5:先ずは順調な滑り出し
ウィステリア公爵家の生活二日目。ベルメとセナがわたくし付きです。というか侍女長が私付きでいいのかセナに確認を取れば、わたくしの夫人教育も兼ねているから、と答えられました。確かに。そういう事ならば、と本日から夫人教育をお願いします。
昨日の時点で旦那様と食事を共にする必要もなく、夫人教育が終わり夫人の仕事が出来るまでは顔を合わせる必要もない、と聞き及んでいます。夫人が行う仕事についても旦那様と直接遣り取りせずにレザンを間に挟むそうなので、殆ど旦那様と顔を合わせる日など無い日々を送りそうですね。
まぁ、旦那様は幼馴染で恋人と噂されているかの女性のことを思えば、事情があって、わたくしと結婚をするとはいえ、わたくしと関わりたくないでしょう。良いと思います。
あと、屋敷の中も案内してもらいました。
そんなわけでセナからわたくしの一日の流れを説明してもらう事にします。
「奥様は午前中夫人教育に時間を取って頂きます」
「分かったわ」
「昼餐時にテーブルマナーを確認したら、午後は自由にお過ごし下さいませ」
以上です、という声無き声が聞こえてきました。随分とアバウトでは有りませんこと?
夫人教育はどんな内容なのか、それは実際に勉強をするのだから説明無しで構わないとして。午後は自由って二日目にして既にわたくしに裁量を委ねるとは……流石、公爵家の侍女長と言った所なのでしょうか。
つまりこれは、わたくしに自由を与える、という名目でわたくしが何をするのか考えさせるという事に他なりません。
わたくしが生まれてから今まで、培ってきた伯爵家の集大成を見せてみよ、という事でしょうか。いえ、そこまで大袈裟なことではないとは思いたいものですが……。
とはいえ、わたくしが伯爵家でどのように過ごして来たのかを知りたいという事なのかもしれません。
淑女教育をしてきたこと。教会に時折通って伯爵家と領民の幸福を祈っていたこと。併設されている孤児院への寄付金と物品を寄付して子ども達と遊んだこと。刺繍したハンカチを孤児院のバザーに出品するために刺繍していたこと。薬草を育てていたこと。
わたくしはこれくらいしか行動しておりませんけれど、これでは公爵家に相応しくない、と言われたとしても今更伯爵家での生活を変えようが有りません。ですが、せめて公爵家では下手な言動は慎まなければなりません。これはダメ出しをされてしまいますかしら。……わたくしの一挙一動に伯爵家の教育方針が透けて見える、という事ですわね。
これは、気を引き締める必要がありそうです。
しかし、自由の時間を過ごすに辺り何と言えば正解でしょう。庭の片隅にわたくしの薬草茶用の花壇を作って頂くにしても、最初から午後の自由時間は其方に携わります、と宣言をするべきなのか。それとも夫人教育で習ったことの復習を初日はしておくべきなのか。
……考えていても仕方ないですね。いくつか案を出してセナに決めてもらいましょう。少々狡いかもしれませんがこれなら、わたくしの失態が少なくて済みそうですもの。
「セナ」
「はい」
「わたくし、午後の自由時間は、午前の夫人教育の復習か薬草茶用の花壇作りか刺繍のどれかを行いたい、と思っています。どれなら宜しいかしら」
チラリとセナを見れば、セナが少し考えています。
「夫人教育の復習は勉強熱心で宜しいとは思いますが、奥様にお休みをして頂くのも侍女としての役目だと思っております。ですので花壇作りか刺繍が宜しいとは思いますが、本日は晴れておりますので花壇作り、というのはいかがでしょう。ベルメ、あなたはずっと奥様の専属だと聞いております。これなら奥様のためになりますか」
セナは自身の意見を伝えながらも、わたくしの専属侍女であるベルメに意見を求めることでベルメの立場を尊重してくれるとは……なんて気配りでしょう。
こういった気配りが出来ることも公爵家の使用人として当然なのだとしたら……使用人の教育水準が高いということ。そんな使用人に主人として認められるようにならなければ、と決意をすると共に、使用人の教育水準が高いのならば夫人教育は尚のこと求められるものが高いという事でしょう。
わたくしに出来るでしょうか。
という不安に駆られますが、今更出来ないなどとは言えません。
そのような甘えたことを言っている場合ではないのです。やるしかないのですから。
「セナ様のご質問に返しますと、奥様は今まで、淑女教育以外は教会に通うこと、併設されている孤児院に行くこと、その孤児院の子ども達と触れ合うこと、孤児院のバザーへの出品のために刺繍を手掛けること、薬草茶のために薬草の手入れを行うことが全てでございました。それ故に奥様の休憩時間、という意味でしたら刺繍の方が宜しいか、と。花壇作りは奥様の性格上、拘りながら作ると思われますので一日中の時間が必要か、と」
ベルメ……。正直ね。正直なところはベルメの良い所よ。でも花壇作りに熱中して時間を忘れてしまう、という所は言わなくても良かったんじゃないかしら……。
セナが驚いてしまうわよ、きっと。
「そうですか。ベルメがそのように申し出るのであれば、午後は刺繍に時間を取りましょう。そして奥様。花壇作りは一日、空いている日を作りますからそこで宜しいでしょうか」
セナ。流石、公爵家の侍女長ね。
表情を動かさずにベルメの意見を聞いて取り入れてくれるのですから。そして代替案まで出してくれてありがとう。
わたくしに空いている日を作ってくれるなんて、セナは優しいですわ。ありがとう。
そんなわけで、午後は刺繍に時間を費やすことにします。
さて、そうと決まったら先ずは夫人教育です。
夫人教育は一体どのようなものかしら、と我が身を律してセナの指示を仰ぎました。
カーテシー一つを取ってみても指先にまで神経を巡らせること。歩き方一つを取ってみても所作は綺麗と褒めてもらえましたが、優美さに欠けるとダメ出しを受けました。
それから夫人として執務を行うこともあるらしく、その知識が全く足りてないので執務を行うに辺り、その辺の知識をセナが教えてくれるそうです。
ダメ出しがいくつも幾つも。ですが不思議と嫌な気持ちにはなっていません。きっとダメ出ししつつも褒めるべきは褒めてくれるから、なのかもしれません。
こうして昼餐時のテーブルマナーまで確認を終えたセナは予定通りわたくしに午後は自由時間を与えてくれました。
テーブルマナーを含めて所作は綺麗であることは、少し自信に繋がってます。
優美さが身につくかどうかはさておき。
頑張ってみましょう。
刺繍をしながら頭の中で午前の夫人教育を反芻します。手元を見ずとも図柄を下書きして刺繍をしていくことにはもう慣れました。つい一昨日まで毎日毎日刺繍だけは欠かさなかったものですから。
薬草茶のための薬草の手入れをして疲れていても、時には頭が痛い日があっても、気分が乗らない日があっても、刺繍をする時間を敢えて作って来ました。
まぁ疲れた日も頭痛の日も気分が乗らない日も出来は良くなかったことは確かですが。
ルファ伯爵家は、跡取りとして弟が生まれて教育を施されています。ですからわたくしは何処かの家に嫁ぐつもりでした。そんなわたくしは、この国の婚約事情とは違い、最初は婚約者をお父様が定める予定でございました。
候補者が二人おりまして、片方の家は裕福とは言えない家でしたので、もし、其方に嫁ぐことになりましたら、何かしら内職をした方がいいかもしれない、とお父様からそっと助言が有りました。
薬草を育てる時間も場所も無い家かもしれない、と考えまして思い至ったのが割と好きだった刺繍でした。
この国の貴族女性ならば刺繍は誰しも出来るので、ちょっと好きというくらいでは内職にはならない、と考えました。実際、下位貴族の令嬢で働いている人達の中には得意の刺繍を活かして働いている人も多いからです。
だからこそ、手元を見ずとも仕上がるくらい、毎日刺繍をしました。図柄もお手本の物から徐々に自分で考案していくことまで上達しました。それでもまだまだ内職の域に達しているとは言えないかもしれない、と日々刺繍をしていましたが……。
結局婚約者の候補のどちらともご縁は出来ることが無くて内職の可能性も無くなりました。
ですが、不思議なもので毎日毎日刺繍をしていましたので内職の可能性が無くなったとしても続けないと逆に不安になってしまいました。そのうち、只管何も考えずに刺繍だけに集中するようにもなりまして今では楽しくて仕方なくなりました。
「奥様、とても素晴らしい腕前でございますね」
夢中になって刺繍をしていたら、不意に声をかけられて危うく刺繍針で指先を傷付ける所でした。危ない危ない。
それからようやくセナとベルメの存在を思い出して。
「ごめんなさい、セナ、ベルメ。集中していましたわ。それと褒めてくれてありがとう。薬草茶が出来るまではこれしか取り柄が無かったの。だから褒めてもらえて嬉しいわ」
ベルメが無言で伯爵家から持って来ていたカミツレのお茶を出してくれました。
「ありがとう、ベルメ。セナとベルメも飲んで構わないわ。ずっとわたくしに付き添っているのも大変でしょう?」
集中が途切れた所だし、休憩を取るついでにセナとベルメにも休憩するよう伝えておく。
ふっと出来た刺繍を見返してみると、ウィステリア公爵家の紋章のハンカチや兎や小鳥などの動物のハンカチ。男性に人気の図柄と言われる剣や想像上の動物と言われるドラゴンなどなどが出来ておりました。
「セナ。これ、孤児院に寄付をしてくださる?」
「まぁ、全部でございますか?」
「ええ。わたくしが持っていても仕方ないですもの。あ、セナやレザンが欲しい図柄がありましたら教えて下さいな。ぜひ刺繍したいわ」
「奥様、私共のことまで……。ありがとうございます。孤児院に寄付させて頂きますが、こちらのウィステリア公爵家の紋章の入ったハンカチは旦那様にお渡ししても宜しいでしょうか」
わたくしはセナの申し出に少し驚きました。いえ、わたくしは自分で気に入りのハンカチが有りますから欲しいわけではなくて。
恋人様が刺繍されたハンカチをお持ちになられる方が旦那様も宜しいと思うのですが……。いえ、わたくしからは口に出さず、彼方からお話下さるまでは黙っておく、と決めましたものね。
「え、ええ。わたくしの手慰み程度の物ですから、旦那様がお持ちになられるにはそぐわないかもしれませんが……。ですので、旦那様がお気に召さなければ、孤児院へ回してくださいね」
「いいえ、奥様。これほどの腕前でございましたら手慰み程度などとんでもない。お店も開ける程でございますよ」
「あら、セナってば上手に褒めてくれるわね。ありがとう」
わたくしははしたないかもしれないですが、とても嬉しくてコロコロと声をあげて笑ってしまい、慌ててコホンと咳払いをして取り繕いました。
それからセナとベルメに下がるように申し付けます。実際、セナ一人ではちょっと持てない程にハンカチが出来てしまいましたもので。
ホウッと息を吐きながらカミツレのお茶を飲んでいたわたくしは。
退室したセナがベルメに、本音なのですけどね。奥様は信じておられないですね、なんて少し肩を落としていたことも、ウィステリア公爵家の紋章が入ったハンカチを旦那様が手にして「美しいな」 と溢れるように褒められたことも、そして機嫌良くそのハンカチを使って下さることになることも、全く考えもしておりませんでした。
「随分と刺繍の時間を取ってしまいましたけれど、午前の夫人教育は反芻出来ましたし、明日の夫人教育はもう少しマシになりますかしら。取り敢えず、順調な滑り出し、ですわよね、きっと」
カミツレのお茶から薫る香りを楽しみながら公爵夫人(仮)生活二日目を無事に過ごせていることに安堵しました。
お読み頂きまして、ありがとうございました。