【問題編3】夜明け前より百合色な
翌日、すがすがしい気分で目覚めた私は枕元の時計を見て驚愕した。
「げっ、七時四十五分!」
寝汗が染みたピンクの水玉模様のパジャマをベッドの上に脱ぎ捨て、深緑の地にアイボリーの可愛いリボンが付いたどこかで見たようなセーラー服に着替えた私は、家中にドタドタと足音を響かせながら転げ落ちんばかりの勢いで階下に駆け下りる。洗面台で手早く最低限の身だしなみを整え、ダイニングテーブルの上にある折り畳み式の蝿帳が被さった兄貴の食べ残しらしきトーストを口にくわえて、
「あ~ん、遅刻遅刻~」
玄関のドアに施錠するのももどかしく自宅を出た。
「ヤッバ~、今日転校初日だってのに」
いやに説明的な台詞を口にしながら、眩しい朝の光に照らされた通学路をひた走る。そして目抜き通りのバス停に到着し、列の最後尾に並ぼうとした瞬間――世界に異変が生じた。
視界が急に緋色がかったかと思うと、私の周りの人々がまるでビデオの一時停止モードのようにぴくりとも動かなくなったのだ。
「ど、どうしたんですか」
得体の知れない恐怖をひしひしと感じた私はすぐ側にいる、大口を開けてあくびをしながら携帯を覗いた状態で彫刻のように固まっているサラリーマンの肩を何度も叩いたが、やはり反応は皆無だった。
粟立った背筋をねばっこい汗が伝う。
急激に荒くなる自分の呼吸を聞きながら足元に視線を落とすと、ファンタジー系でよく出てくる解読不能な文字で書かれた魔法陣が、蛍光塗料のよな淡い光を放ってアスファルト一面に浮かび上がっている。魔法陣は直径数十メートルはあるだろうか、静止している人たちをすっぽり覆い尽くしていた。
何なのよ、これ?
パニック状態であたふた辺りを見渡していると、静止している人たちがいきなり燃え始めた。ひっと声にならない悲鳴を上げて身じろいだが、すぐ全然熱くないのに気付く。
その、静止している人たちを覆う燐光のような青白い炎は大きく揺らめきながら徐々に小さくなっていく。炎の先端は糸のように細くなり、それぞれ一定の方向に向かっていた。
一体どこに向かっているのだろう?
視線を上げたその時――大地をひっくり返すような凄まじい振動が二度、三度と身体を貫いた。
「――あれぇ、この人間封絶の中で動いてるぞぉ」
甲高い不気味な声が頭上に降り注ぐ。振動の主は巨大な人形だった。
全身白磁のようにすべすべしていて大きさは普通の人間の三倍ほど、子供の首が二つ付いている。いわゆるスパイダーウォークの体勢をしているがその二つの首は百八十度あらぬ角度に曲がっており、生理的な嫌悪感を催さずにはいられない代物だった。
一方の首が耳元まで裂けた口をガバッと開けると、青白い炎が束になって溶鉱炉のように赤い口の中に吸い込まれていく。そして、もう一方の首は耳障りな笑い声を立てながら私の方を向いて、
「もしかしてこいつが噂のミステスかぁ~、御主人様にいい土産が出来たぞ」
と、血のしたたるような残忍な表情を浮かべた。
封絶、ミステス……唐突にそんな電波なタームを連発されても何のことやら皆目判らない。いや、本当は判ってるんだけどそれは口にしない方がベターだろう、世間体的に。
私の本能は生命の危機を察してこの場から逃げるよう告げていたが、その必死の指令も限界を超えた恐怖におののいている全身の筋肉には少しも届かなかった。
「いただきま~す」
不気味人形のもう一方の口も大きく開き、私を呑み込もうと急接近してくる。
迫り来る死を直視するのに堪えきれず、胸の前で両手を固く握り合わせて目を閉じた刹那、私の聴覚に斬撃の音が響いた。
「ぐぎゃああああっ」
目を開けると、私の足元にさっきまで私を喰らおうとしていた不気味人形の首が転がっていた。一方の首を失った人形本体は切断面から燐のような炎をまき散らしながら、苦痛に身悶えている。
「――派手に喰い散らかしよって、こりゃまた随分と行儀悪な燐子や。あんたの御主人様とやらは初歩的なテーブルマナーも教えとらんのかい」
軽やかな身のこなしで、私と不気味人形の間に一人の少女が宙から下り立った。
「……って、春水じゃん」
「ウチ、参上! お待たせマコちゃん、ヒーローは遅れて現れ~る」
着地の衝撃にたなびくそのツインテールは紅蓮の炎のような輝きを放ち、手には人形の首を一刀の下に断ち斬ったとおぼしき秋水が握られている。その刀身は月明かりのように冴えざえとしており、神々しい雰囲気で周囲を圧していた。
「それがメキシコ式」
「いや、そんなけったいな格好で何やってんの春水」
てゆ~か完全に銃刀法違反だから、それ。
「ノンノン、そない野暮なツッコみはノーサンキューやでっ。それに今のウチは春水なんて俗な名前ちゃうねん」
「俗な名前って……じゃ何て呼べばいいのよ?」
「炎髪灼眼の討ち――」
まんまかよ。どうせ好物はメロンパンって設定がこの後出てくるんだろな。
「あのね、春水……我が国には著作権法というれっきとした法律があるの。いい加減にしないと色んな方面からお叱りが――」
「――お前らいつまで二人の世界つくってる気だ、人の首斬り落としといて無視するなぁ~っ」
会話に入れず放置プレイを余儀なくされていた不気味人形がすっかりお冠の様子だった。いや、人じゃないだろあんた。
「妬かない妬かない、人の恋路を邪魔する奴はポン刀に斬られて死んでまうで」
そう言って口元に不敵な笑みを浮かべた春水は、刀を正眼に構える。
「許さない、絶対許さないぞお前ら。二人とも仲良く食べてやる~っ」
不気味人形は怒り心頭に発したらしかった。凄まじい勢いで右腕を振り上げ、地の割れるような咆哮と共に春水を押し潰さんとしたが、
「甘い、そない蚊も殺せんワンパターンな攻撃が通用するかいな」
相手の動きを見切った春水は体をかわして攻撃を避けると、鮮やかな身のこなしで空中を舞う。前につんのめった人形が体勢を整えるより早く、春水の刀が一閃して二つ目の首を胴から切り離していた。
「ひぎゃああああっ」
二つの首のあったところを必死に押さえ、甲高い悲鳴を上げながら身体を激しくよじらせる不気味人形。
「――やかましいから早よ消えや」
そう吐き捨てた春水は再び跳躍して人形の腹部に下り立つと、逆手に持ち直した刀を振りかざして心臓部に深々と突き刺した。不気味人形は更に甲高い電車の急ブレーキを思わせる断末魔を上げて朽木が倒れるように地に伏し、青白い炎に包まれて灰も残さずに燃えていったのだった。
そして、刀身に付いた燃えかすを勢いよく振り払って刀を収めた春水がこちらに振り向きざま、
「無事やった?」
私の両肩に手を置いて心配そうに尋ねてきた。
「ええ、色々ツッコみたいのはやまやまだけど」
笑顔で応えた途端、全身に安堵の波が満ちてきた私はへなへなとその場にへたり込んでしまった。心の中に渦巻く「さっきからどこかで観たようなシーンが続くよなぁ」という既視感には取り敢えず目をつぶることにする。
「どうせ、私は存在の力を既に喰われちゃってるって設定なんだろうけど……何はともあれ、助けてくれてありがとう」
すると、いきなり真剣な面持ちになった春水は、
「ほな、助けてあげた対価を払うてもらわな」
神妙な口調でそうささやきながら急に顔を寄せ、私の唇を優しくふさぎ――。
――目を覚ますとすぐ近くに春水の顔があった。
「はよっ、マコちゃん」
「う~ん」
ベッドに横たわったまま伸びをすると右手が何やら固いものに触れた。見ると、昨日就寝する前に父の書斎から引っ張り出して読んでいたハンス・ベルメールの写真集だった。
ベルメールは、一次大戦後の混沌の中で前衛芸術が大輪の花を咲かせたドイツ・ヴァイマ―ル時代末期に登場したシュールレアリズム芸術家で、球体関節人形の第一人者である。澁澤龍彦が紹介して以来、我が国の人形作家にも多大な影響を与えているらしい。
さっきの夢に現れた《ぼくのかんがえた》燐子の原形はどうやらこの本に載っている人形らしかった。道理でグロかった訳だ。
「今日もまるで天使のような可愛い寝顔やったで」
春水は唇にいとおしげに手を当て、何かをやり遂げた後のような満足げな微笑みを浮かべている。
妙に気になって、眠い目をこすりながら自分の唇に手を当ててみると――かすかに濡れている。私は反射的に春水の後頭部にげんこつをお見舞いしていた。
「いでっ、暴力反対ラブ&ピースやでマコちゃん」
「黙れこの変態」
ベルメールと同時代の分析心理学の祖ユングが唱えた概念に、シンクロニシティというのがある。単純明快に言えば《意味ある偶然の一致》ということになるのだろう――てゆ~か、以前素人向けの心理学の入門書を読んで覚えた単語に過ぎないから自分にはこれ以上説明のしようもないが。
後になって考えると、昨夜ベルメールの本を読む気になったのもその人形が夢に出てきたのも――これから起こる出来事の暗合だったのかも知れない。が、今の私は当然ながらそんなことに気付く由もなく、
「とにかくっ、さっさと出てけってばこのキス魔」
顔面に枕を投げ付けて春水を部屋から放逐し、灰色のブレザーに緑のチェックのスカートの制服に着替えるのだった。
***
我が経倫館高校には、校舎とは別棟で煉瓦建ての立派な図書館がある。受験生のために朝の七時半には開放され、司書教諭の浦真奈美先生の他に図書委員二名が週番制で貸出・返却業務を行なっている。
ぶっちゃけ、高度経済成長期の受験戦争華やかなりし頃ならいざ知らず、今日び発明家の子孫の家の某隣人みたいに身を粉にして勉学に励む生真面目な生徒なんてそうそういるはずもなく、この時間帯の図書館の人の入り具合は箱物行政で建てられたテーマパークのそれにほぼ等しい。
今となってはすっかり形骸化してしまったこのシステムが未だに廃止されないのは、これから社会人となる生徒たちに自分の職務に対する責任感を培ってもらいたいという、学校側の意図が込められているのだろう――ま、そう最大限善意に解釈してみたところで、超低血圧体質で寝起きの悪さには定評のある自分にとっては大きなお世話でしかないのだが。
「はぁ~、図書委員なんてなるんじゃなかった」
七割くらいの乗車率で高校に向かうバスの中。手すりにだらんと身を預けた私があくびをかみ殺すと、
「マコちゃん、それ当番が回ってくる度言うとるで」
春水にツッコまれる。
「だって何回やっても嫌なものは嫌なんだもん。で、行ったはいいけど全然暇でやることないしさ。これが金曜まで続くと思うと憂鬱にもなるわよ」
「ウチはちっともそない思わんけどな」
そう、こいつも私と同じく図書委員なのだ。彼女が図書委員になった理由は単純明快で、その権限を活用して自分の読みたい本を入荷させるためというものであった。彼女が委員になった途端にコミックとライトノベルの蔵書が飛躍的に増えたのは言うまでもない。てゆ~か職権濫用?
「むしろウチにとっては最高にハッピーな一週間の始まりやで」
「何でよ?」
「だって二人きりの空間でマコちゃんとイチャイチャ出来るんやもん、こない嬉しいことはないでっ」
「……余計に憂鬱だわ」
私は聞こえよがしにため息をついた。そもそも真奈美先生も一緒にいるだろ。
「じゃ3Pでええやん」
あなた、最低です。
再度大きなため息をついたその時、途中のバス停で早くも夏服に衣更えした元中の友人・綾瀬遊がエナメルのスポーツバッグ片手に乗車してきた。
陸上部の練習で陽に灼けた健康的な小麦色の肌が白いシャツによく映えている。
「よ~っす」
乗客をかき分けてこちらにやって来て、ひょいと片手を挙げて挨拶する遊。
「二人ともこんな朝早くに登校なんて珍しいな、特に御子柴」
物珍しげな顔でしげしげと見つめられる。いささか傷付いた。
「……図書委員の仕事よ」
「だよな、でなきゃ御子柴がこんな時間に登校なんてベトナムで夕日が海に沈む以上にあり得ないし」
酷い言われようだが、的を射ているので反論出来ないのが悔しい。
「まっ、ど~せまた為永にお目覚めのキスで起こしてもらったんだろ」
「ええ、今日もこいつに唇を奪われたわ」
私は春水に鋭い視線を投げ付けて糾弾するが、当人は少しも悪びれずに、
「だってマコちゃんの寝顔がごっつう可愛くて唇が無防備過ぎるんやもん、そらウチかて出来心の一つも起こしてもしゃあないやん」
ほとんど痴漢の言い訳を聞いてるようである。
「おっ、そういや遊はもう夏服にしたん?」
整った顎に手を当てた春水が、妙に熱っぽい面持ちで遊を見つめた。
「うん、一足早く衣更え。もうブレザーなんて暑くて着てらんないし」
いかにもスポーツ推薦で入学した健康優良児らしい発言である。インドア派の私なんかは日中はともかく朝夕は半袖じゃまだ肌寒いんだけどね。
「衣更えかぁ……もうすぐ女子の透けブラや脇チラが眩しいワンダフルな季節がやって来るんやな」
にんまりと下卑た表情を浮かべた春水は、私とおっつかっつな遊の控え目な胸元に目を凝らして、
「青のスポブラやな、健康的でなかなかよろしい」
「……もしこのバスの路線で痴漢事件起きたら犯人絶対こいつよね」
私のコメントに遊は力強く頷いて、
「うん、あたし為永が逮捕されて裁判沙汰になったらこう証言してやるんだ」
そして、私たちは心を一つにして唱和した。
「――いつか絶対こんな事件を起こすんじゃないかと思ってました!」
「二人とも酷いでっ」
こんな下らないことを言い合っているうちに《経倫館高校前》に到着し、私たちはバスを降りた。
校門に差しかかったところで後ろから自転車のベルを鳴らされる。振り向くと、
「よっ、三人娘」
司書教諭の浦真奈美先生の姿があった。
四角いフレームの銀縁眼鏡を掛け、アップにした髪を団子に結わいている。濃褐色の上品な仕立てのスーツに高級ブランドのスカーフを巻いていて、有能な社長秘書といった雰囲気を醸し出している。実際、大学を出て数年は東京の出版社で雑誌編集者としてバリバリ働いていたらしい。
いつもなら当番の図書委員より早い時間に来てとっくに図書館を開けているはずなのに、こんな時間に登校とは珍しい。
「昨日、久しぶりに高校の友達と呑んじゃってさ」
ばつが悪そうな顔でぺろりと舌を出した先生が、
「テンション上がって結構ハイペースで呑んじゃったから、朝目覚まし鳴っても布団からしばらく起きられなくて」
そう言ってパールの入った濃い目のシャドウを塗った目をしばたたかせると、身を乗り出した春水がニヤリと笑って、
「先生も今年で三十路に突入やからテンションに身体が付いていかんのとちゃいますか」
「こぉら」
真奈美先生はグーにした手を挙げて春水を殴る真似をした。
「教師に向かってそんな口の利き方するなんていい度胸じゃない、為永さん」
まぁ理事長にもこんな調子ですから、こいつ。
真奈美先生の近くから身を翻した春水は私と遊の方に向き直って、
「褒められちった、テへ」
「褒めてない褒めてない」
二人で右手を左右に振って同時にツッコんだ。
「あははは、あなたたち相変わらず息ぴったりね~」
ひとしきり口を開けて派手に笑った先生は昇降口の手前に差しかかると、
「為永さん御子柴さん少し図書館の前で待っててね、すぐ職員室行って鍵取ってくるから」
と、押していた自転車を右折させてクラブ棟の裏手に位置する駐輪場に向かっていった。
「じゃ、あたしも部室行くから」
そう言って手を振った遊がクラブ棟の方に駆けだそうとした時――ガシャン、と自転車の倒れる音がした。
先生に何かあった、そう思った私たちが急いで駐輪場の方に向かうと果たして十メートルほど行ったところで道の真ん中に自転車が倒れており、先生が棒立ちになっていた。
「どうしたんですか」
心配して尋ねると、先生は焦点の合わない瞳をこちらに向けて小刻みに震える指であらぬ方向を示した。
「あ、あれ……」
あれ? 指差された方に視線をやると、駐輪場の入口に植わっている五メートルほどの高さの榎の枝に、何かがロープに吊られてぶら下がっていた。
目を凝らした私ははっと息を呑んだ――見覚えのあるキャラクターのフィギュアが絞首刑に処され、微風に揺れていたのだった。