【問題編1】オタクには売るものがある
***主要登場人物***
【御子柴麻琴】(CV井上麻里奈)
ワトソン役で重篤なビブリオマニア。私立経倫館高校二年生。
【為永春水】(CV松岡由貴)
ホームズ役で濃いオタク。麻琴の幼なじみにして同級生。
【綾瀬遊】(CV沢城みゆき)
麻琴らの同級生で元中の友人。陸上部のエース。
【御子柴耀一】(CV杉田智和)
県警本部警備部公安課に勤務する、麻琴の兄。
【鈴木修太】(CV鈴村健一)
陸上部員で遊の恋人。
【鯉沼清明】(CV穂積隆信)
学校法人経倫館理事長。御子柴家とは遠縁。
【大宝寺誠彦】(CV中村正)
嘱託の生物教師。理事長とははとこの関係。
【浦真奈美】(CV生天目仁美)
司書教諭。
【熊谷洋雄】(CV間島淳司)
住み込みの用務員。
【秋川茉莉花】(CV喜多村英梨)
派手な容姿の麻琴らの同級生。
【林健三】(CV宝亀克寿)
地回りのヤクザ。
大阪のイベント会場への道は容易ではない、ましてや百冊もの同人誌を抱えてとなればなおさらだ。
まず始発で地元のJR白陽駅から県庁所在地へ、そして新幹線のぞみに乗って小一時間揺られた末に新大阪に到着すると、在来線を二本乗り継いで大阪環状線の福島駅まで。そこから十分くらい歩いてようやっと目的地なのだが、
「――限界っ」
改札口を出たところで、荷物の重みに耐えかねた私の身体はそこかしこで悲鳴を上げていた。
「もう一歩も動けないから」
ゴツいキャリーバッグを脇に放り、一人で座り込み抗議を開始する。足に根が生えるという比喩表現があるが、今の私はまさしくこの状態。誰が最初に言いだしたか知らないが、そいつは間違いなく天才である。
「春水、こんなに刷ってマジで一冊残らず完売するんでしょうね」
私は肩で息をしながら、人一倍朝に弱い自分をこんな時間に大阪まで連れ出した友人をキッと睨み上げる。
「帰りもこんなのはごめんだから、もし売れ残ったら本は全部堂島川に放り込むわよ」
「……マコちゃんそれ環境汚染」
「ふん、今は環境問題より私の肉体問題よ」
「朝っぱらからアダルトな表現やな……いや、大丈夫大丈夫。ずぇ~ったい開場一時間で綺麗さっぱり完売するって。ウチが百パー保証する!」
いや、売り手が保証しても意味ないんですけど。
「疲れた、もうゴールしてもいいよね……」
ふと辺りを見渡すと、駅を足早に行き交う人々が一様にこちらの足元にチラチラと視線を送っている。その時初めて、天下の往来で絶対領域を盛大に晒け出しているのに気付いた私は、露出狂の趣味はないので慌ててショートパンツのお尻を払って立ち上がる。
「ナイス絶対領域」
「やかましい」
さてはこいつ、私が気付くまでわざと黙ってたな。まあいい、パンツじゃないから恥ずかしくないもんっ。
「ワンメーターだろうけどタクシー使いましょ。私が全額出してもいいから」
一応ブルジョア階級の家に生まれているが、私の金銭感覚は庶民そのものなので、タクシーなどという贅沢な移動手段はいつもなら自重するところだが、この際背に腹は変えられない。今年末にはイベント会場の近くに私鉄の地下駅が開通するらしいから、交通の便は飛躍的によくなるだろうが。
「そんな、こっちが売り子をお願いしとる立場やからウチが出すよ」
「いいわよ、私も嫌いで来てる訳じゃないんだから」
結局二人で折半ということに落ち着き、ロータリーのタクシー乗り場まで行くと、既に同じ匂いのする先客たちが順番待ちの列を作っていた。
三台見送った後に来た車に乗り込み、胡麻塩頭が三分の一ほど禿げ上がった運転手さんに「国際会議場までお願いします」と告げる。
それにしても、大阪は都会の割には初乗り料金が地元とあまり変わらないくらい安いなぁ。去年の夏、春水と初めて有明に参拝した時は初乗りの高価さにでっかい驚いたもんだけど。
「今日はお嬢さんみたいなお客さんよう乗せるけど、あそこで何かやるん?」
信号待ちの間、後部座席を振り返った運転手さんが不思議そうに訊いてきたので、私がどう答えようか思案に暮れていると、
「第三次世界大戦です」
簡潔にそう述べた春水は、逆に運転手さんに尋ねた。
「ところでおじさんは今年定年退職されたんですか」
「えっ……う、うん」
バックミラーに映ったその顔は戸惑いに満ちていた。ややあって目的地に着き、私たちを吐き出したタクシーは妖怪のサトリを見るような運転手さんの表情の残像を置き土産に走り去った。
「あんたの悪い癖よ」
私は一応たしなめる。
国際会議場で同人即売会がよく開催されるのは、仕事に慣れた運転手さんなら周知の事実だから、客が返答に困るようなことをわざわざ訊くはずもない。つまり、あの人はタクシードライバーの仕事を始めてまだ間もないことになる。そして、六十前後の歳格好と五月という時期を併せて考えると――さっきの推理のタネ明かしはこんな具合だろう。少し考えれば私だって判る。が、この理屈が一瞬で閃くのはやはり常人の業ではない。
「ごめん、マコちゃんが困っとったからおっちゃんも困らせたれ思って」
「そんなんで意趣返しする必要ないわよ」
私は肩をすくめ、ずんぐりした長方形の巨大な積み木を縦にした形状の、まさにグランキューブという愛称がふさわしい銀色の現代的建築物を仰ぎ見る。
何度となく足を運び、既に見慣れた光景。
かくして私――御子柴麻琴、そして為永春水の両名は、本日の戦場に臨んだのだった。
***
会場周辺の雰囲気を先ほどの春水の言に倣って第二次世界大戦で形容するなら、さしずめノルマンディー上陸前夜といったところだろう。二、三十代の男性が大半を占める行列自体はマナーを遵守して整然と並んではいるのだが、何が何でも目当てのブツを手に入れてやる――という、ある種殺気じみたオーラが立ち上っていた。臨戦体制である。
「お~お~、殺伐としてるねぇ」
横目で見やり、私は素直な感想を漏らす。
「今回は大手のサークルも結構参加しとるから、始発組多いんやないかな」
なるほど、列の先頭集団にはディレクターチェア持参の人もちらほら見受けられた。私たちも前回のイベントでは県庁所在地のカラオケボックスで夜を明かした後、朝の七時前に現地入りして《能登麻美子出演作古今東西》で待ち時間の大半を潰した思い出がある。
「あの時はヒートアップし過ぎて脳みそが焼き切れる思ったで……まっ、今回のウチらには全然関係ない話やけどな」
春水はニヒヒと下卑た笑い方をして、
「♪テケテケン、サークルチケットぉ~っ、ほわ~んほわ~んほわ~ん」
と、自分の白いエナメルの小さなリュックから首かけストラップが付いた《出展サークル専用通行証》を二つ取り出して、一方を私に渡した。準備会から事前に出展者に郵送されるもので、これを一般参加者の出入口のすぐ横に設けられた出展者専用出入口でスタッフさんに提示すれば、長蛇の列を尻目に悠々と会場に入れるのだ。
「有明の最終日ほどやないけど、ずら~っと並んどる人たちにとってはプラチナチケットやろな」
「実際手にしてみるといい気分ね」
スタッフさんにナチュラルな笑顔で挨拶してビルの中に入る。始発電車で来て長時間律儀に並んでる人たちにはちょっち悪いかなと思ってしまう――と言いたいところだが、正直な心境は優越感でいっぱいだった。諸子百家の荀子ではないが、人間の性ってやっぱり《悪》なんだなと改めて実感する。まぁ、会場入りしたら諸々の準備があるんだけどね。
新しいビルに特有のツンとした匂いを嗅ぎながらエレベーターで会場の十階会議室まで昇り、受付の側に設けられた準備会事務局スペースに顔を出す――とは言い条、私は春水の後ろで木偶人形よろしく控えているだけだが。
「ど~も、いつもお世話になっとるスプリングです」
春水がぺこりと頭を下げてツインテールの髪を垂らしつつフランクな感じで声を掛けると、それまで五、六人で打ち合わせをしていたスタッフさんたちがこちらに挨拶してくる。春水の方は以前からネット上で面識があるのか打ち解けた様子だが、私にとっては全くの赤の他人なので、心の裡で若干の疎外感を味わいながらぎこちなく目礼した。
ちなみに《スプリング》というのは、春水の一番よく使うハンドルネームだ。彼女にしては極めてまともなネーミングである。
「アストロンさん、今回は行列に大入袋配らなあかんくらい満員御礼やないですか~、ウチえらいびっくりしました」
と、春水は人だかりの中心らしい柔和な雰囲気の片太りの男性に話しかける。
「ええ、今回パンフの表紙に絵師の先生からイラストを頂きましたからね。その効果もあるんじゃないかと思いますよ」
準備会代表冥利に尽きます――アストロン氏は目を細めたが、すぐ険しい顔になった。
「ただ今回明らかに会場のキャパを越えてるんで、不本意だけどスタート直後は入場制限しなくちゃならんかな、と今打ち合わせてるとこなんですわ」
「ほなら次回からはお引っ越しってことですか」
「そうなりますかね。手頃な会場が見つかるといいんですが……」
「あ、これ見本誌です」
春水は今日販売する同人誌を一冊アストロン氏に差し出した。
各々の即売会によって任意だったり強制だったりまちまちだが、出展者は準備会に見本誌というものを提出する。準備会サイドで資料として保管したり、読書会というイベントを開くのに使ったりするのだ。事前に提出が義務付けられている場合、準備会が内容を確認してサークルチケット入手のみを目的として出展する不届きな連中――俗に言うダミーサークルを排除するためだったりもするが。ちなみにこの即売会は任意提出という形である。
「どうも、後で個人的にも読ませてもらいますよ」
顔を少し赤らめた《万条の仕手》が限界までメイド服をはだけて女豹ポーズを決めている表紙を見つめて、アストロン氏はにんまり笑っていたが、遠くから別のスタッフが何か問題でも起きたのか困惑したような顔でこちらに駆け寄ってきた時には、素早く仕事の顔に戻っていた。ちょっとカッコいい。
「ほな、また落ち着いたら顔出しますんで」
それを潮に春水と私は事務局を辞して自分たちの出展スペースに向かった。
両隣に挨拶してスペース内に入り、荷物を下ろす。
「ウチ売場のセッティングしとるから、マコちゃんは先着替えてきて」
「うん了解」
私はメイン会場のすぐ隣に設けられたコスプレイヤー用の更衣室に向かい、春水手縫いの衣装に着替えた。
姿見の中、少し照れた表情をした非情のメイドさんがいる。
……う~ん、やはり髪型がロングストレートなのは不自然であります。が、この髪は私が内心密かに売り物に出来ると考えている数少ないパーツの一つなので、コスプレのためにバッサリという訳にはいかない。
(これで女豹ポーズしたらさっきのアストロンさんは大興奮かしら……)
ふと脳裏に下らない考えが浮かんだ。
いや、三次元には一切興味がないほどの悟りの境地に達していて、こんな私を見ても無反応だろうか。それはちと哀しい――って、何考えてるんだ私。
「……バッカみたい」
頭をシェイクして下らない思考を追い払い、部屋の壁に掛かった丸時計に視線をやる。開場まで、後一時間半だった。
***
開場と同時に一般参加者が殺気を伴ってどっとなだれ込み、祭が始まった。どうせ猫も杓子も大手に殺到して私たちのブースには無縁だろうな、そう思っていたのだが――。
――そして三十分後、信じられないことに私は最後のお客さんを見送っていた。
次に待っていた痩せぎすの大学生くらいの男性に「済みませんが完売です」と頭を下げると、それまで刻々と低くなっていく同人誌の山を期待と不安がない交ぜになった眼差しで見守っていた彼の顔が、まるで死刑宣告でも受けたかのように絶望一色に彩られた。
彼の後ろにずらっと並んでいる人たちも同様の御面相だ。いや、私にそんな眼で訴えられましても。
何とかしろ。隣の、こちらは《炎髪灼眼の討ち手》のコスチュームに身を包んでいる春水にアイコンタクトを送ると、椅子からすっくと立ち上がった彼女は両手でメガホンを作って、
「本日《絶対領域商会》に並んでくれた人、ホンマにありがとうございま~す。ごめんやけど、本は只今を持ちまして完売しました。現在、増刷してネトオク上での販売を検討中ですんで正式に決まりましたら、改めて報告しま~す」
よく通る声で叫ぶと、行列の間からああともおおとも付かないトーンの低い納得の声が上がり、それぞれ別の獲物を求めて散らばっていった。
「ど~や、ウチの人徳」
春水はこちらを振り返ってふんと小鼻を膨らませる。
「ホント残念、あんたの本を川に投げ込めなくて」
「またまた~、マコちゃんたらそないなツンデレ発言しよって」
「だから私をツンデレと呼ぶなと何回言えば……この際だからはっきり言っとくけど、私に一切デレはないから」
「ああっ、そのワラジムシでも見るような見下した表情最高や。もっと、もっとウチを罵って~なっ!」
「死ねばいいのに」
ド変態をその場に放置して立ち上がる。
「どこ行くん?」
「あんたと違って私はもう手が空いちゃったから撮影スペースでも行こうかなと思って。ま、せっかくコスしてるから記念にね」
「マコちゃん、口では嫌や嫌や言うとったのにやっぱノリノリや~ん。まさしくツンデレの鏡――」
「あ~、うるさいうるさいうるさい。
やる気のない棒読みでそう言い捨てて私はその場を後にした。
数十歩歩いてからふと振り返ると、早速数人の男性が春水のスペースを囲んでいる。多分、今日の買い物をあらかた済ませた春水のサイトの常連さんが挨拶に来たのだろう。彼らは春水の艶姿に魅了されているようだった。
……若干の苛立ちが陽炎のように揺らめいているのを私は自覚した。
念のため言っておくが、断じて独占欲メラメラ的嫉妬とかではない。多分、これは自分自身に対する苛立ちに違いなかった――私以外にも多くの人と豊かな人間関係を構築し、大空を自由に舞う鳥のように自分の世界を謳歌している春水と、御子柴という家名から生じるしがらみに煩わされている私の身とを引き比べての。
先日、両親の法事の打ち合わせでやむをえず兄と一緒に本家で親族と同席したのだが、あのハイエナ連中は相変わらずの態度だった。御子柴家の顧問弁護士を親の代から務めている小笠原さんが座を取り持ってくれてなければ、話し合いの途中で連中の顔にお茶をぶっかけて席を蹴っていたかも知れない。法事の時にはまた連中と顔を突き合わせなければならないと思うと、今から胃が痛くなってしまう。
……あ~やめやめ、こんな格好でナーバスになっても仕方ないじゃないか私。
深呼吸を一つして気を取り直し、撮影スペースに足を踏み入れると早速数人に声を掛けられた。
「済いません~、ちょっと写させてもらってよろしいですか」
「はい、目線下さ~い」
「どうもありがとうございました~」
カメラ小僧、という言い方は語弊があるだろうが一眼レフ持ちの《いかにも》な雰囲気を漂わせ、声かけも完全に口慣れた営業口調である。かえってこっちの方が戸惑ってしまい、表情筋も終始強張りがちだったが、
「いい表情スね~、まるで本物みたいだ」
褒められた、のかな?
かくして私の姿は数十人のファインダーやらフォルダやらに収まり、私も五、六人のレイヤーさんの可愛い姿を写メに収めた。
そして、会場の熱気で喉が渇いたので自分のスペースに置いてきたペットのお茶を飲みに戻ろうとした時、
「先ほどは」
それまで撮影スペースの隅の方で壁に背を預けていたアストロン氏が、遠慮がちに声を掛けてきた。
「あ、は、はいどうもっ」
渇きのせいで声がかすれてしまい我ながら無様な挨拶だったが、アストロン氏は柔和な表情を一ミクロンも崩さなかった。恐らく気に留めないふりをしてくれているのだろう、ありがたいやら恥ずかしいやら。
「僕も一枚いいですか?」
氏がそれまでだらりと手にぶら下げていたデジカメを示して尋ねてきたので、
「もちろんっ」
私は頬を司る筋肉に総動員をかけ、最大限可愛らしく見える笑顔で応じた。胸が妙に熱い。
「じゃあお言葉に甘えて撮らせてもらいますね」
氏が目を糸のように細めたその時、なぜ私は初対面のアストロン氏をさっきから気に掛けているのか、その理由がやっと判った。
知性を湛えた一重の細い目、穏やかでいて頼りがいのある雰囲気、紳士的で柔和な口調――それらを在りし日の父の面影に二重映しにしていたのだ。
「スプリングさんがブログに書いてましたけど、その衣装手縫いなんですよね。いや、よく出来てます」
カメラを構えてフラッシュを焚きながら、氏が心から感心した風に言う。
「はぁ、私はこんなの着るつもり全然なかったんですけど……何というか彼女に唆されまして」
私はぼやかした説明でお茶を濁した。当初は断固拒否する構えだったが、先々週起きた親友が巻き込まれたストーカー事件を春水が解決したこともあって無下に断れきれなくなったのだ。
「よくお似合いですよ」
「そんな……私なんて他のレイヤーさんたちに比べて全然中途半端です、髪の毛なんか長いままですし」
「いや、でもそんな素敵なロングストレートを落とすのはもったいないですよ」
「えっ」
思わず声が一オクターブ上がってしまった。
「その黒髪にはスプリングさんみたく炎髪灼眼のコスプレも映えそうですね、次回は是非それで」
「か、考えときます」
視線を落として言葉少なに応じながらも、私の心の中ではたくさんの思考が雑踏の賑わいのように忙しなく交錯していた。
押し黙ったまま、私が先方の言葉の意味を量りかねていると、
「よかったら今撮った写真送りましょうか。差し支えなければアドレスを教えてもらえますか」
氏は更に意味を量りかねる一言を口にした。
いや、正直言うと《意味を量りかねる》は韜晦に過ぎない。いくら恋愛経験の浅い私だって、これがいわゆるナンパの常套手段である可能性に思い至らないほどウブではない。
アニメや漫画などでは定番の、突然の出逢い――私はどっちかというとそういう筋立てを「そんなこと実際ある訳ないじゃん」と鼻で笑ってきたタチなのだが、もしかしたら今日この瞬間からそのひねた考え方も修正されるかも知れない。
私がどう反応しようか考えあぐねていると、アストロン氏の顔に暗い陰が差した。
「迷惑でしたか」
まさか私が嫌がっていると勘違いしてるっ?
「とんでもないですっ」
ぶんぶんっと首を大仰に横に振って全身全霊で先方の誤解を解いた私が、
「あ、はい。私のアドレスはですねっ――」
わざとらしいくらい明るい声音で自分のアドレスを告げようとしたその時、
「――あら、ここにいた」
水色の提灯袖のブラウスを着た三十前後の女の人が親しげな様子でこちらに近付いてきた。長い黒髪を胸の辺りまで伸ばしているのが印象的だった。
女の人は五、六歳くらいのお下げを赤いシュシュで結わいた女の子の手を引いている。そのおチビちゃんはこの場に似つかわしくないプリティでキュアキュアな五人の戦士たちがプリントされた白いトレーナーを着ていた。
「何だ、結局み~ちゃんも連れてきちゃったのか」
アストロン氏が言った。
「うん、最初はお義母さんに預けてくつもりだったんだけど、どうしてもパパに会いたいって言うから」
女の人が笑顔でみ~ちゃんの手を放すと、
「ぱぁぱ~」
おチビちゃんはお下げを揺らしながらアストロン氏の方に駆け寄り、その足元にギュッとしがみ付いた。
「そうか、そんなにパパが恋しかったか~」
アストロン氏はみ~ちゃんを抱き上げて頬擦りした。
………
……
…
マジですか?
「あ、妻と娘です」
そしてトドメの一言。
私は先刻より大幅にトーンダウンした声でアドレスを告げると、早々にその場を立ち去ったのだった。