9:ゾラス侯爵夫人・ロゼーヌ様
旦那様が涙を流していらっしゃる……。どうしましょう。
あまりのことに狼狽えるわたくしの耳にも、使用人達の耳にも、旦那様の耳にも、ハッキリと食堂の向こうの騒がしさが届きました。
「ーーから、今は晩餐中でしてっ」
「ハルトが取り乱しているとは珍しい」
セナの呟きが届いて、食堂の閉まったドアの向こうから聞こえる男性はレザンとセナの息子・ハルトだと気付きました。確かに彼がこのように慌てていることはわたくしの知る中では、有りません。
やがて食堂のドアが開き立っていたのはーー
ーーゾラス侯爵夫人・ロゼーヌ様でした。
社交界の赤薔薇と讃えられ社交界にデビューしてから十五年以上赤薔薇の名に相応しく正しく君臨されているお方。尚王妃殿下は白薔薇と讃えられていて我が国の社交界には薔薇が二輪咲き誇っている、と他国でも話題です。
そのロゼーヌ様が食堂のドアから入って来た瞬間、先程まで旦那様とゆったりとした空気の中だった二人きりの晩餐会が、王城で開催される格式高い夜会に変貌したようなどこか緊張感溢れるものへと空気が変わった気がしました。
お名前を呼ぶことの栄誉は頂いてませんが、心の中でだけ、お名前を呼ばせて頂きましょう。
いえ、勝手に決めているのもダメでしょうが、憧れの方を目の前にしているので思考がきちんと回りません。
それからわたくしはセナから教わったカーテシーを披露してお声が掛かるのを待ちます。まだわたくしは公爵夫人ではないですから、身分はロゼーヌ様の方が上。身分が高い者が声をかけてそれに返すように名乗って挨拶をするものです。
「顔を上げなさい」
「初めてお目にかかります、ルファ伯爵家が一女・アニーと申します」
「成る程。セナに指導されたのね。綺麗な所作だわ。ゾラス侯爵夫人・ロゼーヌよ」
此処で旦那様がロゼーヌ様へ声をかけました。
「叔母上、何故こちらに」
「黙りなさい。あなた、わたくしが了承したからと言って彼女を迎え入れて、そのままわたくしに会わせてもくれないじゃないの」
……そういえば、わたくしの夫人教育はセナとゾラス侯爵夫人の二人で行ってくれる、というお話でした。わたくし、失念しておりました。という事は失礼をしていたのではないでしょうか。ロゼーヌ様相手に⁉︎
ど、どうしましょう。粗相があったということになってしまいます。
「それは、その、叔母上にお目にかける前にセナからある程度のマナーを学んでから、と思いまして」
「そう。まぁいいわ。でも迎え入れた、と聞いてから二十日程だったかしら? そんな短い期間でこれだけのことが出来ているのだから問題ないわ」
ええと。お二人の会話に勝手に入るわけにはいかないですよね。どうしたらいいのでしょうか。
「分かりました。ありがとうございます。日を改めて叔母上による夫人教育をよろしくお願いします。それでどうして本日いらしたのでしょうか」
「公爵家御用達の店からドレスが仕上がったことは耳にしたからよ。まさか晩餐会を開いていたとは思わなかったけれどね? さて。アニーと言ったわね」
「は、はい」
さすが、赤薔薇と呼ばれるロゼーヌ様でいらっしゃいます。華やかな外見と凛とした立ち姿にキッパリと物申す様は間違いなく花の女王と言われる薔薇の中でも華麗なる赤をイメージさせられます。
そんなロゼーヌ様に声をかけられてしまえば、曲がっていなかったとしても背筋が伸びる思いです。
「あなた、薬草茶を売り付けたいために、夫人の座を射止めたのかしら」
まさか。まさかの、ロゼーヌ様の口から薬草茶の言葉が聞こえて来るとは思いませんでした!
「薬草茶のことをゾラス侯爵夫人様はご存知でいて下さいましたか! ありがとうございます。まさか社交界の赤薔薇と謳われるゾラス侯爵夫人様のお耳に入るとも思っておりませず……。売り付けたい? ええと公爵様に売り付けるという事でしょうか? いえ、確かに契約として収益の一部を公爵家へお納めさせて頂きますが、旦那様には薬草茶を披露する機会がございませんでしたから、売り付けることはしておりません。それよりもゾラス侯爵夫人様、もし、もし宜しければ一度試飲を頂けますでしょうか? ゾラス侯爵夫人様のご感想を頂いて味の改善点がありましたら、遠慮なく申し付けて下さいませ!」
此処まで捲し立ててから気付きました。はしたないことに……。
ハッとしましたが、今更です。
「も、もし、お気に召さないようでしたら、ゾラス侯爵夫人様の許可を頂くまで販売は延長することに致しますので……」
はしたないとは思いますが、どうせなら憧れのロゼーヌ様に試飲頂きましてお認め頂きたくて、このように厚かましいことを申してみました。……厚かましい、とご気分を害してしまわれるかしら。
「薬草茶を……公爵家に売り付けようとしていたわけでは、ないの?」
わたくしの淑女に有るまじき勢いに、ロゼーヌ様がやや呆然としたように尋ねられました。……ああ、社交界の赤薔薇と謳われるロゼーヌ様を呆然とさせるなんて、わたくしは本当に愚かですわ。でも、折角ロゼーヌ様がご存知ならば、と思ってしまったのです。
「いえ、一応販売先の確保と流通経路の確保はしておりますので、旦那様に売り付ける気はないですが」
先程も仰られておりましたが、よく分からなくて決まっていることを答えました。
「もうそこまで具体的に話が進んでいる、と?」
「は、はい。お父様とわたくしとで話し合いましたので」
「つまり公爵家はどう関わるの?」
「売り上げの一部を公爵家に納める形ですが」
「ビンスの地位や権力や名声を利用するのではなく?」
ええと。ウィステリア公爵家や旦那様のお名前を利用するならば、もっと早くからそうすると思いますし、販売寸前ということにもならないと言いますけど。
「もう、販売寸前ですので……利用するならもっと早い頃から利用しているか、と。販売先も流通経路も確保をするのに苦労しましたものですから」
恥ずかしく思いますが、本当に苦労したものです。お父様が交渉して下さいましたが、調査はお父様の側近の手を借りたとはいえ、自ら調査しましたからね……。
「ふ、ふふふふふふ。そう、アニー、あなた公爵家の権力もビンスの名声も利用するなら、ギリギリで利用などしないで、さっさと利用していた、と言いたいのね?」
「はい。権力も地位も名声も富も使えるものは使いました。ですが、使えませんでしたから」
「あなたは、そういったものを使いたがるのかしら」
「それが領地と領民のためになるのでしたら、いくらでも。悪名が流れようとも、本当に民のためになるのであれば」
わたくしは物凄く酷いことを口にしています。領地と領民のためには、旦那様を利用する、と言っておりますので。ロゼーヌ様に軽蔑されようが、旦那様に嫌厭されようが、構いません。
「ふふっ、ふふふっ。そう、あなたはそう言い切るのね。では質問を変えるわ」
何でも構いません。
「ビンスの目はどう思う?」
「どう……?」
そういえば、旦那様もやけに目の色を気にしていらっしゃいましたね。よくわかりませんが何かあるのでしょうか。
「ええ。目の色。青と緑でしょ。なかなか二色が混ざった目なんて見ないでしょう」
それはそう、ですね。
「海の色ですね。とても綺麗な海の色です。ゾラス侯爵夫人様は海をご覧になられたことはございますか? わたくし、幼少期に一度見たことがありまして。大きくて広くて飲み込まれそうに怖くて、でも優しくて。旦那様の目は海そのものですわ」
ついつい興奮して語ってしまいました。
ロゼーヌ様は、やや呆然としていたと思ったら、とても楽しいのか笑い声をあげられました。
……えっ、笑い声ですか。
ちょっと驚きましたわ。
「お、叔母上」
わたくし達のやりとりを黙って聞いていらした旦那様がロゼーヌ様の笑い声に戸惑いながらお声をかけました。
「ああ、そうね、悪かったわ。アニー、あなたを公爵家の女主人として、ビンスの妻として認める。特別にわたくしの名前を呼ぶことも許すわ。それと夫人教育は厳しいから心しておきなさい」
な、なんと! わたくし、ゾラス侯爵夫人・ロゼーヌ様のお名前を呼んでいい、と許可を得ました! 早速呼ばせて頂きます!
信じられませんが、有頂天になりそうで、気を引き締めないといけませんね。
「は、はいっ。あ、でも」
返事をしてからハッと気づきます。ロゼーヌ様のご息女で旦那様の恋人であらせられるローレル様のことは宜しいのでしょうか。
尋ねようとして、自ら尋ねないことを課したことを思い出し、慌てて口を閉ざしましたが。
「でも? なぁに? 気になることがあるの?」
ロゼーヌ様に促されて、旦那様をチラリと見ると、旦那様は不思議そうにわたくしを見るだけ。ロゼーヌ様は言いなさい、と視線で圧をかけてこられます。
困ったわたくしは、旦那様のお耳に入らないようにロゼーヌ様に耳打ちをすることに致しました。
「ロゼーヌ様失礼致します」
扇子を口元に持って行き、ロゼーヌ様のお耳へと持って行けば、ロゼーヌ様も眉間に皺を寄せながら此方へ身体を寄せて下さいました。
「あの、ロゼーヌ様のご息女様のローレル様は宜しいのでしょうか」
「……は?」
「あ、あの、いえ、その、わたくしは契約結婚の妻ですし、旦那様とローレル様が恋人同士で相思相愛だと社交界で噂されておりますことに、何も口出しはしませんが、ロゼーヌ様の大事なご息女様が、その、旦那様の愛人のように扱われるのはロゼーヌ様もお嫌かと思いまして。何か、ご結婚出来ない理由があるとは思っておりますが、その理由が何とかなりましたら、わたくし直ぐにでも離縁致しますので、ロゼーヌ様のお心は痛むかと思いますが、それまでの間は、どうか、どうかわたくしを代理として夫人教育をお願い致します」
同時に頭を下げたわたくしは、信じられない、という目を向けるロゼーヌ様を見て、あ、やはり差し出がましいことを申し上げたのだ、と羞恥の思いを抱えました。
「アニー、あなた……」
「あ、あの、も、申し訳ないことでございます。出過ぎたことを申しました」
叱責される前に謝れば、ロゼーヌ様は深呼吸をしてから、わたくしに笑いかけて下さいます。……笑いかけてくださったということは、お怒りではない、ということ⁉︎
ロゼーヌ様はご自身の扇子を取り出してからわたくしに耳打ちを返して下さいます。
「先ずは、ローレルとビンスは幼馴染のいとこですが、恋人ではありません。そのように見せかけているだけで、ローレルには別にお相手がおります」
な、なんと!
噂は噂で、恋人同士ではなかったと?
しかも、ローレル様にはお相手が別に⁉︎
ああ、それでは申し訳ないことを申しましたわ。旦那様にも恋人様のことは、とお伺いしなくて良かったですが、ロゼーヌ様にはご心痛を与えてしまいました。慌てて謝罪をしようとしたわたくしを止めて、ロゼーヌ様は続けます。
「ローレルに相手がいることは秘密なので、それについての謝罪は受けません。公にされてないのだから仕方ないのですから」
なんと、心が広いです。さすが、ロゼーヌ様!
「ところで、結婚が契約とはどういう事かしら。親のいないビンスの親代わりとしては知っておかねばならないのですが?」
ちょっと笑顔なのに、なんだか怖い気がするロゼーヌ様を見て、どうしましょう、と慌てます。ご存知だと思っていたものですから……。セナとレザンをチラリと見たら、ロゼーヌ様はそれだけで理解して頂いたようで。
「分かりました。詳しくはレザンから聞きます。取り敢えず、アニーは夫人教育をわたくしも施しますから、心しておきなさい。また、後に連絡します」
それでロゼーヌ様は、耳打ちを止められまして、旦那様に後で改めて夫人教育を開始する、と告げた後、レザンを連れて「見送り不要」 と颯爽と帰られてしまわれました。
……お忙しかったのでしょうね。
それにしても。ローレル様にお相手が別にいることを知らずに申し訳ないことをしました。あと、見せかけていたのですね。ローレル様にお相手がいることを知られないための見せかけだったのかもしれませんが……。
旦那様からお話頂くまでは、黙っていないといけませんよね。うっかり口にしないように気をつけなくては。
お読み頂きまして、ありがとうございました。