第5話「当選」
健人は再び自転車に乗り走り出した。
噴水のある公園の横を曲がり、古めかしい5階建ての鉄筋の建物、その1階の1番端の部屋のインターホンを鳴らした。表札には「石田」と書かれていた。
「ああ、成瀬さん、こんにちは。どうぞ、上がってください。」
インターホンを鳴らしてしばらくしてドアが開き、幸志が顔を出した。
「成瀬さん、この前は助かりましたよ。雨が降るって言うもんだからあの後すぐに帰って、私も未季江も濡れずに済みました。成瀬さんってなんか不思議な力があるんですね。」
幸志は居間に入り、テーブルにある椅子を引きながらゆっくりと話した。
「未季江もね、昔は似たところがあったんですよ。私が朝起きて仕事に行く支度をしてたら言うんです。「あなた、今日は早く出た方がいいわ。」って。そういう日は大体電車が遅れてるんですよ。」
幸志は車椅子に乗って窓の外を見ている未季江を見ながらにこやかに話した。
「奥さんの調子はどうですか?」
健人は持っていたファイルを触りながら聞いた。
「困ってることで言えば最近自力で風呂に入れなくて。私が支えながら入ってるんですけどね、私も腰が辛くてね。それ以外はいつも通りです。毎日私は声かけるんですよ。「天気がいいね。」「このご飯美味しいね」とかね。返事は無いですけど。たまに私がテレビを見て笑ってたら未季江も少し笑ってる時があるんですよ。そしたら嬉しくてね。」
健人は穏やかな目で笑顔で話す幸志を見つめていた。
面談後、健人は事務所に帰り、席に着きパソコンを開いた。
今日すべき仕事のリストが書いたメモを見て健人は短い息を吐いた。
健人は電話の受話器を取った。
「お疲れさまです。健康保健センターの立岡です。」
少し高いが穏やかな口調の声が響く。
「あ……すみません。先日お世話になった福祉課の成瀬です。すみません相談があって電話しました。」
健人は今日の武田夫妻の現状について説明した。
「分かりました。私同行させてもらいたいんですけどいいですか?」
こちらからお願いをしているのに、丁寧な言葉。こうした一言一言が信頼を生むのかもしれない。
健人は礼を述べて電話を切った。
健人が電話を切ってすぐに持っていた受話器がコールし始めた。慌てて電話に出た相手は低い男の声だった。
「成瀬さん。今までありがとうございました。」
健人は右手で頭を抱えた。
「重森さん。どうされました……?」
もう5日連続だ。次に言う言葉は決まっている。
「死にたいです。」
こういう電話は日々かかってくる。毎日相手が穏やかになるように言葉を選ぶ。それを繰り返しながら疲弊していく。
大体の場合、死ぬことは無いのである。自殺は何度かの未遂を繰り返し繰り返してたまたま成功してしまった時に起こる。何万分の1の当たりくじを引いて当選したような確率だ。それでも、何万分の1の可能性が少しでも低くなるように日々相手に言葉を選びながら接していく。
健人は電話機を持つ左手の力が強くなっていくのを感じた。