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六月  作者: 賀茂史女
21/53

第参部 東征 参 鈴鹿峰

小角が炊屋に入っていくと、水仕女達はやけにそわそわと浮わついていた。

客人が居るからと、皆、普段より小綺麗な襖と褶で、頭を包んでいる鉢巻きも真新しかった。

中でも年嵩の媼が「鈴鹿様、あの客人は何処かにお出座しですか」

と訊ねてきた。

伊登の怪我の傷口を洗い、湿布に使う為に薬草を煎じながら、小角は何心も無く答えた。

「ああ、国府に行くと言っていたな」

角盥と水差しを用意してくれた水仕女が「あの君は見たところは恐ろしげですが、申される事は優しげでございますね。私どものような者にも親しげに声をお掛け下さいます」と笑みまけた。

白湯を飲みに来ていた男衆もどことなくこざっぱりした姿だった。

中の一人が「あの君はよっぽどあの栗毛の馬が大事に違いない。何から何まで人任せにせず、自ら面倒を見ていなさるぞ」と言った。

別な一人が「ありゃあ立派な陸奥駒だが、舎人の言うにゃ、気性が荒くて、あの君と舎人以外は世話が出来ないそうだ。そんなわけで、(ぬし)様の馬は預けられたのよ」と、したり顔で述べた。

端女まで一緒になって、此処へ来た日にはもっと偉ぶって気難しいのかと思っていたが根は違うようだ、仕える舎人も威張り散らさぬ等と、皆が口々に言い出した。

まだほんの童子の様な下働きの娘が、小角の傍らに来て「()はあの君に鈴鹿様の事を訊かれたぞ」と言った。

小角が「ほう、何を訊かれた?」と訊ねると、「鈴鹿様はどうして毎日、ここの娘御の許に来るのかと訊ねられた」と悪気の無い笑顔で答えた。

成る程、それで伊登の事が耳に入ったのか。

お喋りな娘を咎める気にはなれず、羽林の君は人好きがするものだと改めて思った。

昨日の朝には、姿を見るだけで逃げていた女衆が怖れなくなるのだから、人柄が慕われるとはこういうものだろうか。

炊屋に青い顔をした里主の妻が小角を捜しにやって来て、声を潜めて伊登が出血したと耳打ちしてきた。

小角が曹司にいくと伊登は不安げな顔をして寝かされていた。

月の巡りを数えてみて、出血の量から見ても月の障りだろうと、愁眉を開いた小角の言葉に里主の妻も伊登も安堵した。

小角はその日、あの男君が帰ってくれば、己が屋敷を出る機会を失うかもしれないと思いながら、陽が傾くまで伊登の傍にいた。

伊登は打たれた痕の腫れも痣も治まってきて、小傷も塞がり、やがては跡形も無く消えると思われた。

もう傷の手当ての必要は無いだろう。

だが、この郷で賊が押し入るとすればこの屋敷だ。

厩は田村麻呂の馬の為に空けられて、元から居た馬は近在の小作人に預けているが、蔵が在るのは里主の屋敷だ。

田村麻呂は陽が落ちる頃には戻ると言った。

もう暫く、あの男君が戻るまで此処に居よう。

庭に河鹿と呼ばれている年嵩な舎人の姿が見えた。

田村麻呂が帰ってきたのだと思った小角が立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、男衆の怒声が聞こえ、河鹿が簀まで来て「曹司からお出になりませんよう」と切迫した声をかけた。

厩や蔵からは離れた一角だが、人が争う気配に、伊登が青ざめた。

(あるじ)は間も無く参ります。里主殿には、物盗りが来ても逆らわぬ様に主から申してあります。この曹司へ賊が来たなら吾が討ち取りましょう」

河鹿の言葉を聞いて、小角は伊登に几帳の陰から出ないように言い含めた。

母禮に武具を持たない愚を諭されてから、小角はどんな姿でも、使い馴れた守り手女の小刀を懐に忍ばせるようになっていた。

使わずに済めばそれが一番良いのだが。

簀の前に立つ河鹿が緊張を解いたのは、里主と共に、薄暮の中でもそれと判る、田村麻呂の特徴的な輪郭の人影を認めたからだった。

里主が曹司に上がってきて、伊登の無事な姿に安堵のため息をついた。

筒袖の襖の上から肩当ての着いた胴巻きと籠手、(はかま)の足結いを高く取り、脛巾(はばき)を身に付けた軽い武装(こしらえ)で、真鉄の額当ての付いた革製の兜を手に、抜き身の太刀を提げた田村麻呂は曹司を見渡し、三人の無事を確かめると、河鹿を招いた。

河鹿へ此処へ残るよう指図している田村麻呂の声が聞こえてきた。

「国府の兵の半数を鈴鹿峰の西へ回り込ませた。賊の残党を山から追い立てる様に命じてある。私は残る兵を率いて三子山の南麓で展開させて待ち受ける。何かあったら馬で知らせに来てくれ」

里主は盛んに田村麻呂の采配を誉めそやしていた。

賊が押し入って来た時、屋敷の者に手向かいさせず、里主が倉の鍵を渡したので、怪我人も出なかった。

蔵と厩には、既に周囲にも中にも兵が潜んでいて、田村麻呂は賊を一網打尽に捕らえさせたのだ。

田村麻呂は曹司に歩みよって、小角に念を押してきた。

「頭目と主だった者達は今此処で捕らえられた。国府へ送る手筈もついて、もう縛吏が連れていく。山野に残るのは深い謀の無い者達だろう。だが寧ろそういう者達こそが、女子供でも害するものだ。今夜は此処に留まられよ。宜しいな」

藍色の目がひたと向けられ、田村麻呂は小角の答えを待たずに踵を返して立ち去った。

陽が落ちたが、屋敷の内では兵の目印の為に篝火が焚かれて明るく、薪を運ぶ男衆や待機している兵が出入りしていた。

里主も、里主の妻も、小角が此処に留まるのを当然と、端女達に遅い夕餉の支度を始めさせた。

炊屋はその夕べの押し込みの事で、女達の無駄口ははかしましいばかりだった。

下働きの男衆も、賊に襲われた興奮からか、そわそわと落ち着かず、代る代る、幾度も門前の篝火の様子を見に行ったり、薪を割りに行ったりしていた。

鈴鹿の峰の討伐を逃れた賊が、里を襲うかも知れないのだ。

河鹿は己の為に屯喰と白湯を持ってきた小角が、曹司の簀に腰かけて、夜空を見上げて居る姿に目をやった。

主はこの方が、大層気掛かりな様子だ。

以前東山で会った呪禁師に似ていると仰せだが、さて吾の目にはそうは見えぬ。

何れにしても、この方が屋敷から出ないよう気を配れとの事であった。

ちょうどその時、小角は前鬼の意話の声を聞いていた。

数人の賊が三子山へ分け入って来たと前鬼は告げた。

小角は立ち上がり、所在無さげに庭を炊屋へ向かって歩きながら呟いた。

「私が行くまでに、賊が庵に近づいたら、討ち懲らせ。だが殺さぬよう気をつけろ」

篝火の明かりの届かない暗がりで気配を殺し、小柴垣の潜りを抜けて、小角は三子山へ向かって駆け出した。


河鹿は、小角の姿を見失い、屋敷の中を探して廻ったが徒労に終わり、どうやら小角が屋敷を抜け出したらしい事に気付いた。

三子山へと馬を駆けさせてきた河鹿から「鈴鹿様が屋敷を出られた様です」と聞いた田村麻呂は、困った方だと思いながら、兵にはこのまま待ち受けて、追い出されてくる残党を捕縛せよと伝えた。

灯りを持っては狙い射ちされようと、松明は持たず、闇の濃い林の中では兜も邪魔だと脱いだ。

供をすると言い張る河鹿を里主の屋敷へ戻らせ、秋の(さやか)な望月が、流れの早い雲に隠れては覗く中、独り山へ分け入った。

あの娘御の住まいが何処かはわからぬが、何れ沢の近くだろう。

獣道を辿る内に、何者かが争うような声に気付いた。

男の声のする方へ向かった田村麻呂は、沢沿いに雑木林の途切れる手前で、異形の人影が数人の大童と対峙する様子に脚を止めた。

沢からやや離れて庵があり、もう一つ、人ならぬ異形の影が、童子を抱くように、片腕に小柄な女君を抱いて立ち塞がっていた。

「間に合った様だな。前鬼、後鬼、足労だった」

雲が切れ、顔を覗かせた月が、声の主と二人の異形の従者の姿を照らし出した。

土色の肌は、人ならぬ面も、長い手足も、纏う手無しから覗く小山の様な屈強な躯も、丹色の紋様の(いれずみ)に覆われていた。

身のこなしから察するに、盲いているかに見える眸は、寧ろどんな暗闇も見透せるものと思われた。

声の主が、捜している女君である事は直ぐに知れたが、田村麻呂の知る鈴鹿とは別人の様な面持ちだった。

井上廃后と他戸廃太子が亡くなった夜、大君は、二人の異形の従者を連れた蚩尤(しゆう)と名乗る者に会ったと仰せだったが、或いはこの様な姿であったか。

「生憎、この庵にはお前達に呉れてやれる物は無い。立ち去るならばこの者達は危害を加えない。己の運に任せて逃げるが良い」

「馬も無しに逃げ延びれるものか」

異形の姿に及び腰だった大童は、小角の娘姿に勇んだものか、大声で喚いた。

「捕まればまた叩刑か、悪くすれば斬刑だぞ」

破れた袖を捲りあげた男は無数に鞭打たれた痕の残る腕を擦りながら、仲間に言った。

「化け物()。馬なんぞ喰う為に養っているに違いない」

延び放題の髭面の顎をしゃくって、けしかける様に一人が言った。

小角は後鬼に抱き上げられたまま、小刀の柄を握り締めた。

人間相手に術は使いたくない。

「馬さえ寄越せば見逃してやるものを」

男達が負っていた弓を肩から降ろし、矢を握った。

田村麻呂が脚を踏み出そうとした瞬間、大童達が手にする弓が引き絞られ、矢が放たれた。

後鬼は小角を投げ揚げるように肩先へ送り、小角は後鬼の肩から舞い上がるように宙へ跳んだ。

前鬼と後鬼が手にした杖で、飛んできた矢を払い落とした時には、小角は最も近くに居た大童の傍らに降りて、鳩尾めがけて肘を打ち込んでいた。

田村麻呂は殺さず捕らえたいと言っていた。

小角は膝を折って踞った男の背を踏んで跳び上がり、手近な樹の枝を掴んで、身を回転させて樹上に立った。

次の矢がつがえられたが、放たれた矢が樹上に達した時には既に小角の姿は無く、矢は虚しく後方の幹に突き立った。

樹上から降りた所に、掴みかかってきた男の右腕の腱を小角の小刀が切り裂いた。

田村麻呂は遅蒔きながら、己が見入ってしまった事に気付いた。

二人の異形の従者は庵の近くで争っていた。

もう一人が小角めがけて太刀を浴びせようと駆けてきた所へ、太刀を構えた田村麻呂が立ち塞がった。

容貌こそ異国人でも、一目で朝廷の武官と知れる田村麻呂の姿に、大童達は一斉に怯み、背を向けて逃げ出した。

田村麻呂は賊が去る姿を確かめて、小角へと振り向いた。

田村麻呂の藍色の視線を受け止めて、小角は何とするか迷っていた。

この男君は山部と親しい朝臣だ。

若しこの君が、己達を朝廷を害する者と考えるのであれば、山部に注進するだろう。

庵の傍らの簡素な厩で、蛍が脚を踏み鳴らした。

すぐそこに姿が見えて居るのに、なかなか自分の許に来てくれない小角に業を煮やしたものか、蛍は頚を延ばして控えめに嘶いた。

田村麻呂は馬の声の方を振り向き、蛍の姿を見て、再び小角に面を戻した。

「やはり貴方があの時の呪禁師であられたか。あの黒鹿毛の陸奥駒が何よりの証だ。何故違うなどと?」

小角は田村麻呂の言葉に思わず笑いを浮かべた。

この男君は、このような時になんと不釣り合いな事を大真面目に言うのだろう。

「人より馬が鮮明に記憶に残っているとはな。余程、馬が大事とお見受けした」

急に今まで剥きになって隠してきた己が可笑しくなり、小角は笑いだした。

田村麻呂は小角の笑う様を見て呆れたように言った。

「人の事を笑えまい。貴方の帰りを待つ者というのはあの陸奥駒であろう」

呆れながら、田村麻呂は思った。

どうも私は、この方の笑うところを初めて見たように思うが。

「そうだ。済まない、謀るつもりではなかったのだが」

笑いすぎて出た涙を拭いながら小角は答えた。

不意に田村麻呂が真顔になった。

「どうやら先程の賊がまた戻ってきた様だ」

小角も遠巻きな気配を感じ取った。

先ほどよりも大勢だ。

樹や枯れ草が焦げる臭いが何処かから漂ってきた。

「しかも火を掛けたな」

加勢を連れて戻ってきたのだろう。

火を恐れて逃げ出すのを待ち構えているのだ。

囲まれたようだと二人は目を合わせた。

「さて、少将殿、どうされる?」

小角が愉快そうに訊ねた。

「あの者達は西からの山狩りの兵に追われて此処へ逃れて来たのだ。麓へと追いやれば捕縛の為に兵が待ち受けている」

田村麻呂は簡潔に答えた。

「そうか。では、私が野火を鎮めよう。前鬼、後鬼、雨が降り始めたら賊を麓へと追い立てろ。殺してはならない」

前鬼と後鬼が二人を背後に並び立った。

小角の言葉が呑み込めず、田村麻呂が物問いた気に目を向けた。

小角は少し離れていてくれと田村麻呂に告げ、庵へ錫杖を取りに入った。

今は野火を鎮める事だけを考えよう。

全ては、その後だ。

庵から歩み出た小角は(しろがね)の錫杖を高く掲げた。

「葛城の高宮に居坐(いま)します、大御祖(おおみおや)迦毛大御神(カモノオオミカミ)高鴨阿治須岐託彦根命タカカモノアジスキタカヒコネノミコト聞こし()せ」

錫杖の環が爽な音を立てた。

「葛城の加茂の役公小角が()り奉る」

小角の詞に田村麻呂の藍色の眼が見開かれた。

「天なるや 弟織姫(おとたなばた)の 項がせる、玉の御統(みすまる)御統(みすまる)に、穴玉はや、三谷二渡らす。阿治須岐託彦根命アジスキタカヒコネノミコト

小角は天を振り仰いで、両の(かいな)を拡げた。

鈴鹿の峰々から、雲が急速に風に乗り、集まってきて、折り重なるように望月を隠した。

「その顕かなる力を持ちて、天の水気を結ぼらせ、雲を呼び集め給いて、立所にその恵みを与え給えと、恐み恐みも白す」

小角の唱える詞が終わる前に、空を稲妻が走り、雨の滴が落ち初めた。

遠巻きに窺っていた賊達が浮き足だった。

雨足が強まり、前鬼と後鬼が杖を構えて囲みの輪を破りに脚を進めると、賊は次々に身を翻して林の奥へ姿を隠し初めた。

後を追って前鬼と後鬼の背が暗闇に溶けた。

雨の中、田村麻呂は賊の最後の一人が弓を引き絞る姿を見て、空に向けて両腕を拡げて立ち尽くす小角に向けて駆け出した。

まだ神気の余韻の中で雨に打たれて居た小角は、突然力強い腕に引き寄せられた。

手から離れた錫杖が音を立てて地に落ち、小角の躰は背後の樹に押し付けられた。

濡れた弓弦は強くは引けず、矢の勢いは失われていたが具足を貫くには充分だった。

覆い被さってきた麝香草の香りのする大柄な躯が、矢を受けた衝撃が小角にも伝わってきた。

田村麻呂は息を詰めたまま振り向いて、己の左腕に突き立った矢越しに、二の矢をつがえようとした賊が、弓弦を切り、弓を捨てて逃げ出す姿を認めた。

小角の背後の樹に、右手を突いて躯を支えた田村麻呂は、焼けるような痛みを堪える為に口許を引き締め、ゆっくりと息を吐いた。

黄褐色の髪を伝って、小角の頬に雨の滴が落ちた。

樹の根本の曼珠沙華の花の一群に、花の色を凌ぐ赤さで血が滴った。

「鈴鹿殿、貴方は一体何者なのだ?」

小角の口許が震えた。

「そんな事を語っている場合か。早く矢を」

言い掛けた小角の語尾に被せるように、田村麻呂が性急に問うた。

「答えてくれ。大君が東宮で在らせられた頃、蚩尤を名乗る者に遭ったと聞いた。貴方の事か?」

「そうだ」

「貴方は一体何者なのだ?。あの従者は土蜘蛛であろう?」

小角にはもう隠し事をする気は失せていた。

「私は嘗ての葛城の民の生き残りだ。あの者達は私の守手だ」

田村麻呂は漸く何かが見えてきた気がした。

この方は。

呪禁師どころか葛城の斎媛であったか。

七年が過ぎても姿が変わらぬのはその為か。

父は吉備命婦が亡くなって葛城の民は滅んだと言っていたが。

息を堪え、顔を歪めながら、まだ小角の躰を抱え込んでいる田村麻呂の左腕に眼を遣って、小角は泣き出しそうな顔で詫びた。

「済まない。結局助けられた上、怪我までさせてしまった」

術を使う間が最も無防備になると解っているのに、なんと不注意だった事か。

初めて耳にする小角の率直な言葉に、田村麻呂は苦笑いした。

この方の屈託のある態度が漸く理解できたと思えば、これ程しおらしい言葉が聞かれるとは皮肉な事だ。

「そんな顔をなさるな。大した怪我では無い」

田村麻呂は小角の躰を解放して、一つ息を吐き、突き立った矢を引き抜こうと右手を伸ばした。

小角は慌てて止めた。

「この雨は四半刻は降り続ける。矢傷は命取りになることもある。私に手当をさせてくれ」

小角の表情を見て、田村麻呂は「ではお願いしよう」と答えた。

庵の中で、小角は慎重に鏃を取り除き、傷を清めた。

濡れた弓弦と具足の分、確かに傷は浅かったが鏃の傷は穢れが入りやすい。

やがて前鬼と後鬼が姿を顕し、国府の兵はほぼ掃討が終わったと判断して撤退の用意を初めていると告げた。

田村麻呂は襖を直しながら言った。

「この一件が片付くまで、まだ数日は掛かるだろう。あの陸奥駒を預かるよう私から里主に頼んでみよう。貴方があの陸奥駒を大切に思われていることはよく解った。馬の意を汲む聡さがお在りなのだから、私の言葉も聞き入れて戴けようか」

冗談めかして言いながら、田村麻呂は、今少しこの娘御を知りたいと思った。

不思議なことだ。

年若と見えても、私より遥かに長く生き、知識も力もある女君だというのに、この小柄で情の(こわ)い娘御が気がかりで、眼が離せない。

蜉蝣(ふゆう)の詩は高子を知ればこそだったのだ。

小角は笑いながら答えた。

「ではお願いしよう。蛍は私にとっては家族なのだ。矢傷は最初が肝心だから屋敷に居る間は手当に通おう。今夜は熱が出るだろうから尚更だ」

この男君を信じてみよう。

手弱女として扱われるのは慣れないが、この君ならそれも仁によるものなのだろう。

「それは困った。私は寝付く暇は無いのだが」

小角の言葉に田村麻呂は異議を唱えたが、小角は(くち)を尖らせて「そうは言っても熱は出る」と答えた。

「一日で済む様に計らおう」と小角は保証した。

蛍を連れた小角と山を降り、山狩りを終えて合流した兵を、捕らえた賊と共に国府へと引き上げさせた田村麻呂は、その晩、事実、高熱に魘された。

羽林の君

近衛府の中将、少将の(あざな)

中央官職の中でも衛府の官人は、大宮人、庶人とも老若男女から時代を問わず人気者だった。

近衛少将は通常は正五位下、中将は従四位下相当職。

坂上苅田麻呂、道嶋嶋足、坂上田村麻呂の様に武勲があると、官位が進んでも位階に関わり無く叙留してこの官職を兼ねさせられた。

これは殊更名誉な処遇だった。

後に叙留は武勲が無くても、名誉、或いは人望の象徴となった。

蔵人の頭で中将を兼ねる「頭中将」、三位でも中将を叙留する「三位の中将」等の官職はそういった意味が含まれている。

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