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六月  作者: 賀茂史女
24/53

第参部 東征 六 明信

延暦六年(787年) 秋

近衛少将坂上田村麻呂が伊勢国に赴いていた間に、長岡の都ではこの年の祭天を翌月に控えて、大君の交野行幸が予定された。

山部にしてみれば、聖武帝、孝謙・称徳帝が、国家鎮護を仏に求めた故に肥大した政と寺社との癒着を絶つ為には、大君が信奉するものは仏であるわけにはいかない。

ようやく寺社の呪縛に括られた平城の都から脱したのだ。

暫くは祭天の儀式を続けるつもりだった。

昨年、大納言継縄は居並ぶ朝臣の前で、感に堪えないと言わんばかりに「伝え聞く古の封禅(ほうぜん)の儀とは(まこと)にかようなものであったのでしょう」と述べ、多くの朝臣を頷かせた。

嘗ての淡海帝(おうみのみかど)(天智帝)や飛鳥浄御原帝あすかのきよみはらのみかど(天武帝)の如く、血筋に裏付けられた権力を持たない己が君主となるために杖とできるのは儒教とその祖である道教だと山部は確信していた。

十月十七日に山部は交野へ赴き、祭祀の用意が滞り無く為されている事をその眼で確かめた。

その日は大納言式部卿、南家藤原継縄の別荘が行宮とされた。

この邸は継縄が百済王明信に通うようになって、明信の父理伯が造らせた屋敷だった。

儒教に造詣の深い継縄の好みに合わせ、難波館(なにわのむろたち)を真似た、唐風の瀟洒な造りの邸で、継縄と理伯は、百済王氏の中から才ある者を集め、種々の楽を奏で、舞を披露させて大君をもてなした。

中でも近頃大陸から伝わった、双調(そうじょう)の唐楽、柳花苑で舞われた女舞は、四人の舞手によって舞われる艶美な演目で、山部が口を極めて称賛し、供奉する官人も口々に褒め称えた。

理伯からは舞い手の(おみな)達を奉りたいと申し出があり、山部は受諾した。

その晩、夜御座所(よるのおまし)とされた対へ渡った山部は、そこに寝衣で控えているのが明信だと気づいて脚を止めた。

宮がまだ平城の都にあった四年前、遷都の候補地として交野へ行幸した際、百済王理伯の屋敷での夜の床に明信が侍り、山部は皇太子となる以前の日々を取り戻したように思った。

嘗て儒教や大唐の歴史について熱心に論を交わした、勝ち気で才気煥発な想い人は、(おうと)と子が出来て人柄が練れ、更に魅力を増していた。

山部は明信の才を見込んで出仕を望み、長岡宮で明信は有能な女官として欠くべからざるものとなったが、後宮では様々に憚りがあり、明信が山部の床に侍る事は無かった。

酒人が苦しむだろうと解っていても、山部は今更明信を手離す気にはなれなかった。

明信は典侍として出仕していたが、現実には後宮の第一人者となった。

何時までも権限が低いのは勤めの妨げとなるだろう。

山部は機会を見て明信の位階を上げるつもりだった。

この夏の終わりの交野への行幸では大納言継縄の樟葉の屋敷が仮宮となったが、そこでも夜の床に明信が侍り、翌日、山部は明信に正式に尚侍としての地位を与えた。

「継縄と言い、理伯と言い、朕の意を汲み過ぎる様だな」

明信は平伏したまま答えなかった。

「酒人に恨まれような。だがそれもこれも、朕が業深さからだ」

明信の身を起こさせ、顔を覗き込んで、山部はやや自嘲的に笑った。

「それでこの度は何を願い出ろと言い含められた?」

四年前、明信が山部の床に侍った時は、継縄から遷都に当たって式家に利が集中せぬよう計ってくれとの言上を申し付けられていた。

この夏には、母を恋しがって東宮坊で過ごしたがらない安殿皇太子の加冠を促す言上だった。

明信は山部の視線を受け止め、声を潜めた。

「この度は何も申し付けられては居りません。ですが私が申し上げたい事が御座います。聞かれれば我君のお心を乱しましょう。何卒お人払いの上、最後までお聞き届けください」

「お前がそう言うのなら余程の事なのだろう。心して聞くとしよう」

山部は宿直(とのい)の資人を下がらせ、誰も近付けないよう申し付けた。

明信は山部の顔を見上げた。

「早良様の事で御座います」

吉備泉様より伺いましたと明信の言葉に山部の眉間に皺が寄った。

造長岡宮長官(藤原種継)が矢で射られる数日前に、吉備泉は藤原雄依から大伴家持の忌の言葉を記したものを見せられた。

泉はそこに記された事を己一人の胸の内に納め、居合わせた部下達にもそれについて語ることを固く禁じた。

雄依はその足で東宮坊に赴いて、家持が親しんできた者達にもそれを見せ、早良皇太弟にもお目にかけるようにと伝えたが、よもや種継が狙われるとは思っていなかったと自白していた。

その自白に偽りはあるまいと思われた。

遷都に抗う者達は、その憎しみを先ず造営長官である種継へと向けた。

早良皇太弟は自身の意思に関わらず、遷都と造営に抗う者達から、嘗て幾度も繰り返されてきた日嗣ぎの争い同様に、新皇として担がれようとしていた。

弾正尹神王(みわおう)からはその様に報告されていた。

「泉様は少し違うのではないかとお考えになったそうです」

恐らく雄依の本来の目的は、早良皇太弟の謀反の背景の潤色のみだったのではないか。

「どう言うことだ。雄依は家持の遺志を継いで、早良を新皇としたかったわけでは無いと言いたいのか?」

(さき)の大蔵卿(雄依)は藤原北家と式家の父母を持たれる方です。藤家の利にならぬ事は為されますまい。寧ろ早良様を退けられたかったものかと存じます」

緊張で強張った明信の表情を見て、山部は辺りを憚って居るのだろうと、その細い胴を抱き寄せた。

辺りに人の気配は無く、虫の声と御燈台の大殿油の燃える微かな音が耳についた。

「この春、宮に上がりまして、尚侍(ないしのかみ)尚蔵(くらのかみ)を兼ねる内に気づきました。前の尚侍(安倍古美奈)が亡くなる前に、造営長官と大蔵卿に、暗に申し付けられた事があったのではないかと」

山部の腕の中で、声を潜めて、これは私の推測でしか御座いませんが、と明信は前置きした。

「皇后様の玉璽で、造営長官と大蔵卿に幾度か多大な下賜が行われて居ります。前の尚侍は皇后様の母君で在らせられました。或いはお二人に、式家の血を引かぬ日嗣の皇子を退ける機会を逃さぬように申し付けられたのではないでしょうか」

成る程と山部は思った。

そう考えると総ての辻褄が合う。

或いは良継と百川の遺言であったのかもしれないが、古美奈が謀った事が裏目に出たのだとすれば。

早良を讒言で排斥しようとして、逆に種継を失ったものか。

種継を失えば、乙牟漏も旅子も有力な後ろ楯が無くなる。

乙牟漏の産んだ病弱な安殿親王に比べて、南家藤原吉子の産んだ伊予親王が健やかで聡明であることも式家にとっては脅威だったろう。

早良は長く僧籍にあり、還俗してからも妻とする女君を持つ事に馴染めず、後宮に女君は居なかった。

当然、様々な氏族から(おみな)奉ると申し入れはあったはずだが、斥けていたのだろう。

井上や他戸と同じく、藤原の姫を入れられぬ事に業を煮やしたのかもしれぬ。

或いは南家の氏長者、継縄が伊予親王に肩入れする前に手を打とうと考えたものか。

雄依は北家の父と式家の母を持つが、北家には外戚となる後宮の係累が無い。

大蔵卿となったのは母の式家の公卿から強い推挙があった故だ。

「雄依様は種継様の死を復と無い好機に変えようとお考えだったのでしょう。神王様が雄依様をお取り調べになった時、雄依様自ら早良様の御名を出され、家持様の遺書と早良様がお持ちの歌集の事を神王様にお伝えになったそうで御座いますね」

明信はさらに言葉を続けた。

「泉様は神王様に、事を審らかにする為に、再度お調べをと言上されたそうです。神王様は、今更その事を蒸し返しても、大君のお心を苦しめるだけだと諌められ、その事を発端にお二人は朝堂院で争われたのだそうで御座います」

言いにくそうに「神王様の我が()への報せを漏れ聞きました」と継げて、明信は顔を伏せた。

明信がその事を知ったのが、実際には継縄の床の中であろう事は山部にも判った。

明信は背に廻された山部の腕に力が籠ったのを感じて、その懐に顔を埋めた。

「古美奈か」

山部は今は亡き前の尚侍の顔を思い浮かべた。

山部に対しては当然、常に慇懃で丁重であったが、後宮に出入りする者達は皆畏れ、その顔色を窺っていたものだ。

「亡くなって後まで式家の日嗣ぎをと考えるとはな。怨念とはかくなるものか。乙牟漏は承知だろうか」

明信の手を取り、弄びながら山部は呟いた。

明信は肩の荷が降りたように吐息を洩らし、身を寄せて、囁くように答えた。

「皇后様はご存じありますまい。あの方はそのようなお考えをお持ちの方では御座いません」

さもあろうと山部は思った。

乙牟漏は父母に似ず、素直で穏やかな世間知らずな姫だ。

あれが朕を欺ける程、俳人(わざびと)のような真似が出来るはずもあるまい。

だが旅子はどうだろう。

古美奈の許で長く後宮の尚縫を勤めた良継の娘、諸姉を母に持つ旅子は、或いは何か聞かされているかも知れない。

旅子は大伴皇子を産んだ後、健康も優れず塞ぎ込んで、このところは殊に思わしくなかった。

「雄依は自ら罪を被ったということか」

「私にはその様に思われます。今、私の申し上げた事には証が御座いません。全て私一人の胸の内から出た事です」

既に安倍古美奈も大伴家持も亡く、雄依も罪を問われて流罪となっている。

何より、今更早良は還っては来ない。

怨念も執念も、排斥すればするほど更に新たな怨唆を産み出すものだと、無論山部は知っている。

だがあの忌まわしい一連の出来事を思えば、どんな形であれ、連座した者達を許す気持ちにはなれなかった。

朕は早良を救えなかった。

己の力不足から、井上廃后や他戸廃太子と同じく、みすみす死なせてしまったのだ。

「そうか」

朕が心を許せるのはやはり酒人と、そしてこの聡い尚侍のみと言うことか。

「それでお前は朕にどうして欲しい?」

山部は己の腕の中で俯いている明信の頤に指を掛けて、顔を上げさせた。

「どうか藤葛に巻き取られませんよう心して下さいませ」

訴えるような眼差しと声音に、糸惜しさが急き立てられた。

「お前の()は南家の嫡流であろう」

「そのような事を仰せられますな」

明信の顔が辛そうに歪んだ。

嘗ては山部の身分の低さが互いの障りとなり、今は山部の身分の重さが障りとなるとは何と皮肉な事だろうか。

「我君のお心を苦しめると解っていながら黙していられなかったのは私です。胸の裡に芽生えた疑いの重さに一人では耐えられなかったのです」

人目を忍び、平城宮(ならのみや)や、白壁王の邸で密かに逢っては、大陸の情勢や律令について論じ、漢詩を愛で、歌を詠み交わしていた頃から、今やお互いの身分は逆転してしまい、大きく隔たってしまった。

己は南家藤原氏の総領の妻となり、東宮となる以前の山部王が、母違いの妹君の一途な想いを受け入れて、終わった筈だった。

もうあの若き日には戻れないのだ。

四年前、父と夫から大君の床に侍るよう言われた日に、明信は今更私ごときが侍るより、誰か若い者をと辞退したが容れられなかった。

そして躰を重ねてしまえば、隔たっていた筈の距離は消え失せてしまった。

「朕と分かち合う事を望んだと言うのか。(うま)い事を言う」

山部は微かに笑って、更に明信を抱き寄せた。

「以前お話し下さいましたね。整った国とは一部の有力氏族の意向で政の舵が採られるものでは無いと。官人は氏族の強弱で選ばれるのでは無く、その者の能力を発揮できる宮で在るべきだと。私もその国を拝見させて戴きたいのです」

明信の腕が己の背に縋ってきて、山部は髪に顔を寄せて「ああ、そうしようぞ」と言った。

応える様に仰向いた面の唇を探しながら、「その為に、お前が宮に在ってくれるのであればな」と囁くと、悦びに戦くように明信の躰が寄り添ってきた。

「私なぞに出来る事がどれ程有りましょう。それでもお傍に在れるなら、能う限り」

我君の、と言いかけた残る言葉は、深い口づけに吸い盗られ、御燈台の灯りが造る二人の影は衣擦れの音と共に崩れ臥した。


十一月五日に交野で執り行われたこの年の祭天の儀式には、大納言藤原継縄が遣されて祭文を奉った。

伊勢国の野盗討伐の任を果たして都へ帰還した近衛少将坂上田村麻呂は、休む間も無くその警護の任に着いた。

祭天は滞りなく執り行われ、供奉した朝臣は、やはり今上はみ仏の慈悲よりも、儒教の理による国家鎮護をお考えなのだと心に刻んだ。

どの士族も、氏長者を失った式家に替わって大君と所縁を深めようと目論んでいた。


小角は極月の前に三子山の庵を引き払い、里主に挨拶に行った。

飯高の館で暮らす事になったと告げると皆、口々に別れを惜しんでくれた。

伊登は怪我も癒えて笑顔が見られる様になっていた。

心の傷はやがて時が癒してくれるだろう。

炊屋で下働きの女衆にも別れの挨拶をしていると、年端のいかぬあの娘が「鈴鹿様はあの都の君に召されるのか?」と嬉しそうに訊ねた。

小角は勿論、居合わせた者達も仰天した。

「なんだ違うのか。あの都の君は鈴鹿様の事をお気に召した様だと皆が言っていたのでそうなのかと思ったが」

けろりとした顔で言った娘の周囲で、恥じ入りながら、水士女の媼が「()れらは口さがないので、失礼な事を申し上げました。鈴鹿様とあの君が親しくおなりのようにお見受けしたのでそんなことを考えてしまったものでしょう」と言い繕った。

そんな風に見えていたのかと小角は思いながら「いや、気にかけないでくれ」と答えたものの、顔が紅らむのは止められなかった。

親しいなどと。

どうしてそんな風に思われたのだろう。

確かにあの君は煩く私の行いに口を出してはいたが。

だがもうそんなことも起こるまい。

あの君は都へ戻ったのだし、私は年が明けたら斎宮へ去るのだ。


其からの一月を、小角は飯高の館で穏やかに過ごした。

織り貯めた葛布の大方は諸高が銭や衣に替えてくれたが、手元にまだ幾らか残った。

葛布特有の淡く緑色を帯びた白金の光沢を持つ、強靭な張りのある布を拡げて眺めながら、(ぬいとり)をしたら立派な裲襠(りょうとう)が仕立てられそうだと、脳裏に思い描いた姿は、どういうわけかあの近衛少将だった。

慌てて頚を振ってみたが、一度思い描いた雲と龍の繍の紋様や、紅と金の色目は頭から離れなかった。

二丁、三丁と簸を増やして織るよりも地色を活かして繍を施せば絢爛さで劣ること無く、遥かに軽く、着易い物が仕上がるだろう。

手の向くままに、小角は裲襠(りょうとう)を仕立て始め、諸高も宮を懐かしがって、手を貸してくれた。


間もなく大晦となる頃、田村麻呂が蛍を連れに飯高の館を訪れた。

(からたち)と蛍は嬉しそうに顔を寄せ合って挨拶を交わした。

小角の顔を一瞬過った侘しそうな色を見て、田村麻呂は、貴方に煩がられる程、頻繁に蛍と共に斎宮を訪う事にしようと笑った。

「坂上の羽林の君は、大層由利様のお気持ちがおわかりになるのですね」

田村麻呂が蛍を連れて去った後、諸高が微笑み、小角はどこか居心地の悪い思いをしながら言った。

「ああ、どういうわけか、あの君と居ると、何もかも見透かされている様で落ち着かない。あの君は信ずるに足る男君だと思うのだが、身近に在ると、何故か私自身が愚かで取るに足りない娘だと強く感じさせられてしまう」

小角は唇を尖らせて俯いた。

まあ、と諸高は意外な物を見る様に小角の表情を眺めた。


延暦七年(788年)

年が改まり、程無くして、長岡宮では十五歳となった安殿皇太子の加冠の儀式が行われる事になった。

加冠役は皇太子傳、大納言藤原継縄が仰せ付かった。

継縄は身内に年頃の姫が居ない事を理由に、添い臥しには式家の姫が宜しかろうと、皇后乙牟漏の意を伺わせて、近衛少将藤原縄主と種継の娘の間に生まれた女児が選ばれた。

縄主はこの女児がまだ幼いものでもあり、その母を共に東宮坊に上がらせたいと申し出た。

種継の娘であれば言うまでもないと皇后は許した。

更に、まだ年若なその縄主の()が、祖母にあたる秦朝元の娘から様々に薬種の知識を授けられていると聞いて、安殿皇太子の健康の為にもなろうと喜び、母と離れたがらない安殿に良く良く言い含めた。

「母と離れて東宮坊でお暮らしになられても何を案ずることがありましょう。仕える者達は皆、必ず吾子の為になってくれましょう。吾子が母にお会いになりたければ、母は何時でも此処に居ります。ご安心なさいませ」

安殿にとって、叔父である皇太弟が廃されて己が立太子された経緯は、話には聞いていても深くは理解できず、親しんできた種継の死と結び付いて、ただひたすら恐ろしい出来事だった。

常に母と己を気遣ってくれた種継が殺され、あれ程父帝と仲が良く、優しく心の広い早良叔父君ですら廃されてしまうのだ。

そんな皇太子という重責をどうして独りで担えようか。

しかも己は父帝から早良叔父君ほど愛されているとも思えなかった。

安殿は以前、偶然女官達の噂を漏れ聞いた事があった。

帝はこちらの皇子よりも、南家の妃が上げられた健やかな伊予親王を愛でておられるようだと囁きあうその女官の背後から、まだご存命であったお祖母様が姿を顕して、厳しい声音で立ち去らせた。

几帳の陰に隠れて落胆していた己の許にひざまづいて、お祖母様は優しい声で、あの様な噂を信じられてはなりませんよと諭してくれた。

お祖母様はいつも「吾子はいずれ日嗣の皇子となられるのですよ。この婆も、母君も勿論ですが、藤原式家の者達が必ずお力になりましょう」と仰っておいでだったけれど、東宮大夫の紀古佐美も東宮傳の大納言(南家藤原継縄)も母の身内の者では無い。

「この度お側近くに上がる方は、種継の身内の者達ですから、きっと直ぐに馴染めましょう。仲良くされるのですよ」

母の言葉を聞いて、安殿の顔色にはやや生気が戻った。

「そうなのですね。私に出来うる限り努めて参ります」

安殿は母を安心させたい一心で答えた。

皇太子の初冠(ういこうぶり)の後には宴となり、山部は安殿と同い年の百川の遺児、緒継の事を思った。

百川の娘、旅子は後宮で夫人(おおとじ)として皇子も上げ、揺るぎ無い立場となっているが、緒継の事は母が違う所以か、さして気にかけている様子も無い。

この年の内に緒継の加冠を行わせよう。

あれは聡明で健やかな男児だ。

そう、朕自ら加冠を行うのも、父の無いあの男児の為には良いかもしれぬ。


その夜、百済王明信は安殿皇太子の添い臥しの枕辺に侍る母子を見て、顔色が変わるのを悟られまいと顔を背けた。

交野の屋敷で以前弟の俊哲が、藤原種継の子達と藤原小黒麻呂の子の醜聞を話した事があった。

他でもないこの東宮妃の母と、その兄、仲成と中納言北家小黒麻呂の子葛野麻呂の事だった。

これはどういう事になるものか。

我が夫は承知の事なのだろうか。

そして我が君に何とお伝えしたものか。

百済王明信の前任の尚侍は安倍古美奈

藤原良継の妻、桓武帝皇后 藤原乙牟漏の母

桓武帝の即位に伴い尚侍(後宮の長官、天皇の意を、天皇に代わって伝える役目)と尚蔵(後宮の蔵司の長官)を兼ねた。

淳仁帝の為に藤原仲麻呂が妻である藤原宇比良古(袁比良売とも。北家藤原房前の娘)を尚侍としたのが史記に残る初めての尚侍で、宇比良古は尚蔵も兼ねていた。

宇比良古が病没し、仲麻呂が乱で没した後、称徳代には尚侍の記録が無いが、典蔵、尚蔵には吉備由利が任じられている。

尚蔵の任は吉備由利以降、大野仲仟(大野東人の娘で藤原永手の妻、尚侍)、藤原百能(藤原豊成の妻、尚侍)と移ったと思われる。


裲襠(りょうとう)

武官が儀式の盛装として朝服(位襖)の上に着る錦の貫頭衣。

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