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六月  作者: 賀茂史女
13/53

第弐部 遷都 四 蚩尤

宝亀六年(775年) 

井上内親王(いのえのひめみこ)他戸親王(おさべのみこ)が共に薨じたのは四月の二十七日だった。

東宮交替についてはもう誰もが口を拭って触れなくなった。

粛正を恐れたというよりも、山部親王は才覚、見識、決断力、実務技量、何れを採っても帝王の器と見られたからだった。

昨年の秋の始めに、藤原良継の娘、乙牟漏との間に嫡子小殿親王も生まれている。

皇太子は父帝の信頼も篤く、弟の早良親王禅師が仏教界との仲立ちを勤め、姉、能登内親王が父帝の内面を支え、母の和氏(やまとのうじ)(みおや)、土師氏は百済系の氏族に隠然として大きな影響力を持っていた。

光仁帝は左大臣を置かず、大中臣清麻呂を右大臣とし、藤原氏の参議は等しく内臣に留めていた。

朝堂に集う参議は、そこに皇太子の意図が反映されているとは気づかぬまま勢力図を書き換えられていった。

何と言っても皇太子の傍らには常に式家藤原百川が居るのだ。

いずれ式家の時代が来るのだろうと誰もが思っていた。


真備は春先から病の床に着いていた。

唐風に設えた寝台に横たわり、小角がもたらした井上の死の報せを痛ましい顔で聞いていたが、小さく「改め不る常の典か」と呟いた。

永手と己がその典を持ち出して、他戸王を後継にと推したのだ。

無論その典が実在しないことは承知の上だった。

他戸王を日嗣皇子にしなければ井上内親王の悲劇は起こらなかったものか。

だが我君が亡くなられたあの時、他に百官を頷かせる後継者は居なかった。

小角は真備の表情を読んで言った。

「真備の責では無いぞ。他戸はもう助からなかった。私が山部に告げた真実が井上を絶望させたのだ」

小角は殊更に道化て見せた。

「やはり不比等の言った様に、律令下では国つ神の守り手そのものが(わざわい)となるのかもしれないな。多くを知り、異能の力が有っても障りになるばかりだ。不比等は異能の力有る父を蚩尤(しゆう)と呼んだが、死なない私こそが蚩尤(しゆう)だ」

真備は目を閉じて僅かに笑った。

蚩尤(しゆう)は元々は蒼き龍だったとされている。大陸の遥か北西、空高く聳える山脈の麓、西域の隊商が行き交う地に住む民が信仰していたそうだ。民が征服され、敵国の伝説の中では獣の(おもて)を持つ異形の姿で、戦を好む鬼神とされてしまったがな。淡海公はそれをご存じだったのかな」

小角も笑った。

「さてな。だが蒼い龍か。私が最後に舞った事代主の大祭の刀神楽は四神の青龍だった」

小角はあの時の事を思った。

父が捕らえられた年には応龍を舞うはずだったのだが、とうとうその日は来なかった。

修練中の小角を見て、あの頃龍蓋寺に居た玄昉は、応龍どころか子(へみ)だと大笑いしたものだが。

「舞と言えば我君が舞った五節の舞は美しかったな。大野尚侍(おおののないし)もお前も中々のものだったぞ。蚩尤(しゆう)とは見えなんだ」

真備はくつくつと笑った。

「そんな事もあったな」

懐かし気に答えた小角に眼を向けて、真備は口調を改めた。

「あの木簡は道鏡が預かっていた。道鏡は木簡をどうしたのだろう」

真備の問いに小角は首を傾げた。

「木簡?。太安万侶が玄昉に託したあの木簡か?」

あれは乙巳の変で炎上する甘橿丘の蘇我館(そがのむろたち)から船史恵尺が救い出して、葛城皇子(中大兄皇子)の手に渡り、川島皇子が受け継いだ物の一部だ。

太安万侶は不比等の眼に触れさせぬよう、遣唐使船に乗り込む玄昉に託し、不比等の死後に帰朝した玄昉が葛城王へと渡したのではなかったか。

私は不要の物だと言ったのだが。

木簡は二つ有り、一つには上宮太子(厩戸皇子)が、古には高志の日嗣、葛城の后の協定があったと述べた旨が書かれていた。

もう一つには小墾田大王(推古帝)と上宮太子が、葛城の自由権の保証を条件に時の役公に願って、二上山に在った龍穴が封じられた時に結ばれた誓約が書かれていた。

「葛城王様は退官する時、儂と道鏡に木簡を託した。道鏡は機を見てお前に返すと言ったのだが」

小角は小さく溜め息をついた。

「狼児()、さても師匠に面倒な事を遺す奴よ。私は何も受け取っていない。だが下野に向かう時には狼児は何も言ってはいなかったな。供に着いていた弾正官を憚ったのか、或いは狼児にはその先が見えていたのかも知れぬが」

真備は「そうか」と短く呟いた。

小角は間を置かずに真備を訪った。

病と言ってもその源は老いからくる衰えだ。

苦しむ事が無いようにと小角は願っていた。

北の地にも大きな事変無く夏を越え、秋風が冷たくなる頃、真備は小角に言った。

「小角よ、女君の(まつりごと)する手触りの良い滑らかな時代は終わりだ」

今上帝はお歳を召しておられるから大きな変革は起こすまいが、東宮は蛮勇を辞さぬ気概の男君だ。

あの君が帝位に就けば、どれだけ血を流しても政道の修正に乗り出すだろう。

それだけの問題をこれまでの政道で抱え込んでしまっているのだ。

墾田永世私有法は再び施行されて小作人を苦しめ、令外官は不正を行い、寺社は互いに利を求めて争っている。

これらを糺そうとすれば、世上には争い事や暴力が充ちるだろう。

今や朝堂でお前の事を覚えている者は儂位なものだろうが、お前の力を再び朝堂に知られれば、好むと好まざるとに関わらずまたぞろ政争に捲き込まれる。

此までのように水面下で進行する政争ではない。

火種があれば即座に恵美押勝の乱のごとく、戦となろう。

仁も礼も節も義も其処には在るまい。

律令が牽かれる以前のような大きな戦にも成りかねん。

お前が一番解っておろうが、都の内だけに留まらぬだろう。

真備は言葉を切って小角を今一度見つめた。

「身の振り方に充分気を付けることだ。宮には近づくな。蝦夷の地へも脚を向けてはならない。道嶋嶋足を信じて待つのだ」

小角は真備の手を採って黙したまま頷いた。

真備は大きく息をついた。

「お前の身が案じられてならない。道鏡は木簡をどうしたのだろう」

「そんなことで頭を悩ませるな。私が生まれを知られねば済むことだ」

真備は眼を閉じ、静かに手を握り返した。


十月二日の夕べ、真備は眠るように息を引き取った。

寝台の横で小角は泣き明かした。

夜明けには真備の嫡子、泉が来ようから、此処を立ち去らねばならないと、判っていても去りがたかった。

暁に涙を呑んで邸を出た。


小角は昔のように辰砂や銀、漆、薬草といった御山が下さるものを戴いてひっそりと暮らしを立てながら時折吉野へ脚を向けた。

高丸が教えてくれた土蜘蛛の(みおや)の地を捜したが足跡は中々見つからなかった。

市や商人達から得られる物は生活(たつき)のための細々とした物もだが、真備亡き後、朝廷の動向に関する噂話が小角にとっては重要だった。

陸奥国の防備は着々と固められていた。

宝亀七年(776年)の二月には出羽国に軍を発して雄勝道から陸奥の西辺を討伐するよう令された。

これは蝦夷に対する圧迫というよりも寧ろ陸奥国内や東山道、東海道に現れる賊を討伐する事が目的とされていた。

商人達の中にはそれらの賊達と商いをしている者も多く、概ね渋い顔をしていた。


酒人内親王は斎王を退下して平城の都(ならのみやこ)へ帰京し、入れ替わるように大伴家持が伊勢国司となって伊勢へ下った。

退下した酒人内親王は、喪が明けると、父帝の薦めで山部皇太子の後宮に入った。

朝堂の多くの官人は驚き、この事で皇太子と式家の間に亀裂が入るのではないかと危ぶんだ。

内親王が降嫁すれば、藤家の姫が后となることはあるまいと誰にも思われたからだったが、良継も百川も、寧ろ酒人内親王の東宮入内を歓迎しているように見えた。


入内の日の夜、山部は酒人の閨から宿直の舎人も女官も追い払った。

居住まい美しく座して、見上げた酒人に「朕は約した事を果たしてやれなかった」と山部は言った。

酒人は嬉しそうに微笑んでその腕を山部に延ばした。

「いいえ、果たして下さいました。漸く、またお会いできる日が参りましたもの」

離れて在らざるを得なかった間の何と長く感じられた事か。

か細い頚に顔を埋めて、潜もった山部の声が「内親王であれば当然の、皇后(きさい)の位にすら着けてやれないのだ」と自嘲的に言った。

酒人は山部の頚に腕を廻して微笑んだ。

「位など望んだ事は一度も御座いません。これからは誰憚ること無く共に居られるのですから」

宝冠が小さな(つむり)から滑り落ちるのを、意にも留めずに酒人は山部の懐に身を寄せた。

「人は言繁(ことしげ)よう」

僅かの隙間も惜しむように二人は顔を寄せ合った。

「さも在りましょう」

「お前の心が言痛(こちた)もうぞ」

唇が唇を求め合いながら言葉を重ねた。

「その分糸惜しんでくださいますのでしょう?」

私は皇女としても斎王としても業深き者だと思いながら酒人は答えた。

母や弟の死を哀しと思っても、この年の離れた義兄(あに)と在れる喜びの方が優るのだ。

例えこの義兄と私が睦み合った事が母と弟の死の遠因であっても、私は喜んでその謗りを受けよう。

斎王として日々の勤めを執り行いながら、思う事はこの義兄の事だけだった。

この上何を望むことがあろうか。


陸奥、出羽の二国では散発的に衝突が起こった。

大伴駿河麻呂は健康を損ない、国府では紀広純が指揮を取った。

五月には佐伯久良麻呂が鎮守副将軍とされ都を出て陸奥へ向かった。

七月七日、大伴駿河麻呂は陸奥国で卒した。

この報せと同時に、紀広純は陸奥の兵力の増強を願い出た。

大伴駿河麻呂による融和懐柔よりの現地での政策に、紀広純は業を煮やしていた。

成果を上げねば、投入された己も兵達も評価されないではないか。

帝は夷狄を討てと詔したのだ。

戦果は即ち首級だ。

何れだけの働きがあったかは首級の数で決まるのだ。

俘囚の大領達は愛想こそ無いが優秀な武官だった。

初めの内こそ、広純もどこまで信用したものかと警戒していたが、大伴駿河麻呂への接し方を見るに、この男達は兵を率いる者として信じるに足る者だと認めた。

紀広純は北上川に目を付けていた。

蝦夷は大木を刳り抜いて作った舟を使うが、吾ならより大きな船による水軍を率いて戦功を上げてみせようぞ。

朝廷は坂東の国々から五十隻の船を買いあげて陸奥に送り、十二月には陸奥国内で三年間の租税免除を唄い兵を募った。


宝亀八年(777年)

一月の終わりに陸奥介となった大伴真綱と共に、舎人の任期を終えた道嶋大盾は陸奥国へと発った。

大盾には毛野の民の目的に心当たりがあった。

出羽国府のある出羽柵と雄勝城を後退させたいのだ。

雄勝城から逃げ出した城戸(きのへ)達が徒党を組んで賊と化している事を利用して、彼らの行いを便に応じて邪魔をし、或いは見逃していると思われた。

毛野の民が時折、志波や胆沢から北上山脈を越えて襲撃することで、出羽柵と雄勝城の兵達は浮き足立つ。

狙われているのは雄勝城なのだ。

大伴真綱は着任すると大盾の話を聞き容れ、紀広純へ報告した。


小角は春先に勢和多気の飯高諸高を訪って井上と真備の死を伝えた。

その年、長く宮の朋輩であった叔母の笠女を亡くし、奈保山に葬った諸高は涙ながらに小角の話を聞いた。

吉備大臣(きびのおとど)もさぞ由利様が心残りであったろう。

井手大臣(いでのおとど)(橘諸兄)から、呉々もと頼まれておいでだったのだ。

諸高は暫く滞在していくよう引き留めてくれたが、毛野の国が気がかりな小角は復の訪れを約して飯高郡を去った。

そうだ、瀬田へ出て、行表がまだ近江国分寺に居れば、真備の事を伝えてやろう。

「遠周りだが宇治から巨椋江を周って、下つ道で葛城へ帰ろう」

蛍の頸を撫でながら話しかけると、蛍は鼻を鳴らして小さく頭を振り立てた。

小角には、素直で大人しい蛍と共に旅することが唯一の楽しみになっていた。


五月に朝廷は諸国に命じ、(よろい)二百領を供出させて出羽国に送らせた。

戦船は海路、多賀城の南、松島湾に到着し、北上川の入り江に廻船されていた。

紀広純は出羽柵と雄勝城の警護を鎮守副将軍、佐伯久良麻呂に固めさせ、北上川の調査と測量を始めた。

北上川を船で遡って物資を運び、伊治城より北に城柵を造営する事を奏上するつもりだった。

城柵の造営となれば、帝の詔が必要となる。

具体的な計画と報告書が無くては実現しない。

土地勘に優れた俘囚の大領達の協力は必須だ。


朝堂では、夏頃から床に臥せる日が続いていた内大臣、藤原良継が九月十八日に薨じた。

天候不順や地震、天文異常、山林火災、流行り病等が起こる度に官民は禍々しい兆であると言い、不穏な空気を漂よわせ始める。

この数年の天災や干魃は廃后と廃太子の祟りだと囁かれていたが、良継の死までも井上と他戸の祟りだと噂されるようになった。

山部に言わせれば、天候不順とそれに伴う不作や飢饉も、病の蔓延も今に始まった事では無い。

病は飢えと水の巡らぬこの都に因するものだ。

あれほど怖れられた天然痘は幸いにも、このところ鳴りを潜めている。

山林火災は七大寺の下部や都周辺の有力豪族が、政策に不満があるが強訴できない時に火を付けているのだ。

勿論そんな事は誰もが承知しているが、表だって咎めても無駄な事だとも解っていた。

風評というものは中々厄介な物だ。

良継の死は老いから来る病による物だった。

良継の娘、東宮妃乙牟漏が上げた男皇子は病弱な赤子(やや)で、典薬寮でも内道場でもこの皇子が生まれてから、薬だ祈祷だと掛かりきりだったが、冬が来る頃、帝がこれも高齢からくる衰えで数日の間、体調を崩した。

山部も酒人を身近に置けるようになって心に隙ができた物か、昨日から床に着いた。

官民は挙ってここぞとばかりに帝と東宮の病も祟りではないか等と噂話に花を咲かせているだろう。

だが酒人の傍でこうして静かに過ごす刻を持てるのは悪くない。

例え良嗣が薨じても、酒人の身の安全を思えば、乙牟漏と小殿皇子は皇后と皇太子になって貰わねば。

百川は娘の旅子を東宮妃として容れる事を山部に求め、山部は唯々諾々と従った。

他の氏族からも夫人や嬪、或いは女官として(おみな)を奉りたいとの申し入れがあり、東宮では寵を競う女君が増えていた。

不本意ではあるが、酒人の許にばかりは居られない。

だが、いずれ行う遷都の折りには諸氏族から不満が頻発するだろうから、有力氏族を外戚としておくに越したことはない。

むしろ厄介なのは寺社だ。

遷都となれば七大寺は我先に移転を援助せよだの優遇せよだのと言い出すだろう。

寺社など後回しだ。

早良は面白い事を言っていた。

東大寺では、朕が帝に奏上した造東大寺司縮小の案に不満を述べていたが、酒人が妃となってからその声が聞かれなくなったと。

聖武帝に繋がる酒人に期する処があるのだろう。

傍らで幸せそうに錦の糸で刺繍をしている酒人に眼を移した。

母君と弟君の御陵を、より安らかに眠れる場所へ遷して差し上げたいと父帝に申し上げてみてはどうだろうと話すと、酒人は嬉しそうに微笑んだ。

「嬉しゅうございます。私、東大寺に御灯(みあか)しを奉ろうと思っておりましたの。万燈会を行いましょう。美しい光景をご覧に入れれば御霊(みたま)もお兄様のお心も安まりましょうから」

酒人は心の中だけで続けた。

お兄様はご自分では気付いておられない様だけれど、時おり夢見が悪いらしく魘されておいでの事があるのですもの。

屈託無く笑う酒人の傍らで、山部はあの夜出会った、自らを蚩尤(しゆう)であると言った者の事を考えた。

何者かは解らぬが、これから行おうとしている事を思わば、朕こそが戦乱を好み、厄をもたらす蚩尤(しゆう)だろう。

あの夜、内裏に向かう道すがら、田村麻呂に邸内で起こった事を話したが、表門に居ながら樹上の気配に気づけなかった事を田村麻呂は恥じていた。

あれは容貌(かおかたち)こそ特異だが、父に似て、やがては良き武官となるだろう。

暫くは無位無冠で辛抱してもらおう。

あと二年で穏位が授けられる歳になるのだ。

そうなれば幾らでも活躍の場を与えられる。

壬申年の戦からこれまで、武を持って朝家に仕えてきた紀や大伴は、古くからの氏族の因果に絡め捕られていて機内では使いにくい。

だが北の地で激しい攻防が始まるのはこれからだろうから、紀にも大伴にも盛大彼の地で勲を挙げて貰うが良かろう。

山部は微かに皮肉な笑みを浮かべた。

全く父は困った事を始めてくれた。

七大寺

東大寺、唐招提寺、興福寺、元興寺、薬師寺、西大寺、法隆寺

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