17 東奔西走
(とうほんせいそう=いそがしくあちこちに走り回る)
それからの毎日は凄まじい忙しさだった。
皇太子は国王と皇后に事情を説明し、協力を得ることに成功した。
使用人達には皇太子命令という形で絶対的な緘口令を敷いた。
皇太子妃はリリアと親しい友人たちに手紙を送り、リリアが怪我を負って記憶の混乱を起こしているので、当面手紙のやり取りや、面会は控えてほしい旨を伝えた。
これも、絶対に守ってもらえるように、わざわざ王家だけが使う便箋を使用した。
アネックス侯爵夫人は領地に戻り、自宅の使用人はもちろん、件のホテルにも圧力をかけ、事件を口外しないよう固く誓わせた。
公爵家では使用人全員に話を合わせて演技をするように命じた。
守ると誓った使用人には給与を上げることを約束し、破った場合の賠償請求も明記した契約書を交わす徹底ぶりだった。
事のあらましを知った公爵夫人は数日寝込んだが、娘のためという夫の言葉に奮起した。
兄は毎日妹の部屋を訪れ、遭ってもいない事故の状況を刷り込んだ。
「私って10年も寝込んでいたの? そんなに酷い事故だったのに生きているなんて奇跡なのね。神様に感謝しないといけないわ。でも顔にこんな傷が残ってしまったのだもの、もう一生外には出られないわね。卒業式出たかったなぁ」
リリアが泣きそうな顔でそう言った時、ダニエルはリリアを抱きしめながら心の中でガッツポーズを決めた。
「私は結婚できないから、領地に籠って暮らすしかないわ。お兄様も知らない間にご結婚なさって。いずれはこの屋敷にお戻りなのでしょう? 私がいてはお義姉様に悪いわ」
「そんなこと考える必要は無いさ。ずっと一緒にいてもいいんだよ? そんなことより早く元気になりなさい」
「ええ、ありがとうお兄様」
戸籍係の官吏は訳もわからないまま踊るように作業を進めた。
なにせ、宰相自ら持ってきた書類には、すでに宰相の承認印がおされていたのだ。
当然のごとく、その日にうちにロベルトは無事に認知され、その翌日リリアとジェラルドの婚姻は解消された。
そしてまた翌日、ジェラルドとバネッサは結婚し、ロベルトはジェラルドの嫡出子という立場になり、マーガレットの実兄となった。
それから一週間、ジェラルドはバネッサと離婚した。
パーシモン侯爵は、孫を連れて領地を訪れたジェラルドから状況説明を受けた。
真剣な顔で過去の過ちを告白する息子に対し、侯爵は何も言わなかった。
そしてリリアの事を聞いたときには顔を顰め、ロベルトを嫡出子とする話の時には頷いた。
何よりもサザーランド公爵の発案であることが大きかった。
「そう言うことなら口は挟まない。上手くやれよ」
そう言った父親の手を握り、ジェラルドは心からの涙を流した。
パーシモン侯爵は、何かと都合が良いだろうということで、ロベルトを認知したのとほぼ同時に侯爵位をジェラルドに譲ることにした。
「領地のことは任せなさい。今まで通り外務大臣の補佐を続けて国に貢献するんだ」
「父上……感謝します」
そして母親に会えず寂しがるマーガレットはジェラルドの両親に預けることになった。
久しぶりに祖父母にあって嬉しそうにしているマーガレットだったが、状況は把握しきれていない。
しかし、自分と父親がやっていた事に対する罪悪感は持っているようだった。
何かにつけて『内緒はダメ』だとか『秘密は良くない』と口にしている。
そんなマーガレットの為にも、絶対に失敗はできないと決意を新たにするジェラルド。
まさに国を動かすほどのメンバーが集った壮大な詐欺が始まった。
リリアは順調に回復したが、記憶は戻らない。
その間一度だけ、バネッサとロベルトが秘密裏に公爵家を訪れた。
跪き、土下座をする勢いで詫びる二人を、公爵夫人は優しく迎え入れた。
「全て聞いたわ。誰もそこまで悪くはない。みんなが少しずつ判断を誤っただけよ。あなた達だけのせいではないわ。ロベルト君、私のこともいずれはお婆様って呼んでね? まあ、ジェラルドがプロポーズに成功したらっていう条件付きになっちゃうのが心配だけど」
ロベルトは初めて会う公爵夫人の優しさに震えた。
「きっといつかはおばあ様とお呼びできる日が来ると信じて、一生懸命勉強をします。絶対にご迷惑を掛けることが無いよう、自分を律して生きることを誓います」
公爵夫人はロベルトの頭を撫でて、バネッサに向かって言った。
「あなたも色々大変だったでしょうね。ひとつ確認させてほしいのだけれど良いかしら?」
「なんなりと」
「あなたはジェラルドとよりを戻す気は無いの?」
「はい、ございません。私たちのことは青春時代の甘酸っぱい思い出でございます」
「あら? 大人になったジェラルドにはそんなに魅力がないかしら?」
「魅力というより……なんと言いますか、恋愛対象では無くなってしまったとでも申しますか……友人というより……昔好きだっただけの同級生と言うか……」
「なるほどね、安心したわ。ではリリアのことはこのまま進めていいのね? ロベルト君もそれでいいの?」
「はい、勿論です」
「私はね、バネッサさんにも幸せになってほしいと思っているの。ロベルト君がジェラルドの息子として生きるという道ができたでしょう?あとはバネッサさんよ」
「ありがとうございます。私のような者にまでお心を砕いていただき、心から感謝いたします」
そう言うとバネッサと一緒にロベルトも深々と頭を下げた。
それを見てひとつ頷いた公爵夫人は話を続けた。
「それで? バネッサさんは今まで通りマナー教師を続けるの?」
「他にできることもございませんので」
「商会に勤めてみる気はない? 我が家が出資している商会の会長が秘書を探しているの。それに貴族の前に出ることも多くて、なかなか苦労しているようなのよ。あなただったら彼に貴族のマナーも教えられるし、貴族特有の言い回しも正確に理解できるでしょう? ぴったりだと思うのだけれど、どうかしら」
「ありがたいお話でございます」
二人はもう一度、深々とお辞儀をして去って行った。
公爵夫人は執事を呼び、商会の会長に連絡の手紙を出すように伝えた。
それから数日後、商会に就職が決まったバネッサは、パーシモン邸からそれほど遠くない場所にある借家に引っ越しをした。