表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/24

6:旦那様からのお礼状

 三日目の朝。セナとベルメがわたくしを起こしに来てベルメはカミツレティーを淹れてくれ、セナはカーテンを開けた後に白い封筒を手渡して来ました。封蝋はされていないので直ぐに読めますが、手紙? わたくしに? 誰が? と悩みました。

 兎に角封蝋がされていないのにセナが渡して来たということは、怪しい手紙ではないことは決まっています。封筒からそっと取り出し半分に折られていた便箋を開けば、そこには……


“美しい我が家の紋章入りのハンカチを確かに頂いた。ありがとう。何か礼をしたい”


 と、短く書かれていて末尾に旦那様のお名前であるビンスがサインされてあります。

 三回読み返してセナの顔と便箋とを二回視線が行ったり来たりしました。セナはコクリと頷きます。


「ええと。セナ? わたくしの読み間違いでないのならば、旦那様はあのハンカチをお気に召して頂いた、ということで合っておりますかしら」


「はい。もちろんでございます、奥様」


「あんな手慰みで刺繍した物を?」


 俄かには信じられず尋ねてしまいます。一針一針確かに丁寧に仕上げたつもりですが、あくまでも手慰み。意識は夫人教育に向いていましたからなんて言いますか、気持ちがこもっていない物、です。それなのに旦那様はお気に召したとのこと。これは一大事ではないでしょうか。

 妻として旦那様はわたくしを尊重して下さるつもりだからこそ、手慰みの刺繍を受け取って下さり、お礼状を書いて下さったのです。それなのにわたくし自身は夫人教育を反芻していて気持ちを込めておりませんでした。その上、旦那様のために、刺繍したハンカチでは有りません。これはお礼状をもらうような状態ではありません。由々しき問題です。


「奥様は手慰み、と仰いますが、どれも素晴らしい出来でおりましたよ」


 セナが微笑んで言ってくれますが、わたくしとしてはとんでもない、と思っています。


「セナ、気遣ってくれてありがとう。旦那様には申し訳ないことを致しましたわ。夫人教育を反芻しながら刺繍していた物ですから、いくら一針一針丁寧に仕上げていても、気持ちがこもっておりません。セナ、旦那様は礼をしたい、と仰っておいでですが、旦那様のために、と心を込めて刺繍してないハンカチです。わたくし、本日の夫人教育終了後に旦那様のために改めて刺繍したハンカチを作りますから、それを旦那様に渡してもらえますか。それと、このありがとうの言葉だけでお礼は充分だと伝えて下さいな」


 旦那様は噂の恋人様にだけお優しく、他の女性には冷たく接すると社交界で噂になっておりましたから、わたくしに対する態度も冷たいものだろう、と勝手に思い込んでおりました。ところがこのように気配りのあるお礼状を下さったのです。これでは却ってわたくしの方が失礼にあたります。

 セナにお礼状で充分であることと、旦那様のためにハンカチに刺繍することを伝えるよう、頼みました。


「まぁ奥様、旦那様のために改めてで、ございますか」


 セナ、少し目が輝いておりませんか?


「はい。わたくし、まさかお礼状を頂けるとは思っておりませんでしたの。セナに話すのは失礼とは思いますが、旦那様はその、女性には少々柔らかい態度を見せない、と噂されていたものですから」


 ベルメに、ね、と視線を向ければベルメも少し苦笑しながらわたくしの言葉を否定せず。あと、うっかり恋人様以外の女性には、と言ってしまいそうになるのを堪えて、ただ女性には、という物言いに直しました。恋人様のことは旦那様側から話されない限り、お聞きしないことにしたというのに。

 セナは、旦那様がそのように噂されている、と耳にして気分を害しただろうか、と様子を窺えば。


「確かに旦那様は、とあるご事情により女性の方が苦手ですが。そのような噂が社交場で流れておりましたか……」


 悲しそうな目をしていました。……ああ、わたくし、やはりセナの気分を害したのだわ。


「ごめんなさい、セナ。気分を害したわね。そのような噂は確かに流れておりますが、こうして手慰みの刺繍したハンカチに対してお礼状を下さる旦那様ですもの。わたくしは心優しいことを知れて嬉しく思いますわ。旦那様からお礼状をもらったことを仲の良い友人に話すくらいならしても大丈夫かしら? それとも実家の家族でしたらよろしい?」


 セナに謝りつつ、お礼状の便箋の文字を指で辿る。短くても旦那様の直筆で書かれたお礼状は、旦那様の優しさを伝えてくれていることに他ならない。


「奥様……。旦那様がお優しいと思って下さいますか」


「ええ、もちろんですわ。このようなお礼状をハンカチ一枚で下さいますもの。贈り物一つ、ですが、それをたかがハンカチ一枚と受け取るかどうかはお相手次第でしょう? 旦那様は美しい、と仰って下さいました。それは、旦那様がご存知の、わたくしの傷ついた心を慰めて下さいました。わたくし家族以外の殿方に刺繍した物を贈って褒めて頂いたことが初めてでしたの。……初めて、でしたの。なのに、旦那様にお渡しした物は旦那様のために心を込めた物ではないことが申し訳ないのです。ですから」


 セナはわたくしの気持ちを理解してくれたのか「畏まりました」 と静かに返事をしてくれました。


「奥様、ですが、あのハンカチはあのハンカチで旦那様にそのまま持っていてもらいましょう。旦那様もご家族以外の女性から刺繍されたハンカチをもらうのは、初めてのことでございますので。それで奥様が旦那様のために改めて刺繍したハンカチを贈って下されば旦那様も更に嬉しく思って下さいますでしょう」


 そのようにセナから諭され、わたくしは頷きます。でも丁寧なお礼状にセナに伝言するのは何だか申し訳ない気持ちとなってしまい。


「ベルメ。急ぎわたくしの一番気に入りの便箋と封筒を下さる? セナ、旦那様にお礼状のお礼を手紙に書きたいですわ。届けてもらえますかしら」


 ベルメがサッとわたくしの持ち物からお気に入りの便箋と封筒を取り出し、セナが頷くのを確認してから、最近流行しているという万年筆という書きやすいペンをベルメが渡してくれました。これは父からの結婚祝いで、随分と高価な物なのに、と心が温まりました。

 セナには父の気持ちが嬉しくて父から結婚祝いに貰いました、と、はしたなくも自慢してしまいましたのは、淑女らしくなかったですわね。

 そんなやり取りをしながら旦那様に


“お礼状をありがとうございました。ですが、手慰みに刺繍した物ですので、旦那様がお嫌でなければ旦那様のために改めて刺繍をしたいと願います。美しい、とお褒めの言葉を家族以外の殿方から頂けたことが初めてでしたので、そのお言葉だけで充分なお礼のお気持ちを頂いたと思っております。いいえ、充分以上です。わたくしがもらい過ぎな程ですので、もしも出しゃばった真似でなければ、旦那様が望む図柄を刺繍してハンカチをお渡ししたいと思います。宜しければ望む図柄をお教え下さいませ”


 と、書かせて頂きインクが乾いたのを確認してから封筒に入れてセナに託しました。その後、ようやく身支度を整えて一日の始まりです。

 引き続きセナから夫人教育を施され、昼餐の時にセナが再び封筒を手渡してくれました。どうやら旦那様からのお手紙のようで、食事を終えた後で目を通してみました。


“私のために、わざわざ刺繍をしなくても良いが、もし、もしも手を煩わせないで、刺繍をしてもらえると言うのであれば、図柄は我が家の紋章と剣を合わせた物を頼みたい。どうだろうか”


 やっぱり旦那様はお優しい方なのでしょう。わたくしの負担にならないように、とわざわざ刺繍しなくても良い、と書きながらも図柄をリクエストして下さる。きっとわたくしが刺繍をするとセナから聞いて、それならば、とリクエストをして下さった。わたくしは、そんな旦那様の優しさにお応えしたい。


「セナ、旦那様は執務室にいらっしゃるの?」


「はい」


「では、今度こそ伝言を頼みますわ。リクエストの図柄を刺繍したい、とわたくしは望みますので、楽しみにお待ち頂けましたら嬉しいです、と」


「畏まりました」


 セナが下がるのを見て、ベルメと共にわたくしの部屋に戻り、ドレスを着替えてから刺繍を始めることにします。

 尚、ドレスを着替えること自体、夫人の仕事の一つだとセナから教えられました。着たドレスで気に入りでない物ならば、それを侍女やメイドに下げ渡すことで皆が自分達のハンカチなどに作り直すことが出来るそうです。或いは古着屋に持って行って換金し、孤児院への寄付金に。これは結婚前からベルメに頼んでやっておりましたわ。

 ですので、日に何度かドレスを着替えることも夫人教育の一環なのです。何着も着ることは新しいドレスを作ることになり、お金を動かすことになる。それはデザイナーや店の売り上げとなって、生活が回るのだ、と。つまり、ドレスや装飾品を買うことも公爵夫人としての務め、なのだそうです。

 説明されれば納得です。夫人用の予算と割り振られたお金で少しは買うことも考えたいと思います。

 さて。セナの夫人教育を振り返るのはここまで。

 旦那様のために心を込めて丁寧に刺繍致しましょう。

 わたくしの事情を知っているのにわたくしを妻と迎えて下さった感謝を込めて、刺繍を美しいと褒めて下さった感謝を込めて、薬草茶の未来を繋ぐ提案をして下さった感謝を込めて。一針一針丁寧に。

 ……出来上がった刺繍は、自分でも見惚れる程美しく仕上がって、自分で驚いた程でしたが、セナだけではなく、毎日わたくしの刺繍を目にしていたベルメまでも、息を呑んでいたので、会心の出来映えだと自画自賛しても許される物が仕上がった、と自負します。


「お嬢様……いえ、奥様。此処まで素晴らしい出来栄えの刺繍は、初めて見たように思います」


 思わず、とベルメが言って来ましたが、お嬢様の呼びかけにわたくしが苦笑したことに気付いて奥様と呼び直して褒めてくれました。ずっとわたくしの側に居たベルメに褒められると感動も一入(ひとしお)ですわね。改めて贈り物として包んでから、セナに「これをお願いしますね」 と渡せば、しっかりと何があっても旦那様に渡す、というような気概を出しながら頷いて直ぐに持って行ってくれました。

 ふふ。あんなに使命に燃えたようにして行かなくてもきちんと旦那様に届けてくれますでしょうに。

 でも、わたくしの渾身の刺繍が分かってくれたようで嬉しく思いました。

 その後旦那様から頂いたお礼状は


“なんて素晴らしい出来だ。言葉が出てこなくて尽くせずに申し訳ないが、このように素晴らしい贈り物は初めてもらった。とても嬉しい。何か礼をしたいと改めて思うが、アニーが気にしてしまうのも困る。私はあなたを煩わせたいわけではない。礼が欲しいと思ったら言って欲しい”


 と喜びを露わにした物でしたので、わたくしも嬉しく思いました。しかし、改めてお礼をしたい、と言われても本当にコレと言って欲しい物が思い浮かびません。

 少し悩んでから、思いついたのは。


“旦那様が公爵家で食べられた料理の中で一番美味しいと思われたものをわたくしは食べてみたいと思います。それをお礼にして下さいませんか”


 物をもらうのは気が引けますし、そこまで欲しい物もありません。わたくしがわたくし自身のために、旦那様に心を込めて刺繍したかったのですから。

 とはいえ、改めてお礼を、という旦那様のお心を無碍にするのも申し訳ないと思いましたので、旦那様が美味しいと思われた料理を食べたい、と願ってみました。

 これならわたくしも気が引くこともないですし、刺繍したハンカチと釣り合うお礼ではないでしょうか。公爵家の料理長達が作る料理は美味しいですもの。とても楽しみです。

お読み頂きまして、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ