【問題編6】殺人形考察
体育館の方に戻ってリアカーを熊谷さんに返し、クラブ棟の前で部活に少し顔を出すという遊と別れた。
教室でジャージを脱いで制服に着替え、春水と連れ立って下校した。校門の周りに植わった高い木の上から、機械のモーター音を思わせる低い虫の声が降り注いできた。頬を優しく撫でていた風が不意にやみ、湿気が身体にまとわり付いてくる。
私の携帯が着信音を鳴らした。兄貴からのメールだった。
――急で悪いが、よんどころない事情で東京に出張するんで一週間ほど留守にする。事件の方は春水ちゃんと二人で対処されたし。よろしくメカドック――。
兄貴よ、ネタがベタな上に古い。
「ウチ的には《ヨロシク・トゥモロー》やな」
「てゆ~か、あんたはナチュラルに人の携帯覗いてんじゃないわよ」
それはともかく、一応は警察に籍を置いている兄貴の情報網に頼れないのはかなりの痛手である。
「ったく、肝心な時に使えないわね兄貴は」
盛大に舌打ちした私がふと、校門の県道を挟んだ向かい側のコンビニに視線をやると――鄙には稀な白塗りのベンツが、周囲を睨み付けるように傲然と停まっているのに気付いた。中に人はいない。
「うわっ、あれ絶対ヤーさんに一万ギル」
春水が小声で決め付ける。
「ベンツに乗ってるからヤクザだなんて、典型的なステレオタイプだわ」
私が半ば諭すように言った時、コンビニの自動ドアが開いて一人の四十がらみの男性が出てきた。
中肉中背、金色に染めた髪をポマードでこってり固めてオールバックにしている。趣味の悪い青紫色のスーツをまとい、その下の臙脂色の柄シャツのだらんと開いた襟元には、金のネックレスが西日を受けて光っていた。南米のヤドクガエルよろしくあからさまな警戒色で、どう好意的に解釈してもまっとうな社会人には見受けられなかった。
金髪男は携帯片手に口汚い感じでぺちゃくちゃ喋りながら、だらしないガニ股歩きで件の白塗りベンツに乗り込み、乱暴に車をスタートさせていった。
「マコちゃん、ドンマイ」
八重歯を覗かせてニヤニヤと笑う春水。む、ムカつくなあ。
咳払いをして気を取り直し、私は言った。
「……それはそうと、春水、奢ってあげるから少し時間あるかしら」
県道沿い、学校から十分ほど市街地方面に歩いたところに《パティシエ・トマ》という行きつけのケーキ屋さんがある。
この店のオーナーパティシエは父とは古くからの知り合いらしく、フランスの老舗での修行から戻ったオーナーがこの地で独立した際、父が開業資金の大半を無利子で融資したらしい。オーナーはそのことをよほど徳としているらしく、父が亡くなって五年経った今でもクリスマスには毎年、豪華絢爛な特大ケーキを律儀にも届けてくれる。
都心の有名店と比べても遜色のない本格的な味、と県内では結構評判の店なので、五時半を過ぎた今現在は大半が売り切れてしまい、それ以外の商品も二、三個しか残っていない状態だった。
春水は腕組みして唸りながら、ショーケースの中で宝石のように光り輝いているケーキを、真剣な眼差しで矯めつ眇めつして、
「決めたっ、クラシック・ショコラとルバーブのタルト」
人の奢りだと思って二個も頼みやがりますか、こいつは。夕飯前なのに。
「別腹別腹、マコちゃんはやっぱいつもの?」
「当然じゃない」
品切れになってなきゃいいが、と内心穏やかならざる気分でいると、
「ワンパターンやな、どんだけ好きやねん」
半ば呆れ顔で春水が茶化してくる。
「黙れ小僧」
美味しいんだから仕方ない。ショーケースに立っているマシュマロのような頬の女性店員に「ミルフィーユあります?」と訊くと、彼女はにっこりと花のように微笑んで、
「はい、ございますよ」
よかった。私は胸を撫で下ろした。
ケーキと飲み物を注文した後、売り場の横に併設されているイートインの窓際のカウンター席に並んで腰掛け、最近読んだ小説について漫然と語らいながら十分ほど待っていると、先ほどの女性店員が銀色の盆にケーキと飲み物を乗せてやって来た。
飲み物は二人とも紅茶。メリオールという、筒状のガラスに金属の弁がついた可愛らしい容器で淹れられている。本来は紅茶ではなくエスプレッソを淹れるのに使うらしいが、このカラクリめいた容器で出された紅茶は非日常的な心躍る雰囲気がして、私は結構好きだったりする。メリオールの容量はカップ二杯分で、これで二百五十円はお得である。
この店のミルフィーユはオーナーのスペシャリテで、パイ生地がクリームで湿気ないうちに食べてほしいという意向で、イートイン限定になっている。形を崩さないよう慎重に魅惑の長方形にナイフを入れると、パリパリという小気味のいい音が響く。そして一口頬張ると、上顎に刺さりそうなほど香ばしく焼けたパイ生地の芳醇なバターの香り、間に挟まった滑らかなカスタードクリームの優しいバニラの香り、クリームの甘さを引き締めるほのかな洋酒の香り――これらが渾然一体となって、私の舌の上でふんわりと花開いた。
「いつ食べても最高ね」
思わず目を閉じて陶然としていると、横からひょいと身を乗り出した春水が、
「男との初デートの時は頼むの厳禁やけどな、ミルフィーユ。今度のテストに出るから覚えときっ、マコちゃん」
「……それは彼氏のいない私に対する嫌味のつもりかしら、春水」
私はゆっくり吐き出した言葉の端々に怒りを滲ませたが、彼女は全く頓着する風もなく、
「それはちゃうで。マコちゃんの秘めた魅力は所詮、世の凡俗な男どもには判らへんちゅうことや。判っとるのはこのウチだけで充分――」
小悪魔めいたコケティッシュな微笑を浮かべると、突然すらりとした形のよい人差指を伸ばして私の右側の口角に触れた。ややあって頬をついっとなぞって人差指が肌から離れると、その先には淡黄色のカスタードクリームが少し付いていた。
「――うん、ホンマ美味しい」
人差指をぺろっと舐めて、上目遣いでこちらを見る春水。
「何すんのよ、この変態っ」
自覚する以上に内心動揺したのか、語尾が震えてやや威勢に欠ける悪罵を投げ付けた私は、春水から慌てて視線を外し、カウンターに置かれた紙ナプキンで改めて口元を拭った。
***
「犯人は間違いなく、ミステリの《見立て殺人》を意識してると思うの」
ミルフィーユを全部胃の中に収めた私は、二杯目の紅茶をティーカップに注いでミルクを落としながら、本題を切り出した。
「それってアレやろ、マザーグースやら手毬唄やらの歌詞になぞらえて人が殺されたりするっちゅうヤツ」
春水の言葉に私は頷いて、
「そうね。世界で一番最初に見立て殺人を扱った作品はアメリカの推理作家ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』で、マザーグースの歌詞になぞらえて次々と殺人が起こるという話ね。で、それに触発されてアガサ・クリスティが書いた作品が『そして誰もいなくなった』で、これもマザーグースの歌詞を題材にしているわ。もっとも、この作品はいわゆる《クローズドサークル》ものの祖として捉えるべきかもだけど。
我が国では、大横溝が『僧正殺人事件』に感銘を受けて戦後まもない時期に書いたかの『獄門島』が、《見立て殺人》ものの嚆矢といっていいわね。これは、俳句に見立てられて瀬戸内の島の網元の三人姉妹が殺されるという話なんだけど、童謡殺人にこだわった大横溝は俳句を使った見立てに満足してなかったらしかったの。でも、我が国にはマザーグースみたく殺人の見立てに使えそうな童謡はない。だったら、自分で作ればいいじゃない――ってことで書かれたのが『悪魔の手毬唄』って訳」
我が県は鬼首村という架空の村に伝わる古い手毬唄になぞらえて、村の有力者の娘が次々に殺されるという話で、個人的には大横溝で一番好きな作品である。
「あと、ある一定の法則に基づいて行われる殺人も、大きい意味での《見立て殺人》に含めてもいいんじゃないかしら。
これの古典的な作品は、Aで始まる地名のA・A、Bで始まる地名のB・Bといった具合に、住んでいる場所と名前と苗字の頭文字が同じという以外は何の共通項もない被害者たちが、アルファベット順に殺されていき、現場には当時のイギリスの時刻表『ABC鉄道案内』が置かれている――というクリスティの『ABC殺人事件』で、大横溝もこれを元ネタにして、村の中で並立する人物のうち一方が次々に殺される『八つ墓村』を書いているわ」
まぁこの作品の場合、以前松竹で渥美清主演で映画化された際に、キャッチコピーに使われて流行語にもなった《たたりじゃ~》という言葉が示す通り、世間一般的には《落武者の祟り》という、おどろおどろしい土俗的なイメージで浸透してしまっているのが実情だが。
「似たような趣向では、本格の鬼こと鮎川哲也の『りら荘事件』も外せないところね。これは最初の死体のそばに意味ありげにトランプのスペードのAが添えられ、次の死体にはスペードの2が――という話よ」
「なるほど、《見立て殺人》にも色々あるもんやね」
相づちを打った春水が、ブラウンの眼をこちらに向けて光らせた。
「でも、それぞれ《見立て》を行う理由は違ってくるんやろ」
「そうね。これは全くの個人的な見解だけど、《見立て殺人》は実行理由ごとに六つに大別することが出来ると思うの。隠蔽、錯誤、伝言、快楽、思想、偶然――もちろん、一つの事件で以上に挙げたカテゴリのうち複数の理由を兼ね備えているケースもあるわ」
区切りのいいところで一息ついて、白地に青い花柄のティーカップを口に運ぶ。喋り通しで渇いた喉を冷めた紅茶が潤していった。空いたカップをソーサーに戻し、椅子の上の足を組み替えながら話を再開する。
「第一の《隠蔽》は、現場に重大な手がかりを残してしまったのを隠すため、または、何らかのトリックを実行する上で必要な状況をカモフラージュするために見立てを行うケースね。これらの場合、見立ての装飾自体に事件解決のヒントが隠されている場合が多いわ。見立てでそれっぽい動機をわざと提示して真の動機を隠すのも、これに含めていいかしら。
第二の《錯誤》は、童謡の一番、二番の順に見立てて殺されたように見せかけて実は二番の方が先に殺されていたり、単独犯に思わせて実は複数犯ないしは便乗犯だったりと、人間心理を逆手に取った罠が主になるわね。
第三の《伝言》は、見立て自体が特定の人間に対する警告や告発等、何らかのメッセージになっているケースね。これは被害者に対しての場合の他に、共犯者に対しての場合――例えば、複数犯で犯人一人につきターゲットを一人ずつ殺すよう取り決め、その実行を促すために見立て殺人を行う例も存在するわ。
第四の《快楽》は、いわゆる劇場型犯罪――探偵役や捜査当局に対する挑戦や、単なるゲーム感覚で行う見立て殺人ね。だから、見立てそれ自体は大した意味を持たない場合が多いわ。
第五の《思想》は、犯人の狂った思想や歪んだ信仰によって引き起こされる見立て殺人で、一例を挙げると、コチコチのキリスト教原理主義者で破滅的な終末論に凝り固まった犯人が、聖書のヨハネの黙示録の記述になぞらえて殺人を起こす――といった風なケースね。
第六の《偶然》は、犯人の意図せざる偶発的な状況が重なって、たまたま見立て殺人のようになってしまったというものね。個人的には、バカミスならともかく本格でこういうオチはどうかと思うけど……」
私が一気呵成に話し終えると、それまでツインテールの髪をいじりながら聞いていた春水が、
「で、マコちゃんは今挙げた六つの理由のうち、今回の事件はどれに当てはまると思っとるん?」
と、質問をぶつけてきた。
「う~ん。まず《快楽》と《思想》と《偶然》の三つは、小説の中ならともかく常識的に考えてまず有り得ないわよね。一番可能性が高いのは朝にも言った通り、衆院の選挙戦に絡んだ理事長への嫌がらせ――戦国時代の伝承に見立てた理由は、理事長への警告即ち《伝言》と解釈出来るわね――という線なんだけど、だとしたら、わざわざロイエンタールが殺されなきくちゃいけない理由が不明瞭だわ」
ふと、私の頭の中に一つの仮説が浮かんできた。
「……ひょっとして、あれを例の戦国時代の伝承の見立てと解釈するのが根本的に間違ってるのかも知れない」
「というと?」
春水が身を乗り出す。
「犯人にとっては吊り下げたフィギュア――《孫策伯符》それ自体に意味があるのかも、ってことよ」
「つまり犯人のアンチ活動っちゅうこと? せやけど、それってマコちゃんが前に否定しとった説やん」
「ううん。私が言いたいのはそういうことじゃなくって、《孫策伯符》というキャラクターが首を吊るされてるってことが、特定の誰かに宛てた暗号になってるんじゃないか、ってことよ。ほら、三国志だと孫策って――正史と演義で記述に若干の違いはあるけど、どっちも自分が滅ぼした勢力の残党に襲われて、その時の傷が原因で亡くなってる訳だから、それを敢えて史実とは異なる死に方である首吊りにしてるってことには、何らかの重大な意味が込められてるような気がするのよ」
じゃあ具体的にどんな暗号だ――と尋ねられても、判断材料に欠ける現時点では判りかねるが。
春水は腕を組んで中空を見据え、しばらく無言のまま私の言葉を吟味していたが、やがて苦い表情を浮かべてゆっくりと首を横に振った。
「その推論はちょっち勇み足な気がするで。理事長への脅迫っちゅう安易な結論に飛び付きとうない、マコちゃんの気持ちはよう判るんやけど」
「……むう」
心中を言い当てられた私は、言葉少なに俯くしかなかった。
「タイミング的に考えて、犯人が例の伝承を念頭に置いてロイエンタールを殺したんは間違いない思う。せやけど、犯行目的は理事長への脅迫なんて単純なモンやないっちゅうマコちゃんの意見には賛成や。それは犯人の用意したフェイクの結論やとウチは思う」
戸外の夕日に照らされて茜色に染め上げられた春水の整った顔に、チェシャ猫のように捉えどころのない笑みが貼り付いている。
「何かいい考えがありそうね」
「ここはひとまず、犯人の用意した答えに敢えて食い付いてみるんも手かなと」
テーブルに頬杖を突いて、ふふっ、と意味ありげに含み笑う春水。
「何が言いたいのよ」
嫌な予感がした。
「マコちゃんの家って理事長の家と親戚なんやろ」
「親戚ってほど近しい関係でもないけど……私の曽お祖母様が鯉沼家の出らしいから、まぁ遠い姻戚関係ってところかしら」
「ほんなら、明日にでも理事長に選挙絡みのゴタゴタの件で探り入れてみたいから、マコちゃんの顔でちょちょいとアポ取っといて~な」
やっぱり。がっくりと肩を落とした私は、露骨にため息をついた。
「一番使いたくない手だけど、兄貴に頼れない以上仕方ないわね」
遊のため――そう自分に強く言い聞かせることで、私はややもすると自己嫌悪のスパイラルに陥りそうなその行為に対して、なけなしのモチベーションを辛うじて奮い起こした。
「うん、遊のためや」
自身の言葉の重みを量るようにそう呟いた春水は、夜の帳が下り始めた窓の外に視線を移した。
店内の柔らかい照明を受けて、窓ガラスにくっきりと映し出されたその眼差しは、まるで入念に研ぎ澄まされて青白く光るナイフのような犀利さを帯びていて、同性の私でも思わず魂を奪われてしまいそうなくらい美しかった。そして、出来ることなら認めたくない印象だが――ちょっとでも触れたら手が切れてしまいそうなほど冷ややかで、少しだけ怖かった。