第五話 魔への誘い
第二章 「天空の七星」のスタートです。
どうぞお楽しみください。
ご愛読ありがとうございます。
そこは、決して澄んだ景色とは言い難い。
周囲は触れることのできない純白な水蒸気で満たされている。
見通しの善し悪しは全て、この純白の蒸気次第である気まぐれな世界。
地上だと錯覚させるような、乱立する建造物は、何者かが文明を築き上げてきた証。
上を見上げると、茫然と立ち尽くしてしまう程広がる青い、青い、淀みのない空。
――ここは『アキレア天空界』商都ノブレッサ。
「あら、ハイドさん。 ご機嫌よう。 一ついかが?」
肩に触れるくらいの髪をカーキ色のバンダナでまとめ上げ、店の制服なのか緑色のワンピースをゆったりと着こなす女性がヒラヒラと手を振る。
彼女は店頭に立ち、にっこり目を細めて店番を務めている。
「……これは?」
少年は訝しげに彼女の手に握られた薬品に目をやった。
「魔力補助剤。 液剤も錠剤も両方あるわ」
「……いりません」
少年は彼女の目を見て、苦笑し、首を横に振った。
「そう……ごめんなさい。 ハイドさんには必要ないかもしれないわね。 魔力に異変を感じたらまた来てね」
少年はうんと頷き、店を後にした。
少年はノブレッサ中心街へと歩を進め、いつもの店『サッシーカフェ』で歩を止める。
ガチャリと入口のドアを開けると「いらっしゃい」と覇気の篭った小太りの中年男性の声がした。
「――いつもので」
中年男性は「好きだね」と呟くも、その図体の大きさには見合わないような手際の良さを見せ、あっという間にサーブした。
「はい。 カプチーノ」
少年は一口こくりと飲み、カウンターテーブルに置かれた新聞へと目をやった。
「……ぶっ?!」
新聞記事の一面を見るや否や、少年は口に含んだカプチーノのミルク泡を吹き出しかけた。
「サッシーさん、これ……僕が、七星魔剣の候補者……?」
サッシーカフェの店主『サッシー』は「まだ見てなかったのか」と記事を取り上げ見つめ直し、少年に懇々と説明し直した。
今朝の朝刊一面には、少年らしき人物の顔が大々的に張り出されていた。
「ハイドさん、あんた、七星魔剣の最有力候補なんだよ」
――七星魔剣。
それは天空界及び地底界の両世界に七名ずつ存在する強者たる上位七名の魔道士を指す。
大地戦争の勝敗を分ける戦局の鍵。
七星魔剣なくして勝利はない。
勝利を得たくば七星魔剣の力を。
大地戦争の勝利への希望こそが、そんな七星魔剣の存在なのである。
「僕はそんな大層なものに……」
ハイドは仰々しいほどのサッシーの説明を受け、戸惑った。
「なれるさ。 あんたなら。 あんた、この商都に来てから五年、散々このアキレア天空界に尽くしてきただろ? 資格はあるさ」
サッシーはまるで自分の事のように、自慢げにハイドの五年間の功績を話した。
窃盗団や強盗の撃退の数々。
その魔法の威力、調整加減。
人望も厚く、『ゲート』の護衛隊長にも抜擢された実力者。
※ ※ ※ ※ ※
「――だってさ。 ……ハイド」
ハイドは周囲を警戒しながら、ノブレッサを南に抜け、丘へ登り大樹へ腰掛けた。
(お前も五年間ですっかり人気者だな。 なれよ。七星なんとかってやつに。 レイス)
黒髪で青藍の瞳、黒のマントを優雅に靡かせる少年、レイスは、中に宿る赤い悪魔『ハイド』の応答にフッと笑ってみせた。
「しっ! ……ここでは憎たらしいお前の名で通してるんだ。 気軽にその名で呼んでくれるな。」
心の中で響く声とはいえレイスは周囲をキョロキョロと見回した。
――ロベリアやヘレン、リサと別れて五年の月日が経過した今、レイスの背丈は見違えるほど高く伸び、勇敢になっていた。
かつての弱々しい面影はもうどこにもない。
「僕はあの日、ハデスを追いかけ、景気良く天空界への扉、"ゲート"を通過したは良いが、ゲートは再度開かない。 つまり帰れない。 護衛隊長といっても、こんな地位だけの詰所勤務じゃ、大した情報は今後も見込めない。 缶詰めになってるのさ」
レイスは舌打ちし、木陰に横たわり、目を瞑った。
「……ハデスは逃すわ、五年もこんなところに閉じ込められるわ、お前には何度も身体を乗っ取られそうになるわで散々だ。 未だ地底界の魔道士だとバレないだけ不幸中の幸いだな」
レイスの脳裏に五年前の『ルナ・ラペスシャトー』の光景が浮かぶ。
レイスはあの日の絶望や、憎しみから何も進展してない自分に苛立った。
ここから地底界の情報は何も入ってこない。
「ロベリア……皆……元気かな」
レイスはあの日から地底界のことを夜の数だけ考えた。
ここは地底界と違い、朝や夜の概念があり、朝は太陽が登り夜は太陽が沈んでいく。
常夜の地底界と違い、輪郭がぼやける夕方は寂しさを伝える。
「いつか皆とこの景色が見たいな」
(そのためには)と、ハイドは黄昏れるレイスの独り言に割って入る。
(……ここにいる奴らを大地ごとブチ壊して、故郷から堂々と見ればいい)
レイスは「ああ」と寝返りを打って再度目を瞑った。
どこかで喧しい声聞こえ、レイスは目覚めた。
こんな小鳥や草木の揺れる音しか聞こえない丘の上で、人の喧騒など、煩わしいことこの上なかった。
「参ったな……女の子が絡まれてる」
丘の麓に目を配ると、柚色の髪色をして、豪奢なオレンジ色のドレスを着用した女の子が一人、五人の巨漢に囲まれている。
どこかの非力な貴族かお姫様だろうか「やめてください」と引かれる手を振り解こうと必死に抵抗を見せている。
「助けてやるか……」
重い腰をよっこらしょと上げ、掌を巨漢の方角へとやった。
(……ちっ……全員消すと決めてるのに、わざわざ救うのか。 物好きだなヤロウだ)
心の中から聞こえるハイドの声は、まるでレイス自身がそう思考しているかのようで、余計鬱陶しく感じた。
「黙れ……悪魔め。 救う命も捨てる命も判断するのは僕だ! 僕の魂の片割れは安くないぞ。 従え! 反発する悪魔・黒血大魔ハイド」
そう吐き捨てるとボウッと全身を纏う魔力を、そのまま手先へと練り上げた。
「"ゴウ・サンドラーバス"!」
レイスの魔法に呼応し、巨漢達のはるか頭上から全身を包む程の黄色の雷が落ちた。
地面から湧き出す雲は光と共に吹き飛び、地面を黒く焦がす。
巨漢五人は同時に、膝からガクッと倒れた。
レイスは「大丈夫ですか」と立ち込める煙を払い除け、女の子に歩み寄った。
落雷の衝撃に驚いたのか女の子は頭を抱えてしゃがみ込んでいたので、レイスはスッと手を差し伸ばした。
「あの、立てますか? もう大丈夫ですよ?」
女の子は「びっくりしたぁ」と砂埃を払いながら立ち上がった。
近くで彼女を観察すると、柚色の髪は背中までかかり、オレンジ色のアキレアの花の髪飾りを着け、ギラギラしない程良い色のオレンジ色の胸元を露わにしたドレスを着ていた。
首には星の形をしたチョーカーが鈍く光り、細いところは細く、出る所は出るメリハリのある身体つきをしていた女性だった。
「あっ」
不意にレイスは片目を閉じた。
気付くと右目が魔法の反動で、ハイドの鋭い紅い眼光に切り替わってしまっていた。
素性が割れるわけにはいかないとレイスは踵を返して立ち去ろうとした。
――が、その立ち去ろうとした手を彼女の両手がぐいっと引き止めた。
「待って」
まさに歌姫というべき澄んだ綺麗な声だった。
彼女の瞳は、驚く程ハイドのそれとそっくりで、紅い瞳が、少しばかり光が残っているだけで昏かった。
「ふふ、助けてくれてありがとう。 レイスくん」
「…………え」
レイスはこめかみが殴られたように、辺りが一瞬真っ白になった。
この世界で呼ばれるはずのない、『レイス』という名を今ここで呼ばれた。
ハイドがばらしたのかと一瞬疑ったが、
『反発する悪魔』は本人から離脱はしないと五年間の経験で承知している。
レイスは平静さを保持しようとも、全身から危険信号が出てるかのように、鳥肌が止まらなかった。
この子は瞳から既に禍々しいものを感じる。
この子、この女、アリスは危険だ、すぐに立ち去れと全神経に命じた。
「僕はレイスじゃなくて、ハイド。 無事でよかった」
冷静さを取り繕って出た必死の応答であり、弁解だった。
「ふふっ、レイスくん変なの。 そんなに悪魔の方の名前で呼ばれたいの?」
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい。
この女は不気味過ぎて、口封じなどとても出来ないと判断したレイスは全速力でその場を後にした。
「待ってってば!」
普通ならもう百メートル以上離れていて、決して聞こえるはずのない声。
それが真後ろから、かけられた。
「お前なんなんだよ! いったい何者なんだ!」
レイスは乱心を露わにして真後ろに立つアリスに怒声をぶつけた。
「わたしはアリスだよ! 思い出せない? 助けてくれて、ありがとう。 会いたかったよ。 ずーっと会いたかった。 レイスくん!」
会いたかった?
背丈、身体つき、声質からして、自分と歳の頃は同じであるが、会話が成り立たないと踏んだ。
「気にしなくて良いよ。 じゃあね」
レイスは強引に別れを告げた。
「ねぇ――」
レイスは確かに聞こえた。
背を向けるレイスに語りかける氷のようなアリスの冷たい一言。
「…………なんだと?」
レイスの眼は紅く染まり、瞳孔は縦に鋭く伸びる。
ドクン。と鼓動が地面を揺らす。
彼女は、確かにこう言った――
「あなたの世界、滅ぼしてもいいですか?」