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34:あんたってサイテー

 家に帰ると、まっすぐベッドに突っ伏した。枕がふんわりと涙ごとあたしを受け止めてくれるのをいいことに、あたしはそのまま少し泣いた。

 自分が何を感じているのか、わかっていなかった。泣き疲れたあたしは恐る恐る、自分がしたことを思い返し始める――なんで、あんなにショックだったんだろう。

 ぼんやりと、考え始める。ここには誰もいない。誰もあたしを責めたりなんかしないから、だから、本当のことを、考えてみてもいいんじゃない? ――そんな風に言い聞かせてあたしは、目を閉じる。

 うとうとと、気持ちのいいまどろみから現実に引き戻されたのは着信音だった。そのまま放っておくとしばらくたって鳴り止み、それからまた鳴り始める。うっすらとした記憶の中でその繰り返しを聞いていたあたしは、ようやく手を伸ばしてダークレッドのケータイを手で開くと見もせずそのまま耳に当てた。

『ゆーこちゃん?』

 その声に、とろとろとした眠りは潮が引くようにさっと消えた。予想をしていたはずなのにいざ若原の声を聞くと頭の中は真っ白に消去されて返す言葉が出てこない。

『どーしたんだよ、なんかあったのか?』

 何も言わないままあたしは、ケータイを閉じる。ぱたんという軽い音と一緒に電話は切れただろう。そのままの体勢で大きく深呼吸をすると――今度は耳だけじゃなく手にも着信の震動が伝わった。あたしは、突っ伏していた枕からことさらゆっくりと顔を横にずらすと、手の中のダークレッドを見つめた。白いパールがころんと揺れる。

 サブディスプレイに浮かぶ名前を見ると、また視界が滲んでくる――涙なんてもう、すっかり出尽くしたと思ったのに。無意識の動作であたしはケータイを開くと、ゆっくりと耳に当てた。

『……ることないでしょ、どーしたんだよまったく』

 最初の声は聞こえなかったけれど、予想はつく。『ゆーこちゃん、いきなり切ることないでしょ』だろう。若原はあたしを呼ぶとき、いつもちょっとからかうような声音でゆーこちゃん、と言う。そういえば会ってすぐにそう呼ばれていたような気がする。

『泣いてた理由、聞いてもイイ?』

 そんな風に、優しく揺するような聞き方はずるい。ずるいずるいずるい。若原はずるい。あたしが困ってるときにいつも傍にいてくれるなんてずるい。落ち込んでるときに笑わせてくれるなんてずるい。あたしのことを好きだって――嘘つくなんて、ずるい。

 ふうっと、ケータイの向こうで息をつく気配がする。あたしはその気配を聞き取りながら声を出さずに涙を枕に染み込ませつづけていた。

『二十時半、こないだの公園まで行くから。オレ今日バイトで、そんくらいの時間じゃねーと抜けらんなくって。気をつけて出てきてね』

 若原の声は、いつもどおりの普通の声だった。あたしの返事を聞かずに――というより、待たずに、若原は短く『じゃね』と言うと、あとは無機質な音だけが耳に残った。


 二十時、四十分。あたしは家を出た。本当は、二十時を過ぎた頃からそわそわと時計ばかり見て落ち着かなかったのをなんとか引き伸ばして、でも十分は我慢した。その十分で若原が諦めて帰ってくれたらいいと考えてたあたしは、人気のない公園に半分がっかりした。

 それでも半分はほっとしていた。若原に会って、今更何を――言えるんだろう。若原が内沢さんと付き合ってたって、それは若原の自由。あたしには何も言えない。そんなわかりきったことを今更、どんな顔して言えるんだろう。

 泣きはらした目が赤く見えないように、あたしは外灯を避けて公園に入ると、ゆっくりブランコに近づいていった。若原は……もう帰ったんだろうな。そりゃ、そうだよね、あんな風にそっけなく手を振り払って電話もろくに出なくて、しかも時間に遅れて――見切りをつけられてもおかしくない。

 ブランコに腰かけてゆっくりと揺らし始めると、ブランコが小さくキイイ、と音を立てる。規則的なそれを聞きながら揺られていると、遠くエンジン音が響き、そして――原付バイクが公園の入口で、止まった。キイ、という音を最後にブランコも止まる。

 もどかしそうにメットを外して、若原があたしを見つけた。蹴飛ばすように原付から降りると前カゴにメットを放り込んで駆けて来る。『シャンテ』で見た、白いシャツに黒のジーンズ。撫で付けられた茶髪と――まとわりつく煙草とアルコールの匂い。

「悪い、店立て込んじゃってさ。モリさんに原チャ、無理くり借りてきちゃった」

 息を切らせながらそう言って、若原の声に笑いが滲む。あたしは若原が近づくにつれて伏せてしまっていた顔を、今は完全に俯けて座っていた。その視界の隅に、靴が入る。

 あたしの正面に立った若原が、ぽんっと頭に手を乗せる。くしゃくしゃくしゃ、と撫でられたあたしは、こみ上げる涙を堪えるために息を止めた。

 さっき、涙と一緒に沸きあがってきたのは、怒り。でも今は――それとは違うこと、はっきりわかる。哀しい。淋しい。そんな言葉の方が良く似合う心情をあたし自身が許せるはずもなく、ごくりと涙ごと、飲み込んだ。

「ゆーこちゃん? どーしたの?」

 優しい声は、反則だ。何もかも喋ってしまいそうになる。頭を撫でられるのも、ゆーこちゃん、ってあたしを呼ぶのも、何もかも反則だ。ずるい。若原はずるい。――違う。ずるいのは、あたし。

「なんだよー、泣くなよー」

 わしゃわしゃ、と髪を撫でる若原は、どうしてわかるんだろうか。見えていないはずのあたしの目が、涙でいっぱいだってこと。さっき最初の一粒が地面に吸い込まれたってこと。それから。

 突然、若原が膝を折ってあたしの前にしゃがみこんだ。かと思うと、いきなり両手で頬を包まれて、俯いてた顔が正面を向かされる。

「……やっ……!」

「だーめ。ほら、顔見せて」

 身じろぎした途端に、頬に涙が落ちて若原の手をも濡らしていく。あたしの頬を包んだまま、若原があたしを覗き込む。目を合わせたくなくてぎゅっと瞑れば、涙は溢れるばかりだった。

「泣かないの」

 若原の親指が、涙に沿って拭われる。ダメだよ、若原、ずるいよ。優しくなんかしないで。あたしに優しくなんかしないで。他の女の子とおんなじように優しくなんか――しないで。

「も……いいよ」

 あたしの声は、涙で震えていた。

「いいって、何が」

 若原の声は、いつだって優しいままだ。

「もお、いーよ。からかわないでよ」

 涙声は予想以上にきつく響いた。拒絶が匂う声音に、若原がつと手の動きを止める。

「なんのこ――」

「見たんだ、今日。中庭」

 若原が聞き返すのを遮って、あたしは口火を切った。涙に濡れた目を上げて、若原をまっすぐに見る。それは自分でもわかる、憎しみの視線だった。理不尽だ、と頭ではわかっていた。けれど切り出した口は、感情は、もう元には戻せない。一旦吐き出してしまったら、もう飲み込むことは出来ない。

「内沢さんと若原が、キスしてた」

 あたしが吐き出した声は、思ったよりも震えていなかった。

「それ、は」

「いいんだ、別に。あたしがそれでどうこう言う権利もないし。別に若原と内沢さんが付き合ってようと何してようとあたしにはぜんっぜん関係のないことだもん」

 若原の声には迷いがあった。それが肯定のしるしのように思えてあたしは最後にかけられたかもしれないブレーキをかけるタイミングを完全に逸して、立て続けに強い口調を繰り返す。

「好きだなんてからかわれたのがちょっとムカつくけどね。大体あんた、そんなこと言うんならもうちょっと考えて言いなさいよ、親友の彼女相手に言っていい冗談と悪い冗談があるでしょ?」

「ちょ、っと……」

 言いながら、あたしはぽろぽろとこぼれる涙を止められなかった。自分でも、言い過ぎてることは充分わかってた。それでも止められない感情は、なんて呼べばいいんだろう。

 胃の中のものまで吐き出しそうになるのを堪えながら、あたしは若原を責めつづけていた。

「っていうかそれが若原の手? こーゆーのにたくさん女の子が引っかかるってわけ? やだなーもう、あたし免疫ないんだからさあ、あんまり本気っぽいジョークでからかうの、や」

 突然、頬から若原の掌の温もりがなくなったのと若原が立ちあがったのと、あたしの腕が強く引かれたのが同時だった。驚いて続きの言葉を飲み込んでしまった唇が、唐突に塞がれる。

 若原があたしの唇を自分のそれで塞いでいた。何が起きたのかあたしの頭が理解するまでたっぷり三秒そのまま停止する。

 若原が、あたしにキスをしてる――

 無意識の一瞬。右手にじんわり痺れる感触と、若原の打たれた横顔。

「……サイッテー!」

 涙と自己嫌悪でいっぱいになったあたしは、吐き捨てるようにそう叫ぶとその場から駆け去った。


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