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六月  作者: 賀茂史女
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第壱部 悪路王 壱 毛野国

六月棲棲,戎車既飭。

四牡騤騤,載是常服。

玁狁孔熾,我是用急。

王于出征,以匡王國。


六月(りくげつ)棲棲(せいせい)たり,戎車(じゅうしゃ)(すで)(ととの)う。

四牡(しぼ)騤騤(きき)たり,()常服(じょうふく)()せる。

玁狁(けんいん)(はなは)(さかん)なり,(われ)(これ)(もち)(きゅう)なり。

(おう)(ここ)出征(しゅっせい)し,(もっ)王國(おうごく)(ただ)さしむ。


慌ただしき六月であるが,兵車は既に整えられた。

(六月は農繁期であるため、戦は望ましくないが止むを得ず兵を集めた)

四頭の雄々しい牡馬が車を引き,具足も整わぬまま徴兵された民を載せた。

北方の敵の趨勢は孔だ盛んであり,今や戦は差し迫っている。

王命を戴き兵を出し,以てこの国を正してみせよう。


詩經 小雅 南有嘉魚之什 六月

毛詩序:「《六月》,宣王北伐也。」より


神護景雲四年(西暦770年)八月朔日、日蝕が起こった。

新益都(あらましのみやこ)から平城京(ならのみやこ)への都遷りから六十年が過ぎ、時の帝は後継者を指名しないまま、死の床に臥せっていた。

律令が根ざし、豪族から氏族へと仕える者の意識は移りゆき、皇統の権威が高らかに謳われ、倭国から日の本の国へと国家の有り様が大きく移り変わる中、篤く仏教に帰依し、東大寺盧舎那仏を建造した聖武帝の御代に、倭朝廷はその版図をこの大八洲国の北へと大きく広げた。

上古から度々行われてきた毛野国への出兵は、とりもなおさず、その地に暮らす民から土地を奪い、隷属を強い、搾取する為の侵略行為に他ならなかったが、慈悲深き今上は父聖武帝の政策に倣い、隷属よりも融和をもって毛野国の令国化を進めることを良しとしてきた。

今、死の床にあって、帝は、師であり、かけがえのないただ一人の想う君でもある禅師ですら、傍らには置かなかった。

その枕辺には、帝が幼い頃から宮の内で共に過ごした一人の友が女官として侍っていた。

常人ならぬ長い時を変わらぬ姿で生きてきたその娘は、今は忠臣の娘として宮に身を置いていたが、その生まれは葛城が国であった頃に遡る。

旧き謂われある葛城国の首長の血を引き、葛城の国つ神をその身に封じる役公が代々名乗る、小角の名を受け継ぐ、葛城の民の唯一の生き残りだった。

日蝕から三日の後に、その友に看取られながら、今上はこの世を去った。


宝亀三年弥生丁巳(四月七日、西暦772年5月17日)

先年より、東山道(やまのみち)から東海道(うみつみち)の属州とされた武蔵国を経て、下野国から都に報せが届けられた。

下野薬師寺別当、道鏡禅師の病による卒去の報告だった。

朝廷はただ新任の別当を任じただけだった。

一介の看病禅師(かんびょうぜんじ)から大僧都、更に太政大臣禅師となり、終には法王の座にまで登り詰めた道鏡だが、称徳帝の崩御の後、下野薬師寺別当に任じられたのは事実上の位階の剥奪と配流(はいる)だった。

流石に僧籍は剥奪されなかったが、大赦が有ったわけでもなく、複位も贈位も無く道鏡は庶人として葬られた。

小角(おづぬ)は阿倍(称徳帝)の(しのびごと)が終わって、道鏡が平城の都(ならのみやこ)を追われた後、吉備大臣(きびのおとど)飯高命婦(いいだかのみょうぶ)に別れを告げて宮を去り、道鏡を追った。

もう狼児(ろうじ)の余命は幾ばくも残ってはいない。

狼児は私が育てたのだ。

日々共には過ごせなくてもせめて私だけは最期まで傍に居てやりたい。

自分を追ってきた小角を見て道鏡は正直に嬉しそうな顔を見せた。

小角は下野薬師寺の傍で暮らした。

道鏡が患い着いて、最期の数日は日毎に弱っていく道鏡の気を感じながら、嘗て少年だった道鏡と共に葛城山を駆けていた天狼(てんろう)の死の時を思った。

天狼は葛城の金剛山に住む神妙なる白狼、母刀自の仔だったが普通の狼と同じ様に年老いて死んでいった。

狼児も年老いて、死に向かっている。

阿倍(あべ)と狼児は、現世(うつしよ)を去って、二人で共に在れる場所へ逝くのだ。

だが私はまだ其処へ行くことはできない。

いや、果たしてそんな時が来るのかどうかすら定かではない。


道鏡の小さな墓には小角や里人の手で毎日何かが手向けられた。

小角は道鏡の死後も下野国を離れる気になれず、里に定期的にやって来る商人に薬草と葛布(くずふ)を購って独り暮らし続けた。

この辺りでは辰砂の地脈が感じられないのは痛かった。

辰砂は小角にとって主な収入源だが駿河国から東では殆ど鉱脈が感じられなかった。

地中深くに眠っているのかも知れないが地脈を乱すのは避けたい。

下野国に来てから、暮らしは何とか飢えずに遣っていける程度のぎりぎりの物で、小角は幾度か、宮に居た頃の命婦の装束や櫛、髪飾りを手放した。

その度に商人は眼を丸くして「何でこんなものを」と言ったが特に説明もしなかった。

物に思い入れを持たないし、何より暫くは都の事は考えたく無かった。

真備の事は気掛かりだったが、老いたりと言えどもそう簡単に朝廷で憂き目に合う男でもない。

この頃、下野国では多くの良民達が調(みつぎ)に耐えかねて陸奥国へと逃げ出していた。

天平神護元年(764年)に下野、上野、常陸、下総、三河、伊予、隠岐までを襲った大干魃の影響は8年を経てもまだ強く残っていた。

治安は悪く、民は飢え、人心は荒んでいた。

若い(おみなご)が独りで商人に品物を売った帰り道を複数の男達に追けられて囲まれ、懐の金品を狙われたのも珍しい出来事では無かった。

だがその娘が異形の姿に変化して、追い剥ぎを打ち懲らして国府の門柵に縛り付けて去ったとなると話しは野火のように広まった。

娘というのは小角だった。


勿論小角は事件の後、帰ったその足で住まいを人目につかない場所に移した。

折角手に入れた地機を置いて行くのは悔やまれたが母の形見の()は持っていった。

葛布を織る為の簸は特殊な形状のもので、織る者の少ない葛糸(くずいと)の為の簸は自分で造るしかない。

まして母のたった一つの形見だった。

薬師寺近くの森の中に結界を張り、粗末な庵を結んだ。

もう女姿は不味い。

小角は髪を結って筒袖に袴姿で出歩く事にした。

葛布を織れないとなると益々暮らしが立ち行かなくなる。

だが幸い此れから初夏へと向かう季節の事だ。

某か生活(たつき)の途は見付かるだろう。

都を遠く離れ、小角は少し気が緩んでいたのかも知れない。

その日、薬草を探しに出掛けて庵に帰ってきたとき、森から庵までの獣道に廻らせてある結界の弛みに、小角は気付かなかった。

庵まで後数歩というところで人ならぬ大きな影が動いた。

土色の肌と丹色の(いれずみ)が木陰に見え隠れした時、小角の頭の中で警鐘が鳴らされた。

どうして前鬼と後鬼が彼処に、と頭の中で閃いた次の瞬間だった。

「小角、気を付けろ」

頭の中に前鬼の意話(いわ)の声が流れ込んできた。

二人の土蜘蛛が小角に飛び掛かってきた。

違う、前鬼と後鬼ではない。

低く身を屈めて二人の土蜘蛛の腕を掻い潜り、庵に飛び込んだ。

狭い庵の戸の両側の薄暗がりに一人づつ人影が潜んでいた。

何が起こっているのか分からないまま、小角は掴み掛かってきた二人の男の二の腕を各々掴むと、踏み込んで来た力を利用して身を捻り庵の隅まで投げ打った。

すかさず前鬼と後鬼を召喚する為に懐に手を入れた。

二人とも大柄な若い男だったが、(あお)や筒袖とはまるで違う見馴れぬ装束で、顔の下半分を布で覆っている。

見えている眼が冷静な所を見ると行きずりの物盗りなどでは無いと思われた。

顔の下半分を覆っているのは顔を覚えられないためか。

懐から出した小角の掌から二匹の大蜘蛛が土間に舞い降り、その体から白い焔が噴き出した。

二人の若い男の内一人が懐から生糸で綯われた網の様な物を取り出した。

白い焔の中で蜘蛛の姿から変化しかけていた前鬼と後鬼の身体に、投げられた網が掛かった途端、その体躯は急激に収縮していった。

小角は自分の見ている光景が信じられなかった。

「前鬼!、後鬼!」

二人の気が急速に弱まっていくのを感じて小角は青ざめて名を呼んだ。

覆面の若い男二人の内、背の高い方が前鬼と後鬼に駆け寄ろうとした小角を背後から羽交い締めにした。

正面にもう一人が立った瞬間、捕らえられた腕を支点に下半身を浮かせ、男の鳩尾目掛けて両足を力任せに蹴り出した。

脚を地に降ろすと同時に間髪を入れず背後の男の鳩尾に肘を打ち込んだ。

背後と正面の敵が一度に体勢を崩した。

錫杖を葛城山の高宮に置いてきた事をこれ程後悔したことは無かった。

手元には使い馴れた短刀はおろか、錫杖すら無いのだ。

腕を振りほどく時、上衣の袖が破れた。

前鬼と後鬼の元へ駆け寄ろうとした足首を倒れた男に掴まれ、引き摺り倒された。

もう一人の男が小角の顔に、一掴みの灰か粉の様なものを投げ付けてきて小角は()せ込んだ。

しまった、これを自分達が吸い込まない為に面を覆っていたのか。

どう対処するか考える暇もなく、躰から力が抜けていくのが解った。

頭が朦朧として来て物音と気配は察し得ても判断力が効かない。

拉っせられる、と言う言葉が頭に浮かんだ。

何処へ?。

遠ざかる意識の中で「もっと大切に扱え。怪我をさせたらどうする」という声が聞こえた。

命を取る気では無いのだ。

前鬼と後鬼の気は希薄だがまだ残っている。

消滅したわけではないようだった。

だが小角はもうそれ以上意識を保てなかった。

切れ切れの意識の中で馬に乗せられていることが朧気に判った。

話し声が遠く、近く、途切れ途切れに聞こえたが何を話しているのかは判じられなかった。


再び意識を取り戻した時、小角は窓の無い広い曹司に寝かされて居た。

眼に映る梁に異国(とつくに)の物のような見馴れぬ彫刻が施され、天井の木目も美しい豪奢な造りだ。

自分が両手首を縛られ、猿轡を噛まされている事に気付いた。

呪を唱えたり印を結ばせないためだろう。

私がそういう力を持っていることを知ってのことか。

脚を戒められていないのは、まだ意識が戻らないと思われているのか、或いは別の手段で逃げられぬよう謀ってあるものか。

どのくらいの刻を眠らされていたのか分からないため、何処まで連れてこられたのか予測もつかない。

若い男二人と争った時着ていた上衣は破れたか裂けたかした覚えがあるが、今は素肌の上に見たことの無い紋様の錦織の変わった仕立ての長衣を着せられていた。

髪も解けかけていた筈だが今は結われているようだ。

誰が着せたのだ。

自分の意識の無い間に、誰かがこの躰に触ったと思うと身の毛が弥立つほどの嫌悪感を感じた。

誰かが曹司に入ってくる気配がした。

「目が醒めたようだな」と掛けられたのは低い柔らかな声だった。

起き上がろうとして小角は自分の躰が思うように動かない事に気付いた。

己は何か柔らかい物の上に寝かされているようだった。

「眠り香の効果はまだ切れぬ。意識だけは戻ってもまだ動けまい」

やがて視界に入ってきたのは、見たこともない異形の若い男だった。

抜けるように白い肌、銀色の長い髪。

猛禽類を思わせる金色の瞳が、息を飲むほど端正に整った顔立ちの中で一際眼を引いた。

凡そ色素というものが稀薄な姿だった。

しかし、姿の見なれ無さを遥かに凌駕して小角を驚かせたのは、その身に纏う眩いばかりの神気だった。

何者なのだ。

まるで父や母刀自の様だ。

誰何したくても猿轡の為だけでなく口も思うように動かない事に気付いた。

「手荒な事をして済まぬな。命を取ったりはせぬ。吾は毛野(けぬ)悪路王(あくろおう)という者だ」

穏やかな口調だった。

毛野(けぬ)と名乗るからには此処は陸奥か、出羽か。

見るからにまだ若く、畿内では見たことのない手の込んだ織物の長衣を纏った姿は、名前とは裏腹に、美しい華奢な男君だ。

平城(なら)の都の宮にいた頃、唐商船で訪れた西域の異国人で髪や肌の色が薄い人々を見たことがあったが、あのようにごつごつと骨張った姿ではない。

悪路王と名乗った若者は値踏みするように小角を眺め、やがて口の中で呟いた。

「成る程大した神気だ」

更に近付いて、小角の顔に細く白い指を持つ手を伸ばしてきた。

両手は縛られていたが、小角の孔雀明王呪は印も呪も無く使える。

人に向かって使ったことは一度も無いが、この男の神気を考えると果たして()れだけ効果が有るものか。

自分が拉っせられた手並みの用意周到さを考えるとあまり期待は出来そうにない。

いずれにしても躰が動かないのでは、その後逃げる事も叶うまいが。

眠り香とか言ったが、鬼見草(ハシリドコロ)や麻の葉なら小角も薬として使うものの、これほどの効験はない。

外にも何かの薬草が使われているものか。

早く解毒するためには内気を巡らすのが一番だ。

悪路王と名乗った青年は(おみな)の様な細く繊細な指先で小角の顎を捉え、小角の顔の角度を変えながら見入っていた。

不躾ではないが遠慮の無いその金色の視線が、抵抗を奪う用意が為されていると思わせられた。

睨み返しながら小角は急いで内気を巡らせ始めた。

「抗わなければ乱暴にはしない。逃げても無駄だ。城の中にも外にも武装した者が多くいる」

忠告とも警告ともつかぬ事を述べながら、探るように眼を覗き込まれた。

何をされるのか始めは解らなかった。

「脅えも怯みも無い良い目だ。お前には吾の()になってもらう」

その言葉に眉をしかめた小角を見ても悪路王は氷のような無表情を変えなかった。

「妻として留まるのが疎ましければ、健やかな子を挙げろ。その後なら解放しよう。望みのものが有れば与えてやろう」

細やかな白い指が着せられている長衣の首元を止めている短い掛け紐を順に解き始めた。

陵辱されると初めて気づいて青ざめ身を堅くした。

恵美押勝(えみのおしかつ)平城宮(ならのみや)で襲われかけた事があったが、あの時は躰の自由を奪われていた訳ではないし、結局、狼児が助けに来てくれた。

だが今は。

これ程己の孤独を身に沁みて感じたのは初めてだった。

身動きもとれず、声も上げられず、友と呼べるものも誰も居ず、どんな時も身近に居た前鬼と後鬼すらも、どこでどのような眼に遭わされているのか判らない。

しかもこの屈辱的な状況にあって、自分で自分の命を絶つことすら出来ない。

小角は無駄と知っても声にならない叫びを上げていた。

止めろ!。私に触るな。


娘の顔が絶望的になったのを見て、悪路王の優雅な眉が微かに潜められた。

其れでも長衣の掛け紐を外す指は止めなかった。

縛った腕が通る袖は其のままに衣の中の華奢な躰を(あらわ)にした。

見目の良い男童子のようにも見えたが確かに娘だ。

娘らしいとは到底言えぬ、贅肉の無い骨張った痩せた躰は荒行によるものか鋼の様に鍛えられ、眩い神気が溢れている。

肋骨の数えられそうな薄い胸に指を這わせてみるとみるみる娘の肌が寒気立って行く。

身体の感覚が戻りつつあるのだろう。

今の内か。

完全に醒めると厄介だ。

悪路王は、果たして自分が嫌がる娘を抱く気になれるものかと危ぶんでいたが、その神気溢れる躰は充分欲望をそそるものだった。

香の効き目で身動きが封じられている以上、暴れ様も無いが抗う表情が寧ろ扇情的だ。

己の内にそういった何処か歪んだ征服欲のようなものが存在しているとは思ってもみなかったが確かに昂ってくる。

娘は固く眼を閉じて、躰を這い廻る手が与える不快感と怒りと屈辱に耐えているようだったが、悪路王が躰に入ろうとした時、息が悲鳴を上げ、痛みに顔を歪めたのがわかった。


小角は下腹の臓腑を割り拓かれるような痛みと屈辱に耐えながら内気を巡らせ続けていた。

ゆっくりとだが手足の感覚は戻って来ている。

購わせてやる。

必ずだ。

私をこんな目に会わせた事を後悔させてやる。

敷物を握り締められる程に手に力が戻ってきた事を感じながら、小角はこの悪路王と名乗った男に心の内で呪いの言葉を吐き続けた。

こんな形で広げられたことの無い両脚の間に男の躯が在る違和感を感じると同時に、押し広げられた股間にも躰の奥にも鋭い痛みを覚え始めた。

悪路王の動きと息遣いが速くなるのを感じながら、頭の何処か別の冷静な処で、痛みは憎しみに変わるのだと曾て真備が言った言葉が(よぎ)った。

気取られない様、ゆっくりと足先を動かしてみた。

あと少しでどうにか立てそうだ。


小角の中で精を吐いて、息を整え、長衣を直しながら、床に赤く散った染みを見て、悪路王は今度ははっきりと眉を潜めた。

未通女(おとめ)だったか」

小さく口の中で呟いた声が小角を逆上させた。

こんな真似をしておいてそれが何だと言うのだ。

小角は、込み上げる怒りに任せて、感覚を取り戻した両足に渾身の力を込め、悪路王を蹴り跳ばした。

驚愕の表情を浮かべた悪路王は、しかし避けも防ぎもせず、壁際まで跳ばされた。

壁に強かに頭を打ち付けたらしく、力なく首がうなだれた。

小角は慎重に躰を起こし、立ち上がってみた。

毛皮の敷物の上に衾を敷いて寝かされていたのだった。

曹司の片隅には帳のある寝台が置かれ、文台や厨子、水差しや盥などが置かれている。

この男君の私室であるものか。

縛られたままの手で猿轡を外した。

歯を使って両手の戒めを解こうと口を寄せて、術が掛けてあることに気付いた。

着衣は無様に着崩れて身にまとわりついていた。

両手はそのままに出来るだけ身仕舞いを直した。

逃げようにも前鬼と後鬼の居場所が判らない。

眠り香とやらで眠らされている間も前鬼と後鬼の気が近くにある事は感じていた。

一緒に連れ去られているはずだが、今は気配すら感じられない。

どこかに封じられているのだろう。

置いていくわけにはいかない。

股間の奥に、躰の一部が引き千切られた様な痛みを感じながら、小角は忌々しげに悪路王と名乗った若者を見やった。

今ならこの男を殺せるかもしれない。

だが、そうしたら前鬼と後鬼の居場所は分からずじまいということになる。

どうするか。


微かに呻いて覚醒した悪路王は、二三回、小さく頸を振り、贅沢な寝床の横で脚を踏み締めて無言のまま自分を睨めつけて立つ娘を見た。

手負いの獣のような眼だ。

さぞかし吾が憎いだろう。

これほど早く香の効果から脱するとは予測できなかった。

だが、安易に逃げ出さない辺りは中々賢い様だ。

ゆっくりと立ち上がり、警戒を煽らぬよう歩み寄った。

暴れられては警護の土蜘蛛に殺させる事になりかねない。

これほど神気高い娘を殺すのは忍びない。

「逃げなかったのか」

悪路王の問いに、娘は眼に怒りをみなぎらせたまま、冷ややかな口調で言い放った。

「前鬼と後鬼はどこに居る」

「お前の土蜘蛛の事か。呪具の中だ。この地は吾の結界の裡だ。違う(ことわり)を持つあれ達はすぐに衰弱して滅してしまうだろうからな」

答えながら悪路王はこの娘が己の土蜘蛛を案じている事を悟った。

神守(みかみもり)なればさもあろう。

この神気高い娘を信じていいかもしれない。

倭人(やまとびと)と言えども話しが通じるかも知れぬ。

「其処に居れば安全なのだな?」

念を押すように言った言葉は、裏を返せば今すぐ事を構える気では無いという娘の考えを語っていた。

「ああ。永久にとは往かぬがな」

腹を割れば、同じ神守(みかみもり)として解り合う事が出来るのではあるまいか。

悪路王は更に歩み寄り、娘の戒められた両手を取った。

瞬間、娘の全身が緊張したのが判った。

「術を解くだけだ。それ以外の事はしない」

娘の顔に一瞥を投げ、戒めの術を解きながら穏やかに言った。


小角は悪路王の金色の怜悧な眼差しと穏やかな低い声に、先程の己の激しい憤りが急速に鎮まっていくのを感じた。

懐柔するつもりだろうか。

これも何かの術か?。

小角は警戒を解かずに問うた。

「何故私を攫った?」

小角が不意に発した問に、絹糸で綯われた呪具を解く手は休めないまま、再び悪路王の金色の眼差しが小角の視線と交錯した。

「先程言ったな?。妻になれ、子を挙げろ、と」

小角は固い表情のままだったが悪路王の真意を測りかねていた。

有無を言わさぬつもりか。

しかし子を挙げろとは。

「何故私なのだ」

呪具を解いた悪路王は小角の前に一見無防備に立っていた。

小角より頭半分程背が高いが青年としては小柄と言えるだろう。

薬の効験が切れたためか、距離が近いとお互いの神気が混ざり合うように立ち込めるのが判る。

「お前、神守であろう」

聞き慣れない言葉だが低い穏やかな声が耳に心地よい。

「神守?」

「その身に土着の神を封じているであろう。土蜘蛛使いであることが何よりの証だ。吾も神守だ。吾はこの身に毛野の一族の国つ神を封じる者だ」

小角の眉が潜められた。

やはりこの者も役公か。

他の国つ神の守り手に会うのは初めてだ。

「私が神守だったら何だと言うのだ」

「新しい血が欲しいのだ。吾々毛野一族の血は濃くなり過ぎてしまった」

悪路王の目は真剣その物だった。

「神守の力を失わぬために、長の血筋をより濃く残そうとして、血族内での婚姻を繰り返した結果、生まれる子は皆、躰に障りが出たり、気触れだったり、そうでなければ長くは生きられぬ」

無表情だったその唇に一瞬微かに自嘲の笑みが浮かんだ。

「吾のこの髪と瞳はその現れよ。吾は運の良いことにこの程度で済んだがな」

小角は愕然と悟った。

婆は、父は、それをこそ畏れた故に葛城一族の戒めを捨て、賀茂の里の母を迎え、一族の存続を諦めたのだ。

「此のままでは吾も健やかな後継ぎは得られまい。新しい血が必要なのだ。それも神守の力を持つ血が。お前達倭人が北へ攻め寄せてくる限り、部の民(べのたみ)の為にこの血を絶やすわけにはいかない」

悲痛な声だった。

その声音には謀略も偽りも潜んでいなかった。

一族のお役目を守るためだったのか。

小角の憤りは(しぼ)んでしまった。

同じ様に衰退の兆しを見、滅びの途を辿った一族として、この男君の心情は察して余りある。

しかし。

「私の一族も朝廷に滅ぼされた故にお前達の一族を気の毒だとは思う。だが、生憎私は子を生せぬのだ」

小角はお役を譲り受ける時の父の辛そうな顔を思い出した。

「私の一族では役公(えだちのきみ)と呼んでいたが、このお役を受けた躰は時が止まる。お前達のお役もそうなのではないか?。訳あって若輩者の私がお役を受けた時、私はまだ月の障りが始まる前だった。だから」

言い澱んだ小角の表情に、悪路王の目が見張られた。

子を成せぬ、と?。

「何と、そのようなことであったか」

阿弖流為(アテルイ)母禮(モレイ)もまさかそこまでは考えていなかっただろうし、自分も思ってもみなかった。

だがしかし。

それでは何とこの娘に罪なことを強いてしまったのだ!。

悪路王は茫然と立ち尽くしていた。


小角には自分の言葉が悪路王に与えた衝撃が我が事の様に感じられた。

「私は葛城の小角と呼ばれている」

小角は悪路王の眼を初めて正面から受け止めた。

「小角。済まなかった。詫びてどうなるわけでもあるまいが、どうしたら償える?」

悪路王の表情が大きく歪んだ。

小角は一時眼を瞑った。

躰の痛みも憤りも屈辱も、確かにまだ残っている。

だが。

―小角よ、真実だの正義だのと皆が各々口にするがな、真実だの正義だのと言うものはな、人の数だけ在るものよ。―

玄昉(げんぼう)の皮肉な笑みが頭に浮かんだ。

この地が幾度と無く朝廷軍によって蹂躙されて来たことは宮に居た小角もよく知っていた。

「私の一族は、永く倭人と共存してきたが、役公だった父が朝廷に討たれて離散の途を選んだ」

小角は悪路王の金色の瞳を見た。

「私は離散していく部の民に禍が及ばぬよう見守る為に父からお役を譲られた」

悪路王は痛ましい表情で黙したまま静かに聞いていた。

「だからこの地の民と国つ神の守り手がどんな目に合ってきたかおおよそ想像出来る。活路を切り拓きたい気持ちも理解出来る。私がお前を憎んでも何も始まるまい」

小角は憤りの行き処は無くても良いのか、今一度、自分に問うた。

そして答えた。

「忘れよう。前鬼と後鬼を還してくれれば私はこの地を黙って出て行く」

悪路王が初めてその美しい顔に狼狽を浮かべた。

「そんなわけには往かない。それでは益々お前に申し訳無い。なんと詫びたら良いものか」

悪路王は繊細な指先で口許を覆い、暫く考えていたがやがて小角に眼を向けた。

「遠く離れたこの地まで有無を言わせず連れてきてしまったのだ。せめて稀人(まれびと)として気の向くだけ留まってくれ。歓待しよう」

悪路王は真っ直ぐに小角の顔を見た。

「吾の(いみな)は、玻璃(はり)という」

小角は耳を疑った。

諱を私に?。

国つ神の守り手が諱を明かすとは。

小角は悪路王の眼を見返した。

「承知した。招きを受けよう。」

錦織

地色の糸と違う色の糸で紋様を織り出す布の織り方。

奈良時代の日本では縱横に色の違う糸を使い、織り方で紋様を織り出す綾織りが主流だった。

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