<5・エスケープ>
ガスで死ぬ、と一言で言ってもその最期は千差万別なのだろう。ポッドに閉じ込められた少年少女に浴びせられたものが、本当に毒ガスの類なのかも僕にはよくわからない。
ただ、その狭い空間の中、地獄絵図が繰り広げられていることだけは確かだ。
ポッドに打ち付けられる手、手、手。あまりの苦しさに力の加減ができる状態でもないのか、打ち付けるその手は爪が剥がれ、肉が削げ、骨さえも飛び出す始末である。それでも僕の見える位置にあるポッドの中、少女は折れた骨が露出する手を内側に打ち付けながら、時折喉を掻き毟って呻いている。ガスによる苦痛が、骨折の痛みさえも上回り麻痺させているということなのだろう。
だらだらと血を眼球から、耳から、鼻から垂れ流しながら。彼女は歯を剥きだして血泡を噴き、やがてびくびくと痙攣しながら崩れ落ちた。僕はガタガタと震えながら自分の口元を抑えて、恐怖を噛み殺す他ない。悲鳴を上げ、見つかったら終わりだと思っていた。それこそ、兄と話していた見込みが甘かったのは一目瞭然である。
見つかったら、道に迷ったなんて誤魔化しなどきかない。
本来いるはずがないのに紛れ込んだ僕も、警察に引き渡されるなんて生易しい結果は待っていないのだろう。
僕達は、殺される――間違いなく。
絶対に見てはいけないものを、たった今見てしまったのだから。
――なんで、なんでなんでなんでなんで!?
思い出すのは、学校の社会科の勉強でちらりとやった話。戦時中に某国の者達が、特定人種の人々を差別してガス室送りにして殺したという例の話だ。小学校の社会科の授業でやる程度の話では、ガスで殺したという一文があるのが精々でそれがどれほど恐ろしいものであったなんて詳細は何処にも出てこない。だから、一瞬で死ねるのだろうか、それとも多少苦しむのだろうか、なんてぼんやり考えていた程度だった。
そう、それが。こんなにも苦しく、おぞましい死に方であるなんて一体どうして想像ができるだろう。勿論あの国で使われたガスと、今使われたガスが同じものであるはずはないのだが――。
――ポッド研修って、中学生を教育するためのものだって!ポッドの中に入って、バーチャル空間で正しい倫理を学ぶものだって、そういう話じゃなかったのか!?なんで、なんでポッドに閉じ込められて、みんな殺されていってるの……!?
話がおかしい、なんてものではない。
このような残酷で非人道的なことを何故政府は許す?そもそも、自分達の国の未来ある若者を無差別に殺害することに一体何の意味があるというのか。
「生体反応全て消失しました。ガス排出しますー」
まるでFAXが届きました、くらいの事務的な口調で職員が言うのが聞こえる。プシュー、という空気が抜けるような音がして、それぞれのタマゴ型カプセルのロックが外れていった。先ほどまでとは逆の手順で、職員達が次々外側からポッドの蓋を開けていく。
中に閉じ込められた者達にとっては、待ち望んだはずの脱出の時。しかし数分ぶりに外気に晒されても、身動きする者は一人もいなかった。全員がぴくりとも動かず、ポッドの中に身を横たわらせるのみである。
ぐるんとひっくり返り、血走った目。だらんと舌を垂らし、歯茎からも鮮血を溢れさせる口元。吐き散らかした血でどろどろに汚れたポッド――誰も彼も、既に息がないことは明白だった。
「安全確認完了。じゃあ、交代役入れていいですか?」
「おう、手早くな」
「はーい」
死屍累々の地獄を見ても、職員達は眉一つ動かさず作業を続けている。奥のドアが開き、何人もの足音が響き渡った。今度はなんだ、と思った僕は。
「――っ!!」
「しっ、裕太!声を出すな!」
「――――!!」
兄がとっさに口を抑えてくれなければ、僕は絶叫していたかもしれない。裕介も裕介で、恐ろしくてたまらなかったはずだというのに。
入ってきたのは、新しい職員だとばかり思っていた。
違ったのだ。入って来たのはサイズだけは人間大の――灰色の化け物。だが、よく漫画などで見るようないわゆる“グレイマン”の類ではない。異星人と言われて多くの人々がとっさに連想するような姿かたちとは明らかに異なっていた。
あれを、化け物以外のなんと呼べばいいのだろう。
全身を、びっしりと虫のようなものが覆い尽くし、蠢いている。その隙間から触手のように伸びているものの先端は、よく見ると五本、六本くらいに小さく枝分かれしているようだった。
あれは腕だ。大量の蟲の集団の中から、数十本もの細い腕を生やした謎の生命体。
下半身だけは何故か人間の足に近いものを生やしているそれが、うぞうぞと奥のドアから入場してくるのである。職員達は彼らに嫌悪感を示すこともなく、一体ずつをポッドの傍に案内した。
――な、何をする気なの?
よくよく考えれば、ポッド研修は表向き“青少年を教育するシステムである”という名目で実施されているのである。研修者が殺してしまうなら、その大量の死を世間にどう誤魔化すというのか。
答えは、すぐにはっきりした。化け物達がポッドの傍に立つと、彼らはその細長い腕を数本遺体に伸ばし始めたのである。遺体に触れた化け物達が、次から次へと青白く光始めた。そして、次の瞬間。
「う、そ……」
遺体に触れた怪物が――怪物ではなくなっていた。触れた遺体とそっくり同じ、“人間”の姿に変化していたのだ。僕らが一番近くで見ていたポッドも同じ。蟲だらけの化け物は、無残にガスで死んでいる少女と全く同じ姿の女の子に変わっていたのである。全てのポッドの傍に立った化け物が変化を終えると、“元・化け物”の少年の一人が声を出した。人間と、全く変わらないように聞こえる声色で。
「全員変化終わりました。遺体の片付け、お願いしまーす」
「了解でーす」
人間に変化した元・化け物達は、さっきとは別のドアから退場していった。そこは、今ポッドで死んでいる中学生達が入ってきたのと同じドアである。
「片付け急げよ、ポッドに少しでも血や排泄物が残っていたらダメだからな。消臭剤も忘れないようになー」
リーダーらしき人物の指示で、職員達はビニール手袋をはめててきぱきと作業を開始した。ポッドの中から乱暴に遺体を引きずり出し、カートの上にゴミのように山積みにしていく。
「きちんと全員運べよ、男は1-A、女は1-Bだ間違えるな。おエライ方の貴重な食料だからな」
「いいよなあ、偉い人たち。人肉食えるんだから。ていうかガス吸った遺体なんか食べて大丈夫なんですか?」
「きちんと毒抜きすれば問題ないらしい。肺は毒まみれになってるから食べられないけど、それ以外の部分はきちんと毒抜きして火を通せば全然食えるんだと。貴族の方の高級食材として人気があるらしい。地球人は脂肪が多くて上手いからな。惑星国家グラシスタとかにも超高値で売れるんだそうだ」
「羨ましい!」
職員達がひとしきり部屋から出て行った後。僕は全身から力が抜けて――ずるずるとその場に座り込んでしまっていた。
「……なに、これ」
信じられない。信じたくない。このような恐ろしいことが、現実であっていいものか。
「なんだよ、これぇ……!」
ポッド研修。政府が言っていた名目はデタラメだった。それは中学生の少年少女達を効率的に殺し、食肉にするための恐ろしい悪法であったのだ。
しかも、少年少女達が殺されていくことに誰も気づかない。変身能力を持つ怪物達が、彼らに化けて何食わぬ顔で家に帰るせいで。
――ポッド研修を受けると、異星人に洗脳を受けて人格を変えられてしまうって思ってた。ブログの人もきっとそう考えてたんだろう。違った。現実は、もっともっと恐ろしいものだった……!
洗脳の方が、どれだけマシだったか。殺されて、全く赤の他人(どころか、化け物)と入れ替わっているなんて現実に比べるならば。
「……やべえ……!」
やがて、はっとしたように裕介が声を出した。
「く、クラスのみんなに知らせないと。このままじゃみんな、一組の奴らと同じように殺される!」
「!」
恐怖に青ざめ、震えながらも。正義感の強い兄は、兄だった。この真実を知って、自分だけ逃げ出すなんてことはできなかたのだろう。走り出そうとする兄の腕を、慌てて僕は引っ張る。
「に、兄ちゃん待って!冷静になって。気持ちはわかるけど、みんなにこんな話教えて信じて貰えるの!?」
いつもの冷静で聡明な兄とは打って変わって、完全に平静さを欠いている。それを見て、僕は少しだけ落ち着きを取り戻していた。裕介の立場なら、クラスの友人達を見捨てられないのは至極当然のことだ。僕だって、クラスの友達が殺されそうになっているとなったら、何もせずに黙っていることなどきっとできないだろう。
だが、実際問題僕達に何ができるのか、というのは話が別なのだ。
異星人らしき連中が、人間に化けて本当に政府を牛耳っているとしたら。それは荒唐無稽さえも飛び越えた、とんでもない話だ。普通の人間は“SFの読みすぎだ”と鼻で笑うことだろう。
そして信じて貰えたならば、今度は大パニックになるのは必死。そうすれば――それこそポッドの中の少年少女達に浴びせられたガスを、一気に全員に向けて噴射させて皆殺し、なんてことになるのかもしれない。いずれにせよ、パニックの中で一体何人が生き残ることができるのか。ガスで死ぬ前に事故で死ぬ者も出そうである。
そして、最大の問題は。
「多分、きっと施設の“大人”は殆どがあの怪物が変身したもんなんだよ!?僕達にどうにかできるの!?」
『もう勘弁してください、見てくださいよこの顔!あのヤンキー連中に殴られたんですよ。私はただの運転手なんですからああいう団体を相手にする役目を押し付けるのはやめてください……!』
『なるほど、お前はこの仕事に不満があると。クビでいいということか?』
『く、クビ!?』
『別に我々はそれで構わないぞ。それならお前もお前の家族も免除されていたものを受けてもらうだけだ。ポッドにはまだ余裕があるしな』
『か、勘弁してください!それだけは……!』
バスの運転手と、職員が話していた会話の内容がようやくはっきりとわかった。
彼は人間で、だからこそ脅されていたのだ。もし自分達に逆らうなら、クビ――用無しと判断して、お前達も全員ポッドにぶちこんでガスで殺してやるぞと。洗脳されるよりもっと恐ろしい理由で、脅迫されていたのだ彼は!
――そうだ、そもそもポッド研修って始まって何十年過ぎた!?これが今までずっと、誰にも気づかれず続けられてきたんだとしたら。ヤンキーとか病気とかで研修をサボった人や休んだ人を除くと全員……!
この施設だけではない。
高校生以上の人たちの殆どが、地球人の顔をした恐ろしい怪物のなりすましということになってしまうのでは――。
「わ、わかってっけど!でも、このままじゃ大地も慶一もみんな……!」
裕介が動揺した目でそう返してきた、まさにその時だ。
「おい、そこのお前達!何をしている!!」
「!!」
鋭い声が響いた。ぎょっとして見れば――部屋の中から、こちらを睨みつけている職員と目が合う。いつ戻ってきたのだろう、まったく気づいていなかった。
「に、逃げろ――!」
選択肢など、もはやなかった。
僕と兄は、そのまま転がるようにして逃げ出すしか、術がなかったのである。