4:契約結婚をしよう、ですか。
ウィステリア公爵家の王都本邸のゲートから屋敷のエントランスホール前の馬車停めまでおよそ三十分程。さすがに公爵家なのですね、と感心してしまいました。御者がわたくしを下ろしてくれるのと同時にドアが開きます。
「ようこそ、いらっしゃいました、奥方様」
何十人という使用人が頭を下げてわたくしを出迎えてくれました。伯爵家である我が家でも使用人は二十人以上はおりましたが、ざっと見て五十人程居るようです。確か公爵家には本邸の他に別邸もあると噂で聞いた記憶がありますから、其方の使用人も含まれているのかもしれません。
交易の地で有名なウィステリア公爵家です。領地にある本邸は客人を招く事が多いでしょうから使用人もかなりの人数を雇っているとは思っておりましたが、王都本邸でもこの人数を雇っているのであれば、此方にも客人が来る可能性もあるのでしょう。
それにしても頭を下げて出迎える姿が皆綺麗で、その姿一つとっても教育の高さが窺えます。
ただ、不思議なことに侍女やメイド……つまり女性の使用人より男性の使用人の方が多いのです。女性は十人程、でしょうか。
それにしても婚約であって婚姻ではないのに奥方様と呼ばれました。どうやら使用人達にわたくしとの婚姻が覆る事は無い、と通達済みのようです。
「よく、来た。私がビンス・ウィステリアだ」
銀のお髪に青と緑が混じったような不思議な色合いの目をした背の高い十七歳のわたくしよりいくつか年上の男性が奥でそのように仰いました。確かウィステリア公爵は二十二歳でしたかしら。
微笑み一つありませんが、歓迎の言葉を頂けただけ有り難いと思います。
「初めてお目通り致します。ルファ伯爵家から参りましたアニーと申します。後ろにおりますのは、わたくしの専属侍女であるベルメ。どうぞこの侍女だけは、と思い連れて来ました」
「うむ。構わない。聞いているだろうが、アニーと私は式こそ挙げてないがこの婚約が覆る事はなく婚姻に至るから、使用人達にも妻として迎えてもらう事にした。式は落ち着いてから挙行する」
「畏まりました。どうぞよろしくお願い致します」
カーテシーをして夫となる公爵を見れば、微妙に目が合っていない事に気付きました。やはりわたくしとの婚姻はご事情があるようです。
まぁ社交界であれほど恋人様と噂されておりますもの。そのご事情なのでしょうが。身分は釣り合っておられますから何か別のご事情がお有りなのでしょうね。
その辺は話が出ればお伺いする事にしましょう。
「早速で悪いが話がある」
言うが早いか公爵はさっと身を翻しました。ついて来い、といった所でしょうか。一歩を踏み出そうとする公爵様に着ている衣装から考えて家令と思われる五十代後半に見える男性が何やら耳打ちをしております。
途端に公爵は足を止めて此方にチラリと顔を向けましたがやはり視線は合わず。そして顔を戻したと思いましたら。
「済まない。話をするのに場所を変えるから共に来て欲しい」
と仰られました。
ちょっと目を瞬かせてしまいましたが、淑女らしくないので「畏まりました」 と頭を下げて後をついて行きます。
どうやら、着いてくるのが当たり前ではない、とでも忠告があったのだと思いますが、素直に聞き入れられる辺り、社交界で噂の誰に対しても冷たい、という評価は違うのかもしれない、とお見受けします。少なくとも使用人には冷たく接していない、という事でしょう。
そして案内されたのは二階にある執務室でした。
二階は主人の部屋に妻の部屋と夫婦の寝室それに主人の執務室があるとのこと。案内は後ほど執事と侍女長がしてくれるそうです。
尚、ベルメは妻の部屋で荷解きをしてくれるようで、此処に来るまでの間に分かれました。
「家令のレザン。その息子で執事のハルト。侍女長のセナはレザンの妻でもある。三人は私が心から信頼していて、この婚姻の事情も全て知っている」
執務室に通して頂き、テーブル越しに対面をした私とは相変わらず視線が合いませんが、それでも三人の使用人を紹介してくれました。一人がけのソファーに公爵が腰掛け、わたくしは対面のソファーに腰掛けます。
革張りのソファーながら手触りも良く馴染む上にまるでわたくしの身体を包み込むような柔らかさのソファーにこのソファーから離れ難くなりそうだ、と思いながらも公爵を見ます。
それと同時にレザンがそっとテーブルに置いてくれた書類に気付きましたが、何も言われないうちに目を通す事は憚られます。
「その書類に目を通して欲しい」
公爵に言われて目を通します。
伯爵家と公爵家の事業内容が記されてます。難しい言い回しが所々あるので隣に立つレザンに時々尋ねて説明を貰いつつも全てを読み終えました。
結構厚い書類の内容を要約すると。
一つ。伯爵家が取り扱う薬草を使用したお茶の売り出し事業に公爵家が関わること。
一つ。その売り上げ金の二割を公爵家がもらうこと。
一つ。このためにルファ伯爵家のアニーと婚約を締結し、後に婚姻すること。
というような内容でした。
税を納めた後の売り上げ金の二割は少々公爵家に多いとは思いますが、常識の範囲内の数字です。ちょっとお金に煩い家ですと三割と言われたかもしれませんし。
残りの売り上げ金はルファ伯爵家の取り分ですし。公爵家は交易の地で国内の何処へ行こうとも公爵領を通らないと行けませんから、その通行料だけでも結構な額になりますのに、更に事業に携わりたいと仰られるとは思いもしませんでした。
それも、ルファ伯爵家で密かに考えていた事業をご存知とは……。情報を内密にしていたわけではないのですが、それにしても耳が早いことには驚きます。
「これを父は了承した、と?」
「そうだ」
「正確には何て言っておりましたでしょうか」
「伯爵家当主としては了承する。だが娘が了承するか、説得してみないと分からない」
……そうですよね。お父様ならばわたくしの意思を必ず確認するはずです。
「伯爵殿はそう言っていたが、私は君の事情を聞き及んでいた。だから伯爵殿に伝えた。そのご令嬢が政略結婚を望んでいるのではないのか、と」
成る程。それでお父様は承諾されたのね。わたくしが政略結婚を望んでいたから。
とはいえ。
事業についてはどうしましょうか。
「それで父が了承した理由は理解致しました」
「此処までは君の家と公爵家との政略結婚だ。此処からは、私個人と君個人の契約結婚の話になる」
わたくしが政略結婚の内容を理解した途端に公爵がそのように仰いました。
父が了承したことを理解しただけで、わたくしが了承したわけでは有りませんのに。……まぁ婚姻は確定で今更了承しない、などとは言えませんが。
それにしても。
契約結婚、ですか。
元々政略結婚なのに?
「契約結婚、で、ございますか」
「ああ。政略結婚は君の家と私の家との利益の話。君個人に利益はまるでない。故に契約結婚を申し出ている」
わたくし個人に利益を、と?
「それは……」
「契約書は私の条件を既に書いている。後は君の条件を足して結べば良い」
なんて尋ねようか言葉に詰まった矢先に、契約書をレザンが出してくる。
つまりわたくしから疑問は提示出来ずに条件を示せ、という事でしょうか。こういう所は公爵、と言うべきなのでしょうか。口に出しては無礼だと咎められそうですが、あれこれと決定事項で疑問も口にさせないのは傲慢さが垣間見える気がします。
でもまぁ、わたくしが望む政略結婚で、その上、一応わたくしの利益を考えて契約結婚を考えて下さっているのは、優しさ……なのかもしれません。
少し思う所は有りますが、チラリと書類を見やります。先程の家同士の契約書とは違い、今度は一枚だけの契約書です。目を通すよう促されました。
一つ。閨は共にしない。子は親戚から養子を貰う。現在候補を探している。
一つ。公爵夫人として最低限の社交で構わない。公爵家で茶会は開催しても構わないが夜会は開催しない。王家の夜会は必ず参加するが、それ以外の夜会は互いに参加の有無を話し合い決める。
一つ。公爵夫人として必要な物品の購入やお茶会開催などの支出はレザンとセナと話し合えば何でも購入して良いし、何に使用しても良い。但し収支は記帳されるので何を買ったのか、何に使用したのか明確になる。お小遣いはレザンかセナに確認すること。
一つ。公爵夫人としての仕事を覚えたら携わってもらう事もある。勉強次第。
という四点。それに公爵の名前がサインされています。
これは確かに契約書です。
「君の条件はなんだろうか」
「では。もし、可能でしたらわたくしが夫人を務める間に養子が決まりましたら、養育に関わらせて頂きたいのです。わたくし子育てをしてみたいと思っておりましたの」
「いいだろう。養子を決める候補から携わる事も許可しよう」
「ありがとうございます。それから静かに暮らしたいので、友人を招いてのお茶会を開催する事は有りますが、大々的には開催するつもりは有りません。夜会については公爵様の良きように」
「分かった」
「お小遣い等について了承致しましたが……。公爵様は何処から薬草から作る薬草茶について情報を得たのか驚いておりますが、詳細はご存知無いのでは、と思いました」
此処までわたくしと視線を全く合わせなかった公爵が、一瞬だけわたくしに視線を向けました。ずうっと公爵のお顔を見て話していたわたくしと視線が合ったのですが、直ぐに逸らされます。
「と言うと?」
ですが、嫌われているのではないようです。きちんとわたくしの話を聞こうとしていますから。
「あの薬草茶に関しては、わたくしの発案でわたくしが薬草を育て、お茶に出来るのか試し、何とか形にした所です。ですので政略結婚の内容も、わたくしに決定権がございます」
「あれは君の発案だったのか」
驚いた表情の公爵とまた視線が合いました。……直ぐに逸らされましたが。レザンもハルトもセナも驚いています。
「はい。あれは……公爵様もご存知のように、わたくしに起きた出来事によりわたくしの心を落ち着かせるために発案したものでした。そこから友人達に試飲をしてもらいながら形にしたのでございます」
「そうか……。それで伯爵殿は、当主として了承という変わった発言をしていたのだな。という事は、公爵家で二割の利益額を貰ったうちの半分を君の小遣いにする。それで良いだろうか」
「公爵様がそれで宜しければ。収支については帳面に記載される方がわたくしも安心致しますので、よろしくお願いいたします」
「ふむ。以上か?」
「いえ。もう一つ。夫人教育も受けますし、夫人として仕事も構いませんが、花壇を頂きたいのです」
「花壇?」
「そこで、わたくし専属の侍女・ベルメと共に薬草茶の元になる薬草を育てたいのです。それで公爵家でも薬草茶を飲みたいものですから」
「成る程。分かった。庭師に話を通しておく」
「わたくしの条件は以上です」
同時にレザンが書類にわたくしの条件を書き足したので、それに目を通してからわたくしはサインしました。
「では、これからよろしく頼む」
「此方こそよろしくお願い申し上げます。あ、確認をしたいことが二つ」
「なんだ?」
「一つは、公爵様を旦那様とお呼びして良いのでしょうか」
「構わない」
「もう一つ。わたくしは何年後に離縁されるのでしょう?」
わたくしのこの質問に、公爵は「は?」 と口にしたまま、何も返事が有りません。レザンが咳払いをしたら公爵がハッとして。
「い、いや。離縁する予定は無い」
と、仰いました。……あら? 噂の幼馴染の恋人様のことはどうされるのでしょうか。
まぁわたくしから尋ねることではないですね。話をされるまでは知らないフリをしておきましょう。
「左様でございますか。畏まりました。では、改めまして、旦那様、皆さま、宜しくお願い申し上げます」
そんなわけで、わたくしは本日よりウィステリア公爵夫人(仮)です。セナの案内で執務室を辞去し、妻の部屋へ向かいました。
お読み頂きまして、ありがとうございました。