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38:彼女の向こう側

 翌日、あたしは――駅に向かった。十七時半、本宮との約束の時間、ちょうど。

 探す間もなく、本宮はもう待っていてあたしを見つけて軽く右手を上げる。

「ぴったりだな」

 本宮がそう言って微笑みながら腕時計を確かめた。――あたしは、今日、時計をしてきていない。そしてケータイの電源もさっきオフにした。それが、今日のあたしの選択だった。

 好きにしていいんだ、感情のままに行動していいんだと思うと、心の枷がすっと軽くなった気がした。選択は悩んだものの、今居たい場所にあたしはいる。ひとつを選択したのなら、もうひとつが永遠に手に入らなくなることも――わかっている。

 そう考えると、選択しなかったもうひとつが急にあたしの心で大きくなった気がした。急激に膨らんだそれに心臓が押しつぶされそうにきゅうと痛むのを、あたしは目を閉じて深呼吸をひとつすることで抑えこむ。

本宮は、いつもどおりだった。さりげない仕草であたしをエスコートして、何気ない会話を続けている。そんな自然な動作がとても心地いい。あたしが本宮を好きになったのは、こんなところを知っているからも、あった。

 案内されたのは、リーズナブルなコース料理で最近人気のあるお店だった。待っている人もいたけれど、本宮がそつなく予約を入れてくれていたおかげでするりと席に着く。

「なんか……緊張する」

 苦笑混じりに言うと、本宮はくすっと笑う。

「へえ、紺野でもそうなんだ?」

「あ、ひどい。人を鉄仮面みたいに」

 悪戯っぽい言い方はまるで亜矢に対するからかい口調のようだと一瞬感じたけれど、本宮の楽しげな笑顔は屈託がなくてあたしをほっとさせた。

 食事が始まった頃は本宮の左腕の時計が気にかかって仕方なかったけれど、あたしは意識的にその感情に蓋をしてにこやかに会話を続け、コーヒーとデザートが出される頃にはすっかり腹を括っていた。

 香りのいいコーヒーは、気持ちもお腹も落ち着かせる。陶器が触れ合う乾いた音も耳に心地良い。

「紺野」

 その声音だけで、本宮が何を言おうとしているのかわかってしまう。何も言わなくていいよ、と思わず声に出してしまうそうなのを呼気と一緒に飲み込んで、あたしは目線を上げた。

 優しいまなざしが、痛みのせいで僅かに歪んで見える。本宮が抱いている痛みは、最初からあたしもわかっていたものだった。あたしは最初からそれを知っていて、本宮の共犯になったのだもの。

「俺……亜矢を、忘れられなかった」

 押出すように、けれどあたしにしっかり伝えるために本宮が僅かに掠れた声で呟く。あの日以来、本宮が初めて亜矢のことを名前で呼んだのも、もちろんわかっていた。

「紺野が、全部理解してくれてたの、わかってた――いや、わかってる。それに、俺、甘えてて」

 あたしは穏やかな気持ちで微笑み、小さく首を振る。ううん、本宮は最初から甘えてなんていなかったよ。ずっと亜矢を思って、その向こう側のあたしのこともちゃんと見ててくれていた。

 ――ただ、亜矢の存在が、亜矢への思いが大き過ぎただけ。

「……伊東にも」

 本宮はしっかりとあたしを見据えたまま、伊東さんの名前を口にする。目を逸らしたのはあたしの方が先だった。カップを見つめながら、伊東さんの健気な涙を昨日のことのように思い出す。

「伊東にも、悪いことしたと思ってる。俺の甘えが紺野も、伊東も、傷つけることになって――本当に、ごめん」

 そっと視線をあげると、本宮と目が合う。穏やかな笑みを浮かべたいつもの表情じゃなく、例えば弓を引いて的を睨んだときのような――ひどく真剣な顔。

 あたしの目をじっと見つめ、本宮は小さく、でもしっかりと頭を下げた。いつもは見えないつむじが見える。

「本宮」

 彼の名前を呼ぶと、本宮がゆっくりと頭をあげてあたしを見る。きりりと引き締まった表情に向かってあたしが僅かに微笑むと、ほんの少しだけ、本宮の気持ちが緩んだように見えた。

「あたし、楽しかったよ。本宮が傍にいてくれて」

 浮かべた微笑は、最初は意図的だった。あたしは大丈夫、きっと大丈夫と何度も心に言い聞かせながら、唇を弓形にしならせ、言葉を喉から押出していく。

「本宮があたしのことを見てくれて、ホントにね、嬉しかったんだ」

 本宮が、下唇を噛むのをあたしは見つめていた。それでも本宮は、あたしから目を逸らさずにじっと次の言葉を待っていてくれる。それは本当に本宮らしくて、あたしの微笑は意図的なものから自然なものへとスライドしていった。

「ずっと……一年の、委員会のときからずっと、好きだったから」

「一年……?」

 驚いて、本宮が目を瞠る。記憶を手繰るように何度か瞬きをした本宮は、ちょっと耳を赤らめて、口許をてのひらで覆う。照れたときの、彼の癖。

「ごめん、俺、気付かなくて……」

「ううん」

 例えばそんな風に照れる表情とか。伏せられるまつげの影とか。照れくさいのを隠そうとする大きな手とか。あたしは本宮の、そういう小さな仕草も好きだった。

「だから、本宮があたしを見てくれたとき、本当に本当にね、嬉しかったの」

 本宮は耳を赤く染めたまま、口許を覆っていたてのひらで前髪をかき上げる。その仕草は本宮が照れて困っているときのものだってことも――うん、わかってる。

「……俺、さ」

 数秒、沈黙したあとで本宮があたしを見る。耳の赤みはもう、消えかけている。

「紺野のこと、好きだったのは――ホントだから。今更じゃ……説得力ない、けど」

 真剣な口調と視線に対して、あたしは僅かに目を伏せる。本宮と一緒に過ごした時間は短かったけれど、そこに気持ちが無かったわけじゃないことは、あたしにもわかっていた。

 触れた手や、唇や、向けられたまなざしの柔らかさ――今でもまだ、思い出せる。そのすべてがあたしだけに向けられていた時間は確かにあって、あたしはその間、とても幸せだった。

 思いを馳せて目を閉じていたあたしは、胸の奥からこみ上げてくる痛々しい切なさに思わず一粒だけ涙を溢れさせてしまい、つい「あ」と声を上げてしまう。

「紺野」

「違うの、大丈夫――幸せだった、って思って」

 掠れる本宮の声にあたしは慌てて手を振ってそう言ったけれど……本宮はきゅっと唇を引き結ぶ。

「紺野と一緒にいて、俺、楽しかった」

 本宮は真面目な顔でそう言うと、ふと、唐突に笑みを浮かべる。

「カラオケ、意外な曲知ってたりとかさ、映画観たあと弾丸トークしたりとか。一緒に花火やったときは俺たち二人とも夢中になっちゃって、夜中なのに随分騒いだよな」

 くすくすと思い出し笑いをする本宮につられて、あたしも思わず笑い出す。

 そうだね、たくさんあったね、楽しかったこと。一緒にたくさん、笑ったよね。

「紺野の笑った顔、俺、好きだよ」

 付け加えられたその言葉に、あたしはどきりとさせられる。思わず笑いが止まって本宮を見つめてしまったあたしに向かって、彼は笑いながら小さく頷いた。

「ありがとな」

 そして微笑んだ本宮の顔は、あたしが今まで見た中で一番――穏やかで、柔らかくて、優しかった。


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