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六月  作者: 賀茂史女
12/53

第弐部 遷都 参 井上内親王

宝亀五年(774年)春

この新春の朝賀の儀で起こった出来事が吉備真備の耳に入ったのは春も酣な頃だった。

道嶋嶋足が密かに助言を乞いたいと、安芸守の任期を終え都へ戻った中衛中将坂上刈田麻呂に伴われて訪れた為だった。

「今上は何と思し召しだろうか?」

真備の問いに答えたのは苅田麻呂だった。

「主上が今最も信を置く大納言(藤原魚名)殿が、機を見て討つべしと仰せなのを良しとされているようです。按察使殿は慎重にと申し上げた様子ですが、主上が詔されれば如何ともし難いでしょう」

大伴駿河麻呂が苦境に立たされているのは言うまでもない。

話を聞き終わった真備が嶋足に目を向けて言った。

「今は大陸の情勢が安定しておるだけに、君も臣も国の内を固めたいと思うのが道理だろう。まずは蝦夷を攻める口実を防ぐ事だな」

すぐにでも起こりそうな事は誣告だ。

「やがて陸奥国の何処かの正倉に火が出よう。この度は神火であるとは言うまい。火付けの真の咎人を迅速に挙げる事が最も望ましいが成し難いだろう。或いは按察使殿が租税台帳の検注を遡って行わせ、傷の浅い内に不正を暴くことが出来れば当面の戦への流れは留められるかも知れぬ」

具体的な理由を与えなければ直ぐに全面戦争にまでは向かうまい。

「もう一つはその蝦夷の長の罪を正当に問う事だが、どうも隙は無さそうだな。その蝦夷の長は大した人物の様に思われる。見え透いた讒言ということになり、そうなれば双方国を揚げての戦は避けられまい。これは根の深い戦となろう」

嘗て大野東人が雄勝柵への道を拓く時に、出羽国司だった田辺史難波が私が蝦夷との仲立ちとなると申し出た。

蝦夷を隣国の民として接し、融和懐柔していく事になったのはその尽力があった為だ。

再びそういう者が顕れるのが望ましいのだがと真備は結んだ。

嶋足は深く同意した。

だが毛野の地で育った己では叶わぬ事だ。

やがて倭人から相応しい者が現れることに望みを掛け、今、己が出来ることを積み上げるしかあるまい。

幸い我が子、御盾は牡鹿柵で健やかに成長し、俘囚からも公平であると信頼を置かれているようだ。

令外官の行いや城柵の租税台帳について事細かに記録を残させてみようと嶋足は考えた。

去り際に苅田麻呂は由利の訃報に弔慰を述べた。

礼を返した真備に苅田麻呂は訝しげに「病なぞとは無縁の方かと思っておりました。お若い内に亡くなられてしまうとは、どのような病を得られたので?」と訊ねた。

「心の病から弱り果てたものであろう。我君の薨去は娘にとっても大きな痛手であった。由利に何か御用でしたかな?」

何喰わぬ顔で答えた真備に、苅田麻呂は心痛の面持ちになった。

この武官は恵美押勝の乱で小角と道鏡と共に戦場に出ていた。

確かつい近頃、娘が新東宮の許へ上がり、継子となる男児も新東宮と親しかった筈だ。

真備にとって出来うる限り小角には近づけたくない一人だった。

「お渡ししたい物があったのです。ですが今となっては叶わぬ事となってしまいました。いや、せんない繰り言です。お忘れ下さい」

苅田麻呂は、道鏡禅師から預かった物を、とうとう葛城の巫女媛に渡せず仕舞いになった事を悔やみながら真備の邸を辞した。

あの巫女媛が早々に亡くなるとは思ってもみなかった。

この上は誰の目にも触れぬよう保管しよう、そう息子にも言い置いておかねば。

時期を見て何処かの寺社にでも奉納するが良いかもしれぬ。


大伴駿河麻呂はあの日、朝堂で宇漢迷公(うかめのきみ)宇屈波宇(ウクハウ)が述べた事を内心、尤もであると感じていた。

道嶋嶋足から再度、意見も聞いていた。

雪解けを待って任地に着き、俘囚の大領からも広く意見を求めた。

宇屈波宇(ウクハウ)という男を知るほどに、理が通っていないのは朝廷であるという感を強くした。

現にこの数年、どの城柵でも蝦夷との間には小競り合いはあっても、争乱と言える事態は起こっていないのだ。

何を理由に戦端を開くと言うのか。

駿河麻呂は光仁帝に現状を報告する上奏書を(したた)めて多賀城より使者を出した。

その使者が宮に到着した数日の後に事が起こった。

七月の二十日、真備の予測通り陸奥国行方郡の正倉で火災が起こった。

二十三日、この火災の事は知らぬまま、駿河麻呂の上奏書を読んだ光仁帝は、駿河麻呂が二の足を踏んでいると判断し、蝦夷討滅を勅命し、河内守、紀広純に鎮守副将軍を兼ねよと任命し、三万の兵と共に陸奥へ向かわせた。

駿河麻呂は火災の報告はさせたが、それが何かのきっかけになるとも思ってはいなかった。

この正倉の火災が縦しんば放火であったとしても、蝦夷によるものである等と決められる筈もない。

二十五日には桃生城が賊に襲われた。

北上川に囲まれる様に築かれている桃生城の橋が焼かれ、衛士では支えきれず西側の城郭が破られたが、牡鹿柵と多賀城から援軍が馳せ参じて敵を斥けた。

襲った者達は蝦夷ではなく、雄勝城から逃げ出した嘗ての移民の柵戸達が徒党を組んで盗賊化した集団だった。

駿河麻呂は詳細な調書を作り、上奏の為に用意した。

三万の兵はまだ陸奥国に到着する前だった。

八月二日、桃生城襲撃の報が都に届き、朝廷は危機感を募らせ、坂東各国に対し、陸奥国で事あらば援兵を徴発して直ちに陸奥へ赴かせるよう発令した。

三万の兵を率いて紀広純が多賀城に到着すると、現地ではその物々しさに令外官や大領達の緊張が高まった。

駿河麻呂は、着任してからの動向と私見を纏め上げ、蝦夷討伐の必要は無いと思われるが賊の横行は見逃せぬ為、警戒は怠れないと奏した。

光仁帝はこの上奏書を読んで駿河麻呂の姿勢を遺憾であると怒った。

現に城柵は襲撃を受けているのだ。

勅命を受けていると言うのに、討つ必要が無いとはどう謂うことか。


小角は商人達から陸奥国へ兵が出たと聞いて慌てて真備を訪れた。

真備は小角の心を読んだ様に言った。

「動くまいぞ。まだ何事も起こらぬ」

道嶋嶋足はやはり喰えぬ男君だと真備は感心していた。

大伴駿河麻呂を現地で支えているのは嶋足の息のかかった者達だろう。

それと気づかせぬ様、巧く情報を示し、穏健な駿河麻呂の政策を支持していると思われた。

小角は顔色が変わる思いで星を読み、水鏡を覗いて日を過ごした。

小角の眼には再び風星が光を増したように思えた。

もう狼児はいないのに、誰がこの星に当たるのだろうと考えてみたが思い当たる節は無かった。

水鏡は何も映し出さなかった。

長月が過ぎればもう陸奥国は兵を出せまい。

それまで事が起きなければ春までは平穏だろう。

小角は北の空を眺めながら何事も起こらぬことを願った。


九月三日、酒人内親王は潔斎を終え発遣の儀を迎えた。

平城の都(ならのみやこ)の大極殿で別れの笄を挿したのは義兄、皇太子山部親王だった。

内親王だけに聞こえる様に「今少し時を呉れ」と呟いた後「この後都の方に面向けたもうな」と宜した。

内親王は伏せていた眼を上げ、無言のまま母の違う兄を一時見つめ、輿上の人となった。

山部は輿を見送らなかった。

都の外れで伊勢への群行の行列が進むのを遠目に見ていた小角は、早く井上の居場所を突き止めようと考えていた。

真備は刑部省の大輔ですら井上の居場所を知らなかったと言っていた。

小角は大和国の商人に、分不相応な物を購った者に覚えが無いか聞いてまわっていた。

おそらく二人は、先の後継争いで没落したり没収された貴族の邸あたりに閉じ込められているのだろう。

人数は少なくとも、雑徭や端女は居る筈だ。

仕える者は無論見張りをも兼ねているだろうが、井上が宮の報せや暮らしの便を図ろうとすれば、賄賂として装束や装身具を手離す事があるやも知れぬ。


宝亀六年(775年)、春先に小角は漸く井上と他戸が幽閉されている屋敷を見つけ出した。

商人の一人が、宇智郡辺りで雑徭風の男から、染めた象牙を細工した釵子(さいし)を買いあげたと教えてくれた。

宇智郡ならば南家の別業があった筈だ。

四月の半ばにはこれと思う屋敷を見つけ出し、数日様子を見てから、深更に密かに邸内に入った。

屋敷の奥まった曹司の塗籠に、人の気配があった。

いきなり名を呼ぶのは剣呑だ。

小角は暫く考えて「何しか来けむ、君も在らなくに」と呟いてみた。

直ぐに圧し殺した声が「(たれ)ぞ」と返ってきた。

小角は掛け金を外して塗籠の戸を細く開けた。

灯りの無い塗籠の中は墨を流した様に暗かった。

「井上、私が判るか?」

暫しあって、幽かな声が「吉備命婦か?」と答えた。

井上が己を覚えていた事に小角は安堵した。

「そうだ、和子も共に居るのか?」

「此処に。だがもう後どれだけ息が続くものか」

「病んでいるのか?」

「宮を逐われて此処へ押し込められてから、歩く事も叶わず脚が萎えて居る。近頃では胸が痛んで息が苦しいと泣く。朕も立つことは叶わぬ」

「次には何か薬種を持ってこよう。それで何故こんなことになった?。夫君(せのきみ)と不和であったのか?」

「朕には何もかもが百川の讒言としか思えぬ。だが大君は朕を信じては下され無かった。他戸が泣いて母を責められるなと申し上げた処がこの有り様だ。此処へ移される前に山部が現れて、暫く堪えよと言ったがそれきりだ」

もう山部の立太子も済んで、大赦があっても良さそうなのに井上と他戸は閉じ込められたままだ。

井上は何が目的なのか理解できないと言った。

小角は真備から独りで事を運ぶなと言われていた事を思いだし、また直ぐに来ようと約束してその夜は去った。

数日の後に、小角は再び井上を訪った。

真備は、母子が望めば脱出させるが良かろうと提案した。

三十日月の暗闇の中、塗籠の戸を開け放ち、小角は井上と他戸の(やつ)れた様に胸を衝かれた。

他戸皇子は既に眼も良くは見えないらしかった。

小角が少しでも癒そうと手を触れると、恐れ戦いて逃れようと弱々しく抗った。

玻璃が教えてくれた様に、他戸に己の気を巡らせてみると、僅かに苦痛の表情が和らいだ。

十五歳の少年が持つ筈の生気など見る影も無く、力無く頭を母の膝に乗せ、小さく「ははさま」と呟いた。

これはもう助からないだろう。

井上は凄惨な眼で小角を見た。

(いまし)は葛城の(げき)であったろう。何故に朕に手を貸す?」

「お前は首の子だ。宮子に繋がる縁がある」

疑うのも無理は無い。

淡々と小角は答えた。

何処かの国に落ち延びる気があるなら二人共に運ばせる、逃げるかと小角は問うた。

井上は他戸皇子の顔を見遣って、それでも苦渋に満ちた声で答えた。

「朕にもまだ矜持と言うものがある。若し罪が晴れぬなら、このまま此処で果てるとしよう。逃げれば更に罪を重ね、酒人の身にも類を及ぼすやもしれぬ」

予期していた答えではあったが、小角の胸は痛んだ。

懐に入れていた包みを手渡した。

鳥頭(うず)だ。この爪の先程の一切れを割いて一日に一度、口に含んで直ぐに吐き出すのだ。決して噛んだり呑み込んだりしてはいけない。他戸はその半分の量で良い。これは巡りを良くして身体を暖めるが、直ぐに命に関わる毒でもある。だから」

小角は一度言葉を切った。

「もしも進退が極まったら、お前の良いように使え」

玄昉や真備と共に帰国した秦朝元は典薬頭だった頃、唐から持ち帰った生薬の精製法を伝え、朝元の父、弁正と広足の縁で小角にも事細かに伝授してくれた。

それは人の命を奪うための物では無かったのだが。

井上は包みを受け取り、中を改めて額に押し戴いた。

「有り難き事。朕にはもう報いる術は無いが、この事は忘れまい」と眼を伏せた。

「小角、人が来た」

屋敷の外に残してきた前鬼の意話の声が小角の頭の中に流れ込んで来た。

小角はまた来ると言い含めて塗籠の戸を閉めた。

手入れの行き届かない前栽は荒れて、木々には蔦が絡まり、下草が生い茂っていた。

手頃な木に登り、身を潜めて成り行きを眺める事にしよう。

訪れたのが百川であれば思うところを聞けるかもしれないと考えた。

前鬼は大弓を持ち太刀を佩く舎人が表門で馬を牽いて控えていると報せてきた。

現れたのは背の高い男君だった。

手燭を持ち、大股に庇を歩きながら、追い縋る雑徭を一喝して追い払い、躊躇うこと無く塗籠の戸を開け放った。

武官風に蘇芳色の錦織りの裲襠(りょうとう)(貫頭衣)を着ているがその下から覗く黄丹色の大袖の衣が東宮である事を物語っていた。

井上は侮蔑を込めた一瞥をその顔に遣って、声を張った。

目の前に現れた男君への憎しみが生気を蘇らせたかのようだった。

「これは皇太子、何をしに来やったのです」

良く通る声で、辺りを憚る事無く、山部は言った。

「漸く百川からこの場所を聞き出した。まさか寄りによって南家の邸とはな」

井上の声は更に冷ややかになった。

「とうとう藤家の雑徭にでも成り下がったのですか。大君はどうされているのです?。酒人は無事なのでしょうね」

山部はあからさまな侮蔑の言葉には眉一つ動かさなかった。

「酒人は昨秋には伊勢の国へ下向した。朕は約束しただろう。酒人の身の安全は必ず図ろうと。お忘れか」

井上の眼が鋭くなった。

「それで(なれ)は引き換えに何を失ったのです」

忌々し気に山部は答えた。

「式家の一嬢を皇后に着けることを約束させられた。だが替わりに貴方と他戸を此処から連れ出す条件を得た」

山部は塗籠の前に片膝を着いた。

「改め不る常の典が記されたものがあるだろう。父帝はご存じ無いと仰った。貴方は今残る聖武帝の只一人のお子だ。称徳帝から受け継ぐか、聞いてお出でではないか」

井上は怪訝そうな顔になったが、山部は大きく一歩膝行して近づいた。

小角は樹上で呆然としていた。

井上と他戸の皇位継承権だけでなく、まさかそんな物が障りになっていたとは。

だが確かにこれ迄、倭では三孫以上の王族を大君に戴いていない。

井上が直系の皇統の最後の一人だ。

山部は四世孫で母も皇統の血を引かない。

式家の二人は、山部の即位に不満ある諸臣が改め不る常の典を持ち出さない内に潰したいのか。

「その出典がわかれば遺棄を約束して良継と百川を納得させられよう。教えてくれ」

山部の声には焦りが滲んでいた。

井上は眉根を寄せ、汚らわしい者を見る眼になった。

「朕は聞いた事すら無い。臣であった事もなければ、これまでこの身に流れる血に、証しなど必要と思ったことも無かった故な」

山部の表情が強張った。

「そんな筈はあるまい。何か父帝や姉帝から受け継いだ(しるし)が有ろう。代々即位の儀に吟われて来ているのだ」

激しい勢いで立ち上がり、井上に詰め寄った。

母の膝で臥していた他戸は、義兄の言葉を理解しないまま、母の身に危険を感じた。

何もかもが変わってしまった。

穏やかな父も、優しい母も。

そして今、強く賢かった義兄が、別人の様な形相で母に何かを強要している。

己が皇太子になった事がいけなかったのだろうか。

他戸は弱々しく身を起こし、山部を押し止めようとした。

「山部よ、私が教えてやろう」

前栽の榎の高みから、突然降ってきた声に山部は驚いて庇に出て、樹上を振り仰いだ。

佳人の眉の様に細い三十日月の暗闇の中、手燭の弱い光は辛うじて足元を照らすのみだった。

山部の眼には、樹上に二人の大きな異形の人影と男童子の様な小柄な人影が垣間見えたが、その姿も顔も暗闇に溶けていた。

「その(のり)は古の高志、倭、葛城の三国の協定に基づく、倭の后と日嗣皇子の条件だった。后は葛城から、日嗣皇子は高志の血を引く皇子がそれぞれ選ばれて来たのだ」

井上は語っているのが小角だと気づき、塗籠からいざり出た。

「だが高志が滅び、葛城が勢力を失い、淡海公はその協定を、持統帝と己の為に草壁皇子の系譜を継げという詔とすり替えたのだ。高志と葛城という隣国を滅ぼしたのが己達であった事を忘れ、大和の国に宮が置かれ、大君を戴くようになって尚、お前達倭人は日嗣皇子の争いを続けて来た」

小角は言葉を切った。

小角からは山部の表情が良く見えた。

瞠目し、口許を引き締め、こちらの姿を見定めようとしている。

「山部よ」

良く聞くがいい。

「その典は臣によって作られた架空の物だ。改め不る常の典などというものは存在しない。それでもお前にはその典の(しるし)が必要か?」

突然井上が悲鳴を上げた。

他戸が塗籠の戸の横で倒れていた。

鳥頭を飲んだのか。

小角は眉を潜めた。

井上の震える手が他戸の頭を掻き抱いた。

もう息は無かった。

「皇統の生まれも、皇后(きさい)の位も、朕が望んだわけでは無かった。そんな物の為に安積は殺され、不破は貶められ、我が身は漸く得た子達を失ったのか」

井上は他戸の躰を横たえ、震える脚を踏みしめて立ち上がった。

一歩一歩、山部の許へと近づいた。

「山部よ、他戸の死で酒人は斎宮を退下しなければならなくなった」

その唇には凄惨な笑みが貼り付いていた。

山部は微動だにせず、近づいてくる井上を見据えた。

「幼い頃(なれ)は朕の降嫁で母の涙を見ると憤ったな。長じて(なれ)自身が酒人をその憂き目に合わせると言うわけだ」

窶れ、干からびた白い手が山部に向かって取り縋るように伸ばされた。

「だがそれもこれも皆、此処で終わりだ」

井上は山部の佩いていた太刀を抜き、萎えて震える腕で山部を刺し貫こうとした。

山部は他愛もなく避けた。

奪い返した太刀を鞘に納めるほんの僅かの間に、井上は鳥頭を煽った。

山部は吐き出させようと試みていたが、井上の眼は急速に光を失っていった。

小角は黙ったまま樹上で全てを見ていた。

都の方角から吉野川沿いに、松明を灯した人影が此方に向かっていると前鬼が告げた。

山部は樹上の者が去り行く気配に振り仰いで問うた。

(いまし)は何者だ」

ややあって小角は答えた。

「私は蚩尤(しゆう)だ。もう(まみ)えることも有るまい。山部よ、大君の位は出自で決まるのでは無いと、己の政で証を立てるのだな」

松明を掲げた一行は表門の舎人と共に邸内に入り、惨状に愕然と脚を止めた。

小角は前鬼と後鬼と共に兵の居ない方へと築地を軽々と飛び越えて去った。

山部は松明を持ち先頭に立つ、見るからに身分高い文官に一瞥をくれ、言い捨てる様に告げた。

「百川、田村麻呂には罪は無いぞ。朕が無理矢理着いて来させたのだ。廃后と廃太子を懇ろに葬って差し上げろ。朕は今上に報告に参内する。田村麻呂、内裏まで供をしろ」

神風の 伊勢の国にもあらましを 何しか来けむ 君も在らなくに

大津皇子(かむさ)りましし後、大来皇女伊勢の斎宮より京に上る時詠みませる歌

万葉集

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