36:彼女が守りたいもの
本宮と亜矢に「じゃあね」と手を振って、あたしは昇降口へ向かった。試合明けで部活は今週いっぱい休みだし、用があるからって断った手前早く帰っちゃおうと昇降口に向かう廊下を曲がって――足を止めた。
あたしを待っていたんだ、ってすぐにわかった。廊下の向こう、いつもの厳しい視線があたしの足音に反応して、内沢さんとあたしの目が合う。じっと見つめられる中、あたしはゆっくりと歩き始め、内沢さんに近づいていった。
彼女は何も言わない。ただじっとあたしを睨んでいるだけで――そういえば彼女が笑ったところなんてほとんど見たことがないな、とあたしは場違いなことを考えていた。
「どういうつもりなの」
語尾を上げない聞き方で、内沢さんが口火を切る。いつものことで何か責められるだろうことは予想していたけれど、内沢さんが何を知りたいのかわからない。どういうつもり、と問われてもそれが何を指しているのかすら――彼女がどこまで、何を知っているのかもわからない。
「希のこと、どうして信じないの」
「……え」
内沢さんの二つめの質問にあたしはその意味がつかめず、つい、間抜けな声で聞き返した。 答えを探すより前に、何を言われているのかわからなければ答えようがない。信じないの、って……あたしが若原を信じていない、っていう、意味? あたしが若原を信じていないなんて、そんなこと、ない……よね?
そこまで考えて思う、あの夜のやりとり。あたしは若原に、からかうのは止めてって言った。言っていい冗談と悪い冗談があるって。若原がジョークであたしに好きだなんて、そんな嘘は言わないでって―― 内沢さんの指摘を正確に理解したあたしは、彼女から目を逸らす。それでも彼女があたしを睨み続けていることが感じられるほど、視線は強かった。
顔を伏せて、あたしは唇をかみ締める。若原を信じていないと詰られるよりも、あのときのことを若原が内沢さんに話したんだっていうことの方が嫌だった。あれきり学校に姿を見せず本宮からの電話にもあたしからの電話にも出ない若原が、内沢さんには話したっていう事実――彼女の方が、若原に近い場所にいるっていう、事実が、嫌だった。そんな醜い嫉妬心があたしを初めて内沢さんに対峙することを選ばせる。顔を上げてきゅっと表情を引き締めると、それにカチンときたらしく内沢さんが眉を吊り上げる。
「好きじゃないならきっぱりそう言えばいいじゃない、どっちつかずの態度が一番、希を傷つけるのよ」
冷たい水を一気にぶちまけられたような、ってこう言うときに使うのかもしれない。その言葉は見事にあたしの心の中、一番奥に隠していた恐れを現実に引きずり出す。怒りに頬を紅潮させた内沢さんは、大きな瞳でずっとあたしを睨んでいた。強く、強く――たぶんそれは、若原への思いに比例して。
一番痛いところを突かれたあたしは呼吸さえをも飲み込んでしまっていた。咄嗟に何も言い返せない。ううん、咄嗟じゃなくてもあたし、何か言えるはずがない。今は何を口にしても全部、言い訳に聞こえてしまう。内沢さんに対してというよりもそれは、自分自身に対して。
ゆるゆると傷つくことから逃げてきたあたしがどれだけずるかったか、今更ながら痛感する。あたしは言及されないのをいいことに沈黙を選んだ。現状維持が誰かを傷つけることより、選択によって何かを失うことを――怖がってたんだ。
「希の優しさを利用しないでよ……!」
内沢さんはあたしから目を逸らさなかった。そしてあたしも、内沢さんから目を逸らせなかった。責められているのにそこから逃げることも出来ず、ただただあたしはその場に立ちすくんでいた。人間が次々に涙を溢れさせていく不思議に魅入られたように、あたしはじっと内沢さんの涙を見つめていた。
「あなたなんかに、希を傷つける権利なんか――ないんだから!」
内沢さんは最後にぼろぼろと大粒の涙を溢れさせつつ強い声を保ったままそう言うと、くるりと踵を返していく。その背中は、あたしの言い訳や説明や自己弁護の言葉をすべて跳ね返した後姿は、ときどき嗚咽のために小さく肩を上下させていた。
あたしは泣くことさえも許されないような気がして、内沢さんの足音が廊下の向こうに消えるまで、ただ呆然とそこに突っ立ったままだった。