第参部 東征 壱 蜉蝣
延暦六年(787年)
夏の始めに、小角は坂下の機織り場で、里主の娘の伊登を通じて、飯高の大刀自が床に着いたと知らされた。
慌てて飯高館を訪れてみると、諸高は既に回復に向かっていた。
季節の変わり目で、数日熱を出して寝付いてしまったと諸高は笑ってみせ、小角は安堵したが、諸高の齢を思えば、何時何が起こってもおかしくはなかった。
「そういえば、賀茂人麻呂がこの度の斎宮頭となった事をご存じですか?」
身を起こそうとして、寝ていろと床に戻された諸高の言葉に、小角は驚いて眼を丸くした。
「人麻呂が斎宮頭?」
小角の記憶の中では、賀茂人麻呂は、陽気で暢気でよく笑う若者だった。
宮子の従兄弟の子にあたるが、人麻呂が生まれた時には既に賀茂の里は無かった。
宮子の母に繋がる縁で朝廷に仕えていたが。
「あれが斎宮頭など勤まるのだろうか?。だがもう随分老いたのだろうな」
諸高の手を取って内気を巡らせながら、小角は良い機会だから鈴鹿峠の庵を引き払って、一度葛城に帰ろうかと思うと語った。
長岡の新都造営はまだ続いていたが、遷都の詔も出て大和国は落ち着いてきたと聞く。
諸高には何時でも会いに来れよう。
やがて床の傍らで、気が緩んだものか居眠りをしている小角の寝顔を見ながら、諸高は胸を痛めた。
私が死んだらこの方は本当に一人きりになってしまうのだ。
誰か安心してこの方を委ねられる者は居ないのだろうか。
翌日には床を上げた諸高は、小角が蛍を連れて都へ戻ると、厄介な事になるかもしれないと話した。
この新年に、朝廷は蝦夷との交易を、殊に陸奥駒について禁じる格を発令していた。
小角も飯高郷までの道のりで、すれ違う商人が蛍を物言いたげに見る視線には気付いてはいたが、いつものことだと軽く考えていた。
そんな令が出ているなら、身分も無い私が蛍を連れていると馬盗人とでも思われよう。
しかも正当に手に入れたという証しなど立てようもない。
「それに、また流民が大層増えているようです。」
諸高は造営師から漏れ聞いたと、話してくれたが、種継の暗殺事件から此方、長岡の造営に徴用された民から逃亡者が多く出ているとの事だった。
早良廃太子の所縁で寺社の下部が多く働いていたが、それらの者が疎まれて酷い扱いを受け、争い事が絶えず、寺社から幾度も申し入れがあったが、一向に改まらないらしい。
働く者の気持ちが一致しない造営は捗らず、事故も多く、怪我人も増えていた。
今暫く鈴鹿峠で様子を見るか。
「もう暫く坂下で厄介になろう。諸高と口を聞くには近くに居た方が良いからな」
小角は笑って飯高の館を後にした。
坂下へ帰る道すがら、小角は諸高から聞いた話を考えていた。
昨年辺りから、加太峠の周辺の集落が襲われると聞くようになっていた。
深夜に押し込んで目ぼしい物を奪い、女がいれば代わる代わる慰み物にして去っていくと恐ろしがられていた。
都の造営に徴用され、逃げ出した者や郷里へ帰る術を失った者達が流民となり、初めの内は数人で、旅人や商人を襲っていたのだろう。
頭目となるような者ができて、人数が増え、街道を往き来する旅人では飽き足らず、里を襲いはじめたと思われた。
真備は山部が遷都を成し遂げるだろうと言い、事実都は遷ったが、良継、百川、種継、早良と、次々と支える者を失って尚、あの男君は気概を保てるのだろうか。
首には良くも悪くも、安宿、氷高、葛城王が常に傍らに在った。
阿倍には真備と諸高と狼児が居た。
そして今思えば、恵美押勝も、初めの内は真実阿倍を君として仰いで行こうと思ったのでは無いのだろうか。
いや、そうであって欲しい。
夜空を見上げれば、風星はやはり青く輝いていた。
今、誰が山部を支えているのだろう。
坂下郷でも野盗を危ぶんで、皆里人は陽の沈む前に家に帰るようになった。
機を織る女達も織り場から帰るのが夕刻近くだと、足早な日没に先を越されて暗い道を帰る事になる。
小角は気にも留めず日が落ちるまで機を踏んでいたが、他の女達は物騒なので日暮れ前には織り場から帰っていた。
伊登には下働きの老爺が付いて行き来するようになった。
伊登はすっかり娘らしくなり、もうそろそろ誰か佳き婿がねが居ても不思議は無かったが、一人娘の事もあり、里主が高望みしているのだなどと陰口を聞くものもあった。
ある夕刻、小角独りが残る織り場に血塗れの老爺が助けを求めに来た。
顔を見れば日頃伊登の行き帰りに付いている老爺だと分かった。
小角は近くの家に助けを呼びに行き、老爺が苦しい息の下で伝えた雑木林に駆けていった。
萩や野菊の生い茂る藪の中で、数人群がる大童姿の無頼者達の野卑な笑い声と、若い娘の泣き声が聞こえた。
何が行われているか覚った小角は、一瞬怒りで前が見えなくなるかと思った。
今此処で前鬼と後鬼を召喚する事は憚られる。
辺りを見回した小角は蜂の巣を見付けた。
日没直後で蜂は皆巣に戻っていた。
意を集中して蜂を呼び、藪の中へと導くと、大童姿の男達はてんでに情けない喚き声を上げて、藪から飛び出して来た。
男達が逃去る姿を確かめて、前鬼と後鬼に後を追わせ、小角は伊登を里主の邸に連れ帰った。
里主の邸では小角の報せで老爺を捜させたが既に息を引き取っていた。
伊登は命には別状無さそうだったが、殴られた痕も残る痛々しい姿だった。
怪我の手当てをした後も、小角にすがって泣きじゃくる娘の姿に心を痛めた親達から、暫く逗留してくれと頼まれた。
小角も哀れには思ったが、庵に蛍を残して来ている。
明日必ずまた来る、毎日通おうと小角は約束した。
小角が最も案じたのは、伊登が望まぬ子を孕む事だった。
少なくとも一月は様子を見なくてはなるまい。
あの大童達が野盗の一味で、おそらく次にはこの坂下を襲うつもりで下見に来ていた事は予測がついた。
出鼻を挫かれたから、今日、明日ということはあるまいが、近い内に必ず郷が襲われよう。
前鬼と後鬼が突き止めた野盗の塒は、三子山から西南に続く峰の麓にあった。
小角は夜鷹の姿を借りて様子を探りに行ったが、考えていたより多くの人数が集まっていた。
五十人は下るまい。
しかもどう調達したものか、様々に武器を持っている。
前鬼と後鬼の三人で絡め捕るのは骨が折れそうだ。
死人が出ても構わぬなら他愛もなかろうが、風評は避けられなくなる。
下野国での二の舞は流石に思い止まった。
坂下の里主は斎宮のある渡会郷の里主と縁者で、渡会氏に斎宮司を通して鈴鹿の峰の賊について上奏してもらうと言った。
今の伊勢斎王は、今上の寵愛深き朝原内親王であれば、その心痛を案じて、早急に討伐の使節が差し向けられるであろうとしたり顔だった。
今の朝堂の顔ぶれを知らぬ小角には、どんな者が来るか知れたものでは無い。
どうも厄介な事になりそうな予感がした。
伊登が襲われてから二日後の早朝、坂下の里主の屋敷では端女や下働きの小男達が、忙しそうに立ち働いていた。
門は磨かれ、緩んでいた小柴垣は修繕され、厩が整えられ、草臥れた農耕馬の姿は無かった。
納屋から上等な調度が出されて、庭に面した母屋の几帳や畳、文台などの室礼が改められていた。
小角は端女の一人を捕まえて「婚礼でもあるのか?」と訊ねた。
年嵩なその端女は声を潜めて「主様はそのつもりかもしれんね。何しろ身の程を知らんでなあ」と答え、どうしようもないと言うように首を振った。
伊登の様子を見る前に里主に声を掛けようと姿を探したが見当たらず、小角はそのまま伊登の曹司へ向かった。
庭から伊登の曹司に近づくにつれ、里主の声と甲高い伊登の母の声が聞こえ、どうやら口争いをしているようだと知れた。
先触れに咳払いをした小角の姿に、伊登の母は味方を得たように勢いづいて、簀まで出てきて、鈴鹿様もお口添え下さいと捲し立てた。
「なんでも明日、都からおいでになる貴人が此処を御在しとされるそうで、夫は、伊登を奉ると言うのです」
二日で使節が来るとは、誰の計らいか知らぬが中々の手腕だ、なぞと頭の隅で考えながら、小角は「国府でなく此処に逗留するとは、何か理由でもあるのか?」と訊ねた。
国府(鈴鹿郡広瀬)は坂下の里主の屋敷から馬で東に向かえば半日程だ。
「この辺りの地形に詳しい者に話を聞きたいとのご意向だそうで。帝の覚えも目出度い方だというのに、鄙の事とは言え、何のもてなしも無しとはいきますまい」
なんでもその近衛少将は数年前に妾を亡くしているそうだ。
気に入られれば良き縁が掴めるやも知れぬではないか、そんな戯けた事をよく思い付くものだと再び言い争いが始まった。
小角は心の中でやれやれと溜め息をついた。
よくそんなことを調べ上げたものだ。
確かに貴人が訪れるとなれば、歓待の証しに女を奉るのはよくある事だ。
床に侍るかどうかは、女が客の気に入るかどうかにもよるが、酒席を設けるのであれば、その席には女君が侍る事になる。
官人ともなれば、もてなす側に、司馬女がそうだったように召人が居れば召人が、または特に客の位が高ければ、一族の内から氏長者の妻や娘が、相応しい者として選ばれて添い臥すのは当前の習慣だった。
宮に限らず、寺社の司でも令国の受領達でも鄙の里主でも、大方は、奉公に上がる下部や小作人の娘や妻に好き放題に手を付けて、あまつさえ近在で自慢気に吹聴していたりするが、女の方はそれで働きの悪い家族を多目に見て貰ったり、子でも成せば、其なりに得るものがあったりする。
中には嫌がる娘を無理矢理手込めにするような者もいるとは聞くが。
何にしても今の伊登には酷な事だ。
まだ怪我も心の傷も癒えぬ伊登は、幾ら孝行な娘とは言え、我が身の事で父母が言い争う姿に泣いていた。
「里主殿よ、酷な事を言われるな。伊登は顔の腫れこそ引いたが、まだ身体中に痣や小傷がある。何よりあんな乱暴な目に遇わされて脅えている者を何とする」
小角の言葉に里主の妻は大きく頷いて「鈴鹿様の仰せの通りですよ」と言った。
「ですが、この辺りで貴人の酒席に侍れるような作法を、少しでも知る年頃の娘なぞ」
言いかけて言葉を切った里主と、突然思い当たった里主の妻は顔を見合わせ、それから小角を頭の天辺から足の先まで見た。
案の定厄介な事になったと思いながらも、小角は伊登の代わりに酒席に侍ってくれという里主の頼みを断れなかった。
気は向かないが、添い臥しだの伽だのは術で誤魔化す方もある。
断るには伊登が憐れすぎた。
翌日、午の刻を回った頃、小角が里主の屋敷に足を踏み入れると、厩には見事な陸奥駒が繋がれ、どこか見覚えのある年嵩な舎人風の男が世話をしていた。
下働きの男達はやけに落ち着かず、端女達は炊屋で煮炊きをしながら、声を潜めて何事か囁きあっていた。
里主の妻が身支度を手伝ってくれたが、何か上の空な様子だった。
小角は久しぶりに宮に居た頃の様に髪を結い、花鈿を描き、紅の大袖衣に濃淡とりどりの翠の緞の裳に背子を着、領布まで持った。
室礼を改めた母屋では客人と里主が挨拶でも交わしていることだろう。
「鈴鹿様、あの、客人の事ですが」
里主の妻が言いかけた時、端女が酒肴の用意が出来たと知らせてきたので、話はそれきりになった。
里主の妻と端女が高杯や折敷を持ち、小角が錫の酒杯と提子を載せた高杯を捧げて母屋に入ると、上座に座した客人の深紅の位襖が鮮やかに目に飛び込んできた。
傾きかけた日差しが、長く曹司に射し入って、頭巾の下の黄褐色の髪の色を一際明るく浮かび上がらせていた。
膳を運ぶ女達に深縹の視線が向けられた。
小角は一時眼を見張った。
討伐に送られて来るのは、近衛少将と聞いていたが。
いつか東山で会ったあの東漢氏縁の西域人の様な容貌の男君ではないか。
どうりで皆、何やら落ち着かぬ訳だ。
見慣れぬ容貌に怯んでいるのだろう。
それにしても、よもやまたこの男君に会うとは思わなかった。
では亡くなった妾というのは粟田の方だろうか。
あれから随分経っている。
この姿では気づかれる事もあるまいが。
そう坂上氏の、確か名は、何と言ったか。
「遠方からのお越しです。都の貴い方には、お目に留まる程のものでも無いかも知れませんが、志摩国から美味い物を取り寄せさせました。娘を侍らせますので、持て成しをお受けください。」
里主は諂うような目つきになった。
「何卒、坂下にこの後も、良きご縁とお力添えを願い奉ります」
女達の手で並べられた酒肴の膳はともかく、着飾らせた年若な娘の姿と、更に里主のおもねる様な言動に客人の表情が突然険しくなった。
上座から立ち上がると、呆気にとられている里主に「なにか思い違いをされているのではないか。私は野盗の討伐に来たのであって歓待を受けに此処に来たわけでは無いが」と声音も厳しく言い放った。
前栽には、先程馬の世話をしていた舎人が控えていた。
「河鹿、馬を牽け。私は国衙へ戻ろう」
小角は客人の返答に、この男君は思っていたより堅物だった様だと見る目を変えた。
里主は、来訪を受けてから客人の異国人の様な容貌に怯み、怖じていた所に、更に思わぬ言葉で窮してしまった。
「お待ちください、失礼がありましたらお詫びいたします」
何が気に障ったのか、どう取り繕うかと困り果て、客人を引き留めようと脂汗をかいている。
仕方がない、取りなしてやるか。
何か歌でも詠んでやろう。
官人であれば、歌を詠まれれば礼を失する訳にはいくまい。
どこから調達したのか、下座には琴が置かれていた。
小角は琴に歩みより、数音弾いてみた。
華美な琴では無いが調律はされているようだ。
弦の音は居合わせた者の耳と目を奪い、その場の皆が小角を振り向いた。
粟田の佳人を思ったからだろう、あまりこの場に相応しくもないが、咄嗟に閃いたのは詩経の蜉蝣だった。
蜉蝣の羽
衣裳楚楚たり
心之憂うる
我於に在り
歸處よ
客人が僅かに目を見張った。
歌われているのが、喪った妻を偲ぶ哀歌だと気付いたのだろう。
一節を歌い終わり、小角は立って客人の傍らに歩み寄ると、領巾もつ手を挙げて、差し伸べた。
向けられた藍色の視線を捉えて、骨ばった大きな手を取り、設えられた上座の席へ促すと、心此処に在らずという体だが足が進められ、客人は気を呑まれた様に再び座に着いた。
蜉蝣 掘閱
麻衣雪の如し
心之憂うる
我於に在り
歸說ん
歌い終わり、小角は杯と提の乗った高坏を持って客人の前に座した。
「ご不興はこの海女(女)が潜(被)ぎましょう。都から遥々お越し頂いた方に、荒き浜辺の旅寝というわけには参りません。何卒、持て成しをお受け下さい」
小角が両手で杯を差し出すと、客人は我に返った様だったが、里主を始め、遠巻きに様子を窺う端女達の安堵した表情に目をやり、不承不承といった体で「私が浜萩を敷いて寝たところで案じる者は居ないのだが。折角だ、お受けしよう」と受け取った。
客人の視線が自分を見詰めている事がよくわかった。
気づかれてしまっただろうか。
蜉蝣は不味かったかもしれない。
さてこの少将殿の名は何といったか。
酒を注ぐ小角を見ながら客人は「貴方は、坂下の方か?」と訊ねた。
「今在に住む者です」と答えると重ねて「御兄弟はおいでではないか?」と問われた。
小角が「縁有る者は既に居りません」とだけ答えるとそれ以上は詮索されなかった。
小角は阿倍と共に宮に居た頃の様だと思いながら酒肴を給仕した。
里主は小角の機転でどうやら客人の気が変わったらしい事に安堵し、女達に更に膳を運ばせた。
膳が進んで気が大きくなったものか、里主は亦しても追従めいて、娘がお気に召したなら寝屋に侍らせるなぞと、言わぬが良い事を言い、再び客人に険しい視線を投げられて頚を竦めた。
酒席の後、小角は客人の寝仕度を手伝いながら、もしこの男君の気が変わったらどうするか等と案じていた。
手燭を持って曹司を退出る段になって、幸いそんなことも無さそうだと安心した矢先に、客人から「待ってくれ」と声が掛けられた。
止めた脚の膝が震えそうになって、小角は己で思うほど度胸が座って居なかった事を自覚した。
添い臥しを求められたら何としよう。
簀に控えて居た舎人の傍らで、振り向いて平伏した小角に、客人は和やかな表情で言った。
「先程は場を取りなしてくれて礼を言う。詰まらぬことで意固地になっていたようだ」
顔を上げると微苦笑が向けられていた。
小角は黙したまま礼を返し、簀に控える舎人にも一礼して去った。
そうだ、あの日、あの若者は田村麻呂と名乗った。
もう七年も過ぎたのだ。
近衛少将か、堂々とした武官となったものだ。
田村麻呂は眠りにつく前に、大君の言葉を思い出していた。
「急ぎ伊勢国へ赴いて貰いたい」
昼御座所で、山部は田村麻呂の顔を見るなりそう言った。
「斎宮頭から、伊勢国の国境に賊が多く潜んでいて、度々公民の暮らしを脅かすので、斎王が嘆いていると言ってきた。駅鈴を使え。伊勢国府の兵を率いて賊を絡め捕ってくれ」
山部は長岡宮の昼御座所に南向きの大きな唐風の窓を造らせていた。
開け放たれた窓から見える空は、雲一つ無く晴れ上がっていた。
窓の外に眼を向けて、山部は言った。
「干魃が続くので、斎王に潔斎して貰って雨を乞うてもらうかと言ったら、そういうことは伊勢社ではなく龍神に頼めと酒人に笑われた。干魃が二年続けば飢饉となる国も多かろう。更に流民も賊も増えような」
田村麻呂に視線を戻した山部は穏やかに言葉を継げた。
「不本意ではあるが、いずれ奥州へ兵を出すことになるだろう。その時の妨げとならぬよう、東海道の安全は整えておくにしくことはない。頼んだぞ」
蝦夷討伐が現実となれば、亡き道嶋の将や日向の俊哲殿は何と思われる事だろう。
戦となれば、多くの者が住む家も田畑も生業も失くし、命を落とす。
人の命など戦が無くても、蜉蝣の如く儚いものだと言うのに。
蜉蝣か。
その夜、酒席に侍った娘の面差しが浮かんだ。
いつぞや高子を癒してくれた呪禁師によく似ていたが、鄙の者とも思えぬ不思議な娘御だ。
詩経を詠じ、掛詞で座を取り成し、給仕の作法はまるで宮の采女の様だった。
一体何者なのだろう。
賀茂人麻呂
賀茂小黒麻呂(賀茂媛の兄)の長子諸雄の子。
人麻呂の子江人の子が加茂忠行(安部晴明の師)。
蜉蝣,三章,章四句。
蜉蝣之羽,衣裳楚楚。心之憂矣,於我歸處。
蜉蝣之翼,采采衣服。心之憂矣,於我歸息。
蜉蝣掘閱,麻衣如雪。心之憂矣,於我歸說。
蜉蝣の羽 衣裳楚楚たり
心之憂うる 我於に 歸處せん
蜉蝣之翼 采采たる衣服
心之憂うる 我於に 歸息せん
蜉蝣 掘閱 麻衣雪の如し
心之憂うる 我於に 歸說せん
碁檀越の伊勢の国に往く時に、留まれる妻の作る歌一首
神風の 伊勢の浜荻折り伏せて 旅寝やすらむ 荒き浜辺に
あなたは今ごろ伊勢の浜辺の蘆を折り敷いて、旅の寝床で休まれる頃でしょうか。そこは波風荒い浜辺でしょうか。
(どうかそうではありませんように。)
万葉集 巻四