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六月  作者: 賀茂史女
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第弐部 遷都 六 風星

宝亀十一年(780年)

三月二十二日、毛野の民は出羽柵、雄勝城、伊治城を占拠した。

多賀城は陸奥国府としての機能を失い、再建まで一時的に郡山城と色麻、牡鹿の両柵で機能を分担した。

駅鈴と首級を持って都へ馬を走らせた大伴真綱は少なくとも迅速に報告し、且つ駅鈴を守った。

六日の後には中納言、南家藤原継縄を征東大使とし、大伴益立と紀古佐美(きの こさみ)が副使に任命された。

更に大伴真綱は陸奥鎮守副将軍とされ、安倍家麻呂に出羽鎮狄将軍、大伴益立には兼陸奥守が定められた。

大伴益立と紀古佐美、安倍家麻呂が各々陸奥、出羽へと発った後も、藤原継縄は様々に理由を付けて都を出ようとはしなかった。

坂上刈田麻呂は道嶋嶋足と共に陸奥へ派遣してくれと光仁帝に直々に言上したが容れられなかった。

六月に入り、百済王俊哲くだらのこにきししゅんてつを陸奥鎮守副将軍に改めさせたが、陸奥国からは状況報告が無く、朝廷は手をこまねいていた。

秋までの間に、都と諸国の備蓄を供出させて(よろい)等の武具を送り、増援として坂東諸国の兵を九月までに多賀城へ集めさせよと令したが、思わしい戦況報告はなされなかった。

八月、遂に朝廷は出羽国府を雄物川の出羽柵に戻す事を一時諦めた。

大野東人(おおののあずまひと)の遠征から四十三年、藤原朝狩による多賀城の修造から十八年ぶりに、毛野の民は朝廷との国境線を嘗ての物に引き直した。

九月二十三日、北家藤原小黒麻呂が継縄に代わって征東大使に任じられたが、小黒麻呂も直ぐには腰を上げなかった。

もう陸奥は冬だ。

大君は今から何をせよと仰せなのやら。

いずれ百済王俊哲が多賀城の体裁を整えれば某か報告してこよう。

征東大使の役目は先ずは国府機能の再構築と地方行政の立て直しだろう。

仕事に取りかかれる様になってから、陸奥国に赴けば良いことだ。

光仁帝は蝦夷征伐の遅延を遺憾であると責めたが、小黒麻呂は悠然と構えていた。

極月に入ってから、小黒麻呂は漸く二千の兵を派遣して蝦夷の要害を断ちましょうと奏上した。

やがて百済王俊哲が散発する争乱の戦勝報告を言上してきた。

藤原小黒麻呂は、年が明けたら陸奥へ向かうとしようと考えていた。

後に宝亀の乱と名付けられたこの内乱の影響は陸奥国だけに止まらなかった。

下野、上野を始めとする坂東の諸国も陸奥、出羽から逃げ出した賊に襲われ、田畑は焼かれ、多くの公民(おおみたから)が生業を失った。


その年の春先に、小角は高宮の大銀杏が秋でも無いのに葉を黄ばませ、散らし始めた事に気が動転していた。

以前にも一度そういうことがあり、その時には百日行を行い、行が明けて高宮に帰った日には、大銀杏の生気は快復していた。

今回も小角は百日行を行ったのだが、行が明けても大銀杏の衰弱は留まらなかった。

行の間に、或いは金剛山の母刀自に会えるのではないかと淡い望みを掛けていたのだが、叶わなかった。

そして行で上がった小角の神気は、東の地脈の何処かの蠢きを察知した。

東海道(うみつみち)の坂東より西の何処かだ。

やがて大きな災害が起こるに違いない。

宮に係累が居た頃には、某かの手段で災いの気配を報せる事も叶ったが、今の小角には手立ての講じようが無い。


小角はどうしたものかと考えあぐねた。

追い討ちをかけるように陸奥国の争乱の報せを耳にした。

乱の成り行きも詳細も、民には確たる物がもたらされることはなく、商人達も確かな事は何もわからないと頚を捻った。

水鏡を覗いてみても、見えてくる物は無かった。

真鏡山の山麓の杣屋で、隠世に脚を踏み入れた時に見た光景が、現実に起こっているのだろうと思うとやりきれなかった。

秋頃には、少なくとも伊治城が令国の城柵で無くなった事は小角にも解った。

葛城の高宮で北の空を眺めながら、小角は達谷窟を思った。

玻璃は、司馬女は、どうしているだろう。

あの地が玻璃の結界の内にある限り、玻璃も司馬女も無事だろうが、阿弖流為と母禮は?。

会った事も無い呰麻呂(アザマロ)ではあるが、御室で七魚は父親の事を聞いただろうか。

大墓や盤具の里の皆はどうしているのだろう。

高丸は?。赤頭は?。

顔を歪ませた小角の傍らで蛍が首を下げ、小角の肩を鼻面で小突いて来た。

小角はその頭に頬擦りした。

今すぐ達谷窟へ駆けて行けたら。

では大銀杏は見捨てるのか。

そして其処で何を見出だすのだ。

駄目だ。

行けはしない。

再び見上げた満天の星空では、風星が見間違えようも無く、蒼く、強く、輝いていた。

指導者である天帝の近くに身を置き、現世(うつしよ)に大きな影響力を及ぼす、天狼星の運命を持つ者が再び現れるのはどうやら間違いない。

だが誰なのだ。

そして何処にいるのだ。


大晦まであと数日という日、小角は思い余って近江国分寺の行表を訪れた。

僧坊の庭にいると聞いて足を向けると、行表は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「久しいですな、真火(まほ)様」

今や葛城の里の最後の生き残りとなった行表に懐かしい名で呼ばれて、「高宮の大銀杏が」と言いさして小角は不覚にも涙を浮かべてしまった。

驚いた行表が慌てて「どうされたのです?」と駆け寄った。

小角は嗚咽を堪えながら大銀杏が再び枯れ始めた事を話した。

行表は小角の肩を擦りながら優しい声で言った。

「あの樹はもう寿命が尽きたのです。以前枯れかけたでしょう。本当ならあの時に枯れていたのです」

「あの時は百日行で蘇った。でも今は」

小角は言葉を切った。

感情が理性を押し潰してしまいそうだ。

「済まない、こんな事を言いに来たのでは無かった。東の方で地脈が蠢き始めているのだ。大きな地震か、山が怒るか、なのに私には留める力も人々に報せる術も無い」

真火様は気が動転しておいでなのか。

相談する相手もなく、思い屈しておいでだったのだろう。

吉備大臣が亡くなってもう久しい。

その孤独を思うと行表の胸は痛んだ。

「御山の怒りは我々にはどうすることも出来ません。ご存じでしょう。民に報せれば混乱を招くばかりです。ですが私が国分寺の者達を通じて、災いの気配を伝えて備えるよう、それとなく促しておきましょう」

このままでは真火様は孤独感に押し潰されてしまわれるのではあるまいか。

師は決して真火様には言うなと仰ったが、知れば少しはお心が軽くはなるまいか。

行表は心の中で、自らに受戒を垂れた手を思った。

「以前大銀杏が立ち枯れかけた時には、玄昉僧正が大銀杏の命を延ばされたのです」

小角は驚いて顔を上げた。

「玄昉僧正が仲麻呂の讒言で首様と安宿様の不興を買い、筑紫観世音寺に戒壇を置く用意を整えてこいと申し付けられたあの時、僧正は私を伴って高宮を訪ったのです。真火様は行に入っていて高宮には居られなかった。玄昉僧正は決して真火様には言わぬ様にと仰いましたが」

行表は言葉を切って道化て言った。

「まああの方なら、あの世に行ってから拳固が飛んでくる位で済まして下さるでしょう。ですから、真火様の力が足りぬのでも、行の効験が顕れぬのでもなく、あの樹はもう寿命なのです」

初めて見かける少年僧が庭に現れ、小角の姿を見て、立ち止まった。

行表は少年に挨拶を促し、その後席を外すように言った。

その少年僧は小角が目を見張るほどの神気を発していた。

風星はこの少年僧なのか。

行表は小角の表情を見て、笑った。

「あれは三津首の者で少し前からこの寺で預かっておりましたが、先月得度しました。まだ年若だが、先が楽しみですよ。どうです、真火様の弟子を超えるかも知れませんよ」

「ああ、驚いた。それに大層見目が佳い。玄昉が生きていたらさぞかし気に入って手元から離すまい」

一時、行表は呆気に取られた。

「真火様、真火様は玄昉僧正が真に美童好みだと思っておいでだったのですか?」

「違うのか?」

行表は何と答えたものかと困り果てた。

この方は永く生きてきてもこういう事には全く疎い。

生まれも育ちも並みでは無かったから仕方がないと言えば言えるのだろうが、あれだけ愛憎渦巻く宮中に居ても、こればかりは変わらぬものか。

別れ際に行表は小角に言った。

「こうお考えなさいませ。大銀杏は葛城の里の象徴(しるし)でした。葛城の里に縁有る者達が老いて亡くなり、或いは倭人として生きる事が当たり前になったからその役目を終えたのです。やがて真火様のお役目が終わる時が来るのです。その時まで、心のままにお生きなさいませ」

小角は心許無げに頷いて近江国分寺を後にした。

葛城に帰る道すがら、蛍の背で見上げた夜空に、風星は益々青い光を増していた。


天応元年(781年) 

新年の空に瑞雲が現れたと、朝堂では良き年を祝い、元号が宝亀から天応と改められた。

年が改まって最初の詔は、呰麻呂(アザマロ)に欺かれた者が来降した場合には、賦役の全てを三年に渡って免じ、更に陸奥、出羽の戦に従った者は当年の田租を免除するというものだった。

藤原小黒麻呂には、紀広純の後任として陸奥按察使を兼ねよと、重ねて陸奥国へ向かうことが促された。

二月には兵糧として穀十万斛が東国諸国より陸奥国に船で輸送され、雪解けを間近に再び戦の気配が濃厚になった。

だが二月の半ばに山部の同母姉、能登内親王が薨去すると、光仁帝は心弱りからか健康を損ねた。

四月三日、光仁帝は退位し、東宮、山部親王が即位した。

皇后はまだ建てられなかったが乙牟漏が皇后となることは百官にも自明の理だった。

昨年酒人内親王が産んだのは内親王(ひめみこ)だった。

男皇子を挙げた乙牟漏がいずれ国母となるのは当然だろう。

百川の死後、山部の身近に侍るのはやはり式家の種継だった。

やがては式家藤原氏が外戚として権勢を奮うのだろうと種継に靡く者が増えた。

新東宮には光仁帝の意向で、還俗していた山部の弟、早良親王が皇太弟とされた。

山部の嫡子小殿親王はまだ八歳と幼く、病がちであったため安殿と名を改め、山部の意向で秦氏の医師や薬師が尽ききりで世話をしていた。

東大寺では良弁の弟子であった早良親王が皇太弟となった事を重く見て、予々打診のあった遷都についても万事皇太弟にお任せすると言ってきた。

七大寺で残る難関は興福寺だが、乙牟漏を筆頭に藤原式家は井上内親王と他戸親王の恨みを畏れ、この都を疎ましがって、何とか説得すると言った。

東宮大夫には伊勢国司の任期を終えた大伴家持が当てられた。

東宮となった早良皇太弟に兄山部が最初に求めた事は、藤原小黒麻呂と共に陸奥国へ赴いて混乱を鎮めてくる事だった。

幼くして僧籍に入り、一僧侶として生きるつもりでいた早良にとって、親王禅師と呼ばれる立場になった事は思いも寄らぬ出来事だった。

父が帝位に着いてからは、師である良弁の願いもあり、実直で家族思いの早良は、皇家と仏教界の橋渡しとなれるよう努力してきた。

だが、還俗して皇太弟となり、あまつさえ兵を率いて殺生をせよと求められ、さすがになんと酷な宿世だろうと心の内で嘆いた。

長く僧籍にあった為、()も無く、思う(おみな)も無く、師亡き後は親兄弟以外に心を許す相手は無かった。

尊敬する兄が、太上帝である父の健康を思えば、早々に陸奥国を平らかにして差し上げたいのだがと言えば、早良は異を唱える事など出来なかった。

これまでも親王が戦地に赴くことは多かったが、皇太弟が征討将軍に任じられるなど前代未聞だと百官は驚き、藤原小黒麻呂は言い逃れが出来なくなった事を自覚した。

五月五日、皇太弟は小黒麻呂の薦めで、北家藤原氏の私領である山背国伏見の藤尾社に戦勝祈願を行い、小黒麻呂と共に兵を率いて陸奥国へと向かった。

輿上で小黒麻呂は考えていた。

皇太弟の身に何かあっては大使が責を問われよう。

陸奥に着いたらとにかく早々に現状を報告させて、形だけでもこの戦を終わらせなくては。


六月の一日、山部は朝堂で百官を前に、先日都に届いた小黒麻呂の上奏書について思うところを述べた。

「征東大使藤原小黒麻呂よりの五月二十四日付けの上奏文で、朕も詳細な状況を知り得たのだが。」

山部が朝堂の参議を見渡して語り始めた声は穏やかで落ち着いたものだった。

蝦夷は蜂の如く寄り集まり、蟻の如く群がって、騒乱の元をなし、攻めれば山野に素早く退き、捨て置けば直ちに城や砦を侵略するそうだ。

更に一人で千人に匹敵する将が四名も居るとか。

征東軍の苦闘が偲ばれるというものだ。

ところがだ。

それらの敵は山野に潜み、機会を窺い隙を狙っているようではあるが、只今の所は我が軍の威勢を恐れて害を与えていないとして、将軍(いくさのかみ)達は征夷の軍隊を解散してしまったそうだ。

未だ一人の賊の首も斬らないまま、帰還すると言ってきた。

これ迄の上奏を鑑みると、賊軍は四千余人、挙げたと報告された首級は僅か七十余人だ。

残っている賊はなお多かろう。

山部の声が刃の様に冷ややかになった。

「目先の戦勝を報告したからといって、将軍(いくさのきみ)が大君の許し無く軍を解き、都に帰る理由にはなるまい。これまでがそうであったというなら、朕の治世から改めてもらおう。宜しいな?」

山部は玉座から立ち上がった。

居並ぶ参議を睥睨すると声音も苛烈に言い放った。

「征東大使藤原小黒麻呂の軍の入京を停めよ。まず副使の内蔵忌寸全成、多朝臣犬養のどちらかを駅馬に乗って入京させ、委細を報告させよ。

その外の事柄については指示を待つ様伝えさせよ。迅速にだ」

勿論報告を聞いた後には帰還の許可が降りたが、百官はこの時、改めてこの大君に誤魔化しは効かないと肝に命じる事になった。

言上は聞こえの佳い物だけが奏上される風潮だった。

結果として思わしくない状況を虚飾し、糊塗する様な結果を招く。

山部はその風潮を批判したのだ。

更に、先帝の発した軍であっても、国軍である以上、都への帰還は大君の裁定を待つのが当然である。

不味いことに、小黒麻呂は己が皇太弟率いる軍の大使であることを念頭に置いていなかったとみえる。

皇太弟が軍を率いて大君の許可無く入京するという事がどれだけ不穏なことか、解らぬでもあるまいに。

例えどれほど兄弟仲が良いとしてもだ。


七月六日、小角の感じとった地脈の蠢きが現実のものとなった。

春から幾度か地震が起こっていたが、この日富士の山が火を噴き、灰が降った。

秋には多賀城の再建も済み、朝堂では陸奥、出羽での征夷の功労者への叙勲と叙位が行われた。

だが伊治公呰麻呂これはるのきみアザマロの去就についてはなんの報せももたらされなかった。

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