第弐部 遷都 九 長岡宮
延暦三年(784年) 初春
「古来から甲子の年は、天の意志が高まる年、徳を備えた人に天命が下される甲子革令の年とされております。大君が帝位に着かれた革命の年である辛酉年から四年後に廻り来た、甲子革令の今年、人心も政道も新たにする事を目的として、山背国長岡へ都を遷すことを建言致します」
朝堂で山部が、今年の政を如何に進めるか、参議の意見を聞きたいと促し、この新年に中納言となった式部卿藤原種継が立ち上がって述べた時、居並ぶ参議は遂にこの日が来た事を悟った。
種継は山背国長岡の淀川と葛野川の水運の利を一番に挙げた。
「山崎に津を置けば物資の運搬は元より、外国からの使節は、太宰府からそのまま船で河漢を遡るごとく入京出来るのです」
遷都に賛同しない参議は舌打ちしたい思いで、種継の熱弁を聞いていた。
河漢を遡るごとくが聞いて呆れる。
帰朝する遣唐使船は、波荒い季節に大海を航る為、尾羽撃ち枯らして令国内の何処でも漂着できれば僥幸であり、今や新羅使に威風を見せつける理由も乏しく、恩恵を受けるのは往復の少ない唐商船位だろう。
今最も交易の盛んな渤海国は鯨海を航ってくるので、陸路入京する慣わしだ。
太宰府や陸奥といった辺境国への人員や物資の移動は、平常時まで海路を採っていては採算が合わない。
造営には利となるかもしれないが、詰まる所力関係を変えることが目的の遷都だ。
式家に益を害われてなるものか。
大蔵卿が現在の国家財政について、陸奥、出羽の戦の負担が大きく、遷都に係る費用を捻出することの困難さを述べた。
式家に繋がらぬ藤原氏は、この都に根ざして興きた寺社からの反対を憂う意見を述べた。
早良皇太弟から、東大寺を筆頭に七大寺は今上のお考えに従うと言ってきたと奏上された。
大伴、紀、佐伯といったこの大和国に本貫地を持つ有力氏族は、都が山背国へ遷る事で、他氏族の朝堂での発言権が増す事を警戒して、様々に言を並べて反対した。
山部は一通り意見が出尽くした所で、落ち着いた声で述べた。
「どの意見も尤もであると思う。種継の建言は朕の思う所に近く好ましいが、参議の言う所を聞いてみて、別な目が開かれた心持ちだ。どうだろう、仮宮である難波宮は造られて随分経つ。只今では外国からの使節を迎えるのが主な役目となっているが、まずは難波宮の移転としてこの事業に手を着けてみては。難波宮の解体と移転であれば、新都の造営に比べれば遥かに懸かる国財は軽く済もう。更には種継の言う淀川の水運がどれほどの利便性かの検証にもなるだろう。都遷りについてはその後に考えようではないか」
思わぬ山部の言葉に、遷都に賛成する参議は感嘆にどよめき、反対する参議は臍を噛んだ。
なし崩しに遷都となることは見え透いている。
今上は予め議論の流れを予測されていたものか。
だがこの意見に反対するのは難しい。
平城の都が置かれてから、難波、紫香楽、恭仁、保良、由義と各地の仮宮の造営に留まらず、大寺の造営、大仏建立、仲麻呂による平城京の大改築などの土木事業が様々に行われてきたが、今上は先帝が新たに宮を造る事を思い止まらせ、自らが即位した時も新たな宮は必要ないと造らせなかったのだ。
山部はさらに考え深げに言葉を継げた。
「この数年、東西共に市の商いは乏しいと聞く。造営は確かに国家財政から大きな支出となるが、払い出された国財は事業に関わる緒氏族、寺社、その下部を通じて令国内を広く巡り、商いを活性化させるものとなろう。ただ御調を免じたり、国庫を開いて穀を分け与えるより国の為になると思われるが、如何かな?。」
山部の言葉に反論は封じられた。
遷都への一歩は踏み出された。
蚩尤を名乗った者の言葉を聞いた夜から、山部にとって、この平城の都は淡海公が造り上げた虚像の都であり、改め不る常の典の象徴だった。
それらに決別する日が漸く来たのだ。
数日後、藤原種継、坂上苅田麻呂他数名が造長岡宮使に任命され、五月十六日には山背国乙訓郡長岡の地が視察され、造営が始まった。
造営の為の人員は令国からの徴用の民の外に、寺社の下部が駆り出された。
難波宮を解体した礎石、木材、瓦などの資材は船で淀川を遡って運ばれた。
山部は度々自ら足を運んで造営の進展を確かめた。
種継は山部の意向に沿うべく、工事を急がせたが、人夫の労働は過酷になり、早良皇太弟は頻繁に種継に留意を申し入れ、口論になることもしばしばだった。
秋の終わりには大極殿が完成し、山部は長岡宮に遷幸を予定した。
そこで遷都の詔を述べるつもりだった。
遷都反対派の多くは、皇統の血筋から外れた山部を快く思わぬ者達であることは解っていた。
山部は皇后乙牟漏ではなく、酒人内親王を傍らに詔を発するつもりだった。
長岡宮造営の建議が裁決された日、山部は真っ先に酒人の許へ訪れ、宮が完成し、遷都の詔を述べる時には共に居てくれと乞うた。
酒人は嬉しそうに、けれどどこか悲しげに、建議の採可を祝った後、「私は長岡へは参れません。初斎院に居る朝原を置いていくことはとても出来ません。どうぞ皇后をお連れください」と答えた。
まだ整わぬ宮に行けば御座所は交野の百済王理伯の邸か、或いは楠葉の藤原継縄の別郷になるだろう。
どちらであれ、必ず明信の姿が有るのだ。
十一月十一日、山部は皇后乙牟漏と早良皇太弟と共に長岡京の真新しい大極殿に立ち遷都の詔を発した。
延暦四年(785年)
新春、皇太弟早良親王は七大寺を廻って、長岡宮造営への協力に感謝の意を述べ、引き続いての協力を乞うた。
大安寺では先頃住持となった行表に無沙汰を詫びた。
行表が大安寺の住持となった事は知っていたが、宮が長岡に置かれた事もあり、気軽には足を向けられなくなっていた。
行表はこの訪問に先だって遣わされた東宮行幸の知らせを聞いて、東大寺に居た愛弟子を呼び寄せて引き合わせた。
早良はその若い僧侶の学識と志に感銘を受けた。
行表に是非一度宮中へお誘いしたいが如何だろうと訊ねてみたが、行表は残念そうに答えた。
「あれはどうやら既存の教えでは飽き足らぬようで、東大寺を出て、暫く大蔵経を携えて比叡の山に入りたいと申しております。何れは大海を航らせてやりたいと思うのですが、拙僧ももう老いました。あれが山を降りるまで果たして生きておれるものか」
まだ年若だった頃、拙僧が昔語りに語って聞かせた、山林修行を試したいと思ったものかも知れませんと行表は苦笑した。
「そうでしたか。比叡山に」
早良はなんと羨ましい事かと、自らが学僧であった頃に思いを馳せた。
「遣唐使については、暫くは難しいかと思いますが、私から兄に推挙しておきましょう。住持もどうかお健やかにお過ごしください」
慣れ親しんだ東大寺や大安寺と遠く離れて在る事を、寂しい事であると早良は感じた。
二月に大伴家持の後任として多治比宇美が陸奥按察使に任命され、家持は東宮大夫として長岡宮へ帰還した。
四月七日、長岡宮の朝堂院で陸奥国から帰った大伴家持は奥州の防衛について建言した。
表向きは多賀と階上を正規の郡として、官員を規定数配置させたいというものだったが、もう一つ、家持には目論見があった。
「今上に是非とも申し上げたい議がございます。新都造営での人心一新も国家の大事でありましょうが、只今の陸奥の情勢を見るに、先帝の遺勅が蔑ろにされていると言わざるを得ません。蝦夷の国とは国交を持たぬ筈が守られていず、公然と交易も行われております。此のような事では、またしても我が国の方針が疑われ、朝廷の威信が侮られましょう。今一度、天つ日嗣の威光とみ仏の慈悲を持って俘囚と蝦夷を諭して、奥州の安定を図っては如何でしょうか」
家持は己が言葉の効果を確かめるように、参議の顔ぶれを見回し、山部に眼を移した。
「今上の賢明な裁断をお待ちします」
山部は心中、女狐の次は古狸かと罵りながら、声に出しては「慎重に考えてみるとしよう」と答えたのみだった。
この日の家持の「天つ日嗣の威光とみ仏の慈悲を持って」という発言が招いた効果は家持自身が思わぬ方向へと発展した。
東宮大夫である家持のこの日の発言は、東宮坊に多く居る新都造営に反対する者達の感情を煽り、寺社に伝わり、やがて密かに、み仏を省みぬ今上よりも、早良皇太弟を奥州で大君としてはなぞと囁く者が現れた。
確かに家持は、嘗て陸奥国へ兵を率いた早良皇太弟が、再び陸奥国へ赴いてはどうかと考えていた。
幼少期を大宰府で過ごした家持には、辺境の守護のあり方に、様々に思うところがあった。
長じて井手大臣に見いだされ、大学寮で吉備大臣と出会い、自らも幾多の政争に捲き込まれて、老いてなお、その感はいや優った。
太宰、隠岐、陸奥を体の良い左遷の地とせず、その頂点には、上古のごとく王族を任命してはどうなのだろう。
畿内から過度な軍備や人員を供出せずとも、皇統の血筋を頂点とすれば自ずと令外官の振る舞いも正され、軍備は令国内で賄えよう。
奥州の令国化が進めば先帝の遺勅も叶えられよう。
但し、あくまで今上に皇太弟への危機感を抱かせないように慎重に事を運ばねばなるまい。
頃合いを見て帝に打診してみるつもりだったが、長旅は老いた身体に堪えたものか、家持は臥せりがちな日が続いた。
嘗て共に恵美押勝を排斥しようと企てた佐伯今毛人は長岡宮の造営使でもあったが、家持の健康を案じて足繁く訪れた。
かの時は良継が、太師(恵美押勝)を相手に仁王立ちで、罪を謀ったは我一人と皆を庇ったのであった等と、懐かしく語り合った。
良継も永手も、困難な時代を共に切り抜けた盟友であった。
家持は東宮坊の不穏な空気に気づかぬまま、病の床に臥す日が続き、次第に病は重くなっていった。
眼を覚ましていられる時間の方が少なくなり、起きている時間の多くは、過去に通りすぎてきた様々な出来事が夢の反芻のように思い出された。
この年大蔵卿となったのは、北家藤原永手と式家藤原良継の娘との間に生まれた藤原雄依で、父母の縁で、寝言か譫言のように何事か呟くのみとなった家持の枕辺を度々見舞った。
吉備大臣が葛城王様を支えた様に、我君のお力になりたかったが、もう我が身では叶わぬやも知れぬ。
栗原の姉歯の丘で見たあの一本の松は、皇統の訪れを待つ木であろうに、これを遺すことができないとは。
だが我はもう歌詠みではない。
葛城王様が失意の内に亡くなられたあの日から、我は武を持って大君に仕える大伴の一族として生きると決めたのだ。
ああ、だが、もしや我君もまた、葛城王様がそうされたように、王族として生きる事を捨て、一介の臣となられた方が幸いであられるのだろうか。
家持は薄れ行く意識の端でちらりと考えた。
だがもうそれを我君にお伺いすることも叶わぬものか。
七月の半ばを過ぎた頃、潔斎を終え、下向を控えた朝原内親王の為に斎宮御所の宮人が任命され、八月二十四日に旧都の平城京で発遣の儀が執り行なわれる事となった。
山部は長岡の都から平城の都へ、大がかりな行幸を行わせた。
旧都からの発遣の儀であっても、先例通りに、いや先例を上回る格式を持って斎王を送り出したい。
早良は兄の意を汲んで、お留守の間は私にお任せくださいと微笑んだ。
造営の責任者である藤原種継は、長岡宮に残してくれと言上した。
発遣の儀は山部自らが執り行い、幼く、いとけないばかりの朝原内親王に別れの笄を挿した。
朝原は久しぶりに会う父が嬉しく、幼い斎王の為に小さく誂えられた、きらびやかな笄を挿してもらい、頭を重たげに揺らして、何心も無く笑った。
九月七日、斎宮寮に仕える者達が従う下向の行列は伊勢へ向けて出発した。
山部は百官を連れて、平城宮から上つ道を瀬田へ向かう群行を大和国の国境まで見送った。
順調であれば七日から八日の後には斎宮御所に到着する旅だ。
山部は久しぶりに酒人の許で寛いだ。
東大寺の万燈会の灯火を寄り添って見ながら、山部は再び酒人に長岡の宮へ来てくれと乞うた。
「共に在れる日々を享受してくれるのでは無かったのか?。お前の居ない宮の何処に朕の居場所があると言うのだ」
朝原を手離した今、義兄の腕の中では、酒人は長岡宮に行きたくないとは言えなかった。
山部が留守にしていた長岡宮では、八月二十八日に大伴家持が没したが、発遣の儀で潔斎中であることを憚り平城宮には使者も発たず、葬儀も潔斎が明けるまで待つとされた。
「もう還俗した身ではありますが、私に御修法を行わせてください」と、親族の集う中、早良皇太弟自らがひっそりと経を上げた。
禍事が起こったのは、群行が斎宮御所に入って数日後の九月二十三日の夜だった。
長岡の都で造営工事を検分していた種継が二本の矢を受けた。
旧都には駅馬で報せが走り、山部は即座に長岡へ向かった。
井上と他戸を死なせてから、久し振りの失態に山部は歯噛みしたい思いだった。
種継は辛うじてまだ息があり、傍らには青ざめた顔の早良皇太弟の姿があった。
造営中の刑部省の司所に既に矢を射た者として大伴竹良が捕えられていた。
種継は射られた翌日に息を引き取った。
取調べの結果、大伴継人、佐伯高成、大伴真麻呂、大伴竹良、大伴湊麻呂、多治比浜人らの名前があがり、既に捕縛使が向かっていると早良は言った。
取り調べは苛烈を極めた。
大伴継人が述べた謀の内容は、亡き大伴家持が謀り、種継を亡き者とすると早良皇太弟に伝えた後、実行したというものだった。
勿論早良は知らぬ事だった。
山部は自白を信じなかった。
早良がこのような事に関わる筈も無い。
この機に乗じて、何者かが早良を陥れるつもりなのだ。
早良を排したい者など山部には一人しか思い当たらないが、それは謀など出来る者では無かった。
後宮では、親しんで頼りにしてきた種継が無惨に殺されたと聞いて、乙牟漏が安殿と抱き合って嘆いていた。
大伴継人は直ちに斬刑とされたが、その自白は既に多くの官人の知る所となり、長岡造営に賛同する官人からは、早良皇太弟を糾弾する声が日増しに高まった。
早良の身が危ういと考えた山部は、早良に「ほとぼりが冷めるまで辛抱してくれ」と言い含め、長岡の上宮太子所縁の寺に幽閉という名目で蟄居させた。
やがて大蔵卿藤原雄依、右兵衛督五百枝王、春宮亮紀白麻呂、右京亮永主、東宮学士林忌寸稲麻呂といった、政治の中枢に近い者達の名が上がり、それぞれ遠国への流罪とされた。
早良皇太弟の幽閉から十日程の後、無実を立証する術が見つからず、山部はやむを得ず一旦、早良を廃太子として淡路に身柄を移す事に同意した。
早良は乙訓寺で独り、世を儚んでいた。
誰が謀った事であれ、その火種は己自身にあるのだ。
私には皇太弟の任は荷が重すぎた。
兄との別れ際に、早良はもしこの後、遣唐使の派遣が叶う時が来たら是非推挙してくれと、行表の弟子の名を伝えた。
兄は、何を言う、その時が来たらお前が推挙するのだと笑った。
強く、優しく、賢い兄と早良は敬ってきた。
けれど私には、もう到底この上、この世で生きていけそうに思われない。
この上、私が生きていれば兄の身にも障りとなるだろう。
早良は、獄吏を兼ねた住持に気づかれぬよう、徐々に出される食や水を絶った。
食べるものを疎かにすることは仏道に外れるが、いずれにせよ我道は浄土へは続くまい。
船で淡路に移送される事となり、淀川の草津の川湊で船に乗った。
衰弱した足取りは、流石にもう隠し通すことはできず、早良はよろめくように船底に崩おれた。
付き添っていた弾正官は驚いて早良を抱き起こした。
窶れられたとは思っていたが、まさかこれまでとは。
船は汀を離れ、流れに乗って河口を目指していた。
折しも秋の陽は北摂の山々へ傾き、夕暮れの空と雲が織り成す壮麗な錦が早良の眼に映った。
金烏西舎に臨むとはこの光景だろうか。
だがここから二上山は見えない。
私が死んで哀しむ姉はもうこの世に無く、髪を振り乱して裸足で後を追ってくれる者も無い。
だがそれはむしろ幸いと言うべきなのだろう。
早良廃太子の眼がゆっくりと光を失って行くのを見守って、弾正官は手を合わせた。
山部が早良の死の報せを受け取ったのは、遺骸が淡路に着いた後だった。
淡路での埋葬を指示した後、一昼夜、山部は執務室としていた昼の御座所から出ず、誰も近寄らせなかった。
翌日、慌ただしく旧都から酒人が移って来て、漸く山部は眠りに着ける場所を見いだした。
か細い腕に懐かれて、山部は夢を見ない眠りに落ちた。
この年、最も日の短くなる十一月十日に、かねて予定されていた祭天の儀式が、交野の柏原で執り行われた。
大陸に於いて周代から伝わる国家安泰を祈願する儀式に習い、旱天上帝(道教、儒教の最高神)を祀るものだが、この儀式の為に長岡の都の南郊に天檀を設け、多くの供物が捧げられ、山部自らが潔斎して臨んだ。
祭文を読み上げながら、山部は心に誓った。
天や仏に祈って国家安泰など望むべくもない。
国家の安泰は大君である朕が政で造り上げるのだ。
蚩尤よ、何処かで見ているなら見届けるが良い。
必ず成し遂げて見せようぞ。
早良亡き後の皇太子を定めない事は、政の妨げであり、後継争いの種ともなりかねない。
十一月二十五日、十一歳となった嫡子、安殿親王が皇太子とされた。
東宮学士には大納言中務卿、藤原継縄が任じられた。
延暦五年(786年)
一月十七日、長岡の都の後宮では、父を百川、母を良継の娘諸姉に持つ藤原旅子(百川と諸姉の娘)が身籠った事から夫人とされた。
皇后乙牟漏も再び身籠っていた。
昨年の大伴家持の建言を受けて、山部は陸奥、出羽の蝦夷との交易について調べさせていた。
確かに宝亀五年の詔以降、交易は一旦は断絶したように見受けられたが、宝亀の乱が治まって以降、馬や鉄製品を中心に再び行われている事が判明した。
しかも、どうやら百済王俊哲自身が交易を奨励するような言動を行っているという報告だった。
大伴家持の奥州防衛の建言以降、蝦夷討伐は先帝の遺勅であるとの声が高まっていることは確かだ。
だが今、戦に割く余力など何れ程もあるまい。
何れにしても百済王俊哲には陸奥から帰還して貰うとしよう。
種継の死から造営の進展は勢いを欠いていた。
夏に、山部は東海道、東山道の兵士、武器の検閲を行わせた。
九月七日に皇后乙牟漏は健やかな男児を産んだ。
この男児は神野と名付けられた。
夏に実母を失った、夫人旅子は傷心の中、乙牟漏の出産からさして日を置かず、やはり男児を産み、大伴親王と名付けられた。
秋が終わる頃、左京大夫、坂上苅田麻呂が没した。
延暦六年(787年)
一月十二日、朝堂では陸奥国と蝦夷との交易を禁じる格が定められ、同日付けの太政官符が発令された。
陸奥から帰還した百済王俊哲は蝦夷との交易について、朝堂で百官から散々に責められた。
俊哲は陸奥国の現状を、言葉を飾らずつぶさに報告し、今、蝦夷は朝廷に対して害を為していないと声を枯らして繰り返したが、誰一人として聞き入れはしなかった。
山部は議事の間中、黙したまま一言も発さなかった。
翌日、俊哲は沙汰があるまで都を去るようにという使者の言葉に青ざめて交野に去った。
陸奥、出羽の防衛の今後を決める議から、俊哲は外されたのだ。
閏五月五日、交野の百済王俊哲の許に、陸奥鎮守将軍の任を解き、日向権介とすると沙汰が届いた。
俊哲は厩舎から愛馬を引き出し、宮へと駆けた。
血相を変えた俊哲が大君の昼の御座所に向かったと聞いて、たまたま宮に居た近衛少将、坂上田村麻呂と、この頃、山部の後宮の典侍となった百済王明信は、各々昼御座所へ向かい、唐風に設えられた大扉の前で顔を見合わせた。
扉越しでも俊哲の激した声が「今すぐ厩舎へ御運び願いたい。ご自分のその目でどれ程の違いがあるか見届けられるが良い」と轟いた。
田村麻呂は躊躇わず扉を開いて室内に入った。
この二人は気が置けない仲だからこそ、昔から口論もするが、これは如何にも宜しくない。
明信も控えめに田村麻呂の後ろに続いた。
「其ほど私の行いが信ずるに足りぬと思われるなら、その目で確かめられよ」
山部は紫檀の椅子に座したまま、俊哲の話を最後まで静かに聞き届けて言った。
「汝の言いたいことは解った。陸奥駒が優れていることも、見比べるまでもなく承知だ。これは交易だけの問題では無い。先の家持の一件で、蝦夷との戦は先帝の遺勅と考える臣が多い事も身に染みて解った。朕一人の意ではどうにも出来ないこともあるのだ。此でも出来る限りお前を弁護したのだがな。それとも汝の気に入らぬ勅を下す大君には仕えられぬか」
俊哲は山部の言葉に連れて赤くなったり青くなったりしていたが、やがて口惜しそうに答えた。
「私は貴方の臣で、貴方が大君です。貴方の執る国政に沿わぬのであれば私を処断するのは当然でしょう。私は直に日向に向かいます。御健勝にお過ごしください」
「将軍、大君は」田村麻呂が口を開いたのを山部が手を挙げて制し、俊哲に「そう責めてくれるな」と言った。
百済王俊哲が険しい顔で退出した後、山部は田村麻呂に目を向けた。
「民可使由之、不可使知之。と言うが、これは民に限らぬな」
「申し訳御座いません、出過ぎた事を致しました」
田村麻呂は袖を袷て深々と一礼した。
山部は明信に眼を向けた。
「それで尚侍は何用であったかな?」
明信が答えあぐねる姿に、山部が揶揄するように言った。
「旧交を確かめるなら陽が落ちてからにしてくれ。まだ山のように残務が有るのだ。それとも、尚侍が溢れる才で手助けてしくれようか?」
明信にとってはいつもの山部の冗談だったが、田村麻呂は慌ててその場を逃げ出し、明信も続いて退出した。
その背を見送って山部は心の中で呟いた。
奥州の防衛か。
まったく父は厄介な事を初めてくれた。
臨終 五言一絶 大津皇子
金烏臨西舎
鼓声催短命
泉路無賓主
此夕誰家向
金烏西舎に臨み
鼓声短命を催す
泉路賓主無し
此の夕べ誰が家に向かわん
太陽は西の屋根に傾き、
刻を告げる鼓の音は、残る命短くあれと唆す。
死出の旅路には、客も主人も無い。
この夕べに私は何処に向かうのだろう。
子曰、民可使由之、不可使知之。
孔子は言った。
民に君主を頼らせることはできるだろう、しかし、民が君主を理解する事は叶い難い。