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若きポベートール

作者: 犬神のしゅり

 若きポベートール

 

 星月が明るい夜ではないが目の前はひどく渦巻いていた。光が反射していない糸杉が在るはずもなく、その後ろに立つ唯一全てのうねりに負けない青い木々の集まりも在るはずがない。左上の左脳を欠いた星月の黄色い明るみの代わりにあるのは若きポベートールを見下す一つのインティである。そしてそのインティが出す白い光で本来の地球が持つ暗闇がまるで存在しないかのように隠され、笑顔をこぼす人間が周りに散らばっていたが、若きポベートールは寒がり、怯え、見えない程度にポツポツと赤く荒れた頬をくすぐっていた。そしてそのくすぐりのせいか、なぜか美しいはずの彼の目の前が本来の地球から星月が覗くあの時のようにひどく渦巻いていたのだ。


 ポベートールはふと数分前を振り返ってみる。何も知らないポベートールは勇気を持って入り乱れた密林に入ったが、自分の未熟さと枝の上から投げられる「異分子」と書かれた石ころに深く傷をつけられていた。周りはここをよく知っているが、部外者にとってはここが全くの未知であり、知っているその心持ちが本当に羨ましかった。


 その帰り道、無知の恐怖という重い病にかかりとうとう星月の見えるあの薄い世界に入ってしまって、若きポベートールはひどく悲しんだ。遂には、耳の蝸牛の奥底どこからか分からないが、ヴァレール教会のツバメの巣が鳴らすフーガのト短調が聞こえる気がしてならなかった。


 気づくとポベートールはその薄い世界にあるもう一つ部屋に立っていた。部屋にある家具は古いのだが、決して布生地に緑が多めの家具というわけではない。確かその部屋はもう一八八八年頃の遠い記憶の中であろう。異常に沈む青いベッドに腰を下ろし一点をぼんやり見つめると、やはり歪みがひどくなる。もう既に以前住んでいた本物の太陽がある世界はとっくに無くなっていたらしい。


 ポベートールは抜け出したかった。実際、ポベートール自身も分かっていたが、この青い壁にかけられた世界から抜け出すのは論理的には簡単であった。人間が生み出した硬く大きなカラドリウスを捕まえて、元の遠い世界に時間をかけて戻ればよいだけのことだった。だが社会的にはそれが不可能に思う程難しかったのである。そしてその社会的な難しさの大きな部分がポベートールのその若さにあった。美しかったあの世界では、かつて眩く輝いていた若きポベートールを羨ましがったり、褒め称えたり、期待する者がたくさんいた。更に言えば、そんなポベートールを憎む者さえ散らついていた程である。今というこの色素の油で動かしずらい時間は、カラドリウスで戻るにはとても早過ぎて、周りからの物理的に細々な落胆の目が簡単に想像できる。もう少しここで粘る必要があった。不幸なことに、若きゆえのその悩みを理解する者は多くない。ただただ年齢が小さいというだけで、星月がうねりフーガの音が響く世界で我慢をしなければならなくなってしまう。もしかしたらニュクスも昔そうだったのだろうか。


 部分的に点と濡れたベッドに横たわり誰もいない蜘蛛の空き巣が垂れる天井を見上げ、疲れ果てた頭で若きポベートールが上から真っ逆さまに落ちる想像をする。心が少し楽になったと思ったら、すぐさま悲しみで耐えられなくなったニュクスを想像し、この夢の中での幻想を止めざるおえなかった。

 そして気づくともう夕食の時であった。そういえば今日は何も食べていないということに気づきながら食堂へ向かい、周りを気にすることなくポベートール一人で静かに口に急いで入れた。勿論意識していた訳ではない。


 若きポベートールは部屋にまた籠り、深紅のゼラニウムを心に咲かせたまま早くあの密林に馴染むために、と考えを巡らせた。だが実際、ポベートールが部屋でやっていることは、深紅のゼラニウムが茶色く枯れない限り彼の未来では役に立つことがなさそうなものあった。だがどうしても学びたかったポベートールはその重いゼラニウムを枯らすことができないまま力無い目で頑張った。そして少し経って心身の疲れを感じてまたぼんやりとした。視線の先にある机上にはふちが割れて欠けている蒼いコップと今は亡き親友の姿があった。コップの中の水を飲み干して黒い厚紙に付けられた親友を見て無理矢理に微笑んだ。するとまたすぐにポベートールは別の人間を思い浮かべた。若きポベートールはその若き愛する女性を想った。そしてまたその女性に相応しい力強い人間とは遥か離れた悪夢にいる自分をひどく自ら蔑むことがとんとやめられなかった。


 今はもう星月である。歪みが少し収まった静かな星月である。ニュクスには真嘘をついてしまったが、本当のことを言えるわけがない。星月の時だけは歪みが和らいだが、どうしてもあのゼラニウムが邪魔をする。若きポベートールにはあまりにも重過ぎた。そしてその重い重力に負けてただただ下へ下へと沈む。気づくともうポベートールはまたベッドに横になり両頬をくすぐっていた。枕に水滴が付いてしまうといけないからと固い手首で防ぐが鼻もくすぐられる次第だった。最近は何かに追われる夢をよくみる。誰が悪夢の中で悪夢を見るのだろうか。おそらくポベートールただ一人だろう。そんなことを思いながら無理矢理に目を閉じた。インティには会いたくないのだけれども。


 そして翌朝また目を覚ますと既に外は騒がしかった。いつもならまだ静けさも残り太陽も出ていない頃に目を覚ますが、今日はもう既に代わりのインティがあった。深紅のゼラニウムが重過ぎてなかなかベッドから出られない。出ようとするがゼラニウムの茎や根がポベートールの心臓に這うようにしがみつき息をしづらくする。だが密林に行く時間は早々とやってきてしまう。


 密林の前にある静かで穏やかな優しい樹々は昨晩のくすぐりのせいでひどく葉を落としていた。そして上部にある耐え続けた幾つかの薄い心の間に見えるインティは、周りのその薄いひだをやはりうねらせながら真ん中で私をじっと見つめていた。どうも昨日より活発な様子である。密林に辿り着き中へ入るとやはり入り乱れている。その幾つかはここでは珍しい「部外者」に気づき無意識に若いポベートールを見つめる。この薄い絵画のような世界では何もかもが違うわけだ。その世界の言ってることを大体は理解出来るが密林の中では特に難しい。そしてそれがポベートールを困らせ、「部外者」へと変身させる。昨日とは違い、密林で石を投げつけられることは無かったが、相変わらずの意識を欠いた視線とポベートール自身の感じる「部外者」感、孤独感が残っていた。昨日はあまりにも目の前が歪み過ぎてすぐに部屋へ戻ったが、今日は少し歪みが少なかった。ポベートールは帰りに市場へ寄って白いパンと薄いサラミを買って帰った。それは何日かぶりの昼ごはんだった。ゼラニウムは依然として咲いていたが花びらは数枚ほど枯れていた。夕食の時が近づくと久しぶりにポベートールは腹を空かせ、出された玉ねぎとにんじんが入ったハンバーグをかきこむように食べた。この日はそれ以降密林のことをあまり考えないようにした。せっかくゼラニウムが枯れてきたのだから。


 だが穏やかな日々という現実は到底やってくることはない。インティが知らず知らずに顔を出し、光を浴びた深紅は急にポベートールの周りで茎や根を伸ばし始める。ポベートールは朝が嫌いになっている。ところで誰が言い始めたのだろうか。我々を勇気づける歌や本、ありがちな台詞には「朝が来る」というように「朝」を神格化するようなところがあるが、ポベートール自身「朝」のどこが良いのか理解が出来ない。彼はもっぱら夜が好きだ。夜はインティも顔を出さず、獣だらけの密林も眠り、白い光を糧とするゼラニウムも少しだけ萎んでくれる。


 部屋には昨日飲んだマンゴーのジュースの匂いがつんとあった。窓を開けて太陽のある世界への逃避が可能か考える。薄黒い鳥の死骸を拾って蘇生し、

 「迷惑をかけるが戻ることは出来ないか。もちろん僕が最悪な人間であることはわかっているが、まだ死にたくないのだ。」

 という伝言を送ろうとしたが、勇気が出なかった。朝であるはずなのに。ポベートールはもう一週間だけ、密林で死に物狂いで仲間に馴染もうと少し思った。ポベートールの背後にはゼラニウムに水をやるポボスが大勢いたが、まだ闘う勇気が残っていた。まだ負けないと目を熱くして顎を濡らしながら密林へと向かうことにした。


 家の扉を開けるとあの優しい樹々が右へ左へと激しくしていた。ポベートールの頬には普段くすぐるものに似てるがそれよりもはるかに強いものが打ち付けられた。大荒れである。ほぼ欠けていて役に立っていない石の歩道にも溢れた赤っぽい土砂が覆いかぶさり足を取られる。歩いているのはポベートールだけであった。また一人だ、と彼は思った。二十分程かけてようやく密林の入り口の前に着いた時には既にポベートールの服は色濃く、重くなっていた。


 そんな密林の中には「異分子」担当の優しいのだが適当な獣が一人いる。ポベートールは先ず彼に自分の心内を話そうと考えた。彼の小屋は高木の上の方にあり行くのが少し大変だ。小屋の前に着くと窓からこぼれる光はとんと無く、結局また落ち込んだ。最近は何もかもが上手く行かないとまた無駄に嘆いた。外はこんなにも荒れている。ポベートールの身長の十倍以上はあろう樹々が倒れそうな程風に煽られ、彼らの服は鱗のように簡単に雨風で剥がされる。そんな外をポベートールはびしょびしょになりながら歩いてきたのだ。なのに掴み所も無い、平たい小さな背中にしがみつくポボスと深紅のゼラニウムは決して落ちず、未だ枯れずにいる。


 密林の中心部に戻り獣たちの視線を気にしながらも集まりに参加した。話を聞くと、どうやら今日はポベートールは来る必要は無かったらしい。もう帰れると何日かぶりに少しの喜びを感じた。さらに正確にいうと、ポベートールの質問に答える獣達は皆冷たかったはずだが、今回は少しだけその冷たさが無かったような気がしたのだ。逆説的に考えてみると、ポベートールはそれだけで喜びを感じるようになってしまっていたわけである。


 帰り道、また同じ樹々の間を進む。未だインティは隠れている。何故か今日は長いこと悲しんでいるらしい。僕を馬鹿にするからだよ、そうポベートールは思った。


 インティの涙に打たれながら力無く歩いていると、ふとまたニュクスのことが恋しくなる。アフロディテを想う。黒い厚紙の親友を懐かしむ。全てが遠くにあり、遠い昔のように感じる。シュンポシオンはまた出来るのだろうか。ニュクスにはまた会えるのだろうか。アフロディテにも会えるのだろうか。親友はいつも心にいるが、どこか寂しい。まるで神のような遠い存在になってしまったからだ。


 若きポベートールの今はただただ全てが虚しい。ただそれだけだった。家に着いた時にはさっきより服は色濃く、重くなっていた。足先を見ると土や葉のかけらで汚れてしまっていた。


 窓を見るとすっかりインティは顔を出していた。部屋を一度出て料理場へと向かい、湯を沸かした。粉になった珈琲をあのポベートールに似た、どこかが欠けているコップに注いだ。部屋に戻り何も飾られてない白い壁をぼんやりと見る。悪夢になる前の最後の夜を思い出した。あの夜は優しいニュクスと穏やかな会話をしながら美味しそうな夜ご飯を共に選んでいた。これが悪夢の前の大事な夜だと知らなかったポベートールはあの夜素気なく、感謝も別れの言葉も少ないままだったことを悔やみ、懐かしみ、また目をじんと熱くさせた。何度泣けば良いのだろう。気づくといつもコップの珈琲は冷めている。さっき入れたばかりのはずなのだけれども、もう涙の温度と同じである。


 若きポベートールはいつも密林から帰ると密林に馴染めるように、そして密林で成功するために何時間も頑張る。頑張るのだが、いくら頑張っても今は報われる気がしない。だがここでそれを理由に諦めるのも何かおかしかった。だからポベートールは若いなりに頑張るのだ。だけれども、とポベートールはやはり考えてしまう。もし失敗したら今まで頑張っていた自分はなんだったのだろうか。誰も今の様子を見ずに、「失敗」の響きと「敗者」の名札だけに注目する。そしてそれはポベートールが大好きな現実の世界で一瞬でなく長々と続きそうな気がした。ポベートールの大好きな世界は大好きなのだけれども同時に過酷な所でもある。場合によれば、もしかしたら今ポベートールがいる絵油でベトベトしたインティのいる世界より厳しいこともあるかもしれない。そしてこの連鎖のように生まれる不安は確実にポベートールの若さゆえの原因だった。若いからこそ今ポベートールのいる状況の良し悪しがその未来に大きく響きそうな気がしてならなかった。


 小さいだろう。確かに小さいかもしれない。でも今のポベートールには確かに大きい。そして、そもそも今のポベートールには大きいも小さいもない。若きポベートールには若きゆえに周りの期待の目や、厳しい目が通り魔のナイフのように向けられている。その一つ一つの周りが白く、中心が黒く輝いてウヨウヨ動く物体が怖く、そしてその下にある心無い口元がポベートールの心を抉りそうで本当に怖かった。最近は毎日それに怯え続けるばかりで疲れ果てている。毎日毎日なぜこんな世界に来てしまったのだろうかと考えるばかりだ。体には寒気が止まらなかった。もうじき霜である。棺桶のような柔らかさがあるベッドに潜り布団に身を包むが寒気は増すばかりだった。寒いのだけれでも力は無くなっていく。もうポベートールの目は泣き疲れていた。


 自然は感じられないが、心の安らぎを感じられる場所で若きポベートールは悪夢の中で夢を見ていた。少しのお金を持ってアフロディテと歩いていた。心底幸せだった。笑顔が絶えなかった。暗い夜道だったが、異常に明るかった。目の前がはっきりとしていて、寒さも何も感じない。ただただ温もりだけがあって、希望に溢れていて、怖い目線もなかった。何を買おうか、何を食べようかそんなくだらないことに一五分も費やした。少し背の高い柔らかい木々を見つけると、その下に猫がいた。猫は仏そのものであり、どうやら二人は同じことを思うらしい。ポベートールも隣の人もできれば猫になりたかった。

 「僕たちは欲しがりすぎだよ。」

 と隣に言うと、やはり同じだった。お互い猫が好きなのだ。同じことを考えていたもんだから、と二人で微笑みあった。二人の頭は柔らかく揺れていて、頬が引き攣るもんだから目はずっと細かった。でもその細さは周りを包むほど暖かい細さだった。


 ふと目を覚ますとポベートールの目はいつも赤く、カッと開いていた。いつも何かに喰われないようにと。いつもだ。


 そしたまた厚紙に無理矢理微笑み、土で汚れた白かったはずの靴を履き、インティを無視した。残酷なことにこの生活は変わらずに続いた。

 

 これは後から聞いた話だが、一八九〇年の半ば、若きポベートールは早朝に銀の指輪と友人の厚紙を抱いて家を出たきり行方不明となったらしい。


 彼の机上には飲みかけの紅茶と点模様の滲みが今も残っている。

 

                                           令和四年四月

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