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【問題編2】蕩児たちの帰宅

 即売会は四時に終了した。

 撤収作業を済ませて会場を後にした私たちは、もはや再び福島駅まで歩いて戻る気力がなかったので、隣接するリーガロイヤルホテルから出てきたタクシーを拾って新大阪駅まで行き、構内の売店で兄貴に頼まれていた粟おこしをいくつか買って、下りの《のぞみ》に乗った。

「あ~あ、残念」

 軽くリクライニングを倒しながら春水がぼやいた。その足元には各所でゲットした戦利品で膨れ上がった紺色のトートバッグが、水揚げされたフグのように転がっている。往路で自分の荷物を入れていたキャリーバッグにはもはや入らないらしい。あれの中身は完売したはずだが……どんだけ買ってんだよ、おい。

「今日が土曜やったらもう一泊して日本橋(ポンバシ)でも巡るんやけどな。後はなんばグランド花月とか」

「山出しのツアーの観光客じゃあるまいし、そんなの嫌よ。天満(てんま)の繁盛亭で上方(かみがた)落語聴いてる方がいいわ」

 四方を山に囲まれた掛け値なしの田舎在住の私が言うのもナンだが。

「……マコちゃんいちいちマニアック過ぎやで」

 ほっとけ。

 落語を聴くのは父譲りの趣味だ。我が家の書斎には父が生前蒐集(しゅうしゅう)した音源やら書籍やらが結構あって、最近の若い女の子がキャアキャア言うような一発ネタやキャラ頼りの若手芸人なんかよりよほど面白い――って、私も若い女の子ですけどね充分。

「こないだ学校で、昼休みに秋川(あきがわ)さんたちのグループとお笑いの話になったやん」

 秋川さんというのは私たちのクラスメイトで、派手な子たち五、六人グループを仕切っている子だ。ウチは進学校なので、秋川さんも渋谷センター街のコギャルほど下品にデコレーションしてはいないが、髪を茶色に染めて爪にネイルアートを施しているあたり、TVや雑誌等で喧伝(けんでん)される、イメージとしての《今時の女子高生》に近い人種で、どちらかといえば私とは縁遠い存在である。

「それぞれ好きな芸人を挙げてった中で、マコちゃんだけ六代目志ん生とジョン・クリーズやもんなぁ。渋過ぎやでそのセレクト」

「空気読めない発言で悪うござんしたね。ど~せ私は落語とモンティ・パイソン大好きな変わり者女子高生ですよ、ええ」

 開き直った私が、ふと携帯を開いてネットニュースをチェックしていると、昨夜私の住む県内のスナックで起きた、暴力団幹部が内部抗争で刺された事件の続報が目に入った。

「意識不明のまま搬送先の病院で死亡、か。こないだの隣町で起きたストーカー殺人事件といい、何か最近うちの近辺も物騒になってきたわね」

 県警に勤務する兄貴の話によると、今年の四月に県内最大勢力の暴力団で組長の代替わりがあり、そのゴタゴタで外部組織も介入しての暴力団同士の抗争が激化しているという。

 (くだん)の暴力団は県庁所在地の住宅街――御子柴本家から百メートルくらいの場所に組長宅兼事務所を構えており、先日、兄貴の車で本家に行った際にその前を通り過ぎた。

 刑務所のそれと遜色(そんしょく)ないくらいに高いコンクリートの塀には有刺鉄線が張り巡らされ、門の前では人相の悪い見張りが目を光らせ、その近くでは制服警官も険しい面持ちでスタンバり、門の向かいの屋敷の塀には《暴力団は出ていけ》と大書された横断幕が掲げられ――と、現場のピリピリした空気が判り易く可視化されていた。

「そ~いや、今年の初めにウチの市内の定時制の生徒が逮捕された事件があったやん」

「ああ、初日の出暴走で検問に引っ掛かって身体検査したら覚醒剤出てきたってアレね」

 普段事件らしい事件もない平和な我が街だが、この事件は昨今の治安低下に伴う薬物汚染が地方の青少年層にまで広がっている深刻な一例として、地方紙だけでなく全国的にも大きく取り上げられた気がする。

 学校は違えど私たちもその余波をくらい、しばらくは放課後ファミレスに夜遅くまで溜まるのは自重せざるを得なかった。

「あれもその暴力団経由で薬物が流れたっちゅう噂聞いたけどホンマ? 暴走族ってほとんどヤクザの下部組織みたいなもんやし」

「さぁ、それは売人が逮捕されてないから何ともいえないわね。パクられた連中も売人の顔はよく見てないみたい……てゆ~か、その売人は面が割れないようにサングラスで顔を隠してたそうよ」

「ふ~ん。パクられた、面が割れない――ね」

 春水はいきなり底意(そこい)の感じられる顔付きでこちらを見た。

「何よ気持ち悪い」

「いや、マコちゃんも随分警察用語が板に付いてきた思うて。やっぱ将来は耀一(よういち)さんと同じ道に進むん?」

「まっさか」

 上司の警備部長に連日下心見え見えで擦り寄られて閉口している兄貴の姿を脳裏に思い描き、私はふんと鼻を鳴らした。

「兄貴と同じ苦労をしょい込むのはたくさんよ。まだはっきり決めてないけど、大阪か京都の大学に行ってそっちで就職しようかなと今のところ思ってる。私もいい加減兄貴離れしないとだし。それにね、昔と違って今は縁故採用あまりしないのよ警察って。《でもしか》でなるんじゃないかって人事に思われて(かえ)って敬遠されるんだって」

 私は兄貴から聞いた話を口移しに言うと、春水の目の前に人差指を立てた。

「で、そう言うあんたの方こそどうすんの進路?」

 そういえば、私たちの間でこれまで進路について具体的な話をしたことはあまりなかった。「昨日のあれ観た?」とか「このキャラどうやって攻略すんの?」とかたわいもない雑談ばかりに専ら時間を費やしていたのは、私の好きな作品の《水は低きに流れ、人の心もまた低きに流れる》という格言通り、モラトリアムという甘美な区分の賞味期限が近付いてきているという現実から目を逸らしていたのかも知れない。

 そう、私は極力想像したくなかったのだ――春水ともいつかは物理的にも精神的にも毎日のように時間を共有する関係ではいられなくなるという、ごく当たり前の未来を。

 春水はしばらく私の人差指を深い海のような瞳で凝視していたが、やがて「ほな笑わんといてや」と予防線を張った上でおもむろに口を開いた。

「声優になろ思てんねん」

 まさか――という言葉が喉元まで出かかったが、春水の目が真剣なのに気付いた私は慌ててその言葉を呑み込んだ。

「声優か、それはまた思いきったわね」

「ウチ、これまでアニメにさんざお世話になってきたから今度はウチがアニメに恩返ししたい思うて」

「あんたにしては随分殊勝な動機じゃない。じゃ卒業したら実家出るの?」

「うん、上京する予定」

 収録スタジオは都内に集中しているので、本気で声優になろうと思えば上京するのが一番だろう。一方私は今のところ上京までは視野に入れていないので、現状のままでは春水とは卒業後離れ離れになることが確定ということだ。

「ま、今はどこの専門学校や養成所がええか色々下調べしとる最中やけど。夏にもしかしたら力試しで一般公開オーディション受けてみるかも知れへん」

「春水らしいっちゃらしいけど進路調査の時に担当の先生に呼び出されそうね」

 東大首席も狙えそうな天才が声優志望――進路調査表を見た先生たちの驚く顔が今から目に浮かぶようだ。恐らく一回は進路相談室に呼び出されて、考え直してSランクの大学に進学するよう言われるに相違ない。

「ま、オタクのあんたには天職だと思うから私は応援してあげるけどさ」

 応援、口に出したその言葉がブーメランのように私の心に突き刺さった。

 本音を言えば応援の気持ちもなくはないのだが、それ以上に、とにかく地元を離れて御子柴のしがらみから自由になりたいという消極的な動機を軸に進路を設計しているに過ぎない自分に比べて、自分の目標を確立して将来に向けてしっかり歩み始めている親友への羨望、焦慮、嫉妬――それらの感情の方が強かった。

「まぁ、せいぜい武道館で三日連続でライブが出来るくらいにはなることね」

 頭の中のドロドロした雑念を振り払いながら、私は敢えて憎まれ口を叩いた。

「サンクス」

 私の胸中を知ってか知らずか、春水が綺麗な白い歯をこぼして笑ったその時、目的の駅にまもなく到着するとアナウンスが流れた。

 分厚いガラス窓に切られた遠景の山々の稜線は今しも鮮やかなオレンジから青紫に移り変わるところで、市のシンボルの天守閣に投げかけられた残照が屋根の瓦に反射して、私の視界にも射し込んできた。




          ***


 JR白陽線に乗り換えようとホームに向かうと、先端付近の喫煙所で紫煙を吐き出しながら連れと談笑していた釣りの帰りっぽい風体の男性に「お~い」と胴間声で呼ばれた。

 ドキッとした私は臆病な小動物のように身を(すく)めたが、ホームの屋根の灯りを受けて光り輝く男性の頭を確認した瞬間、相手の身元に思い当たって警戒を解いた。

「理事長~、それに大宝寺(だいほうじ)先生も」

 春水はフレンドリーな様子で喫煙所の方に歩み寄っていく。

 そこにいたのは、私たちの学ぶ経倫(けいりん)館高校の鯉沼(こいぬま)理事長と生物の大宝寺先生だった。

「うおっまぶしっ」

 春水がわざとらしく両目を覆って腰を引くと、理事長は仕方ない奴だという風な半笑いを浮かべて吸殻入れに煙草を投げ込んだ。学校の最高権力者にこんな態度を取れる生徒は、日本広しといえどもこいつだけではなかろうか。

 鯉沼家は旧幕時代に白陽藩三万石に代々漢学者として仕えた家で、維新後は旧来の藩校を旧制中学へと発展させた《経倫館中学校》を創立し、地元の士族や地主やブルジョア階級の子弟に英才教育を施した。戦後の教育基本法制定で中学校・高等学校に分割されたのに伴い《学校法人経倫館》が設立されて現在に至るが、学校の経営は戦前から一貫して鯉沼家が担っている。

 創立者から数えて六代目の現理事長・鯉沼清明(せいめい)は御子柴家とは遠い姻戚関係で、本家の集まりにも何度か顔を出していたから、互いにまんざら知らない仲でもない。

「今日はまた大宝寺先生とフィッシングですか」

 春水が訊くと禿頭を()ぜながら理事長が頷いた。

「ああ、泊まりがけで観光がてら伊豆まで行ってきたよ。お互い男やもめだから気楽なものさ」

 理事長の奥さんは五年前に病死して、私と兄貴も通夜には顔を出している。

「伊豆か~、ええなぁ」

「うん、天気にも恵まれて最高の釣り日和だったよ。料理も旨くて温泉も気持ちよかったし、日々の雑務を忘れてリラックスしたね」

「え~、理事長ってそない忙しいん? 何や、肘掛け付いた革張りのチェアに座ってゴツい机の前で偉そうにふんぞり返ってるだけやないんですか」

 これには理事長も苦笑い。

「……君は入学式の時から相変わらず失礼だね」

 理事長がため息交じりで言った《入学式の時》というのは、昨年の私たちの入学式で春水が新入生代表で挨拶を読み上げようと壇上に立とうとした際、音響機器のコードにつまづいて側にいた理事長に向かって派手にダイブをかまし、理事長が当時着用していたカツラをもぎ取ってしまった事件を指す。

 一週間ほど経って、その日日直当番だった私が日誌を取りに職員室付近まで来た時――そこには元気に走り回る、ユル・ブリンナーを彷彿(ほうふつ)とさせる綺麗なスキンヘッドに変貌を遂げた理事長の姿が。

 いや、走り回るというのは嘘だが。どうやら当人開き直ったらしかった。ちなみにユル・ブリンナーという形容は私ではなく、その時一緒にいた《映画秘宝》を愛読する中学以来の友人・綾瀬遊(あやせゆう)の言である。

「理事長って仕事もこれでなかなか忙しいんだ。決済せにゃならん書類は毎日山のようにあるし、県の役所や文科省にも認可をもらいにたびたび出張して、息子ぐらいの歳の役人方に平身低頭せにゃならんのさ。何なら明日から私の代わりにやるかね、為永君」

 それにしてもこの理事長、ノリノリである。きっと釣果が上々でハイになってるんだろな、しかもちょっち酒臭いし。

「先生、理事長ってこない絡み酒なんですか」

 さすがの春水も少し困った顔で、それまで理事長とのやり取りを微笑ましげに見守っていた大宝寺先生に助けを求めた。

「ああ、酒の席ではいつもこんなで僕が介抱役だよ。で、翌日になるとケロリと忘れてやがんだよなぁ」

 先生は銀歯を数本覗(のぞ)かせて苦笑いすると、仕方ないと言う代わりに軽く肩をシュランクした。

 大宝寺誠彦(まさひこ)先生は去年で定年を迎えているが、引き続き嘱託として奉職している。髪はロマンスグレーで背が高くスマート。まるで英国紳士のような雰囲気で、授業も判り易いので生徒からの人気は高い。

 釣りの他にはアクアリウムが趣味らしく生物室には立派なベルリン式水槽が鎮座ましましていて、中では色鮮やかなチョウチョウウオがサンゴやイソギンチャクと戯れるように泳ぎ回っている。チョウチョウウオの飼育は難しいとものの本で読んだことがあるので、先生はアクアリストとしてはかなりの技量の持ち主なのだろう。

 校舎の中庭には灌木(かんぼく)に囲まれた中に人工池があって、そこに一匹数百万は下らないと噂の錦鯉が十数匹悠々と泳いでいるのだが、その世話も先生の担当らしく昼休みに白衣姿で餌をやっている姿を時折見かける。

 つと、駅員の間延びした方言交じりの「間もなく発車しますので御乗車になってお待ち下さい」という、音が割れ気味のアナウンスがホームに流れた。

「ほら清ちゃん、そろそろ汽車出るから乗ろう」

 呑気に煙草をふかしている理事長を先生が促す。汽車という古びた言い方が先生のそれまで歩んできた人生の重みを感じさせる。

 理事長をファーストネームで呼べる教師も大宝寺先生くらいだろう。以前、司書教諭の真奈美(まなみ)先生が雑談交じりに話していたところによると、鯉沼家と大宝寺家は親戚関係で二人ははとこ同士だという。

 私たちも電車に乗り込んで七人掛けの椅子に並んで腰を下ろすと、すぐ発車ベルが鳴ってドアが閉まり、妙に甲高いモーター音と共に電車が動き始めた。

「そういえば、二人は今日どこに出かけてたんだね」

 理事長が訊いてきた。

「大阪でフリーマーケットに出展してきたんです」

 少し考えて答えた。ま、嘘は言ってないし。

「それでわざわざ大阪まで行ってきたのかね。フリーマーケットなら県内でも結構開催されてると思うが」

 味付海苔のように太い眉毛を寄せて怪訝(けげん)そうな顔をする理事長。そんな疑問空気読んでスルーしてくれりゃいいのに。

 そして、理事長の視線は私たちの足元に置かれた戦利品が大量に詰まったバックに向けられている。思わず冷や汗。あの中を見られるのは色んな意味でヤバい。

「つ、ついでです。梅田のショップで出た夏物の新作買いたいなと思って」

 昨日本屋でコミックを買うついでに立ち読みした情報誌で梅田のショップを特集してたのを思い出して適当に誤魔化した私は、

「ね、ねぇ春水」

 と、隣でニヤニヤしながら傍観者を気取っていた春水に爾後(じご)の対応を押し付け――否、バトンタッチした。

「えぇ理事長、二人でひと夏の甘~いアバンチュールに備えてセクスィーな勝負下着買うたりしたもんな、マコちゃ――いでででっ」

 うん、こいつに振ったの間違いだった。私は春水の膝をつねって黙らせる。

「際どいジョークはやめてちょうだいね、春水」

 さもないと殺すわよ、と目で言葉の続きを伝える。

「済んません……」

「はは、あまり堅いことは言いたくないが過ぎた異性交遊で先生方を煩わすような真似はやめてくれよ」

 大宝寺先生が穏やかに釘を刺すと、理事長は玩具の水飲み鳥よろしく何回も大仰に頷いて、

「うんうん、大宝寺先生の言う通りだな。今年初めに起きた暴走族覚醒剤事件のこともあるし、思わぬ犯罪に巻き込まれて警察沙汰にならないよう二人とも充分注意するように」

 ことさら厳格な口調でひとしきり説教を垂れたが、自分で口にした《警察沙汰》から連想したらしく、

「そういやお兄さんは元気かね」

 と、私に訊いてきた。

 兄貴は経倫館のOBで東大卒業後、若干の紆余(うよ)曲折を経て目下県警の警備課に勤めている。平たく言えば公安刑事である。

「ええ、仕事は凄い忙しいみたいですけどお陰様で元気です」

 殺しても死なないくらい、と心の中で付け足した。

「ふ~ん……耀一君は将来お祖父様と同様我が県の枢要を預かる地位に就くべき人材だからな、バリバリ働いて出世してもらわんと」

「は、はぁ」

 私は生返事をした。もし兄貴が今の聞いたら笑いだすんだろうな――それに、妹に同人誌のおつかいを平然と頼む人間に県の未来を委ねるのはどうかと思う。

「祖父の地盤はとうに別の方が引き継いでますし、兄にはそんな気は――」

 私が嫌々ながら生臭い話題を口の()に乗せようとした時、理事長の着ているベストから携帯のバイブ音がした。理事長は携帯を取り出して着信履歴を確認して、また懐に戻した。

「どうしたい」

 大宝寺先生が訊いた。

「うん、手島(てしま)先生の事務所からだった。帰宅したら掛け直さんと」

「昨日の首相の解散発言の絡みかね」

「だろうな、どっちにしろ今年の秋までには総選挙は確実だし。そろそろ先の予定を固めてもらわんと」

「ま、僕は全くのノンポリだから無関係なところで見守らせてもらうよ」

 何やら生臭い話である。

 私と春水は無関心を装って向かいの車窓に同時に視線を移し、闇一色に覆われた窓ガラスにどことなく所在なげに映し出された互いの姿をしばし見つめていた。




          ***


 白陽駅に到着してタクシーに乗り込む理事長と大宝寺先生と別れて数分後、兄貴の運転する迎えのヴィッツが来た。

 キャリーバッグを車の後ろに積み込み、春水と一緒に後部座席に乗り込んで車がスタートしてすぐ、私は帰路の途中で理事長たちに会った時のことを話す。

「――そりゃ野党の現職の手島代議士のことだな」

 ハンドルを右に切りながら兄貴が言った。

「野党?」

 不可解に思った私はオウム返しに尋ねる。御子柴本家は与党県支部を仕切ったり大物県会議員の後援会長を務めたりしている有力党員だから、縁続きの鯉沼家も普通に考えれば与党支持のはずなのだが。

「まっ、それは色々複雑ないきさつがあってだな」

 バックミラーに映した顔を少し曇らせて、兄貴は言葉を接いだ。

「ここの選挙区はかつては無風区――与党の磐石な地盤だったから、ずっと与党の宮原(みやはら)代議士の独り勝ちで、鯉沼理事長もその後援会に名を連ねる有力な支持者だった。

 党の最大派閥に属する宮原代議士は政務官、副大臣と順調にステップアップしていき、前政権の第二次内閣改造では文部科学大臣に任命されて遂に閣僚入りを果たした。党内ではいずれ総裁候補の一人とまで目されていたんだが――大臣に就任してわずか一週間後、地元で開かれた現在の教育問題を考えるシンポジウムの席上で、致命的な失言問題を引き起こしてしまったんだ」

「あっ、それウチ覚えてます。確か……徴兵制度があった頃は学級崩壊はゼロだった、っちゅう発言でしたっけ」

 春水がシートからひょいと身を乗り出して口を挟む。

「そう。で、野党の厳しい批判を浴びたのは勿論、党内からも大臣としての資質を問う声が上がり、十日も経たずに辞任――事実上は更迭されて経歴にすっかりミソを付けてしまい、総理総裁への夢も露と消えたという訳さ。当人もしまいには依怙地(いこじ)になったのか、委員会の議事進行を混乱させたことは謝罪したものの、問題視された発言に関しては《自分の政治的信念である》と頑として撤回しなかったがね。

 が、戦前の軍国主義を礼賛するようなその態度に、元来リベラル寄りの政治的立場だった鯉沼理事長がいたく腹を立て、突如袂(たもと)を分かって野党支持に転じ、大々的に反宮原キャンペーンを展開したんだ。理事長は昔、幼い弟と妹を終戦の年の六月末の空襲で失っているそうだから、心情的にも代議士の発言を看過出来なかったんだろうな。

 地元の政財界にも顔の利く理事長を完全に敵に回した宮原陣営は、失言問題も尾を引いてか前回の選挙ではまさかの大敗を喫し、野党の新人・手島氏に議席を奪われた。で、党執行部の思惑で比例代表の名簿順位も下げられていたから、復活当選もなし。一夜にして、《先生》からただのニートにジョブチェンジしたって訳さ」

 一夜にしてなれる職業は、政治家と売春婦だけ――という何かの本の台詞を思い出した。え~と、はらりょうだったっかしらん?

「ほんなら、自分の()いた種やねんけど宮原陣営からしてみればおもんない気持ちでしょうね~」

 春水が言った。

「だろうね。特に、自分たちの陣営を離反して落選の要因を作った理事長に対しては、午前零時に地獄通信にアクセスしたいくらい恨み骨髄に徹してるんじゃないかな。最近は永田町に解散風がひっきりなしに吹いているから、さぞかし雪辱の念に燃えていることだろうね。手島陣営の選挙活動を妨害するために県内の右翼団体にしきりに働きかけているという有力な情報も寄せられて――っと、僕らが君に語るのは例えばそんなメルヘン」

 何とも酷い小芝居である。

「……白々しいってレベルじゃないわね」

 聞こえよがしにため息をついてやった。その右翼団体とやらの動向を探っているのは他ならぬ兄貴自身だろうに。でなきゃ、そんな込み入った事情を淀みなく喋れるはずもない。

「大宝寺先生を真似する訳じゃないけど私もノンポリよ。そんな雲の上でのドロドロした争いなんか、例え本家が絡んでても毛ほども興味ないわ」

 宮原陣営が鯉沼家の姻戚である御子柴本家に接近するというのは充分考えられるシナリオである。無論私は何の力もない可憐な一女子高生に過ぎないから、興味を持つ持たないに関係なく百パーセント蚊帳(かや)の外な訳だが、

「ノンポリね、俺も部長に一度でいいからそんな台詞を吐いてみたいよ」

 権力機構の末端に身を置く兄貴の方は、対岸の火事を決め込んでばかりもいられないらしい。その投げ遣りな口ぶりから警備部長と何やら一悶着あったことは明白だったが、武士の情けで気付かないふりをした。

 うちの県は保守王国だから右翼団体には警察力も及び腰になることが多い。兄貴の話を聞く限りでは政治的な行動がお好きらしい部長のことだ、兄貴の監視対象の団体に手心を加えるよう要請し、ついでに宮原陣営のメッセンジャーボーイの役目も果たした――まあ、こんなところだろう。

 我ながらここまで気が回る自分が、少し嫌になる。

「ホンマ大変ですね」

 春水が同情に()えないという顔をした。その顔は半ば私にも向けられている気がする。

「ああ、願わくは今すぐにでも捜査一課に転属したいもんだよ。今は我が愚妹が買ってきた粟おこしと同人誌だけが心の慰めさ……」

「キモいっつ~の」

 それと愚妹言うな。

「そんなボヤかんと元気出して~な、耀一さん。今日のイベントで撮ってきたお宝写真あげますから」

 春水はバックの中からデジカメを出して、信号待ちをしている兄貴に中の画像を見せた――私が万条の仕手に扮している姿を。

 画像を一瞥(べつ)した兄貴は私に視線を移した。視線がおもむろに私の上から下まで一往復する。

「な、何よ」

「……俺の愚妹がこんなに可愛い訳がない」

 失礼千万であります。それに二回も愚妹言うな。

「ま、中身はともかく春水ちゃんの縫った衣装がいいからな衣装が。大事なことだから二回言うけど」

「ええ、ウチの一途(いちず)な愛情その他口に出すんは恥ずかしい諸々の想いがこもってますから」

 いや、その他諸々が非常に気に掛かるんだけど。

そうこうしているうち、車が春水のマンションの前で停まった。運転席を降りた兄貴が後ろに積んだ春水の荷物を下ろす。

「おおきに耀一さん。ほなマコちゃん、また明日」

 車を降りた春水は何度か手を振るとツインテールを春の夜風に揺らしてくるりと背を向け、キャリーバッグの車輪をガリガリと鳴らしながら、そこはかとなく硬質でよそよそしげな灯りに照らされたエントランスに入っていった。

 クラクションを軽く二回鳴らして、建物の中から更に手を振っている春水に別れを告げた兄貴は、鮮やかなハンドルさばきでヴィッツをUターンさせて一路自宅へと向かう。

「……また明日、か」

 ドアにもたれた私は無意識の裡に、春水の去り際の言葉を口に出して反芻(はんすう)していた。私と春水はいつまでこの言葉を自然と口に出せる距離でいられるだろうか、そう思いながら――。

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