プロローグ〜その路の途中で 2
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お姉ちゃんが何曲か歌い上げてMCがやって来た時、グレーのスーツを着たおじさん……お兄さんということにしておいてあげよう。彼がわたしの隣に寄ってきて肩を叩いた。会釈をしたわたしを見て、彼はにこりと、それでいて不思議そうにつぶやいた。
「君も変わった子だなあ。関係者席を用意しているのに、わざわざ舞台袖がいい、だなんて」
「お姉ちゃんがどんな人たちに囲まれているのか知りたかったから。社長さん含め」
「俺はそんなに活躍しないさ。主役は路だからな」
実はお姉ちゃんが所属している事務所の社長さんなお兄さんは、腕を組みながらお姉ちゃんのトークに笑いが沸き起こる舞台の様子を眺めていた。ちなみにマネージャーさんは専属の人がいるんだけど、今はどっかで打ち合わせ中みたいだ。演出とかセットリストとか、色々と調整に走っているらしい。時々姿は見かけるものの、とても声はかけられない。
「ん、瑛ちゃんは後で挨拶に来させるから」
「どうせ打ち上げの時に会えるからいいですよ」
「でもなあ、ああ見えて超人気アイドルのマネージャーだ。酔ってる暇もないだろう」
嬉しそうに笑う社長さんに、わたしも釣られて笑った。
そんな感じでお姉ちゃんの歌に耳を傾けながら、世間話をしながら。そうこうしているうちにラストの曲が終わって、お姉ちゃんの感謝の声と共に万感の拍手喝采。
そして、お姉ちゃんが帰ってくる。満面の笑みを拵えた彼女は、社長さんでもマネージャーさんでもなく、一目散にわたしの元へと駆けてくる。それを抱き止めると、お姉ちゃんはわたしの胸に顔を埋めて、顔を揺らしていた。まだアンコール残ってるんだから、泣きすぎたらだめだって。
「よしよし、頑張ったね」
ステージ上の笑顔も、ドヤ顔も、寂しげな顔も、全部お姉ちゃんのそのままの姿だ。けれど、こうやって緊張の中でやりきって緊張の糸が途切れる彼女も、わたしの知ってる小豆野路の姿だ。まあ、こんな姿はお客さんは知らないわたしたちだけの特権かもしれないけれど。
ずっとわたしの胸に埋まっている彼女を待つ声が客席の方から聞こえてきた。アンコール。声と拍手は、ここにきているだろう何千人のお客さんのものより大きく聞こえた。
「ほらお姉ちゃん、アンコールみんな待ってるから、Tシャツに着替えよー」
そろそろ着替え始めないとお客さん待たせちゃう。頃合いだと声をかけてみても、お姉ちゃんからは返事がなかった。それほどまでに余韻に浸っているのか、お姉ちゃんにしては珍しい。
普段見られない光景だからか、周りの大人たちはその様子を見て、涙ぐんでいる人ばかりだった。
でも、こんなんで泣かれたら困る。まだまだこんなもんじゃない。この後ステージに戻って、新しいシングルの発表と全国ツアーの発表があって、それから新曲を可憐に歌い上げてお客さんの度肝を抜くんだ。小豆野路のアイドルの「路」はこっからまた始まるんだ。
「路、疲れたかな」
なかなか反応しないお姉ちゃんに社長さんが苦笑いをするのも無理はないなあ、と思いつつ、わたしはもう一度声をかけてみる。
けれど、返事はない。
「……お姉ちゃん?」
思わずわたしは顔に手をかけて、お姉ちゃんの顔を起こしてみた。その顔は相変わらず美しくて可愛いそれだったけど、でも、でも。
「お姉ちゃん!」
わたしの呼びかけが悲鳴に変わって、大人たちが駆け寄ってきて、大騒ぎになった。
何度呼びかけても、呼び方を変えて「路!」って下の名前で呼んでみても、二度と、あの軽やかな声を聞けることはなかった。
いつの間にかわたしの胸からお姉ちゃんの姿は消えていて、わたしは膝をついて頭を抱えてうずくまっていた。「大丈夫、大丈夫だ」と社長さんの声がずっと聞こえていたけれど、それが心の中に入ってくることは、その時はなかった。
人気絶頂アイドル、小豆野路のアイドル人生は、そこで終わった。
そしてわたしは、
――アイドルを嫌いになった。