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六月  作者: 賀茂史女
17/53

第弐部 遷都 八 諸高

天応元年(781年) 

年も押し迫った頃、小角は伊勢国に赴き勢和多気の飯高諸高(いいだかのもろたか)を再び訪ねた。

諸高が郷里の勢和多気に帰ったのは阿倍が薨じて程なく、叔母である飯高内侍(飯高笠女)が病を得て宮を退下した為だった。

宝亀八年に笠女が亡くなった後は、諸高が氏長者の立場であり、飯高の大刀自と呼ばれて敬われていた。

飯高氏は辰砂や銀、銅を掘って暮らしを建てる丹生部の民で土師氏の者とも交流が深い。

諸高は小角の来訪を喜んだが、同時に小角のうちしおれた表情を見て胸を痛めた。

小角の表情を見れば昔の話よりもまずは何か気の晴れる持て成しが良かろう。

飯高の(むろたち)は採掘に伴って掘り当てた沸き湯を曳いた湯殿が自慢だった。

寒い季節の事でもあり、小角は挨拶も早々に湯殿へ追いやられた。

湯の中で、手足を伸ばして暖まると日頃漏らした事の無いため息が口をついた。

気の置けない諸高の事であれば、誂えられた着替えは郷士の娘が日頃着るような筒袖の襖と裾長の裳で、華美過ぎず、着やすく肌触りの良い物だった。

夕餉には、海の幸、山の幸が盛られた、紫檀に螺鈿蒔絵の中盤や高坏(たかつき)が所狭しと並べられた。

「まるで宮にいた頃のようだな。」と目を丸くした小角の表情に、諸高はやや得意気に「飯高郡は志摩国から近うございますから。宮中や斎宮へ御食(みけ)を献じる様に伊勢国衙とこの飯高館にも海の幸が届けられるのです」と答えた。

蒸した鮑や牡蠣に柑子を添えた(なます)、焼いた海老など、宮でしか口に入らない膳が懐かしく、小角の表情が和んできて、諸高も漸く安堵した。

此のところの出来事など話して、小角は胸が開いた気がした。

「こんなに喋ったのは久しぶりだ。前鬼と後鬼では話相手にならないし、蛍は聞き上手だが言葉は話せないしな」と笑った。

「あの陸奥駒は大層賢そうですから、良いお相手で御座いましょう。健やかそうで落ち着いていて、申し分ございません。先頃から宮では誰もが陸奥駒を求めたがる様ですが、癇の強い気性の荒い性質(たち)のものが多いと嘆いているようです」

小角は悪戯(わるさ)する童子の様な表情で「阿倍の事を言う様だな」と言った。

まあ、とたしなめながら諸高も笑った。

「我君が亡くなられて随分経ったのですね」と呟く諸高も老いていた。

幸い健やかではあるが、後どれだけ生きられるかは解らないと話す表情を見て、老いだけでなく、何か気がかりな事があるのではないかと思った小角は尋ねてみた。

「そんな気弱な言葉が出るところを見ると、諸高も何やら心配事が在るのではないか?」

諸高は苦笑して「すぐ気づかれてしまっては、私は到底、笠女様のようにはなれませんね」と言った。

非公式にではあるが土師氏から、遷都に先だち丹生部の協力を申し入れられたのだが、今の鉱脈が尽きそうなのだと諸高は言った。

新たな鉱脈を探すには刻がかかる。

遷都の事が無くても、丹生部として財政を営む飯高氏にとって鉱脈の枯渇は死活問題だろう。

氏長者の諸高はさぞかし心労を重ねていた筈だ。

だが此れは己の最も得手とするところだ。

「何故もっと早く言ってくれなかった。水臭い事だな。鉱脈なら直ぐにでも私が探し当てて見せようぞ」

今にも立ち上がって館を出ていきそうな小角を、諸高は慌てて引き留めた。

「もう夜も更けました。明日にでもお願い致します。私もお供してようございますか?」

「勿論だ。だが明日は共に来るのは諸高一人にしてくれ」

小角は俄然朗らかになって答えた。

翌朝、まだ薄暗い内に小角は諸高と連れだって、館に程近い小高い丘に登った。

意を凝らして地脈を読み、幾らも在る鉱脈の中で比較的地表に近く、多くの採掘が見込める地脈を見つけ出した。

その中でも頑丈な地盤に守られた場所を選び、坑道の入り口になりそうな山の中腹へ向かった。

山を穿ち坑道で採掘する民の為に、辺りの地盤が頑丈であることは必須だ。

諸高には馬を連れて離れているよう言って、小角は此処と決めた場所の四方に榊の枝を挿した。

前鬼と後鬼を大蜘蛛から本来の土蜘蛛の姿に変じさせ、木々に断りを言い、辺りの下草を払った。

国常立神、大山咋神に祈り、闇淤加美神が怒る事の無いよう鎮めた。

禹歩を踏み、高まった気を錫杖へ集中させ、むき出しになった山の斜面に向け、「拓かせたまえ」と一言叫んで突き立てた。

一時、大地が唸りを挙げ、身を震わせた。

裸の斜面から大きく土砂が崩れ落ち、地揺れと土埃が収まった後には人が入れそうな洞穴が口を開いていた。

前鬼と後鬼が洞穴の入り口を拡げる間に、小角は国常立神、大山咋神に感謝し、白山媛神に多くの丹と、坑道で働く丹生部の民の安全を願った。

「この鉱脈なら長く採掘できるだろう。地表近くには特に多く丹が在る。大寺でも宮でも幾らでも塗れるぞ。奥へ進めば銀も銅もあるだろう。流石にもう大仏は造るまいが、遷都に徴用しても枯渇しないだけの辰砂が眠っている」

諸高は深く感謝した。

「由利様、どうぞもう此処でお住まい下さい」

宇陀から伊勢にかけてはまだ土蜘蛛の言い伝えも残り、山深い。

前鬼と後鬼が人目に触れる事があっても、然程の騒ぎにはならないだろうと諸高は言った。

諸高の申し出は有り難かったが、小角は逡巡した。

土師氏の者は新都はおそらく交野か長岡辺りとなるだろうと言ったそうだ。

白壁王(光仁上皇)の諒暗が明ければ造営が始まるのだろう。

そうなれば飯高郷には造営使の出入りが激しくなる事が予測された。

飯高氏の許に身を寄せ続けると、諸高のために良く無いだろう。

飯高郷以外で暫く静かに住める場所を世話してもらうが良いかもしれぬ。

できれば住まうのは龍脈の近くが望ましい。

瀬田から賀茂へと父が龍穴を移した白山龍脈とは別に、淡海湖(おうみのうみ)の東の地には太古から伊吹山を通る龍脈がある。

その龍脈は氷高皇女の愛した養老の地を通り、鈴鹿山脈を南下して飛鳥へ向かっていた。

小角は伊吹山より南の地で、人の少ない静かな里を探してもらえるよう頼んだ。


天応二年(782年)

閏一月十日、光仁上皇の喪に服す宮中に、氷上川継の舎人、大和乙人が武器を帯びて侵入した。

公には一介の舎人でしかない大和乙人が帯刀して深更に宮中に居た為、咎められ、質されたとされたが、実際には差し迫った反乱の密告だった。

大和乙人が述べた反乱の次第は、この夜、氷上川継が賛同する者を集めて、大和乙人の手引きで北門から平城宮に押し入り、朝廷を転覆しようしているという物だった。

不破内親王の子、氷上川継はこの新年、因幡守となったばかりだった。

報告を受けた山部は、平城宮の警護を固めさせ、翌日、右衛士督(うえじのかみ)坂上苅田麻呂を追討に向かわせたが川継の行方は知れなかった。

三関に固関使(こげんし)が出され、十四日に葛城上郡で川継は捕らえられた。

山部は田麻呂と種継を前にして嘆かわし気に言った。

「川継の口から、不破内親王と義父の浜成(京家藤原浜成)の名が出たそうだ。」

太上帝がみまかり、顧みられること少なくなるとでも思ったのだろう。

川継の企ては死刑に値する所だが、父の喪中でもある。

罪一等を減じ遠流としたい。

東宮大夫(大伴家持)も以前から浜成と交友深く、この一家こそが正しく皇統を伝えると考えている様だ。

早良に不穏な事を吹き込まれては叶わない。

東宮大夫には暫く都を離れてもらうがよかろう。

右衛士督は川継を捕縛出来なかった事と謀反の動きを察知できなかった事を恥じて、曽布に蟄居すると言ってきた。

「他に関わった者があれば裁定は参議に一任するが、宜しいか?」

田麻呂と種継に異論は無かった。

川継の妻藤原法壱、母の不破内親王、姉妹二人は無論、法壱の父である参議藤原浜成、右大臣藤原魚名など三十余名がこの乱に連坐した。

魚名の左遷で空いた右大臣には田麻呂が据えられた。

家持が都を追われ、大伴氏の本貫地、佐保へ去ると聞いて、早良は血相を変えて兄に家持の遺留を嘆願したが、山部は「ほとぼりが冷めるまで待て。」と告げた。

右衛士督まで咎められた事には多くの官人が頚を捻ったが、夏が訪れる前に苅田麻呂は元の職に復された。

山部は追放処分を解いた家持の位階を上げ、陸奥按察使兼鎮守将軍に任命した。

早良は馴れ親しんだ家持が陸奥国へ去ることを惜しんだ。

どこか兄山部に似た家持は、東宮坊で早良が漸く得た師であり、友であり、支え手だった。

家持もまた、この生真面目で慈悲深い皇太弟を我君と敬い、親しんで、支えとなろうと勤めてきた。

嘗て己を引き立て、歌集を編んではどうかと奨めてくれた葛城王様と同じく、我君に政争は似合わない。

葛城王様は、国記には残らぬ人々の思いが歌として残る事を望まれていた。

あの方と同じく、我君にとっても宮中はさぞ居心地悪い所であろう。

家持は、早良に纏まりつつあった歌集の複製を残して陸奥国へと発った。

早良は再び孤独を抱える事になった。


宝亀の乱の後、在任の陸奥鎮守府将軍百済王俊哲くだらのこにきししゅんてつは、乱の中心に居た俘囚の大領の所在も去就も承知の上で黙認していた。

あの日、吉弥候伊佐西古(きみこのイサシコ)は朝廷の北進を留めたいだけだと言った。

事実、伊治呰麻呂(これはりのアザマロ)は出羽柵と雄勝城、伊治城を奪還したが、乱の影響が治まった後には、他の城柵へ侵攻することも無く、多賀城の復興にも妨害は入らなかった。

呰麻呂(アザマロ)が宝亀の乱から程無くして、老いから来る病で没したと俊哲の耳には入っていたが、確たる話でも無く、出所を明らかにしたく無かった俊哲は誰にも告げなかった。

陸奥国の令民と蝦夷、俘囚は嘗ての危うい穏やかさを回復しつつあった。

だが大伴家持が赴任して来てその平穏は破られた。

家持は宝亀五年一月の朝賀の宴で起こった事も、その後の先帝の詔も、忘れてはいなかった。

あの新年、上総守となった家持は揚梅宮の宴の席に居て、朝堂院で何が起こったか聞いて愕然としたものだ。

毛野の民は友好国の民では無いのだ。

家持の眼には、先の帝の遺勅であった坂東の守護が蔑ろにされていると映った。

赴任してきて真っ先に行った令国の視察の途中、夕暮れに、蝦夷に奪われた栗原郡との境に戦禍を免れ、生うる見事な松を見て感銘を受けた。

此こそ皇統の日嗣が坂東をしろしめせとの啓示であろう。


八月の朔に、四歳の朝原内親王が伊勢斎王に卜定され、宮の内に置かれた潔斎の為の初斎院へと住まいを遷した。

覚悟していたとは言え、酒人はやはり悲しんだ。

山部は度々種継を伴い、交野へ薬猟に出掛け、中務卿(なかつかさきょう)藤原継縄の別業で饗応を受けていた。

其処には継縄の()で父帝の典侍を勤めたこともある、百済王(くだらのこにきし)明信(みょうしん)が居る事が、更に酒人を悩ませた。

父白壁王が帝位に着く前の幼い日にも、父が帝位に着いてからも、邸の内でも宮の内でも、二人の事は様々に噂され、幾度かは酒人自身も二人が寄り添い語り合う姿を眼にしていた。

言葉にすれば義兄(あに)は「遷都の候補地の視察に行くとは言えぬからな。薬猟も宴も方便に過ぎない。」と答えてくれるが、酒人にとっては、いずれ皇后となるであろう乙牟漏より、百川の縁深い旅子より、明信の存在が心を苦しめた。

義兄は今遷都の建議で忙殺されていて、酒人の許を訪れるのも間遠い。

他の妃や嬪や宮人も次々に御子を挙げている。

この上心の拠り所である朝原が手元から離れては、私は何に縋って生きていけば良いのだろうと、胸も塞がる思いだった。


八月の半ばに元号が改められ、延暦とされた。

この年が明けて暫くして、諸高は縁者である飯高郡の北に接する坂下郡の里主(さとぬし)に話を付けてくれ、小角は鈴鹿山脈の南端、鈴鹿峠に住まうようになった。

坂下郡は鈴鹿峠を境に畿内と接する、土地にも水にも恵まれた静かな里だった。

「里主は代々続く家柄で、裕福ではありますが、さほど見識高い者でも無く、姓も持ちません。損得尽くで物を考える故、お気に障る事もあるかもしれませんが、却ってあれこれ詮索しては来ますまい」と諸高は言った。

平城(なら)に都が置かれてから、東国から都へ来る商人達や、徴用で都と令国を往き来する者達の多くは、東海道(うみつみち)でも東山道(やまのみち)でも、鈴鹿関から鈴鹿山脈を加太峠(かぶととうげ)で越え、甲賀の杣川沿いに北へと向かう杣街道を通り、近江から瀬田を抜けて山背国へ入り、宇治を南下して平城の都へと向かっていた。

飛鳥に宮があった頃に使われていた、伊勢から宇陀を抜け、三輪山の麓を通る初瀬街道は大和三山に囲まれる旧都新益宮(あらましのみや)(藤原京)から二上山へと続く横大路へ繋がる街道だったが、今やすっかり廃れていた。

鈴鹿山脈の南、近江と伊賀・伊勢の国境の峠は急な曲がり道の連続する険しい峠道だった。

加太峠が使われる様になり、鈴鹿峠は通るものも少なく、鬼が出るなぞと噂されるようになっていた。

恐ろしげな噂が人の往き来を妨げているのが、却って小角には都合が良かった。

前鬼と後鬼がいることもあり、なるべく人目につかぬ場所が良かろうと小角は鈴鹿峠近くに住まいを構えることとした。

三子山の麓の林の中に葛の群生と沢のある手頃な場所を見つけ、庵を結んだ。

生活(たつき)の糧に葛糸を紡ぎ、毛野の国で失くした母の()の代わりに己で木を削り、新しい簸を造った。

葛の群生は大きく、花の季節には蜂を養い、秋冬には大きな根を採って猶勢い盛んだった。

坂下の郷は田畑を営み、牛を飼い、養蚕を行い絹を織る、穏やかで豊かな地と見えた。

里には共同で使う織り場が有り、地機が置かれていたので機を借りて葛布を織った。

初めの内は皆よそよそしかった。

なんと言っても飯高の大刀自みずから世話を頼んできた女君だ。

素性こそ明かされなかったが、何れ身分高い方なのではあるまいか等と噂されているらしかったが、小角は聞こえぬ振りをした。

織り場に通う女達は田畑に出ない年嵩の者が多く、小角は年寄達の病の愚痴を聞いて、薬を調合してやった。

若い娘の中に伊登という名の見目の良い気立ての良い娘が居て、これは坂下の里主の一人娘だった。

伊登はどこか鄙の娘とは違う佇まいの小角を好ましく思った様で、姉のように慕ってきた。

馴染めば皆純朴で人懐こかった。

特に名乗った訳でも無いが、鈴鹿峠に住まうと言うことでいつか鈴鹿様と呼ばれるようになった。


延暦二年(783年)

一月八日、任地播磨で、道嶋嶋足は没した。

牡鹿柵の御盾には、重ねて毛野の民の行く末を見守るようにと伝え、記してきた検注や国府の記録を続けて、お前が是と思う君に託せと言い残しての死だった。

嶋足の死の報せを聞いた坂上苅田麻呂はこの盟友を悼んだ。

嶋足が毛野の民について、思い遺す所多くあったと、この武人はよく知っていたが、力になること能わず、悔やまれることしきりだった。

帝の許に上がっていた娘の全子が懐妊したという報せに喜んだのも束の間だった。

己の身にも等しく老いが忍び寄っている。

長子が亡くなり、継子となった田村麻呂も共に、交流のあった嶋足の死を悼んでいた。

嶋足は百済王俊哲に望みを掛けていた。

坂上氏は百済王氏と親しく交流があり、苅田麻呂自身も俊哲の人柄、才覚、共に秀でる所を承知していた。

陸奥国へ行ったきり中々都へは帰れぬと見え、久しく会う機会が無いが、いつか俊哲に嶋足の思いを伝えたい。

それまで私が長らえなければ、息子を通じてでもと、苅田麻呂は考えていた。

田村麻呂は幼い日を交野の百済王理伯の許で育ち、明信と俊哲の姉弟に親しんで育ってきた所縁がある。


四月の半ば、山部は種継から山背国葛野の秦氏から遷都についての協力への確約を得たと知らされた。

山部は水の豊かな都を望み、種継は淀川と葛野川の合流する山背国長岡を提案していた。

長岡の南に接する、交野の百済王氏理伯からも協力を惜しまないと言ってきた。

遷都を望まぬ声は大きかろう。

聖武帝の放浪はまだ記憶に新しい。

まずは迅速に宮を造る事が肝心だ。

宮が在り、大君と后が居れば、聖武代と同じく、官人は否応無く移らざるを得ない。

夏に藤原乙牟漏(式家藤原良継の娘)が皇后に立ち、この年、伊予親王を生んだ吉子の父、南家藤原是公が右大臣となった。

秋に山部は交野で薬猟を行った。

その歓待は楠葉の藤原継縄の別業で行われ、宴の席には百済王明信の姿もあった。

三関

壬申の乱後、畿内守護の重要軍事施設として東国との境界に置かれた関

北陸道 近江と越前の国境 愛発関

東山道 美濃国不破郡 不破関

東海道 伊勢国 鈴鹿関

飛鳥時代の東海道は鈴鹿峠を越えていたが、

桓武帝代には東海道はよりなだらかな加太峠越えが選ばれていたと思われる。

後に不破関は重視されなくなり、東山道の関は逢坂の関となった。

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