はその背を追った。
「鈴鹿殿」
控えめにかけられた声に、娘の肩の辺りが僅かに動いた。
「私はどうやらもう涙の流し方を忘れてしまったらしい。これ程哀しいのに挙哀はできそうにない。伊勢社に帰ろう」
俯いたまま振り向かない小角の背に田村麻呂はそれ以上声をかける事が憚られた。
夜も更けて、斎宮への帰路を田村麻呂は蛍の脚をゆるゆると進めさせた。
「あの方は、ご自分がどれ程傷ついているのか、お気づきでは無いかも知れません」
鞍の前に座る小柄な娘の頭が俯いているのを見ながら、田村麻呂には先だって諸高が言った言葉が思い返された。
涙は流した後に心を安らかにするものだ、泣けないのは辛かろう。
この方は人を癒す事は出来ても己を癒す術は持たないものか。
娘の躰は手綱を持つ己の両の腕の裡に在るけれども、同時に遥か遠くに隔たっているように感じられた。
常人ならぬその哀しみを慰める事は誰にも叶わないのだ。
振り仰いだ夜空には上弦の月と満天の星の中、横たわる河漢があった。
「ご覧じろ」
田村麻呂の響きの佳い声に小角は顔を上げた。
促されるままに天を振り仰いだ。
白く輝く天の安河を挟んで瞬く星々の中でも、風星が北の外れで一際蒼く輝いているのが見てとれた。
「皎皎たる河漢だ」
田村麻呂も空を見上げていた。
「今夜は星合いだ。天地の気を司る貴方が哭くと、弟織姫と夏彦が逢えなくなるかと、今夜だけ天帝が貴方に涙を忘れさせたのだろう」
小角は僅かに振り向いて田村麻呂を見上げた。
慰めてくれているのか。
「そうか。そうだな。今夜を逃せば明日を隔てて年は長かろう。鵲の橋が無くなる朝が来たらたんと泣くとしよう」
小角は唇の端を僅かに上げて見せた。
「ああ、そうして貰えると交野の民も喜ぶだろう。織物社は今夜は歌垣で賑わっているだろうからな」
田村麻呂は穏やかな声で答えた。
大刀自は天寿を全うされたのだ。
そしてこの方と共に在れた事を幸いだったと思っておいでだった。
今その事を口に上らせてもこの方を更に苦しめ、傷つけるだけだろうが、いつかその事を伝えて差し上げよう。
五畿
畿内五国
山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国
七道
東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道
大蔵経(一切経)
玄昉が帰朝と共に持ち帰ったとされる五千余巻の一切経が、玄宗皇帝下に編纂された大蔵経の写本と考えられる。
織女の 今夜逢ひなば常の如 明日をへだてて年は長けむ
萬葉集 巻十 詠み人知らず