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六月  作者: 賀茂史女
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第弐部 遷都 弐 真備

宝亀五年(774年)一月

唐風に卓と椅子で囲む夕餉が済んだ席で、真備は小角に訊ねた。

「下野で何があった?」

小角は勢い込んで口を開いたが、言葉が見つからず、声に出しては「様々な事が。とても一時には話せない」と答えた。

言い澱み「毛野の国へ行ったのだ」と口に登らせたら、今度は脈絡無く次々と閃くままに言葉が溢れてきた。

「毛野の民達は部族ごとに里で暮らしていて、なんと、土蜘蛛達が当たり前のように共に居た。男達は勇ましく、度量が在る。女達は働き者で、子供達は共同で育てられていてな、まるで曾ての葛城の里へ戻ったかの様だった。そうだ真鉄吹きを見たぞ。それから」

小角は言葉を切った。

毛野の国を出てからずっと、考えまいとしていた事が一時に胸に押し寄せてきた。

「それから、初めて、他の地の国つ神の守り手に会った」

真備は小角の声音の痛々しさに胸を衝かれた。

何事かあったのだろうが、問いただすことは性に合わぬ。

毛野の民の暮らしぶり、隣接する令国との軋轢、そして国つ神とその守り手の事など、脈絡無い小角の話に耳を傾けた。

話が隠世を征する黒玉の力や糸や真鉄の呪具に及び、土蜘蛛を封じる力が有りながらそれを使わず共に生きてきた寛容性について語った後、小角は言った。

「以前真備は、信仰が国つ神からみ仏へと移り行くことで、国つ神の力が衰退しているのではないかと言ったな。証しは無いがやはりその様に思われる。道昭の足跡を垣間見たのではないかと思う事があった」

国つ神への信仰の衰退と、大地の力の衰退は、同調して進んでいるのではないかという懸念を、以前小角は真備に洩らした事があった。

「毛野国から帰って、私は何回も金剛山を巡って母刀自を捜したが、どうしても見つける事はできなかった。前鬼と後鬼も母刀自が何処にいるのか解らないそうだ」

国つ神の力が衰退しているのが人々の信仰の推移と関わりが有るのならば、いつか私の役公としてのお役目は終わる日が来るのだろうか。

「東宮坊で真備は阿倍と私に、人は己を超越した存在、つまり天つ神国つ神や道教の神々やみ仏に、死への畏怖からの救いを求めるが、儒教は人が良く生きる為に必要な事を示唆してくれる教えだと、言ったな」

「その通りだ」

「狼児は、その二つはつまり同じことだと阿倍に説いてお前を怒らせたが、私も今は同じだと思う。真備は今も違うと思っているか?」

真備の眼差しが深く、哀しくなった。

「人は何れ死ぬという側面から思考を始めるから、そういう答えになるのだ。そこから導かれる答えは、生きることそのものを否定する虚無的な物でしかない」

「ああ、そうだ。人は何れ必ず死ぬ、何を為した所で全ては虚しいのではないかと、私も毛野国で暗闇の中から、そう問う声を聞いた。だが、だからこそ唯識は生死を越えてこの世の有り様を論じ、万物が意を共有すると定義するのではないか?。それは国つ神の民に伝わるものとさして変わらない」

小角はいつもどこか余裕有り気だった玄昉の顔を思い起こした。

「そして孔子も放浪の中で、良く生き、悔いなく死にたいと望んだのではないか?。朝聞道、夕死可牟とは、孔子の嘆きというよりも、真意だったのではではないかと思われる」

真備はしばし瞑目した。

「生き死にを越えて、追い求めるものか」

聖武帝も我君も、仏教への帰依がそういうものであらせられたのかもしれないと真備は思いを改めた。

「そう思える何かを得ることこそが、人が生きる理由なのではないだろうか」

小角は小さく笑った。

「いつの間にか狼児は私などよりずっと深く考え、遠くまで視るようになっていたのだと、今は思う」

玄昉は愛欲もまた悟りへの道だから、氷高と葛城を見届けてやれと言ったが、誰かを想う事で人は成長するのだろうか?。

もしそうなら私も少しは変わったのだろうか?。

老いて死ねない私は、果たして見つけられるのだろうか?。

生死を越えても追い求めたいものを。


七日の人日(じんじつ)には、若菜供(わかなをくうず)だからと小角は朝から炊屋で水士女達に指図して(あつもの)を炊き、鍋ごと食卓に運んだ。

さらに「真備の為に若菜を摘んでやったぞ、四十賀(よそじのが)が二巡りしたのだからたんと食べろ」と憎まれ口をきいて真備を閉口させた。

「毛野国でもそうやって憎まれ口を叩いておったのか?」

げんなりした調子で真備に言われて、小角は少し寂しげに笑いながら羹を椀によそった。

「いや、生憎そんな相手が居なくてな。だがもう暫く居たらきっと阿弖流為なぞはよい標的となっただろう。好い男君だった」

食事中に会話する事を嫌う真備が、珍しく思い出した様に言った。

「そう言えば陸奥国の調はまだ砂金でも支払われているのだろうか」

小角は何心もなく答えた。

「その様だったな。確か以前(神護景雲二年768年)に陸奥国は調の献上の労が採算に合わないので十年(ととせ)に一度としてくれと言上したな」

「ああ、そうであったな。我君が採可されて屯倉に蓄えて時期が来たら献上すると定められた」

答えながら真備の脳裏に閃くものがあった。

恵美押勝が国司の任期を四年から六年に伸ばした事があったが、後にその間に多くの不正が隠蔽されていた事が顕かになった。

十年は長い。

守や介は中央から派遣され、按察使(あぜち)が監察を行って、正倉の鍵を持つ者を別に置いても、国府の行政の多くは令外官(現地の有力者)によって行われる。

小角が言う伊治は栗原郡の名で陸奥国の一部となって久しいが、さて、陸奥国の屯倉(みやけ)の中は租税台帳と見合っているのだろうか。

下野国の神火騒動の様な事にはなるまいか?。

後四年で京進となるわけだが。

小角の声が真備の思考を遮った。

「だが領内で砂金が採れるのは実際にはほんの一部の場所だ。砂金採りは苛酷な労働と見えた。国府で何と思っているか分からぬがとても農作業とは両立しまい」

毛野の民から俘囚の長達が買い付けなければならない程だ。

盤具の民が行っているような採集方は国府の領内では出来ないだろうと小角は考えていた。

真備は頷いた。

「労働力か。それは都でも必要とされているが、問題はその質だな。労役の無理な徴用は国力を衰退させる。山部王と百川のお手並みをとくと拝見させて貰おうぞ」

真備の言葉に小角は顔を挙げた。

「新しい宮でも造るつもりなのか?」

「宮ではない、都だ」

「なんと言った?」

「遷都だ。聖武帝は帝の御座所(おましどころ)である宮を宗教と祭祀の場として、司所(つかさどころ)の在る政の場とを切り離そうと考えられたが、新東宮はこの平城の都(ならのみやこ)その物を移すことを考えておいでのようだ」

遷都。

小角は瞠目した。

「まだ新東宮と百川の胸の裡だけのことであろうがな」

確かにこの平城の都(ならのみやこ)は水の巡りの悪い都ではある。

その事が災いして、多くの人々が生活(たつき)を営む事で穢れが澱み、病が蔓延る。

官民は寺社に救いを求め、朝堂に於いても寺社と一部の大氏族の高官が益を得て権力を募らせて来た。

この都に居る限り、その因と縁からは離れられない。

それがつまり、氏族からも、宗教からもと言うことなのか。

真備は「朝賀の儀も滞り無く終わったようだな。数日後には新年の宴で、朝賀の儀の使節も内裏を退出することであろう」と呟いた。


一月十六日、平城の都(ならのみやこ)の内裏では、五位以上の官人が東院の楊梅宮(光仁帝の遊行の宮)に招かれて宴が催されていた。

西院の朝堂では、朝賀の義に参列するために遠路都へ訪れた蝦夷、俘囚の使節を労う為の饗応が行われていた。

この日、この席で起こった事は、後の世に遺さぬよう、国記に記されることは無かった。

牡鹿柵の柵戸から身を起こした道嶋嶋足の弟、道嶋三山は伊治城の築城で功を挙げ、陸奥の員外介(定員外の介、特別に定められた地方執政官)であった。

その息子、道嶋大盾は叔父の嶋足の薦めで平城の都へ上り、舎人の任に就いていた。

朝堂では饗応が終わり、内臣(うちつおみ) 藤原良継、大納言 藤原魚名、陸奥按察使 大伴駿河麻呂が使節を労おうと宴の席に姿を現した。

近衛中将、道嶋嶋足に伴われて、道嶋大盾も饗応の行われていた朝堂に足を踏み入れた。

その席には他でもない、宇漢迷公(うかめのきみ)宇屈波宇(ウクハウ)が連なっていた。

嶋足も大盾も無論この毛野の長を知っていた。

道嶋大盾は眼を剥いた。

嶋足も驚愕したが、大盾に早まるなと目配せした。

この距離ならば、何が目的か見定めてから行動を起こしても参議の身は守れる。

内裏(うち)の事であれば、使節は武器も帯びてはいない。

参議が宇屈波宇(ウクハウ)の顔を知る由も無いが、嶋足も大盾も拝賀に参列した時には気づかなかった。

拝賀の席には敢えて姿を現さなかったものか。

嶋足と大盾を見ても、宇屈波宇(ウクハウ)の顔には何ら動揺が無かった。

参議は各々労いの言葉を述べ、今回の使節へ送る(かばね)を記した官符が渡された。

大盾は脂汗を掻いていた。

宇屈波宇(ウクハウ)が立ち上がり、言葉を発した。

「我に姓は不要のもの。既に友好の証しとして頂戴して此までも名乗って来た。その姓は宇漢迷公(うかめのきみ)であり、我が名は宇屈波宇(ウクハウ)と申す。此度は陸奥按察使殿に伺いたい旨があって参じた」

参議は皆愕然とした。

嶋足が制するのに「良い」と短く答えて大伴駿河麻呂が進み出た。

「伺おう」

宇屈波宇(ウクハウ)は堂々と、朝廷の対蝦夷政策が都と現地で大きな開きが在ることを述べた。

都で聴けば蝦夷との平和的な国交を望むと答えを得られるが、何を頼りに信じれば良いものか。

我が民の中でも、朝廷の民となり暮らす事を望んだ一部の者達が令民として馴染むまで俘囚とされて居ることは心遣いであると考えてきた。

だが近頃の現地の官人の振る舞いを見るに、毛野の民全てが俘囚と同じく朝廷の民で有りながら朝廷に背くものであるかの様な扱いだ。

現地での官人の振る舞いは都には届かぬものか、質されること無く、改まらず、訳も無く虐げられ、謂われなき謗りを受ける。

我が民の中には朝廷が我等を真実隣国と考えているのか疑う者が増えている。

此を帝は、朝廷はどう考えているのか。

按察使殿を通じて答えを頂けようか。


嶋足は臍を噛んだ。

宇屈波宇(ウクハウ)らしいと言えば言える、だが何とも不味い挑戦的なやり方だ。

毛野の長達の間でなら或いはこの類いの正々堂々とした問いは多大な評価を受けるのだろうが、ここは倭だ。

参議からすれば、所詮蝦夷の長でしかない上に、多賀城を脅かした咎人が、朝堂に堂々と足を踏み入れ、のみならず、参議に面と向かって朝廷の政策を誰何するなど論外だ。

駿河麻呂も良継も顔色を失っていた。

遥々謝罪と恭順の意を述べに来たかと思ったのだろう。

魚名に至っては怒りのあまり拳を震わせて居た。

大盾は緊張感に耐えられなくなって叔父を見た。

嶋足は再び動くなと目配せした。

少なくとも宇屈波宇(ウクハウ)には参議を損ねる意図は無いのだ。

どう納めるか。

嶋足はこの中で最も穏健で現状を良く知る、老練な駿河麻呂の前に額付いた。

「此処は宮の裡、何とぞご下命を」

嶋足の声に駿河麻呂は我に返った。

老齢を理由に按察使を辞退しきれなかった己を恨んだ。

紙の様に白く強張った表情で嶋足を制して辛うじて言った。

宇屈波宇(ウクハウ)よ、(いまし)が申した問いは宇漢迷公(うかめのきみ)の問いか?、或いは陸奥の蝦夷の問いか?」

「我等毛野の民の問いである」

宇屈波宇(ウクハウ)は白いものが混じる頭を真っ直ぐに起し、黥の入った眼尻を決して言い放った。

駿河麻呂は進退窮まった。

この場には蝦夷のみならず俘囚も居る。

迂闊な言動は出来ない。

「汝の問いは按察使の身一つで答えられる事ではない。また答えが得られることも確約は出来ぬ。だが我から帝に上奏する事は約束しよう」

「我等はこれで使節としての役目を果たした。国へ還り朝廷の答えを待つとしよう」

宇屈波宇(ウクハウ)は使節、同胞に退去を促し、皆を率いて朝堂を出た。

宿坊は既に引き払われ、直ぐにでも宮を出る準備がされていたのだろう。

後には、難題を抱え込み茫然とした駿河麻呂と、怒りに燃える二人の参議と、苦渋に満ちた二人の武官が取り残された。

だがその二人の武官の苦しみは全く別な物だった。

老練な嶋足はこの後の毛野の民の処遇を深く憂いていた。

宇屈波宇(ウクハウ)は、曖昧なまま懐柔策を続け、いずれ無し崩しに更に北進して蝦夷の住む地を令国化して行くつもりだった政策に答えを詰め寄ったのだ。

年若く短気な大盾は、仕える朝廷が蝦夷に誹謗された事を憤り、叔父である嶋足と父である三山が漸く拓いた栄達への道を閉ざされるかもしれない事を畏れた。

父三山の功が呰麻呂(あざまろ)の深慮に依るものだとは大盾が知る由も無かった。


四日の後に、朝廷はこれ以降の蝦夷俘囚の入朝、並びに朝賀の儀への参列を行わせないと令した。

聖武帝の御代から融和と懐柔を持って向かうとされ、称徳帝の御代には朝賀の儀に参列するまでになった対蝦夷政策はこの日、その方向性を正反対に転じた。

即ち隣国、或いは友好国として認めないという、事実上の国交断絶だった。


小角は朝堂で何が起こったのか無論知らなかった。

一月の晦に「真備の邸は居心地が良いが、そろそろじっとしているのに飽きた。葛城山に帰ろうと思う」と伝えた。

別れ際、真備は「井上様の居場所が判っても決して独りでは動くでないぞ。良いな?」と耳打ちした。

頷いて小角は復の訪れを約束した。

真備には心身共に老いによる衰えが訪れているのだろう。

足繁く真備を訪おうと思った。

「神火騒動」

神護景雲年間(称徳帝末期)武蔵国で火災により正倉が焼け、調となる米穀が焼失したという報告があった。

不審火の原因は始めは神の怒りによるものとされたが、朝廷は真実が調傭の横領の隠蔽にあると気付いていた節がある。

仲麻呂政権下より正倉の鍵の管理は強化されていたが不正は治まらなかったと想像される。

宝亀年間にも坂東各国から神火の報告が相次いだ。

坂東各国の経済的疲弊の反映とも、地方行政の腐敗の顕れともとれる。


「朝聞道、夕死可牟」

古来から二つの解釈が存在するが、この時代には魏の嘆きの解釈であったと考えられる。

「朝、天下に徳政が行われていると聞ければ、その夕に死んでも良いのに」

時代を下り、南宋の頃に求道の解釈が生まれた。

「朝、この世の理を得られたなら、その夕に死んでも悔いは無い」


「愛欲」

仏教では男女間の感情に留まらず、親子の情愛、浪費を慎まない心、富に執着する心の有り様など、俗世への執着を総括的に愛欲と呼ぶ

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