第弐部 遷都 五 宝亀の乱
宝亀九年(778年)
二月に道嶋嶋足は下総守を兼ねる事になった。
この強者にも等しく老いの波は寄せていた。
律儀な嶋足は直ぐに任地へ赴いた。
大伴駿河麻呂が薨じて、何事か起こるかと危ぶんでいたが、このところ牡鹿柵の御盾からも何も言ってこない。
平らかなのは良いことだが、何時何が起こるか知れぬ。
下総に居れば何かと陸奥の消息が掴みやすかろう。
嶋足が下総に着いて数日の後に、思わぬ客人が非公式に訪れた。
既に初老と言える伊治城の大領、呰麻呂自らが、内密に図って欲しいと頭を下げたのは、新たな柵の造営を思い止まるよう紀広純と道嶋大盾を説得して欲しいという頼み事だった。
道嶋三山が亡くなり、伊治城の造営にあたって、道嶋三山と呰麻呂の間で交わされた約定を知る者は、今や官人では嶋足だけだった。
文字を持たない毛野の民は、文書として証を残す事に価値を置かない。
伊治を明け渡す代わりに北進しないと言う約定も、文書で残されてはいない。
伊治城の大領として長く朝廷に仕えた今でこそ呰麻呂にも理解できるが、この事は痛恨の失敗だった。
呰麻呂が声高にこの約定について叫んでも、他に証明出来る者は居ない以上、官人の敵意を煽るばかりだろう。
だが朝廷が北進すれば、毛野の民は今度こそ決起するだろう。
大伴駿河麻呂が陸奥国に赴任した年、大領を通じて毛野の長達には、朝廷は以後、毛野の民の朝堂への立ち入り及び朝賀の儀への参列を禁じると申し渡されていた。
宇漢迷公宇屈波宇がこれを何と聞いたか、呰麻呂の耳には入っては来なかった。
だが、昨年、宇屈波宇は亡き人なったと聞いている。
毛野の長の中でも穏健で度量が広く、朝廷寄りの宇屈波宇が亡き今、一度毛野の民が決起すればそれは争乱では済まなくなるだろう。
何とか紀広純を説得して欲しいと平伏した呰麻呂の前で、嶋足は言葉を失っていた。
呰麻呂の心情は察して余りある。
しかし紀広純は名門の娟介な武官だ。
嶋足は、紀将軍が己のごとき者の言を聞き入れるとも思えぬが、大盾を通じて出来る限りの事はしてみようと呰麻呂に約した。
嶋足は呰麻呂と共に牡鹿柵に赴き、大盾に伊治城造営の経緯と、令国の北進を思い止まるよう、共に紀広純を説得してくれと申し入れた。
道嶋大盾は父三山の功を侮る讒言だと怒り、氏長者である叔父の言葉に耳を貸さず、呰麻呂を憎んだ。
就中、紀広純がこの俘囚の大領を篤く用い過ぎて増長させてしまったのだと思った。
宇屈波宇が良い例ではないか。
蝦夷は無論の事、俘囚の大領の言など信ずるに値わぬ。
嶋足は大盾の頭が冷えたらまた試みてみようと呰麻呂に約したが、呰麻呂は、事が上手く運ばないであろう事を確信した。
さらに大盾の嫉みを掻き立てる事が六月二十五日に起こった。
この日、これ迄の陸奥、出羽両国での働きに功のあった者に叙位の令が発せられた。
按察使 紀広純や、鎮守副将軍 佐伯久良麻呂の叙位は言うに及ばなかったが、多賀城で官符を読み上げていた史生が言葉に詰まるほど驚いたのは、伊治呰麻呂を外従五位下、吉弥候伊佐西古を外正六位上となすとされた事だった。
二人は俘囚の叙位では無く、公民の中央官人並みの高位を、無位からいきなり授かったのだ。
紀広純の満足そうな顔をみれば、広純がわざわざこの二人の叙位について、前もって奏上してあった事は間違いなかった。
怒りと嫉みで青ざめた大盾の顔を、嶋足の息子、道嶋御盾は見逃さなかった。
宝亀十年(779年)
七月九日、朝堂では藤原百川が病で薨じた。
思わぬ百川の早世に、山部としては、軛が外れた事を喜ぶべきなのか、己を帝位に押し上げる為に惜しみ無く手を汚す忠臣を失った事を哀しむべきなのか、心中複雑な思いだった。
百川は自身の行う事で山部の不興や恨みを買うことも辞さなかった。
あの男君もまた蚩尤だったと言えるのかも知れない。
何れにしても、また祟りの噂が広まる事だけは間違いあるまい。
酒人は身籠っていた。
間も無く月満ちて赤子が産まれるだろう。
華奢な躰に、大きく重たげな腹部を持て余して脇息に凭れて座していた。
やや血の気の薄くなった面差しがどことなく憂わし気だった。
山部が「何を案じている?」と訊ねると、酒人は微笑んで円い腹部をそっと押さえた。
「この赤子が女児で在れば、やはり斎王となるのだろうと考えておりました。でも良いのです。祖母様(県犬養広刀自)の入内は、橘夫人(県犬養三千代)から斎王を生しませと仰せつかっての事だったそうですから。今はただ、健やかに生まれて来てくれさえすれば」
山部は酒人の手に己の手を重ねた。
「古い慣習に捕らわれぬ刻がやがて来よう。生まれや育ちに関わらず、人が望む生き方を選べる様な、そんな刻がやがて来る」
朕の手で創るのだ。
嘗て百川に語り、百川が見てみたいと言った都を。
政や祭祀の為だけの都では無く、其処で生きる者達の為に機能する都。
整えられた律令の下、官人だけでなく公民も等しく暮らしを立て、明日を迎える事に望みを持てる都を。
その為には格を持って律令を整え、遷都に相応しい地を探さねばならない。
その地を誰に選ばせ、委ねるか、そろそろ決める時だろう。
良継、百川亡き後、藤原式家の氏長者となった種継は山背の渡来系大氏族、秦氏の娘を妻に持ち、父帝の信頼も篤い。
藤の色の薄い男君だ。
宝亀十一年(780年)
二月の二日、紀広純は、胆沢地方を得るために栗駒山の東、北上川の畔に覚鱉城を建造したいと奏上した。
道嶋嶋足は中衛中将としても下総守としても、可能な限り、これに反対した。
北上川は雪解けの季節なら兎も角、大型の船が通れるほどの水深を持たない場所が多い。
流域には浅瀬や滝が多く、だからこそ蝦夷は機動力に富む木の刳り舟しか使わないのだ。
だが朝廷はこの意見を歯牙にも掛けなかった。
紀氏は古の安部氏、阿曇氏と肩を並べる歴戦の水軍氏族だ。
姓も無かった成り上がりの将の意見するところでは無い。
解っていたとは言え、嶋足は己の無力さが口惜しかった。
十一日には、雪解けとなる三月中旬に兵を発して覚鱉城を築く事が容れられて、紀広純には三千の兵で蝦夷を討滅すべしと命ぜられた。
嶋足は陸奥平定に非協力的と判断され、任地を下総から播磨へと移された。
牡鹿柵の御盾には急ぎの使者を送った。
何とかして大墓の長に知らせる事は出来まいか。
あれは宇屈波宇と共に姓を受けた男だ。
毛野の長達の中でも重きをなしているだろう、理解と協力が得られるかも知れない。
だが、御盾から返事が返ってくるより早く、事は起きた。
三月二十二日、既に桃生城の堀に入り、物資を積みこんでいた船は、調査の上、定められた川湊の予定地を目指し、雪解けで水量を増した北上川を遡っていた。
北上川が東へ大きく湾曲して、名も無き支流と合流するその場所は、北側に聳える山の切り立った崖に守られ、東に船着き場となる岩場と砂州を持ち、川を挟んで森に囲まれていた。
紀広純は昨日までに多賀城から伊治城へ八百の兵を移し、暁から陸路で北上川を遡らせ、城柵の建造予定の地へと向かわせていた。
吉弥候伊佐西古とその縁者、諸絞が先導を勤め、最後尾には呰麻呂の縁者、八十島、乙代と共に新参の蝦夷の若者が着いていた。
船は既に水深が許す限り水際に寄せられていた。
兵を預かる将は百済王俊哲だったが、馬銜をとる古い移民の生まれの兵が「静かだな」と呟いた言葉に、突然気づいた。
雪解けの時期なのに辺りには動物の気配が全く無い。
直感的に荷降ろしを急がせ、兵は陣を組み、斥候を出すよう伊佐西古に指示した。
北上川を遡る兵達の殿に居た者達はまだ砂州に着いていなかったが、隊列は立ち止まった。
伊佐西古と諸絞は弩に矢をつがえた。
乙代と新参の若者が対岸の森へと斥候の為姿を消し、兵達は船を囲むように陣を敷き初めた。
兵が陣を敷き、武装を整えきる前だった。
森の奥で山鳥が静けさを破って一声高らかに鳴いた。
突然伊佐西古と諸絞は矢をつがえた弩を至近距離から百済王俊哲に向けた。
傍らに居た兵は怖じ気づいて後退したが、百済王俊哲は顔色を変えたのみで踏み留まった。
伊佐西古は冷静な表情で弩の狙いを定めたまま言った。
「お静かに。無駄に命は取りません。此処に城柵を造ることを我らは毛野の民として、どうあっても容れられません。将よ、このまま船を残して多賀城まで兵を退いて頂けるなら毛野の民は今此処で兵を害しません。選択を」
辺りを見回した百済王俊哲は、北側の崖の上にも対岸の森の入り口にも、蝦夷の兵が弩を構えて立ち並ぶ姿を見た。
微かな嘶きが聞こえる所を見れば砂州の奥にも蝦夷の兵が潜んで居るのだ。
しかもあろうことか、自らが率いてきた八百余りの兵の約半分が、現状を把握できず呆然としている残りの兵を取り囲んで牽制していた。
謀れたのだ。
先程の山鳥と思った声が合図だったのか。
百済王俊哲は堅い表情のまま伊佐西古に問い返した。
「伊治城ではなく多賀城へ戻れと言うのは何故だ」
「伊治城は既に朝廷の城柵ではありません。多賀城はこの後、混乱を極めるでしょう。何卒多賀城をお守り下さい。我らの目的は伊治城より北の地の維持なのです。将は長く毛野の地と縁をお持ちです。おわかり頂きたい」
伊佐西古の落ち着いた言葉に、百済王俊哲は紀広純の命が既に無い事を知った。
伊佐西古の言うように、按察使と守を失った多賀城は国府として機能しなくなるだろう。
「やむを得まい。兵を退こう。多賀城へ戻ろうぞ」
百済王俊哲が自ら兵を率いて来た途を戻っていく姿が見えなくなると、森から毛野の民の騎兵が現れた。
その傍らには殿にいた若者と、荷を担いだ男達が居た。
騎馬の男達の中で、将と見える一際背の高い男が兵を見回して、大音声で言った。
「朝廷の具足は脱ぎ捨てろ。味方を見誤ることのないようこの額巻きを巻け。矛を使う者は矛にも巻いておけ。皆の身支度が整い次第、まず出羽柵を攻め、その後、雄勝城へと向かう」
兵の同意のどよめきを聞きながら、毛野の将は傍らに立つ若者に「石盾、皆に糧食を渡してやれ。直に阿弖流為達も来ようからお前は此処に残って阿弖流為と共に伊治城へ向かえ」と声をかけた。
若者は顔を輝かせて「ああ、お父、此処は俺に任せてくれ」と答えた。
伊治城に残っていたのは紀広純、介である大伴真綱、牡鹿柵の大領である道嶋大盾と、その一族から選ばれた衛士が数人、呰麻呂が率いる俘囚の兵、そして城内で暮らしをたてる城戸、俘囚達だった。
明日には、雄勝城から徴発された作業兵が数百名この伊治城に入る予定だった。
紀広純も道嶋大盾も謁兵の為に伊治城に来ており、兵が出た後には武具も脱いで寛いでいた。
牛の刻を回った頃、大伴真綱は紀広純と道嶋大盾を探していた。
激しく言い争う声に驚いて正殿の前庭に出ると、正に道嶋大盾が朝廷の武官の象徴でもある烏装の横刀を薙ぎ、呰麻呂に打ち掛かった所だった。
衛士達が駆け寄って来ていたが、まだ距離があった。
呰麻呂が佩いていた蕨手刀が抜かれ、幾度か打ち合った後、大盾の太刀は折れ、その胸を呰麻呂の太刀が引き裂いた。
呰麻呂は正面から返り血を浴びた凄惨な姿で蕨手刀を提げたまま紀広純に向き直った。
紀広純はまさか呰麻呂が己をも伐る覚悟でいるとは思っていなかった。
その目には大盾が呰麻呂を筆頭に他の大領達や俘囚長達を口汚く罵った事に憤っての私闘と映っていた。
駆け寄ってくる衛士達と大伴真綱に視線を遣り、鷹揚に右手を挙げて「良い」と制した。
色鮮やかな組紐の緒で吊った横刀には左手すら添えていなかった。
呰麻呂は紀広純の視線が己に向き直ったと見ると、無言のまま蕨手刀を構え、その胸を貫いた。
驚愕の表情を浮かべた紀広純が倒れ臥し、事切れるのを見定めて、呰麻呂はその頚をはねた。
衛士達は手をこまねいて、焦燥の色も濃く大伴真綱の指示を促すように見た。
呰麻呂はこの伊治城の事実上の主なのだ。
大伴真綱は震える膝を叱咤した。
謀反なのか?。
今、自分の目の前で本当に反逆が起こったのか?。
呰麻呂は朝廷に反旗を翻すつもりなのか?。
夫狄俘者甚多奸謀、其言無恒、不可輙信とはよく言われるところだが。
呰麻呂は既に息絶えている道嶋大盾の許へ歩みより、その髷を左手で掴んで上体を起こして手を離し、再び倒れ込むまでの一瞬に頚を薙いだ。
転がった二つの首級の髷を無造作に片手で掴み、呰麻呂は血に染まった姿で衛士達と大伴真綱を睨め付けた。
「衛士四名、伊治城の勤務を解く。陸奥介大伴真綱殿を多賀城まで護送せよ。必ずご無事に送り届けるようしかと申し付ける」
衛士達は呪縛が解けた様にひれ伏した。
どういうことだ?。
声も出ないで居る大伴真綱に歩みより、呰麻呂は血の滴る二つの首級を差し出した。
「名にし負う伴の緒の介殿よ。ご覧になりましたな?。総てはこの呰麻呂の為した事。この首級を多賀城へお持ち頂き、疾く都へとお知らせになるが宜しかろう。百済王の将もいずれ多賀城へ戻られましょう。何卒国府をお守りください。やがて此処には毛野の兵が多数やって来ましょう。そうなれば介殿の安全を保証出来ません。お早く城柵をお発ち下さい」
出羽柵はその日の内にいとも容易く陥落した。
出羽に駐屯していた佐伯久良麻呂は討ち取られ、兵は鯨海(日本海)沿いに鳥海山の南、最上川の河口の旧国府目指して敗走した。
雄勝城の城門は打ち壊されたが、毛野の兵は火を使わなかった。
多くの移民は恐れ怖じて、山へ逃げ、或いは賊に殺され、或いは雄勝城を捨てて退却する兵と行動を共にすることを選んだ。
賊も毛野の兵に逐われ、群がって多賀城へ逃げ込もうとした。
大伴真綱は百済王俊哲よりも遥かに早く多賀城に入ることが叶ったが、行った事はと言えば、警護を固め、城外の者を例え公民であっても入れてはならぬと命じただけで、駅鈴を使って厩から馬を出し、掾である石川浄足と共に二つの首級を持って多賀城から逃げ出した。
多賀城は指示を仰ぐ者を失った。
開かれぬ門に業を煮やして、雄勝城から逃亡した兵と賊が城門を破った。
庇護を求める民も共に城柵内に雪崩れ込んだ。
名も残らぬ衛士達や多賀城の留守居の兵達が、必死で宥め、争い合ったが、やがて倉の鍵が持ち出され、略奪が始まると城内の何処かで火の手が上がった。
誰が味方で、誰が敵なのかなどもう誰も考えなかった。
ただ己が生き延びるために目の前に現れた者を殺し、辺りの物を手当たり次第に抱え、火の手の無い場所を探して逃げ惑っては殺し合った。
火を消し止めようとする者が居ても統制が取れず、火は折からの風で城内にみるみる拡がった。
百済王俊哲が多賀城まで戻った時には既に延焼は城柵の外壁にまで及んでいた。
松島丘陵の遥か手前から煙が見え、兵を急がせた百済王俊哲だったが、城柵が近づくにつれ惨状の判別が付くと、手綱を持つ手は白くなるほど握りしめられた。
百済王俊哲は、我は何に対して怒っているのだろう、と考えた。
堀には逃げきれず煙に巻かれたり、焔から逃げようとした人々の屍が塁々と浮かび、城門は打ち壊され、柵の内では豪々と焔が渦を巻いていた。
昨日まで、忍び寄る戦の影を感じながらも、秩序と和を持って日常が過ぎていた多賀城が、今は地獄絵図もかくやとい有り様だった。
伊佐西古よ、お前の願いは虚しくなってしまった。
百済王俊哲は自らが渡来系氏族であり、この数年行動を共にしてきた俘囚の大領達の心根に理解があった。
呰麻呂が事此処に至る決断を下した理由は知らぬが、それだけの理由があるのだろう。
だが、私は朝臣だ。
毛野の民が戦を望むのならば受けて立つしかない。
例えこの多賀城の襲撃が蝦夷によるものでは無くても、朝廷は蝦夷に依るとするだろう。
呰麻呂もそれを承知で事を起こしたのだ。
今はこの場の収拾だけを考えようぞ。
「火を消しとめよ。生き残るものがあれば救い参らせよ。賊でも蝦夷でもだ。牡鹿柵と色麻柵に使者を出して状況を報告させろ。急げ」
百済王俊哲の声に兵は迅速に動いた。
続日本記
天平九年三月十四日、
遣陸奥持節大使従三位藤原朝臣麻呂等言。
東人曰。
夫狄俘者甚多奸謀。其言無恒。不可輙信。
而重有帰順之語。仍共平章。
持節大使として陸奥に遣した、従三位藤原朝臣麻呂等が言上した。
大野東人が(田辺史難波に)言うに曰く。
夫れ、狄俘は奸謀が甚だ多い。
其の言うことは恒に変わる。信用することができない。
この後、重ねて帰順の申し出があったら考えてもよい。