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六月  作者: 賀茂史女
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第参部 東征 五 飯高館

翌日には田村麻呂は床を上げ、河鹿共々、国府へ出掛けた。

其からの数日、田村麻呂と小角は朝夕の傷の手当ての間程しか顔を合わせ無くなった。

日中は田村麻呂は残務処理に忙殺され、名主の屋敷で姿を見ることは殆ど無く、坂下郷は常の日々を取り戻しつつあった。

小角はそろそろ庵へ帰る段取りをしようと考えながら、蛍だけが残る厩で、敷き藁を替えていた。

不意に蹄の音が近づいてきて、厩に田村麻呂が(からたち)を牽いて入ってきた。

小角の姿にやや驚いた様子で「貴方が手を入れてくれていたのか。道理で何時も行き届いている訳だ」と言った。

(からたち)の馬具を外しながら田村麻呂は小角に「今日、都の縛吏が来た。主犯の者は明日には都へと送られよう」と告げた。

「それであの賊達はどうなる?」

馬具を外された(からたち)に水を呑ませながら小角が問うた。

「刑部省でなんとするかだが、主だった者は八逆に値しようから、斬刑となろう。その他の者は懲罰が定まれば辺境へ柵戸として送られる事になるだろう。太宰府か隠岐か、或いは陸奥か出羽か。造営使も脱走者を再び使う事は受け入れがたい」

(からたち)の体を布で拭ってやりながら、田村麻呂の表情が暗くなった。

「あの賊達は元は、造東大寺司の下部だったそうだ。主だった者達は、他の仲間を見捨てて己達だけ馬を得て、東国へ落ち延びるつもりだったと言っていた」

東国へ逃げた所で、更に落ちぶれるだけなのだが、あの者達は、もう畿内に己達の居場所が無いことを悟っていたのだろう。

造東大寺司は縮小されている。

造営に駆り出された下部達は謂わば体の良い人員削減だ。

造営が終われば、流民と同じく、帰る場所など有りはしない。

体を拭って貰った(からたち)は、隣の枡にいる蛍と睦まじそうに鼻面を寄せ合っていた。

小角は二頭の間で、その頚を撫でながら呟いた。

「あの者達は前鬼と後鬼の姿を見ている。さぞ噂になっているだろうな」

馬具を片付けていた田村麻呂が顔を上げた。

「その事ならば案じられる事は無い。私のこの容貌が幸いしたものか、獄舎では私が鬼を使役していると専らの噂だそうだ」

明かり採りの窓が作り出す、光と影の帯の中を歩み寄りながら、田村麻呂はその話を告げてきた時の河鹿の顔を思い出して笑った。

「河鹿が呆れていた。あの者達が言うには、天邪鬼を使役して己らを懲らしめ、雨を降らせて野火を消した私は、何と毘沙門天の化身だそうだ」

田村麻呂は(からたち)の頚に手を掛けて、小角の顔を覗き込んだ。

小角は暫く呆気にとられ、やがて眉をしかめ「私が天邪鬼か」と唇を尖らせた。

「強ち間違いでも無いと思うが」

愉快そうな田村麻呂の答えに、更に剥れている小角を見て、田村麻呂の広い肩が笑いを堪えて揺れていた。

剥れながらも、異能の噂はこの君の為にならないのではあるまいかと思い、小角は「そんな噂を何とする」と訊ねた。

田村麻呂は小角を見て目元を和ませた。

「どうもしない。捨て置けば自然と治まろう」

風評とは多くの人々の漠然とした意の結ぼれだ。

独り歩きし出した風評を発端に、疑いが生まれ、疎み合い、対立の構図が描かれ、溝が深まり、争い合うのが人というものだ。

その風評がどちらに向かうのか、時により、場所により変わり、巻き込まれる者の運命までもをまるで変えてしまう。

それをこの男君はいとも簡単に捨て置くとは。

しかしこの人好きのする君にはそれで良いのかも知れない。

風評は誰かの意図で変えられる事もあるが、例えどのような力を持ってしても、変え得ないものもある。

だからこそ龍脈も政も、容易には思う方へは廻らぬものだ。

「これからどうされる?」

(からたち)の頚を撫でながら面を向けてきた田村麻呂に、蛍の鬣を指ですいていた小角は考え考え言葉を継げた。

「この地には長く暮らした。そろそろ私の姿が変わらぬことを不審がる者も現れよう。夏頃には(みおや)の地に帰るつもりだったのだが。陸奥駒についての格はどれ程行き渡っているのだろう。蛍を連れて大和国へ帰るのが憚られる気がするのだ」

田村麻呂はまたしてもこの娘の思慮深さに舌を巻いた。

「陸奥駒は、確かに見咎められ易い。貴方が大和国で暮らすには障りになるかも知れぬな」

小角はすぐ脇に立つ田村麻呂の顔を見上げた。

暫く会うこともないだろう。

「少将殿はもう都へ帰られるのだろう?」

「ああ、賊の残党が居ない事も確かめられた。護送の手筈も整った。大君への報告が纏まれば都へ帰る」

二人は互いに思っていた。

その声音が、どこか名残惜しげに聞こえるのは己が自惚れだろうか。

「この傷は、まだ厭うた方が良いだろうか?」

田村麻呂の問いに小角は笑いながら答えた。

「今さら何を言う。まだ私が良いとも言わぬに、何時も通りに動かしているではないか。もう案ずる事もあるまい」

藍色の眼が微かに失望の色を帯びた様に見えた。

麝香草の香りがして、体温が感じ取れる程近くにこの男君が立っている事に、小角は不意に気付いた。

この君は玻璃と違って、男君らしい骨張った体つきで存在感が強い。

保良宮で恵美押勝に襲われかけてから、小角はどうも男君が身近に在る事に馴れなかった。

玻璃は身近にあればあるほどに、神気が交感しあって心地良かったが、それは玻璃が神守りであればこそだ。

蛍が田村麻呂へ挨拶しようと頚を延ばしてきて、田村麻呂は小角の頭越しに蛍へと大きな手を伸ばした。

たくしあげた位襖の袖から、金色の産毛の濃い、良く鍛えられた腕が覗いた。

怪我の手当てをしたり、髪を結ったりしていた時には何とも思わなかったものが、今になって突然、雨の中、矢から庇おうと懐に引き寄せられた感覚が蘇った。

急に居心地が悪くなった小角は「あの木簡は」と言い掛けて、田村麻呂と視線が合って言い澱んだ。

「いずれ受け取りに行くが、何処に行けば良い?」

切り口上に訊ねると、田村麻呂は少し考えてから、小角の表情を読むように答えた。

「あれは粟田の屋敷に置いてある。私は出仕しない日は粟田に居る。若し不在でも言付けてくれれば屋敷の者が都へ知らせてこよう。私が来るまで留まって下されば良い。(からたち)も普段は粟田に居る。貴方と、この蛍が訪れてくれれば喜ぶだろう」

小角はその場を逃げ出したい衝動に駈られたが、それが何故かは解らなかった。

「ああ、ではそうさせてもらおう」とやっと答えて、夕餉の支度でも手伝いに行くなぞと、言わなくても良いような事を言い、厩を出た。

一人残されて田村麻呂は、改めて蛍と(からたち)を見て、この二頭はいつの間にこう睦まじくなったものかと考えた。

そして私はあの情の(こわ)い娘御と共に在ると、居心地良く思うが、さてこれは何からくるものだろうと訝しんだ。

高子が儚くなってから、女君に心が動かず、公務の忙しさにかまけて、他の夫人の許へも子の祝い事でも無ければさして熱心に通うでもなかった己だが。

曹司に戻った小角を待っていたのは飯高の(むろたち)からの使いだった。

「飯高の大刀自から使いの方がおみえです」と名主の妻に取り次がれた時には、諸高が病でも得たのかと顔色を変えたが、使いの男は折り入って話があるのでお運び下さいと口上を述べた。

諸高がわざわざ人をよこして会いたいと伝えてくるなら、余程の事と思われた。

今から飯高の館まで行けば、そこで夜を過ごす事になるだろう。

名主に断りを言って、筒袖に袴に着替え、再び厩へ向かいながら、小角は、まだあの少将殿が厩に居たら何としようとちらりと考えた。

案の定、厩には田村麻呂と河鹿が居た。

「お出掛けか」と訊ねられ、小角はこの君がなんと答えるのだろうかと身構えながら答えた。

「飯高の館まで行く。今夜はあちらで厄介になるだろう」

田村麻呂の直線的な眉が上がった。

「では私も同道してよいだろうか?。都へ帰る前に飯高の大刀自にご挨拶して行きたいと思っていた」

思わぬ言葉に、小角は嫌とも言えず言葉に詰まったが、田村麻呂は気付かぬように「私はご挨拶が済めばすぐお暇する。貴方はゆるりと滞在されるが良かろう」と続けた。


結局、小角は田村麻呂と多気へ向かう事になった。

日が暮れかけた街道を、二人は馬達が楽しげに駆けるに任せた。

蛍はそれほど脚が早くもなく、(からたち)は幾度も立ち止まっては振り向き、田村麻呂はその度に(からたち)がするに任せて馬首を廻らせて立ち止まった。

西陽は二騎の影を往く方へと長く落としていた。

深紅の位襖の田村麻呂が、栗毛の(からたち)に跨がり、夕暮れの日差しの中振り返る姿が、絵のように美しいと小角は思った。

小角を乗せた蛍は、(からたち)に追い付くと顔を寄せ合ってはまた駆け出した。


「まあ、これはこれは。どうした事でしょうか」

小角に続いて田村麻呂が姿を現した事に諸高は大層驚いた風だった。

「久しいですな。ご健勝で何よりです」

慇懃な振る舞いも、詠う様な口調の挨拶も、この君が宮で好かれる理由の一つなのだろうと小角は思った。

諸高は思い当たったように嬉しそうに笑った。

「では人麻呂の言上で伊勢国府に送られた監察使とは、交野の坂上の若君でしたか」

「言上したのは人麻呂か。二日で使節が来るとは中々の手際だと思ったが、とんでもない使節を寄越させたものだ」

小角が言うと田村麻呂は心外そうに口を挟んだ。

「私を寄越したのは大君の人選です。斎宮頭の責ではありますまい」

小角は諸高の背後に隠れて笑いながら訴えた。

「諸高、助けてくれ。この羽林の君が来てから、私はずっとこの調子で説教を喰らってばかりだ」

まあまあと笑う諸高と小角を見て、田村麻呂も笑いながら「これは非道い仰有り様だ。こうも御不興を買っているとは知らなかった。大刀自が健やかでおいでな事を拝見できたので、私はすぐ退散しましょう」と言った。

小角が鈴鹿峰の盗賊の経緯をかいつまんで話し、諸高は改めて、幼い頃から知る、この坂上の若君への信頼感が増した。

「坂上の若君、お子達は皆お元気ですか」と諸高に訊ねられ、田村麻呂は嬉しそうに答えた。

「皆、健やかに育っています。年が開ければ、春子が内裏(うち)に上がります」

「もうそんなお年になられたのですね。それでは色々とご心配でしょう」

諸高は、後宮へ幼い娘を上げる親の気持ちをいかばかりかと思った。

「幸い内裏には姉も居りますが、何と言っても大納言中務卿(藤原継縄)の北の方(百済王明信)が只今の尚侍であられるので、私にとっては心強い事です」

これは諸高には初耳だった。

「古美奈様が亡くなられたとは聞いていましたが、明信様が尚侍なのですか?」

田村麻呂はにこやかに答えた。

「はい、今年の春に大君から典侍として出仕を乞われて、尚侍を兼ねておられました。この八月には大君が高椅津へ行幸されて、大納言の邸に立ち寄られたのですが、その時に明信殿に従三位を授けられ、正式に尚侍となられました」

由利様、と呼びそうになり、諸高はやや言い澱んだ。

「若し鈴鹿様が宜しければ、坂上の君も共に話を聞いて頂けますまいか」

招き入れられた曹司で、人払いしてから諸高は話し出した。

「先日斎宮頭(賀茂人麻呂)から、鈴鹿様が伊勢国においでなら、伊勢社に斎宮御所の采女としてお越し戴けまいかと言って参りました」

斎宮御所の采女は宮の采女と同じく献上されるもので、常であれば終生を斎宮で過ごす事が前提となる。

飯高の血筋からも采女を献上する事になっていたが、今は年頃の独り身の娘が居らず、(おうと)と引き離すのも憐れなので、断りを入れたところ、斎宮頭がそう言ってきたのだと諸高は続けた。

「四年経てば私の身内の娘が年頃となります。それまでの間、お引き受け戴けませんか。人麻呂殿も是非にと申しておりました」

小角は思っても見なかった事だったが、確かに人麻呂の許なら安心して身を寄せられようと思われた。

だが、蛍はどうする。

斎宮へは連れては行けない。

諸高は田村麻呂に向き直って、平伏した。

「坂上の君にお願いがございます。鈴鹿様が斎宮へ上がられるに当たって、後見を戴けませんか。私はもう齢振りまして何時この世を去ることになるか解りません。何卒お引き受けくださいませ」

「大刀自、お顔をお挙げください。私が恐縮してしまいます」

田村麻呂は小角に目を向けた。

「貴方のご意向は?」

小角は言い澱みながら答えた。

「人麻呂と諸高がそう言ってくれるなら、斎宮に上がりたいと思う。他に行く宛もない身だ」

予測していた答えではあったが、田村麻呂は何かを失う様な心地がした。

斎宮に。

確かにこの方にとっては、最も安全な場所なのかも知れないのだが。

小角は呟くように言葉を継げた。

「だが蛍を思えば行けない。どうしたものかな」

田村麻呂は小角と蛍が睦まじくしている光景を幾度も見てきた。

あの陸奥駒は家族だと言われたが、その方がこの方の為になるのなら。

「貴方がそう思われるなら、後見はお引き受けしよう。蛍は私に預からせて戴けまいか。(からたち)が穏やかになったのは蛍が身近に居るようになってからだ。引き離すのが惜しまれる」

小角の顔が明るくなった。

「頼めるのだろうか。少将殿なら此方から願い出たい所だが」

田村麻呂は笑顔で「ご信頼戴けて何よりだ。では私はそろそろお暇しましょう」と答えた。

膳の支度をさせますので、どうぞ湯殿へと促された小角が席を立って、諸高と二人だけになり、田村麻呂は訊ねてみた。

「あの方は、吉備大臣のご子息が佐渡に流された事をご存じでしょうか」

真備の嫡子、泉は造東大寺司長官から外されて、伊予守とされていたが、任地の令外官と争いを起こして都へ呼び戻され、更に取り調べに当たった弾正尹神王(みわおう)に不敬を働いた罪を問われて佐渡へ流されていた。

諸高は面を改めた。

この君は由利様の事をどこまで知っておいでだろう。

そしてどうお考えなのだろう。

ある程度はご承知で、悪いようにはされまいとは思うが、どこまで話して良いものか。

「いいえ、ご存じありません。決してお耳には入れないで頂きたいのです。泉様は佐渡へ向かわれる前に、この館に報せを下さいましたが、あの方には知らせぬようにと仰せでした。泉様が造東大寺司長官を退けられた経緯を御存じですか?」

「早良廃太子と親しかった由縁でと聞いていますが。実際には造東大寺司廃止の為の布石と誰もが考えておりましょう。造東大寺司廃止に頑強に反対されていたのは早良廃太子と泉殿でしたから」

田村麻呂の表情が暗くなった。

諸高は声を潜めた。

「いずれ坂上の君のお耳にも入りましょう。泉様が罪を問われたのは神王様といさかいをされたからとされていますが、そのいさかいの種は早良様の無実を朝儀の場で言上しようとされたからなのです」

私の口から詳しくは申し上げられませんがと前置きして諸高は言った。

「鈴鹿様に斎宮へ赴いて戴きたいのは、その為もあるのです。出来得る限り、あの方を政に巻き込みたくは無いのです」

「それが吉備大臣のご意向であったからですか?」

田村麻呂の言葉に、諸高は老いた眼尻を歪め「それも有りますが」と言いかけて、喉元が熱くなるのを止められなくなった。

「私は宮に上がったばかりのほんの童子の頃から、あの方と共にありました」

己が見てきたのは、元正、聖武、孝謙、大炊、そして再び称徳と、四帝の治世だが、さらにその以前の凄惨な政争の経緯をも、叔母の笠女から知らされている。

己の知る前から、そして出会ってから、あの方はどれ程多くの物を失い、傷つき、責めを負い、慣れ親しんだ多くの方に先立たれてきた事か。

「あの方の来し方を思うとそう願わずには居られないのです」

諸高は言い澱んで口許に袖を当てた。

氷高様も、阿倍様も公にはできずとも、伴侶と呼べる方が有った。

叔母も私も、伴侶は無くとも、帰るべき地とこの世の(ほだし)となる一族が在った。

けれども由利様には何も無く、老いてこの世を去る事も出来ないのだ。

「あの方はいつもお独りで哀しみを呑み込んでしまわれます。ご自分がどれだけ傷ついておいでなのか、気付いておられないのかも知れません」

涙など見苦しいだけだと思いながら、諸高は俯いた。

「老いると人は涙脆くなるものですね。お恥ずかしい事です」

諸高の涙を拭ってやりながら田村麻呂は保証した。

「承知しました。多くは伺いますまい。大刀自がそうお考えだというだけで私には充分です。私に能う限りの事は致しましょう」

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