4.襲撃
美鈴が“不審者”を見たのは、彩希を連れて綺道のマンションに向うために待ち合わせた際だった。
「彩希ちゃんと電話で話してから、彩希ちゃんの下宿に迎えに行ったの。
そしたら、アパートの向かいに車が停まってて、中の男の人が見張ってる感じだった。
目つきが悪くて嫌な感じがしたよ」
「車のナンバーは?」綺道は尋ねた。
「…覚えてない。黒くて四角い大きめの車だった」
「何人乗ってた?」
「分かんない。窓も黒くて…」
「二人でアパートを出るときにもいた?」
「いなかった。彩希ちゃんの部屋でタクシー呼んで下に降りたら…」美鈴は首をかしげた。
「何か特徴を思い出せないかな?」
「うーん。ガラの悪い感じがしたかなー」
「なるほど」と綺道は頷いたが、情報の少なさと曖昧さに閉口していた。
「伯父さん?」
「ん?」
「あの暗号、どういう意味だと思う?」
死の陰の谷を歩む者よ
獣の数字を解くがよい
数字は赤き獣を指している
その数字は六四八である
「スズちゃんはどう思う?」
綺道は聞き返した。
「スマホで検索しただけだけど、聖書の言葉よね?
“死の陰の谷を歩む”っていうのは、死ぬほど辛い試練を受けるということ。
獣の数字、って聖書に書いてるのは六六六でしょ?
六六六が“皇帝ネロを指してる”とか“本当の数字は六一六だった”とか…検索すると色んな考察が出てくる。
でも、結局は“悪魔の数字”なんでしょ?六六六って…
じゃあ、赤い獣の六四八は、別の悪魔を指してるとか?」
「あれこれ考えると気味が悪い」と美鈴は言い、彩希も身震いした。
「もともとの聖書の言葉と、数字以外にも所々変えてるし、引用場所も違うみたいだから、そこに意味があるんだろう」
「やっぱりアンチキリスト。悪魔崇拝でしょうか?」と彩希が怯えた。
「いや、お嬢さんたち」
綺道は笑顔になった。
「呪いだ何だと考えない方がいいよ。
まったく、この世の面倒事のほとんどは人間の仕業なんだから」
そう言うと、彼は席を立った。
「ちょっと外を見てくるよ」
「なんで?」
「さっき彩希ちゃんが言ってた黒い車が来てるかもしれない」
念のため服を着替え、買い物袋を下げると綺道は腰を曲げ、わざとヨタヨタした足どりで外に出た。
はっきり監視車両とまで言えないが、それらしい車がマンションの近くに駐車していた。
黒のハイエース。スモークフィルムを貼ったウィンドウも黒い。ホイールが目立つ大きなタイヤを履いていた。
全体的に威圧感のある外観だ。
運転席に、首から背中と肩にかけて筋肉ががっしり発達した男が一人。
髪を短く刈り込み、カーキ色のTシャツを着ている。首もとに複雑な模様の黒い入れ墨が覗いていた。
スモークフィルムに視界を遮られ、サスペンションの沈みも無く、後部座席に何人乗っているのか判断つかなかった。
綺道は車のナンバーを記憶すると、歩きながら後輩の何人かに次々と電話をかけた。
そして、最初に応答した相手に車の所有者情報について調べるよう頼んだ。
綺道は年老いた歩き方のまま、近くのドラッグストアに赴き、レトルト食品や調味料、園芸用具を買って帰った。
「例の“暗号”との関係は分からんけど、普段見ないハイエースが近くにいるね。乗ってるヤツも“反社”の匂いがする」
彩希と美鈴が怯えるのは分かっていたが、綺道は黒いハイエースの件をそのまま伝えた。
「あの車の素性がまだ分からないし、ここにいたらいいよ」と綺道は勧め、美鈴も説得したが、彩希は実家に帰ると言い張る。
娘ふたりが多少の押し問答をした末、彩希が実家に連絡を取り、彼女の父親が車で迎えに来ることになった。
しっかり親に打ち明け、相談するというなら、綺道にも異存はなかった。
「追尾されたら、“切り”は俺がやるよ」と綺道は美鈴に囁いた。
綺道は普段、カワサキのオートバイ、Gpz四〇〇FⅡに乗っているが、その他に荷物を運べるよう軽トラックを一台持っている。
これで後続し、安全確認をするつもりだった。
三時間後、彩希の父親がそろそろ到着するという連絡があり、綺道はまた周囲を歩いて見回ったが、黒いハイエースはなかった。
もう午後七時を回り、日は沈んだ。
駐車場で落ち合うと、彩希の父親はまだ四十代前半の若々しい男だった。
アンティーク家具やワインなどを輸入する会社を経営しているという。
彩希とは対象的に健康的に日焼けしており、押し出しの強さが一つ一つの言動に表れている。
娘の心配事を「考えすぎだよ」と笑い飛ばし、
「何かあっても、パパがいるから大丈夫」と自信満々に言って、早く車に乗るように彼女を急かした。
美鈴に対しては気さくな態度を見せたが、綺道には警戒心を隠さなかった。
「途中までついていきたい」という申し出に迷惑そうな顔をした。
彼が乗ってきたのは、よく手入れされたレクサスのスポーツタイプだった。
「それで…追っかけてくるんですか?」と言うと、綺道の古ぼけた軽トラックを胡散臭そうに一瞥し、
「やれやれ。
お邪魔してホントに申し訳ありませんでした。
お気持ちだけで結構ですよ」と頭を掻きながら背を向けた。
多分、彩希の父親は、真っ先に父親である自分への相談がなかったことに苛立っているのだろう。
そこが不信感に繋がっている可能性が高い。
妄想を吹き込んだと曲解している可能性すらある。
綺道は冷静に考えつつ、「まあまあ」と柔和に話しかけた。
こういうときは、へりくだり、低姿勢から粘り強く語りかけるしかない。
綺道は、娘ふたりから離れた。
そこを襲撃された。