第18話「充分」
街は次第に暖かくなり、柔らかな花の匂いに包まれ出した。
健人は自転車に乗りながら街並みを眺めていた。
多くの人達が出会いと別れを繰り返しながら彩られるこの季節が健人は好きだった。
健人が事務所でパソコンを打っていると、電話がコールした。
「ご無沙汰してます。石田です。」
電話の主は幸志だった。
「成瀬さん、私退院できることになったんですよ!嬉しくて嬉しくて!」
幸志の声は明るく張りがあるように感じた。
「良かったですね!頑張った甲斐がありましたね。じゃあ、退院後のサービスを考えるためにまたケアマネさんと病院に行きますね!」
健人は嬉しそうに答えた。
翌日、健人はケアマネジャーとともに病院を訪問した。
案内された面談室に行くと、幸志が既に席に座っていた。
「わざわざ来ていただきありがとうございます。やっと自宅に戻れます……これからも力を借りて……ですが、未季江と楽しい日々を過ごせたらと思っています。」
幸志は深々と頭を下げた。
「本当に良かったですね。2人の生活に戻れて私たちも嬉しいですよ。精一杯支援させてもらいますね。ただ……1つだけ気になることがありまして……」
ケアマネージャーは幸志の顔を見ながら言った。
「未季江さんは施設に入ってからお身体は変わらずいるんですが、慣れない環境で認知症状が出て来ています。家の中の部屋の配置など……混乱されるかもしれません。できる限り介護サービスを入れてフォローしますので、大丈夫だと思いますが……」
ケアマネージャーは優しい声で言った。
「そうですか……まあどんな状態であっても未季江は未季江ですから。私も精一杯サポートできるように頑張りますよ!家で2人で過ごせるだけで充分です。」
幸志は笑顔で言った。
「あ……成瀬さん。家に戻る時に立岡さんに会うことはできないですかね?前に助けてもらった礼を言っておきたくて。」
幸志は健人に聞いた。
「分かりました!声を掛けてみますね!」
健人はニコッと笑った。
数日後、健人と幸志はタクシーに乗っていた。
「ここから未季江さんが居る施設のひまわり苑に寄って、未季江さんを乗せてから家に帰りますよ。立岡さんも施設で待ってくれてます。」
健人は幸志に向かって説明した。
「そうですか、ありがとうございます。」
幸志は笑顔でずり落ちた眼鏡を上げながら言った。
「リハビリ、本当に辛かったです。一度自暴自棄になって、このまま病院で私は死ぬんじゃないかと思ったのですが、頑張って本当に良かった。」
幸志が呟く。
「全ては思いの強さですね。未季江さんは幸せ者です。」
健人は明るい声で答えた。
ひまわり苑に着くと、つぐみとケアマネージャーが入口に立っていた。
「お世話になります。立岡さん、先日は本当にありがとうございました。」
幸志は深々と頭を下げた。
「いえ、お元気そうで、何よりです。」
つぐみは笑いながら同じように頭を下げた。
施設に入り、2階の居室フロアに案内された。
その中の個室の一室に未季江は居た。
車椅子姿で外の景色を眺めている。
幸志は未季江に近づき、肩を叩きながら話し始めた。
「未季江、待たせたね。お家に帰ろう。これからはまた一緒だ。」
幸志は笑顔で呼びかけた。
未季江は幸志の顔をじっと見た。
そしてゆっくりと口を開いた。
「……どちら……さまですか?」
出て来たのは意外な言葉だった。




