33:木陰のキス
その日から、本宮は毎朝うちの近くの公園であたしを待っていてくれるようになった。最初は緊張していたあたしも三日もするとやっと慣れてきて、それに反比例するように周囲の好奇の視線はなくなっていったのがあたしにもわかった。亜矢はそれを現金だと言って膨れたけれど、噂が収まればそれはそれでありがたいのでスルーしている。若原の態度はまったく変わらずで、それもまたありがたかった。
朝のお迎え以外、本宮に変わったことはない。お互い週末の試合に向けて部活ばかりで、日に数通のメールをやり取りする程度だった。それでも以前より気持ちはかなり穏やかで、あたしはやっと『本宮と付き合っている』という自覚を得つつあった。
だから――わからなかった。あたしは、何故それがそんなにショックなのか。
大雨は、うちの学校のテニスコートには大敵だ。全天候型のコートにするお金をケチったせいで、土のコートは雨で緩むと使い物にならない。放課後、雨はやんでいたけれどコートは水浸しのままで、仕方なく短いトレーニングだけで終わった。
亜矢は帰っちゃったし、本宮は部活。ぽっかり空いた時間を久々にまっすぐ帰ってのんびりすることに決めたあたしは、帰り際にひとつ忘れ物に気づいて教室へ戻る。当然、誰もいない。どうせ帰りがけにも通るから置いていこうと鞄を席に置いて、あたしは職員室へノートを出しに行った。……ホントは昨日までに、って言われたやつなんだけど。
職員室から教室への帰り道、中庭が良く見える渡り廊下であたしは見慣れた人影を見つけてふと立ち止まる。木陰に隠れるようにして見えた茶髪、あれって……
ちらりと見えた姿を探したあたしは、その主が一人じゃないことに気がついた。確かに若原はいっつも女の子と一緒だもんな、と苦笑を漏らしかけたところで、見慣れた茶髪の後姿と、その傍にいる女の子の横顔が見えた。
内沢さんだ、と気づいてはっと身体を固くした瞬間、彼女の横顔が若原にゆっくり近づいて――重なった。それがどういう意味かなんて、あたしにだってわかる。
咄嗟に壁に張り付いてしまった自分の動作がまるで隠れているみたいだと気づいて、あたしは気づかれないようにとそっと渡り廊下をあとにする。
教室へ戻ると、心臓の音がやけに大きく聞こえてあたしは深く息をついた。……別に、若原が誰と付き合おうかなんて知ったこっちゃない。内沢さんだけじゃなくていろんな女の子を連れてるのは良く見かけたし、噂はそれ以上に良く聞いた。知り合う前から若原はそういう人だったし、今でもそうだ。
好きだよ、って言われたとき。本気だからね、って念を押されたとき。若原はそれ以上何も言わなかった。だから……じゃないけど、あたしは若原に何の返事もしてないし、それに、今は……本宮。
そこでやっと、あたしの頭の中に本宮が浮かんだ。そうだ、今あたしは本宮と付き合っているんだもの。それは若原も知ってることだ――あの公園で若原は、『付き合ってるならちゃんと見てやれ』って言ってくれた。あれは、本宮に対して言ってくれたこと。それなら――
ああ、なんだか混乱する。何がホントで何が嘘? 若原があたしを好きだって言ったのは、あいつのいつものおふざけのひとつ? そうだよね、そうじゃなきゃ内沢さんとあんなこと――
何度か、大きく深呼吸をする。ひとりの教室の中に響いていたあたしの鼓動が少しずつ、収まってくる。けれどそれは――落ち着いたわけではなくて、何故か涙に変わっていた。
じわりと浮かぶ涙を、あたしは手の甲で何度も拭った。涙の理由が怒りであることとその怒りが理不尽なものであることがあたし自身への苛立ちとなり、ますます涙が止まらなかった。若原への怒りなのか自分自身への怒りなのか、もしかしたら哀しみなのかもしれないとか、あたしの気持ちはめちゃくちゃで、口を開いたら子どもみたいに声を上げてしまいそうで怖かった。
中途半端な放課後は人気が無いのが幸いで、あたしは俯いたまま鞄を引っつかんで昇降口に向かう。さっさと帰って不貞寝しちゃうに限る――そう思っていたあたしに、その声は容赦なく背後から注がれた。
「あれ、ゆーこちゃん、部活終わったの?」
身体がぞくりとした。全身の皮膚の内側に一気に鳥肌が立ったような嫌な感触が瞬間的に発して、あたしは強く唇を噛んだ。
「ゆーこちゃん?」
振り返らないあたしの名前を、若原がもう一度呼んだ。瞬きをした拍子に、涙が一粒溢れて爪先に落ちた。
「……どした?」
声に心配そうな色が加わる。若原が近づいてくる足音がしたと思ったら、あたしの左の肩がそっと掴まれる。無言でその手を外して、あたしは顔を背けた。
「べつに」
涙声にならないようにと押し殺した自分の声は、酷く邪険に聞こえた。慌てて「なんでもない」と付け加えると、今度は声が震える。靴を取り出した右手に、涙粒がぽたぽたと落ちた。若原が今度は強くあたしの左肩を掴んで振り向かせるも、顔だけは背けたままだった。髪が、涙で濡れた頬にへばりついて表情を隠す。
「どしたんだよ」
「なんでもない」
若原が何か喋るたびに苦痛だった。唇が、さっきの光景を嫌でも思い出させる。繰り返し、繰り返し――耐えがたいその場から逃れるために、あたしは無理矢理若原の手を払いのけた。
「なんでもなくねーだろ、言えよ」
靴を履き替えるあたしの背中に、苛立った若原の声が降る。無視して帰ろうとするあたしの腕を掴む若原の手を、あたしは思い切り跳ね除けた。
ばん、と若原の鞄が床に落ちる音がする。思いのほか大きく響いたその音の後、妙にしんとした空気の中であたしは顔を背けたまま、くるりと若原に背を向けた。
言えるわけがない。あたしが若原に何か言えるはずがない。縛ることなんか出来るはずがない。そんなことはわかってる。今までそんなこと、望んだことすらなかった。なかったはずだった。若原が誰と、何をしようと、あたしが何か言える権利もなければ、言える立場でもない。言える――わけがない。若原に、他の女の子が触れて欲しくないだなんて。そんな馬鹿なこと、言えるはずなんてない。
背後からは、何の声も、音も、しなかった。