1.視線
美鈴の友人で、芸術学部で絵画を専攻する彩希は、刺激的な写真やイラストを探すためにダークウェブに入り込み、違法な画像を売買するサイトを頻繁に閲覧していた。そんな中、悪魔崇拝の絵画を通じて謎のメッセージを受け取ったことから、彩希は身辺に異変を感じ、危険を予感するようになった。
「お兄ちゃん、美鈴をよろしくね」と妹の沙奈子は気楽に言う。
沙奈子の娘。つまり姪っ子の美鈴が綺道のマンションに居候をしたいと言い出したらしい。
美鈴は、進路が定まらないままに卒業を迎える。そこで一念発起、司法試験を受けて、弁護士になることに決めた。
というのだが…
「あのな…。まず予備試験に合格しないと司法試験は受験できないんだ。ロースクールに入るって選択肢は考えたのか?
どっちにしたって日本一難しい国家試験だ。勉強が大変だぞ?」
綺道は現実味を疑った。
「みたいね。でも、あたしに言われても…。あの子に言ってよ」
「何で俺が?」
「予備校が新宿で。だから、家から通うと遠いの。ストーカーの件があって、前のアパートは引き払っちゃったし…」
確かに、美鈴はストーカーの盗撮被害に遭い、その件は綺道が解決したものの、同じアパートにはもう住みたくないと言っていた。
「それに、お兄ちゃんの家なら広いじゃん?」
沙奈子はからかうような口調になった。
綺道はむっつり黙った。都心の一人暮らしにしては、3LDKの間取りで、そこそこ広いのには理由がある。
離婚するまでは、妻と娘が一緒に暮らしていた。
「たまに絵麻が泊まる」と綺道は言った。絵麻は彼の一人娘だ。大手の新聞社で政治部記者をしており、三十一歳になる。
「でも、もう鬼ヨメは来ないでしょ?」と沙奈子は畳みかけた。
別れた妻の名は、鬼塚絵美。検察官だ。
検察官の職務を表す秋霜烈日にふさわしい厳格な性格から、沙奈子は陰で兄嫁を“鬼ヨメ”と呼んでいた。
「いい加減に…
綺道が声を荒げたその時、玄関のチャイムが鳴った。
「ちょっと待ってくれ。誰か来た。どっちにしてもダメだからな」と綺道が電話を切ろうとすると、
「美鈴じゃない?なんか相談あるって言ってたし…」と先に切られた。
一階のインターホン・モニターを覗くと、確かに美鈴だ。
しかも、連れがいる。同じ年ごろの娘だ。
綺道は大きく深呼吸をして、不機嫌な表情を消し去ると、
「やあ、スズちゃんいらっしゃい」と声をかけて解錠ボタンを押した。
姪っ子はキャリーケースをガラガラと引っ張り、その後からついてきた友人を紹介した。
「高校の友だちの彩希ちゃん。伯父さんに相談があるの」
綺道は彩希に笑顔で挨拶すると、美鈴を隅に引っ張った。「ちょっと、俺のことなんて言ったの?」
「えー、元神奈川県警の刑事で、頼りになるよ。って、それだけ」
美鈴はあっけらかんと答えた。
「前職のことは話したくないって言ったじゃん」と綺道は真顔になった。
「ごめん。もう言わない。でも、彩希ちゃんが、本当に大変で、本当に困ってるのよ?お願い!」
美鈴はパチンと手を合わせた。
彩希は青白く神経質な顔立ちで、アゴの線に意思の強さも表れていた。
美鈴のような華やかさはないものの、繊細な美しさがあった。
ショートヘアーをピンクアッシュに染めているが、化粧は薄く爪も伸ばしていない。
子どもの頃から絵を描き、いまはN大学芸術学部で絵画を専攻していると聞いて、腑に落ちた。
美鈴と同い年だが、美大受験を二回浪人したため、まだ二回生だということを後で知った。
綺道は二人をリビングに招き入れた。
「どうしたの?」
綺道は温かいコーヒーを入れ、数日前に娘の絵麻がお土産に置いていった洋菓子を添えた。
「信じてもらえないかもしれませんが…」
彩希は話し始めた。
「…誰か分からない。でも誰かにつけられてる気がするんです。いつも見られてる気がするんです」
「同じ顔を見るの?」
「いえ。でも、視線というか存在を感じるんです」
「なるほど。“見られてる気配”って感じかな?」
「そうです」
綺道は咳払いを一つした。
「そうだねー、もう少し詳しく聞かないと何とも言えないが…。
多分、誰に相談しても、“気のせいじゃないか?”って言うと思う。
最初に謝っとくけど、実は、私もそっちの意見になるかもしれない。
なぜか?
“気配”を感じる能力は、とても特殊なんだ。と言っても、超能力じゃない」
彩希の表情を伺うと、落ち着いて聞いている。綺道は続けた。
「例えば、彩希ちゃんは、学校の先生や友達の顔を覚えてるだろ?
じゃあ、学校の門衛所にいる守衛さんの顔を覚えてるかい?
何人いて、今朝は誰だったか。
覚えてないだろ?
観察と記憶の問題なんだ。
人間の視界ってのは狭い。はっきり見えるのは焦点とその周辺だけ。
見えたって、感覚記憶と短期記憶ってやつは常にリセットされる。
人の目は、実際は録画しない監視カメラみたいなもんだ。
だから…
「四人です」
目を閉じた彩希が、パッと目を開けた。
「えっ?」
綺道は虚を突かれた。
「大学の守衛さん。いま数えました。今朝の守衛さんの顔も覚えてます」
綺道は一瞬言葉を失い、美鈴はニヤニヤ笑った。