29:本当のことと本当じゃないこと
本宮はあたしを見たまま近づいてきて、正面で足を止めると強張った頬を少し緩めた。
「今日、来なかったから気になって……来てみたんだけど」
穏やかに訊ねるそれが、怒りを押し殺しているのがわかってあたしはちょっと怖かった。てのひらを拳に握り締めようと、つい力が入る。
「あ」
そうだった。手、つないでたんだった。
意図せず、若原の手を握り締めたみたいな形になったのに気づいて、あたしは慌ててつながれてる手をもう一度強く振り払う。今度は解けた。その右手を、左手で包むようにして、胸の前で握り締めた。本宮の視線がその手に注がれているのを見て、あたしは慌てて後ろに隠す。
その仕草を見ていた本宮が、今度はゆっくり若原を見る。
「希」
本宮の低い声に、若原は何も言わずただじっと本宮を見ていた。
「説明、しないのか?」
「何を?」
若原が悪びれた風もなく聞き返すと、本宮の眉間に皺が寄った。
「説明しろよ」
「だから、何を?」
若原がもう一度聞き返すと、本宮は黙ってしまう。あたしはいたたまれなくて、思わず本宮の右腕にそっと触れて「ごめん」と言った。
「あたし今日ちょっと落ち込んじゃって。たまたま、若原に会っただけなの。で、送ってくれるって――」
言いながら、あたしはうまく説明できないことをわかってた。若原がなんで学校サボってあたしといたか、説明出来ない。あたしもわからない。偶然なのか探してくれたのか、わからない。
「ごめん。ケータイも電源切ってて。……ごめん」
それでも言うしかなかった。こんなの嫌だ。こんなのって………
「紺野、俺今、希に聞いてるんだ」
やっとあたしを見て答えてくれた本宮の声は震えていた。たぶんその裏にあるのは怒り、だろう。あたしはそれ以上はもう何も言えなくて、本宮の腕からも手を放した。
「八つ当たりすんなよなー」
若原の声はいつもと同じだ。飄々としてて、ちょっとふざけた感じの。でも目は違う。さっきと似たような、真面目な視線。
「希」
「オレに怒ってんでしょ? 彼女に八つ当たりすんなって」
あたしを顎で指して、若原が言う。本宮はちょっと唇を噛んで黙ったと思うと、小さく何度か頷いて、そしてもう一度同じ台詞を繰り返した。
「希、説明してくれ」
「だーかーら、なーにーを?」
若原がふざけた調子で再度聞き返すと、本宮はギロリと上目遣いで若原を睨む。
「なんで紺野と一緒だった」
「途中で会ったから」
「お前、今日昼前にいなくなったけど、それからずっとか?」
「違いますー」
「じゃあいつから」
「……あのさ、亮輔」
若原がちょっと呆れたように溜息をつくと、軽く肩を竦めてポケットに両手を突っ込んだ。
「はっきり言ったら? それとも言えねーの?」
本宮が黙ったままで若原を見る。その目がほんとに怒ってて……あたしはつい、口を挟んだ。
「若原、あの」
「ごめん、ちょおっと黙っててくれる?」
あたしに向かって笑顔でそう言うと、若原は「ね?」いうようにと小首をかしげた。仕方なく唇を噛むと、若原が「ゆーこちゃん」とあたしを呼んだ。
頭をあげて若原を見ると、いつもの笑顔であたしを見返す。
「オレ、ゆーこちゃんのこと好きだから」
―――え?
一瞬、何のことかわからずに瞬きを数度繰り返すと、若原はにこっと笑って、今度はそのまま本宮に向き直った。
「これが聞きたかった答え。……に、なってる?」
「……ああ」
え――ちょっと待って、あたしだけ話が……見えてない。
本宮はそれを聞くとふうっと溜息をついて、怒りの瞳を引っ込める。ちょっと軟化した雰囲気にあたしがほっとしてるところへ、若原が「亮輔」と本宮を呼んだ。
反射的にあたしも若原を見上げたんだけど……その表情はさっきまでの笑顔はない。厳しい視線をまっすぐに本宮に向けて、若原は続けた。
「おまえに文句言われる筋合いないと思うんだけど」
「……友達の彼女でも、気にしないってことか」
本宮が返したその声は酷く悪意がこもっていて、あたしは口を開きかけ――黙ってて、って言われたことを思い出して声を飲み込んだ。
若原は数秒、黙った。その表情は何を考えているのかわからない真顔で、あたしは二人の顔をチラチラと見比べていた。
「悪いけど、言わせてもらうわ」
ふっと息を吐いて、若原がそう言った。特にきつくもなく刺もなく、普通の声で。
――でも、顔は怒ってた。あたしが初めて見るような……以前、若原を怒らせたときよりも強い、視線。
若原はざっざっと大またで本宮に近づくと、その胸倉をぐいと掴み上げる。本宮が、咄嗟に若原の腕に手をかける。
「っざけんなよ、付き合うんだったらちゃんと相手を見てやれよ! おまえの目はいったいどこ見てやがんだよ!」
若原はそう怒鳴りつけると、勢いよく本宮を突っぱねた。よろけた本宮にあたしが思わず手を伸ばすと、若原がそれを見て苦々しくそっぽを向く。
少しの間、誰も喋らずしんとした中で、若原がぼそりと「帰るわ」と呟いて、顔を背けたままくるりと背を向ける。
あたしは――若原を呼び止めることも、その背に何かを言うことも、出来なかった。本宮の顔を見ることも。
若原が言ったこと――それは真実を突いていて、きっと、本宮には堪えているだろう。いちばん、自分がわかってるはずだ。本宮自身が、自分に嘘をついていたこと、誤魔化してたこと。……亜矢のことをまだ、好きなこと。あたしはそれをわかっていながら傍にいた。若原もずっと気づきながら見守っててくれた。それはたぶん、あたしも若原も、本宮のことを大事に思っているから――その気持ちの種類は違っても、きっとそうだ。だから……言った若原の方がきっと、辛いと思う。
俯いたままでいるあたしに、頭の上からそっと本宮が「紺野」と呼んだ。
ゆっくり顔を上げると、本宮があたしから目を逸らす。目が合うまではあたしを見ていたのに――。
眉間に皺が寄せられて、苦しそうな、泣きそうな顔の本宮が細く息を吐いた。
「ちょっと……距離、おかせてくれる。ごめん俺、今のままじゃ――」
語尾はもう、力がなかった。あたしはそんな本宮を責めることも出来ずにただ、小さく「うん」とだけ答えた。
その夜はいつもより早くベッドに入った。眠れそうになかったけれど、起きていてもぼんやりと考え事をするばかりで――しかも、あたしが考えてもどうしようもないことばかりだったので、もう寝ちゃおうと半分不貞寝だったのだけど、案の定眠れそうにはなかった。
真っ暗な中で浮かぶのは、やっぱり本宮のこと。あたしにはどうしようもないってわかってるけど、それでも考えずにいられない。明日から……あたし、普通にしていられるかなあ。
仰向けの姿勢のままで大きく息を吐くと、肺が大きく膨らむのがわかる。例えばそんな小さなことで生きてるんだなあとか、実感してみたりする。
ふと、暗い中に青白い光が現れたかと思うと着信音が鳴った。寝たまま手を伸ばしてケータイを開くと……若原の名前が表示される。何故か、ほっとしたのとがっかりしたのと半分半分の気持ちであたしは通話ボタンを押した。
『……こんばんは〜もう寝てる?』
「……寝てます」
『うわあ、予想以上に冷ややかな反応』
けらけらと笑う若原の口調はいつもと同じだ。……あ、ちょっとだけ大人しいかな?
『あのさあ、ちょこっと言っときたいことがあるんだけど』
「うん」
短い返事のあと、若原は沈黙する。珍しく躊躇しているような、間。
「どしたの?」
『あー、えーとー』
「らしくないね、言いよどむなんて若原らしくなーい」
くすっと笑うと、若原は『あのさ』と妙に真面目な声になった。
『今日言ったこと、オレ、冗談じゃないからね?』
「今日言ったこと?」
鸚鵡返しに問い返しながら、若原の厳しい表情を思い出す。
「本宮に言ったこと?」
『ねえそれどんだけ天然? ……罰ゲームかよぉ……』
呆れたような声で言う若原に、あたしはむっとしたのを沈黙で伝える。
『ちゃんと思い出しといて。オレ、本気だかんね』
「思いだせったって……」
『んじゃ、そゆことだから。おやすみーん』
言い返そうとしたところへ若原は早口にまくし立てるとあたしの返事も待たずにぷつりと電話を切った。
……ったく、なんなのよーもう!
あたしはぶつぶつ言いながらケータイを閉じると考えた。ええっと、本宮と会って、怒ってて―――そこでやっと、気がついた。
あたし……すっかりスルーしてた。本宮のことばっかり気にかけてて。
若原は言ったんだ。“オレ、ゆーこちゃんのこと、好きだから”
あれのこと……? わざわざ若原が電話かけてきて『本気だから』って念を押すことを考えると、あれって、やっぱり、そういう意味……なの、かな。……そうだよね。
あたしはもう一度、若原のあのときの表情を思い出す。真面目な顔。いつもふざけてばっかりだったのに……
なかなか寝付けず寝返りを打ちながら、あたしは明日、もう一度若原に聞いてみよう、と思った。