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六月  作者: 賀茂史女
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第壱部 悪路王 弐 達谷窟

悪路王は小角に、この地は北上川の西岸に在り、北上川の支流、太田川の畔にあると明かしてくれた。

陸奥国(太平洋側)と出羽国(いではのくに)(日本海側)の間には、北は遥か津刈(つがる)から、南は下野国の那須岳まで連なる険しく高い日高見(ひだかみ)山脈(やまなみ)(奥羽山脈)が(そび)え、その麓を北上川が滔々と流れている。

山脈の丁度中程に当たる栗駒山から西へと延びる峡谷の外れが真鏡山の山裾のこの地だった。

この地には毛野の御室の霊気が山脈を通じて湧出する(ほこら)が在った。

真鏡山の南山麓の切り立った崖にある、達谷窟(たっこくのいわや)と呼ばれるその祠を中心に集落と大館が造られ、毛野の民から白銀城(しろがねのき)と呼ばれているのだそうだ。

山脈の北の端には都刈、顎田(あぎた)と呼ばれる毛野の民の暮らす地が在る。

その(あわい)にある、深い森を抱く山が国つ神御在(おわ)します毛野の民の御室なのだと悪路王は語った。

嘗ては毛野の民は山脈の南端、下野の那須を南の境界として暮らしていた。

昔、大和国に大王(おおきみ)の宮が置かれていた頃、毛野川(後の鬼怒川)流域の土地が倭人(やまとびと)に奪われ、下野、上野が令国とされると、毛野の民はこの南の聖地を拠り所として、大和朝廷との対立と衝突を繰り返しながら北へ北へと追いやられた。

やがて大和に律令が敷かれ、大王が帝と呼ばれるようになり、都が営まれるようになると更に圧政が熾烈になった。

そうだ、宇合(うまかい)が神亀元年(724年、首皇子の即位の年)の春に陸奥へ出兵したのだったと、小角は思い出した。

国府が名取川と広瀬川の合流地に在った郡山城から多賀城(たがのき)に遷ったのもその頃だ。

北限を上げた朝廷が多賀城までを陸奥国として律令下に治めた今では、この地が毛野の民の守る最南の地ということか。

そしてその後も、朝廷は北進を続けたのだ。

天平宝字四年(760年)には朝狩が多賀城の更に西北に雄勝城(おがちのき)を築いた。

天平神護三年(767年)には、雄勝城下に居た四百人余りの俘囚の帰属を、城柵の防衛に当たることを条件に受け入れ、阿倍(孝謙帝)が調(みつぎ)を免じると定めた。

だがそのずっと以前から毛野の民同士が敵味方に別れ最前線で戦をしてきたのだ。

何と言う理不尽さだろう。


前鬼と後鬼は真鉄(まかね)でできた香炉のような形の呪具の中で蜘蛛の姿のまま眠りにつかされていた。

この地は祠から湧き出る毛野の民の国つ神の力を玻璃の結界で囲い込んでいるため、違う理を持つ土蜘蛛は存在し続けることが難しくなる。

この呪具の中に居る分には消耗は抑えられるが完全ではないと悪路王は言った。

呪具から出してはならないが、時折様子を見てやれと呪具ごと小角に手渡してくれた。


慣れぬ土地で不自由が無いようにと小角に附けられた端女(はしため)司馬女(しばめ)という名の(おうな)だった。

小角が白銀城に運ばれてきた日、意識の無い小角の身繕いをしてくれたのも司馬女だったと聞かされた。

着ていた大帷子も手無しも、破れた筒袖も短袴も、司馬女は丁寧に繕ってくれてあった。

小角が礼を言うと司馬女は訛りの無い流暢な都言葉で答えた。

面食らった小角に、悪路王が司馬女は倭人で、都で生まれたのだそうだと教えてくれた。


白銀城では男衆は警護に当たる兵と雑役をこなす者が数人いるだけで、住む者の殆どが女衆だった。

その多くは年頃の娘達で、(かしき)から機織りまで、日常の女仕事をこなしていた。

何より小角が驚いたのは数える程の少なさだが、土蜘蛛が当たり前のように共に暮らしていることだった。

土蜘蛛の中でも最も屈強な一人は高丸(たかまる)と呼ばれていて、悪路王の警護に就いていた。

小角は前鬼と後鬼以外の土蜘蛛に会うのは初めてだった。

葛城と違い、この地では土蜘蛛は盟約に縛られているわけではないらしい。

高丸は土蜘蛛としての(さが)も意思を持ちながら、毛野の民と共に暮らしているように見えた。

そしてこの白銀城の主が悪路王だった。


小角は(いみな)を教えて貰った為か、日を追って悪路王をまったく違った眼で見るようになっていった。

確かに初めて会ったときには見慣れぬ姿に驚いたし、手篭めにされた怒りも有った。

が、見慣れるとその哀しいまでの美しさばかりに眼が行くようになった。

華奢な躯、透ける肌、白銀の髪、黄金の瞳、彫りの深い整った優しい顔立ち、薄い唇。

どれをとっても諱の美しさに相応しい。

氷高皇女(ひだかのひめみこ)阿倍内親王(あべのひめみこ)も美しいと思っていたが、玻璃は男君なのに更に美しかった。

玻璃は何時も城の中でも最上階の、豪奢だが窓の無い薄暗い部屋に居て、余程の事が無い限り出歩くところを見掛けなかった。


最初の数日、小角を案内してくれたのは土蜘蛛の高丸だった。

大抵の土蜘蛛がそうであるのだろうが、高丸も人の言葉を発するのは巧く無く、無口だったが、小角が意話(いわ)が出来ると知って、少しづつだがこの地の土蜘蛛の事を教えてくれるようになった。

嘗ては多くの土蜘蛛達が毛野の民と共に暮らしていたが、数が減った今では、御室に数人とこの達谷窟の鑪場(たたらば)に居る者、白銀城の警護に着く者がそれぞれ数人生き残っているだけとのことだった。

やはり畿内の土蜘蛛達と違い、国つ神との盟約で守手の一族に仕えているのではなく、古くから毛野の民と共に御室で暮らしていたのだそうだ。

そして畿内と同じ様に滅びる寸前なのだ。

出羽国のさらに北、毛野の民の国つ神の御室に、遠い昔、沢山の船で多くの倭人がやって来た。

それがそもそも倭人との長い争いの始まりだったと高丸は言った。

小角は父から葛城皇子(中大兄皇子)の母帝(ははみかど)(皇極・斉明帝)の頃、海軍の将(ふないくさのかみ)だった阿倍引田比羅夫が水軍を率いて蝦夷の国へ遠征

したと聞いた事を思い出した。

玻璃にその事を話すと、玻璃は真剣に聴いてくれ、毛野の国の事を話してくれた。

その頃はそれぞれの部族同士に国つ神への信仰以外に繋がりは無かった。

部族の首長が年に四回、太陽の昇る位置で定められた祭祀の日に、御室に集まるのが慣わしだった。

水軍の侵攻はこのとき限りだったが、やがて陸路を南から倭人が侵入して来るようになった。

松島丘陵が奪われ、多賀城に朝廷の国府が置かれ(724年)、雄勝への戦路(いくさみち)が拓かれ城柵が築かれると(759年)、この地の危機を憂いた先代の悪路王が御室からこの地へと遷った。

これをきっかけに、南に住む部族は纏まり初め、協力しあう慣わしを築きつつあり、これ迄の年四回の祭祀以外に朔月の夜、近隣の部族が達谷窟に集う習慣が出来ていた。

毛野の民の信仰する国つ神は白き神、御白様(おしらさま)と呼ばれていた。


拐われて来て最初の朔月に、陽が落ちてから、悪路王自ら小角を迎えに来て、集落の奥に在る祠で毛野の民の長老達に引き合わされた。

長老達の同意を得て、小角は悪路王の稀人となった。

その時小角は下野国で自分を襲った二人の若い男に会った。

厳つい髭面の眼光鋭い方が大墓(たも)の長の息子で阿弖流為(アテルイ)と名乗った。

背の高い幾らか年若な男は盤具(いわぐ)の長の息子で母禮(モレイ)という名だった。

阿弖流為は出羽までやって来る倭人の商人から下野国の追い剥ぎの話を聞き、土蜘蛛使いの鬼道の娘なら神守(みかみもり)ではないかと見当を付けたそうだった。

悪路王が小角を稀人とすると聞いて阿弖流為と母禮は眼を白黒させていたが、事情を聞き、心から謝罪してくれた。

阿弖流為は悪路王と特に親しいようで、悪路王の神守の(ともがら)として歓待しようと約束した。

母禮は下野国の庵での小角の立ち回りに感じ入っていたらしく、盛んに(おみな)であるのが惜しいと残念がった。

二人はいずれは首長として重き身になるのだろうが、年若な今は行いをとやかく言われることもなく、気儘に自分達の集落とこの大舘を必要に応じて行き来しているようだった。

毛野の民は部族ごとに里を作って住まっていた。

大墓の里は衣川の流域に在り、盤具の里は北上川の流域に在った。

生業としているのは狩猟、採集は勿論の事だが、畿内と同じ様に畑で穀物を育て、水田による稲作も行われていた。

此処には不当に搾取する郷長(さとおさ)も郡司も居ない。

採れた作物は里で公平に分けられていた。

畿内程の規模では無いが蚕を飼い、製糸や機織りも行われていた。

牧畜は盛んに行われていて、殊に馬は大切にされていた。

どの馬も畿内で見かける馬よりも身体が大きく骨組みが逞しい。

倭人の商人達は皆この馬を求めたがると阿弖流為は自慢げに語った。

異国との交易も盛んで、渤海国を直接の交易相手として、唐の商人とも商いがあった。

北上川で採れる砂金や鉄を購い、畿内には無い鋳鉄技術を学び、高温の炉で製鉄が行われていた。

畿内で行われる製鉄は主には鍛鉄で、焼きなました鉄の棒を鍛えて武器や農具を造る技で、融かした|真鉄

《まかね》で器を造るなど到底叶わない。

白銀城の城柵内には鑪場(たたらば)があり、桃生(ものう)伊治(これはり)、大墓、盤具といった近隣の毛野の民が交代で働いていたが、桃生、伊治の里が戦で奪われて民が俘囚となってから活気が失われているのだと阿弖流為が教えてくれた。


小角を稀人として扱うようにと悪路王から告げられて、阿弖流為も母禮も一度は気落ちしたようだったが、二人とも元々面倒見が良い気性らしく、何かと小角の世話を焼いてくれた。

城でじっとしているのが性に合わない小角は二人について、集落に行ったり、森を案内してもらって日を過ごした。

大墓と盤具の里は他の部族の生き残りを受け入れて多くの民が住まっていた。

里の男たちは老いも若きもみな戦傷があった。

女子供にもそういう者たちがいた。

(おみな)童子(わらわ)の数が少なく、大切にされているのは戦の度に、童子が殺され、女たちが凌辱され、浚われ、意に沿わぬと容易く殺されるからだとやがて小角は知った。


大墓の里を初めて訪れた日、阿弖流為は小角と森を歩きながら、悪路王の事を恨んでいないかと案じ顔で訊ねてきた。

「俺と母禮が言い出した事なのだ。悪路王は決して乗り気では無かった。恨むなら俺たちをこそ怨め。あのときの土蜘蛛達も俺の一存で連れていったのだ」

小角は立ち止まって阿弖流為を見上げた。

「今は恨みなど無い。悪路王にも、阿弖流為にも母禮にも、誰にもだ」

髭面の厳つい大男の案じ顔が余りにも不似合いで、小角は思わず笑みを浮かべた。

「むしろこの地に来て、毛野の民の事を知れて嬉しい。この地の有り様は私の郷里(くに)に似ている。何より私の他にも国つ神の守り手が居たと知れて嬉しい。悪路王は信頼の証として私に諱を呉れた。その志は有り難いものだ」

阿弖流為は暫く眼をしばたいた。

悪路王はこの娘に諱を明かしたのか?。

それは信頼の証しというだけのものなのか?。

「そうだったか。それを聞いて安心した」

ではこれもお前が知っておいて良いのだろう、と前置きして阿弖流為は語り始めた。

悪路王は8人の兄弟の末だが、7人の兄姉は皆育たず、母は悪路王の産褥で亡くなり、父は先の朝廷軍との戦で落命した。

悪路王は五体満足に産まれて無事育ったが、その色素の薄さ故か、太陽の光の下では良く物が見えないのだ。

小角は漸く気づいた。

だから白銀城の最上階には窓が無く、玻璃は昼でも暗い部屋に居るのだ。

この地はこんなに光に溢れ、美しい物で満ちているというのに。

玻璃はその地の守り手だというのに、これを見ることが叶わないとは。


初夏へ向かう眩い季節、小角は毎日のように、陽の下へ出かけられない玻璃の為に花を摘み、虫を取り、見せに行った。

そして様々な事を語り、聞いて自室へ帰った。

話は陸奥国の事であったり、神守の事であったり、葛城の事であったり、多岐に及んだが、自然と力の使い方についての話が多くなっていった。

一言主の力が意を言葉に載せ具現化する物であるとするなら御白様の力は養い、育てる物だった。

玻璃はまだ神守りとなって年月が浅いが、一族には多くの伝承が伝わっていたため、国つ神の力の使い方や土蜘蛛について小角より豊富な知識を持っていた。

葛城一族は急速に滅びたのが災いしたのだろうと玻璃は言った。

玻璃は小角が玄昉(げんぼう)や道鏡と共に習練した仏教や道教を応用した術の使い方を興味深げに聞いてくれた。

お互いにお互いから学ぶことが多くあった。

いつの間にか、それが習慣となり、玻璃は夕刻前に小角がやってくるのを楽しみにしている自分に気づいた。


ある夕刻、小角は玻璃に唯識論(ゆいしきろん)を応用した幻術の説明をしていたが、中々巧く伝えられず「此れは実際にやってみた方が簡単に解るのだ。やってみよう」と言った。

玄昉(げんぼう)と昔よくやったように、まずは己の頭の中で思い描いたものを幻想として相手にも見えるように造り上げる為、意を凝らした。

座した小角の両手の間に白い焔が揺らめいたのを玻璃は見た。

白い焔は丸い花の蕾の形を取り、綻び始めた。

大輪の白い牡丹の花が開き、開ききると花芯から蒼白い蝶が這い出てきた。

蝶は羽化したばかりのように羽根を伸ばし、ゆっくりと羽根を開いた。

蝶が舞い上がると牡丹は消え、蝶は二人が見上げる中で天井まで舞い上がって虚空に消えた。

「今のは只の目眩ましの手妻だが、これを応用して己の意識を載せることが出来る」

小角は立ち上がった。

「例えば」

玻璃の金色の瞳が見開かれた。

小角が立っていた場所には茶色の夏毛を纏った野兎が一羽座っていた。

一足跳ねた野兎を見て玻璃は混乱を来した。

逃げてしまう。

「待て。往っては駄目だ」

慌てて立ち上がった玻璃は野兎を捕まえたと思ったが、予期していた柔らかく暖かい毛皮の感触は無く、次の瞬間、腕の中に居るのは小角だと気付いた。

急いで手を放し「済まない」と詫びた。

一瞬だったが自分の腕の中で小角が身を強張らせた事に気付いていた。

あんなことを強いたこの身が厭わしくても仕方あるまい。

「続きは改めて教えてくれ。もう夕餉の時間だろう」

取り繕うように言うと、小角は我に帰ったように「そうしよう」と答えて身を翻して駆け去った。

太田川

衣川の南を東西に流れる河


宇合(うまかい)

藤原宇合、藤原不比等の三男、遣唐使として大陸に渡った事もある。


朝狩

藤原朝狩、藤原仲麻呂の息子


渤海国

高句麗滅亡後、7世紀末~10世紀に中国東北地方からロシア領沿海までを領土として成立した

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