37:コール・コール・コール
ぼんやりと夜が進んでいくのを、あたしはずっとベッドの中で感じていた。何を考えているのか自分でもわからなかった。内沢さんのことなのか若原のことなのか本宮のことなのか――ただうっすら感じているのは、何もかもをはっきりさせるべきだということだけ。
そのきっかけは内沢さんだったけれど、彼女のせいじゃない。あたし自身が――
ふと、ケータイが設定している着メロを鳴らす。あたしはのろのろと手を伸ばして耳に当てる。緩慢な動作が、その着信があたしの待っていたものではないことを表していた。
『紺野? こんばんは。今平気?』
「――うん」
本宮の声は、いつも同じだ。優しくて穏やかで、そして控えめな口調。
『希に会って来た。あいつ、親と担任と俺とそれから笹木にも説教喰らって、結構めげたっぽい』
「そっか」
本宮がわざと茶化した言い方をするのに気づいていた。だからあたしは声に僅かな笑みを含ませる。
『残り皆勤で登校しないとマジ留年させるって脅されてたよ。さすがに来週からは来るだろ』
「そうだね」
『で、さ』
本宮にしては珍しくあたしの返事に重ねるように次の言葉が続けられ、あたしは黙ったまま次の言葉を待った。
『明日、飯食いに行こうと思うんだけど……いい?』
きちんと話をするよ、と言った本宮の声が蘇る。そう、伊東さんのこと。言われて脳裏に蘇るのは、あたしの横を素通りしていく、本宮の横顔。
他のことに囚われていたことを気取られないように、あたしは小さく「うん」と返した。
『なら、十七時半に駅で。改札前の自販機のとこな』
あの日から本宮とあたしの間には、穏やかな時間が流れていた。伊東さんと本宮に遭遇したあの時間がまるで嘘みたいに、穏やかで、優しくて、幸せで――それが偽りだったことに、あたしも本宮も気づいていたけれど言及しなかった。本宮が整理出来たときに言ってくれればよかった。あたしは、決定的な何かを聞きたくなかっただけなのかも知れない。
「うん、わかった」
何を――本宮はあたしに、何を告げるんだろう。伊東さんと一緒だった言訳なのか、それとも別な思いを? あたしは本宮に、何を告げるんだろう。まだ自分の心さえもわかっていないのに。
優しく切れた電話を握りしめると、まるでそれに反応したかのようにブルルと震える。メールの着信を認めてあたしは再度ケータイに向きあった。
「あ……」
差出人を見て、あたしは思わず呟いた。若原、からだ。一瞬強張った指が、ゆっくりと確定キーを押す。
『明日十八時、ブランコにて待つ。返事は要らないよーん』
いつもと変わらないメールの文面にあたしは苦笑を漏らしつつ、指定の時間を見て手が凍る。十八時って……本宮との約束は十七時半。どうみても、間に合いそうにない。どうしよう。
本宮に事情を話して時間をずらしてもらうか、もしくは若原に? それともあたし、ここで何らかの決断が必要なんじゃないか――ぐるぐると考えてるあたしの右手で、ダークレッドがまた鳴った。
着信音におそるおそる、あたしはケータイをのぞき込む。
「あ」
思わずそんな安堵の声が漏れてしまう。ちょっぴり救われたような気持ちであたしは通話ボタンを押した。
『あ、結ちゃーん?』
耳に明るい亜矢の声。その柔らかな雰囲気にほっとして、あたしは「どーしたの?」と明るい声で返事をした。つい、笑顔も一緒に。もちろん、電話の向こうの亜矢には見えていないだろうけど。
『うん、大丈夫かなーと思って』
たとえば、亜矢のことを凄いなと思うのはこういうときだ。あたしはなかなか弱音を吐くことが出来ない自覚があるし、亜矢は普段特にそれに言及することはない。けれどこんなとき――あたしがどうにもならなくて迷って困っているのを何でわかるんだろう。どうしてこのタイミングであたしに電話をくれるんだろう。
「ねえ、亜矢」
普段、立て続けに自分の話をする亜矢の声は電話の向こうから聞こえてこない。あたしの次の言葉を、声を待っているんだってこと……わかってる。うん、亜矢、わかってるよ。
「あたし……いろいろ、考えないと、いけないよね」
自嘲気味になったのは自分でもわかってる。あたし自身、大きく頷くしか答えのないことを知っている。
僅かな沈黙の後、電話の向こうでふふっと小さく笑う声が聞こえた。
『考えなくっていいんだよ。結ちゃん、考えるのはちょっとおあずけしよ?』
意外な亜矢の言葉に、あたしは咄嗟に返事に詰まる。亜矢は気づいてるのかいないのか、気にせず続けていく。
『考えるより先にさ、感じるじゃない? 気持ちいーいとか、なんか気に入らなーいとか。それでいいと思うんだ』
「亜矢……」
亜矢は、物事を深く考えることをしない子なのはよく知ってた。その場の感情で動くタイプなのも知ってる。……だからこそ、亜矢の彼氏はコロコロと変わるのだけど。
けど、それでいいのかもしれないって思ったのは初めてだった。感情を優先してしまって、それでもいいのかもしれない。今あたしがどの選択がしたいのか――それを優先してしまっていいのかもしれない。
でも、あたしにそれが、許されるんだろうか?
『いーんだよ?』
絶妙のタイミングで亜矢がそう言った。電話の向こうではたぶん、いつもの亜矢スマイルを浮かべているんだろう。
まるで心の中を見透かされてしまったみたいで、あたしは電話を持つ手をびくりと震わせる。ごくりと喉が鳴ったかもしれない。
『結ちゃんはさ、結ちゃんのしたいようにしていいんだよ。あたしとか、亮くんとか、希くんとか――あと内沢さんとかも含めてね、他の人のことは考えなくていいんだよ』
亜矢の声は、いつもどおりだった。ちょっと楽しそうな、悪戯っぽい亜矢の声。それが紡ぐ言葉が、すんなりとあたしの心に沁み込んでいく。
亜矢の声を聞きながら、あたしは静かに泣いていた。悲しいとか辛いとかじゃなく、嬉し涙でもなく、ただ泣けるのだ。ただ、涙が溢れていくのだ。
『結ちゃんがね、結ちゃんらしくいてくれるのがあたし、好きだよ』
どうしてわかるんだろう。あたし、一度も亜矢に悩みを相談したことなんてない。いつも亜矢があたしに頼って、相談して、あたしはいつも、亜矢の面倒を見て、アドバイスしたり話を聞いたり――ときどき、亜矢はあたしのことを本当に友達だと思っているのかなって考えてしまうこともあったのに。
亜矢、あたし――あなたに降参だよ。
そう、深く考える必要はない。亜矢はきっと、自分がいて気持ちいい場所にいて、自分が気持ちいい人に囲まれることを選んできている。その選び方が素直な分、あからさまな分、周りからの誤解も嫉妬も多いんだろう。そういえば亜矢はあれだけの中傷を受けていても自分は誰かの悪い噂をしたり嫌な風に言ったりすることは一度もなかった。亜矢はいつでも裏表がなくて、自分に素直だった。
「……ありがとう」
静かに涙を拭ったあたしがそう呟くと、亜矢はちょっと嬉しそうに
『どういたしまして!』
と返してきて、『じゃあ、またね!』と唐突に電話を切った。
ついさっきまで迷いに迷っていた心はきれいに晴れていた。あたしは久々に迷うことを止めて、まずは自分の感情に正直に選択してみようと思いながらケータイをぎゅっと抱き締めた。