19 右往左往
(うおうさおう=慌てふためき、うろうろとする)
その日、リリアは朝から念入りに磨き上げられた。
「傷は隠さなくていいわ。現実を見てもらった方が良いと思うの」
リリアの言葉に侍女は頷き、薄化粧に留めた。
髪はハーフアップにして、ダイヤモンドとアクアマリンが散りばめられたバレッタで留めた。
「この髪飾りはなんだか古いわね。でもとても素敵。懐かしいような気がするわ。もしかしてお母様にいただいたものかしら」
「いいえ、これはお嬢様が事故に遭われた時にしておられた髪飾りですよ。あの頃とても大切にしておられたのです。お気に入りでしたわ」
「そうなの? 私ったらそんな事も忘れているのね。でも少し古臭くない?」
「そんなことありませんよ。それにこの髪飾りを見た侯爵様が新しいものをプレゼントしてくださるかもしれませんし」
「まあ! そんなはしたないことを言うものではないわ。まだ結婚するって決まったわけでは無し、この傷を見たらお気が変わるかもしれないもの」
リリアが少し悲しそうな顔をした。
侍女が慌てて言う。
「絶対にそんなことはありません。もしそうなら私がパーシモン邸の前に、桶一杯の生ごみをぶちまけてやりますわ」
リリアは声を出して笑った。
今日はリリアに求婚状を送ってきたジェラルド・パーシモン侯爵との顔合わせだ。
本当はもう遠い昔のことなのに、今のリリアにとっては、ほんの数年前に見掛けて淡い憧れを抱いた人と対面するような気分だった。
緊張するなという方が無理というものだろう。
「おかしくないかしら」
「妖精のようにおきれいですよ」
「褒めすぎね」
和やかな会話にノックの音が割って入った。
「リリア、準備はどうかな? ジェラルドが来たよ」
兄のダニエルが入ってきた。
「お子様たちは?」
「今日は一緒ではないよ。それは話が進んでからだ」
「そうよね、もしかしたら自分の子供になるかもって思うと少し急いてしまったわ。そうよね、そうよね。お断りになるかもしれないものね」
リリアは無意識に頬の傷を撫でた。
「あっちが断るなんて絶対に無いさ。もしそんな事があったら僕がジェラルドを殴る。なんならあいつの屋敷の外壁に汚物を塗りたくってやる」
「まあ! あ兄さまといい侍女といい、方法が……微妙だわ」
困ったような顔で笑いながらリリアが立ち上がる。
「さあ、行こうか。もしも急に頭が痛くなったり、気分が悪くなったら構わないからすぐに言いなさい」
10年というブランクと顔の傷という負い目を抱えるリリアにとって、ダニエルの言葉はとても力強かった。
「はい、お兄様。頼りにしています」
二人はゆっくりと応接室に向かった。
その頃応接室ではひと騒動が持ち上がっていた。
「ジェラルド! 泣くのは早い! 涙をひっこめろ! もうリリアが来るぞ」
リリアの父の言葉にジェラルドは焦ったように言う。
「はい……はい……やっとリリアに会えると思うと……うっううううう」
ジェラルドがハンカチを取り出して、涙と一緒に流れ出る鼻水を拭いていた時、応接室のドアがゆっくりと開いた。
まず入ってきたのはダニエル。
様子を窺ってからリリアを入室させるつもりらしい。
「バカかお前は! 泣くな! 早くハンカチを仕舞え」
ジェラルドはからくり人形のように首をコクコクと動かして、どろどろになったハンカチをポケットに突っ込んだ。
その様子を苦笑いをしながら眺めていた母親が口を開く。
「こんな様子では失敗するかもね?」
ジェラルドがビクッと肩を震わせ、父と兄はぐっと笑いを堪えた。
「まあ、それならそれで私はうれしいけど?」
「お義母様……」
「でもそうなると孫に会えないから寂しいわねぇ……ほほほ」
ジェラルドは雨に打たれた犬のように項垂れた。
「冗談よ。準備は良いかしら?」
そう言うと、返事も待たずにドアを開けさせた。
ドアから入ってきたリリアに、ジェラルドは声を失った。
「う……美しい……女神だ……いや、妖精か? 天使か?」
父と兄は元婿の言葉に生ぬるい視線を送った。
「失礼いたします。私はサザーランド公爵家が娘、リリアでございます」
「あっああ……リリア……嬢。初めまして? ってことで良いのかな?」
「ええ、パーシモン侯爵様にとっては初めてですわね。私にとっては違いますけれど」
「「ええっ!」」
なぜか求婚者と父親が一緒に叫んだ。
ダニエルが慌てて補足説明をする。
「リリアにせがまれて学園のパーティーに同伴したことがあるだろ? その時見かけたんだよな? まあその時お前はバネッサと一緒にいたけど」
ジェラルドが真っ青な顔でダニエルを見た。
「マジで?」
「うん。リリアはお前とバネッサの仲睦まじい姿に憧れを抱いたんだとさ」
「うっ……初耳だ」
「お前たちが別れたって教えたら、自分が失恋したような顔をしてたよ」
「なんだよ、その初出し情報は」
「でも結局は結婚してすぐに子供ができたのに、結局別れたんだよな?」
「うっ……吐きそうだ……」
「まあ、そういう運命だったってことだ。それで僕の可愛い妹に再婚相手になってほしいと言い出したわけだ」
「はい……その通りでございます」
父と母がなぜか顔を真っ赤にしてお腹を押さえている。
「子供が二人いるんだ。その子達の母親になってほしいってさ。リリア」
リリアが困った顔で頬に手を当てた。